入学式にひと目惚れした隣のクラスの山葉くんには、中学一年生のバレンタインに振られていた。「受け取る子決めてるから」と言われて、チョコを受け取ることさえしてもらえなかった。
私は自分の教室に最後のひとりになって、「好き」って気持ちさえ迷惑だったのかなあと、ヤケになった気持ちで自分でチョコを齧った。男の子は甘ったるいと嫌かななんて、ミルクが少ないチョコレートにしたから、ちょっと苦くてその味に涙がこぼれてきた。
初恋だったのになあ、と悔しくて、もどかしくて、息苦しいほど哀しくなった。
だから、二年生になって山葉くんと同じクラスになったときは、ひとりで勝手に気まずくなった。向こうは私のことなんて気づいていないようでも、こちらはそのすがたが視界に入るだけで胸がざわつく。
終わったんだから。気にしちゃダメ。
そう言い聞かせているうちに、一学期が終わろうとしていた。ぐずついた梅雨が明けて、空が青く広がり、日射しが視界を白く焼く。もうすぐ夏休みかあ、なんて靴箱で天を仰いでいたとき、ふと背後から名前を呼ばれて、私は振り返った。
「誰か待ってんの?」
私は話しかけてきたその男子を見つめ、こんな子クラスにいたっけ、と首をかしげた。その私の反応に、「お前なあ」と彼はあきれた息をつく。
「一年のとき、クラス同じだったろうが。松宮だよ」
「……あ、ああ──」
何かそんな人いたかも、とぼんやり思い当たる私に、「うわ、マジで忘れてた?」と松宮くんは顔を覗きこんでくる。
「ショックだわ」
「ご、ごめん」
「ふん。ま、お前は山葉しか見てなかったもんなー」
「はっ?」
「体育でクラス合同のときとか」
「べ、別に見てないよ。山葉くんとか何でもないよ」
「隠すのいまさらだから」
いまさら、って──私が山葉くんのこと好きだったの、そんなにはたから見てばれてた?
うわ、と発熱した頬にうつむいてしまうと、松宮くんはからからと笑って「俺がお前のこと見てただけだから」と私の肩をばしっとはたいた。
「大丈夫、誰にも言ってねえし」
「私のこと見てた、って……」
「うん」
「……何で」
「好きだから」
ぽかんと松宮くんを見つめた。
好、き。好き、だから。って、言った?
え、それって──え?
とっさに混乱していると、松宮くんは私の隣に並んだ。身長はそんなに変わらない。
「一年のときから、お前が好きだったんだ」
即座にその言葉が信じられなくて、揶揄われてるのかなと松宮くんの横顔をじっと見る。
松宮くんは急に頬を染めると、「反応しろよ」とじろりと睨んでくる。反応、と言われても。
「夏休みになる前に頑張って言ったんだぞ。一ヵ月以上何にもないとか、寂しいだろ……」
寂しい。男の子もそんな言葉言うんだ、とつい咲ってしまった。松宮くんは「何だよっ」とふくれる。
「いや、うん、人間なんだなあって」
「何だそりゃ」
「男の子って、もっと何考えてるのか分からないものかと」
「女のほうが分かんねえだろ」
「そうかなあ」
私は目のくらむような青空を見上げた。
何だか、久しぶりにちゃんと咲った気がする。
「あのさ」
「うん」
「俺、ほんとにお前のこと好きだし」
「うん」
「つきあう……とか、ダメかな」
松宮くんを見て、特に好みの顔ってわけじゃないけど、と思う。でも、今話してみてて、楽しかったな。そう思ったので、「いいよ」と私は答えた。
松宮くんはがばっと私に軆も向け、「マジで?」と確認してくる。私がこくんとすると、「よっしゃ!」と松宮くんはガッツポーズした。それを見て、私とつきあえて喜んでくれる男子もいるんだなあ、と不思議な感覚で思った。
すぐに、夏休みが始まった。蝉の鳴き声があふれて、熱中症警報の空気が煮え湯のように感じられる。
私は松宮くんに会って、出かけたり勉強したりして、次第に自分も彼に惹かれていくのを感じた。松宮くんは、一緒にいると楽しい男の子だった。優しいし、正直だし、家族以外の人から愛情を感じるのも初めてだ。
心から自然と山葉くんの存在感が綻び落ちて、代わりに松宮くんで満たされていく。空を華やかに彩った花火大会の帰り、「松宮くんのことけっこう好きかもしれない」と言うと、「『けっこう』って何だよ」と松宮くんは苦笑したものの、「嬉しいけどな」と頭を撫でられて、彼のほうが少し背が高くなったのに気づいた。
このまま松宮くんが隣にいてくれたら、今度こそ、幸せな恋をつかめるんじゃないかな。そんな期待が蜂蜜のように蕩けて、虚しくて痛かった初恋も癒え、傷は心から消えてしまおうとしていた。
二学期が始まって、すぐに席替えが行われた。窓側の前から四番目。荷物を持ってその席に移動し、仲いい子近くにいないかなあ、と周りを見まわしていると、どさっと隣の席に来た男の子がつくえに荷物を置いた。
その男の子を見て、私の心臓はどきんと引き攣った。そこで荷物をおろした肩をさすっていたのは、山葉くんだったのだ。
視線を感じたのか山葉くんも私を見て、「あー……」と少し考えたあと、思いがけず私の名前を言い当てた。「よろしく」と言われて、私は目をそらしてから「よろしく」と返した。
私を振ったの憶えてるのかな、ともやもやしても、確かめる勇気なんてない。この席順で月末の修学旅行のグループを組むと先生が言うと、みんな「えーっ」と反抗したけれど、先生は相手にせず掃除当番や給食当番を決めさせた。
修学旅行。クラスが違うから松宮くんと別行動になるのは分かっていたけど、かといって、山葉くんとグループ行動って。しかもこの席、周りに友達がいない。つまんないの決定だ、とため息をついていると、席替えにあてられた学活が終わり、ホームルームのあと終業した。
「ねえ」
手提げを持って、松宮くんの教室に向かおうとした私を、不意に山葉くんが呼び止めてきた。私は踏み出そうとした足を止めて振り返る。
「何?」
「修学旅行、楽しみだね」
「……え」
「俺、君に説明しておきたいことがあるんだ。だから、修学旅行で話せる機会あったら、話してくれる?」
山葉くんを見つめ、説明しておきたいこと、と反芻した。私はうつむき、「バレンタインのことはもういいよ」とつぶやいた。「だから」と山葉くんは言葉をつないでくる。
「もういいって思われてるなら、なおさら話したい」
山葉くんを見つめた。やっぱり、王子様みたいに綺麗な顔をしている。
でも、騙されるものか。私はあの苦いチョコレートの味を覚えている。
「そんな時間があればね」とだけ言って教壇を横切って教室を出ると、「ここだよ」と手首をつかまれた。かえりみると、ドアに松宮くんがもたれて私を捕まえている。
「松宮くん……」
「席替えしたんだ」
「……うん」
「山葉の隣?」
「う、ん」
「そっか」
「………、修学旅行、松宮くんとまわりたかったな」
「そっちも今月の席順?」
「そう」
「せめてクラス内では自由に組ませろよなー」
言いながら、松宮くんは私の手を取って、歩き出した。私もその手を握り返して、隣に並ぶ。そう、私の隣にいるのは松宮くんなんだから。いくら席が山葉くんの隣になったって、いまさら──
意識しないようにしているのに、友達の席に行かず、自分の席でぼんやりしていると、山葉くんが話しかけてくる。一年生のときには遠かった声や視線に、動揺しつつも平静を装った。
私には松宮くんがいる。「いつも一緒に帰ってる奴がいるね」と言われたときには、「つきあってるの」とはっきり言うこともできた。山葉くんは「ふうん」と言って、何やら少し笑ってみせた。
九月の終わり、修学旅行に出発した。バスや新幹線も席はグループ順だけど、一ヵ月同じ班で過ごして、話すようになった女の子が隣だったのでマシだった。目的地に着くと観光して、夜にはホテルに泊まる。
私はグループの女子リーダーで、食後にはミーティングに参加した。そのとき手に何か握らされて見ると、隣にいるグループ男子リーダーの山葉くんだった。手の中には折りたたまれたメモがある。開くと、『ミーティング終わったら売店の前に来て』とあった。
山葉くんを見上げたけど、山葉くんは明日の予定を話す先生のほうを向いている。売店、って。ホテルの入口のそばにあったあそこか。行ってどうするのだろう。いや、話したいことがあるとは言われていたけれど。
何を言われても揺らがないなら、むしろ行ってすっきりしたい。でも、どこかで揺れている自分を私は知っている。
この一ヵ月、あれこれ話しかけられて、山葉くんの心が意味深に隠顕としている。そして、私の心までちぐはぐになっている。松宮くんが好きなはずだけど、こんなふうに話してくれる山葉くんがどこかでは嬉しくて、叶わなかった想いが息を吹き返しそうで──
ダメ、売店には行っちゃダメ。そう思ったのに、ミーティングが終わった瞬間、「待ってる」と山葉くんにささやかれて、鼓膜にじかに響いた声に逆らえなくなってしまった。
「点呼あるから、時間ないよ」
売店の前で落ち合うと、私は精一杯の牽制でそう言った。「分かってる」と山葉くんはエレベーターホールまで歩き、自販機のそばで空いていた長椅子に座った。普通に人歩いてるけどいいのかな、と思ったものの、私は無言で隣に腰かける。
「ずっと、謝りたいなって思ってたんだ」
山葉くんがそう切り出して、私は眉を寄せて首をかしげる。
「謝るって」
「俺、バレンタインにかっこつけて君を振ったじゃん」
「……まあ」
「あのとき好きな奴がいてさ。そいつが絶対くれると思ってたんだ。そしたらそいつ、俺の親友にチョコあげて。俺に話しかけてくるの、全部そのためだったのが分かって」
「………」
「期待して、待ってただけの俺が悪いんだけど。それで、勇気出してチョコくれようとした君に、俺はあんまりだったなって。ごめん、ほんとに」
「……もう、気にしてない」
「同じクラスになって、何となく君のことよく見てるようになって。そしたら、その……気になってきたんだけど」
膝に抑えつけている視線がぐらぐら揺れそうなのを抑える。手の甲に手を置かれ、その感触にどきっと山葉くんを見た。
拍子、唇に体温がかすめた。大きく目を開くと、「俺のこと、もう一度……考えてくれない?」と山葉くんは少しかすれた大人っぽい声で言った。
心臓が刺さるように脈打つ。体温が一気に燃え上がる。
何。何。何。私、今、山葉くんと──
修学旅行のそのあとは、まったく憶えていない。気づいたら家で、自分の部屋で、ベッドに仰向けになっていた。
山葉くんとキスした。どうしよう。こんなの、どうしたらいいんだろう。松宮くんに申し訳ないより、嬉しいなんて。
最低だ。松宮くんに正直に話して、謝らなきゃいけないのに。不意打ちのキスだったし、話せば分かってもらえるかもしれない。けれど、もし松宮くんに「ほんとは嬉しかった?」と訊かれたら、嘘をつけるか分からない。
嘘。そう、嘘だ。ほんとは嬉しかった? 嬉しくなかった、なんてそれは嘘だ。私は、山葉くんとキスできて、嬉しかった──
十月になって、山葉くんとやっと席が離れた。それでも視線を投げかけられることがあって、胸がどきどき騒いでしまう。
松宮くんといても上の空になる。しっかりしなきゃと思うのに、山葉くんのすがたを見るだけでときめいてしまうあの頃に戻っている。
こんなの松宮くんを傷つける。落ち着かない心臓を飲みこんで、松宮くんに笑顔を作る。「何かあった?」と尋ねられて、いっそ話したら楽になるのかなと思っても、私のこんな心はきっと松宮くんを傷つけるから言えない。
そんなふうに過ごしていたある日の休み時間、「あの子が話したいって言ってるよ」とクラスメイトに話しかけられて、ドアを見た。カールっぽい髪を肩まで伸ばした女の子だった。誰だろ、と思いながら「何ですか」と歩み寄ると、「松宮のことで話」と言われて心臓がぎくりと刺さる。
「松宮くんのことって、」
澤枝という名札をつけた彼女は、行き交う生徒でにぎわう廊下へと歩き出し、私は迷ったもののそれについていった。階段をのぼって、二階と三階の踊り場で澤枝さんは立ち止まる。
「あたし、修学旅行のあんたと山葉の奴見たから」
「えっ」
修学旅行の私と山葉の──キスのこと?
見た人がいたのか。確かに、隠れた場所ではなかったけど。
「でも、あんたが松宮と別れるなら黙っておく」
「あなたは、松宮くんの……」
「クラスメイト。今のとこ、ただの」
「……松宮くんが、好き、なんだ」
「あいつ、おもしろいもん。なのに、あんたなんかとつきあってるなんてもったいないよ」
「私なんか、って」
「浮気してんじゃん」
「あれは、」
「じゃあ、はっきり山葉を拒否れよ。しばらく様子見してたけど、あんた、はっきりしないだけじゃん」
何も言えない。確かに、私は松宮くんにも山葉くんにもはっきりしていないだけだ。
「山葉はどうでもいいけど。あいつ何か胡散臭いし。でも、松宮はほんとにいい奴なの」
「………、」
「別れてよ。あいつをあんたのもやもやに巻きこまないで」
「で、でも──」
「でも」
「……松宮くんは、私のこと」
澤枝さんは目を眇めて、「思い上がってんじゃねえよ」と吐き捨てた。
「あたしが全部話したら、さすがに松宮もあんたに冷めるよ。そうしていいんだね?」
「な、何で、あなたが割りこんでくるのか──」
「チャンスだからでしょ」
そう言うと、澤枝さんはくるりと身を返して階段を降り、廊下の人波に混ざっていった。私は突っ立って、息が浅くなって呼吸が苦しくなるのを感じた。
話す。あの子が松宮くんにすべて話す。私は松宮くんにどう答えればいい? キスは不意打ちだったなんて、もう遅い。何で正直に話してくれなかったんだ、と詰めよられたら、私は──
松宮くんは、私を責めたりしなかった。処された態度はもっとつらかった。その日を境に、私を避けるようになってしまったのだ。
休み時間に訪ねてくることもなければ、一緒に帰ることもない。休日に会うのももちろんない。
松宮くんを隣から失ってから、焦りが生じてきた。揺れて、心が離れていたわけではない。彼が隣にいるのが、当たり前になっていただけなのだ。どうでもよくなっていたなんてとんでもない。
松宮くんと話もできなくなって、私は初めて彼をとても好きになっていた自分を思い知った。その自覚が押し寄せ、山葉くんへの揺らぎは呆気なく流れていった。
十月が終わりそうな放課後、中間考査は終わったのに私が思いつめているのを見て、山葉くんが話しかけてきた。残る生徒も少なくなった教室で、松宮くんのこと、澤枝さんのことを私は話した。
山葉くんは私をじっと見つめて、「それは」と訊いてきた。
「やっぱり、松宮が好きってこと?」
「……うん」
小さくうなずいた私に、山葉くんは息をついて「そうだよな」と苦笑した。
「いまさらだったよな。ごめん、何か」
「……ううん」
「松宮には、俺から話そうか?」
「え、あ──いいよ、……もう」
「ほんとに、澤枝って奴に取られるよ?」
私はうつむき、冬服のぶあつい紺のスカートを見つめた。私から、ちゃんと言わないと。松宮くんに隣にいてほしいこと。並んで歩くのが当たり前になるほど、楽しいこと。だから、私も松宮くんが好きなこと──
しかし、チャンスがつかめないまま冬になってしまった。チャンスだから、と澤枝さんは言っていたっけ。確かに、チャンスなんてものが来たら、今の私なら構わずそれをつかみにいく。
クラスも違うし、教室に行ったら澤枝さんもいるし、どうしたら松宮くんと話せるんだろう。考えながら、気づけば彼を好きになっていった夏休み、一緒に行った図書館や花火大会を見た土手に足を運んだ。
どんどん松宮くんに惹かれていった。あの夏休みが一番楽しかった。あの幸せが、まさかこんなに簡単にこじれてしまうなんて。風が吹いて寒気に襲われたので、家まで歩き出した。
その夜、初雪が降った。空気が芯まで冷えこみ、物音は雪が吸いこんで静かな夜だった。電気毛布を入れたふとんに包まったらもう出られない。朝が来てもぐずぐずしていたけれど、おかあさんに引っ張り出されて仕方なく起きた。
「行ってきまーす」と家を出て、門扉まで階段を降りていると名前を呼ばれた。うっすら雪が積もっている道路にいた人に、私ははっと息を飲む。
「松宮くん──」
私の家の前に、コートを着た松宮くんが立っていた。髪や肩に少し雪が降っていて、私は慌てて階段を降りて門扉を開けた。しばらく並ばないうちに、松宮くんはまた背が高くなっている。
「どうしたの、何か──」
「ちゃんと、しなきゃって」
「え」
「避けてるだけじゃ、ずるいだろ」
「あ……」
「って、澤枝に言われたんだけどな」
「澤枝……さん」
「あいつ口悪いけど、言うことは正しいよな」
「……うん」
「そういうとこ、悪くないなって思うから」
「………、うん」
「あいつと、つきあってみるわ」
「そっか」
「お前も、山葉と──」
「山葉くんは、いいの」
「え」
「……いいの」
「でも」
「私は、ひとりで頭冷やすから」
松宮くんは私を見つめてくる。私は微笑んで、「もう並んで歩けないんでしょ」と松宮くんの肩を軽く押した。松宮くんは何か言おうとした。けれどそれは飲みこみ、顔を伏せて背を向けて、先に歩き出す。
松宮くん。待って。ねえ、私たち、戻れないかな?
そう言いたくて、言いそうで、唇を噛んでこらえる。戻れないよ。分かってる。澤枝さんを選んだ松宮くんを揺さぶっちゃダメだ。そしたら、今度こそ私は嫌われる。
──ああ、すれちがっちゃったな。ほんとに失くしちゃったな。そう思うと視界がじわりと滲み、足元の雪にぽたぽたと雫が落ちていく。
夏のあいだだけ幸せだった私たちの恋。終わっちゃった。泡雪のように溶けて、いともたやすく流れて、あの夏は消えてしまった。
FIN