雨を揺蕩う

 持ち帰った仕事をPCで黙々と片づけていた私は、零時をまわっているのに気づいて、ひと息つこうと思ってイヤホンをはずした。
 音楽が離れた耳に、雨音が届く。また降り出したのか。夜中のうちに上がってくれるといいけどなあ──
 そう思いながら椅子を立ち上がり、キッチンでコーヒーを作ってマグカップに口をつける。
 作業中は手元にスマホを置かないようにしている。どうしても気が散ってしまうのだ。だから、こうしてひと息ついたときにまとめて着信をチェックする。
 すると、その中にめずらしく通話着信があった。誰だろ、と確認してどきりとする。
 浩介こうすけくんじゃん。私が絶賛、片想いしている相手。
 慌ててトークルームを開くと、『清香きよかちゃん、今いそがしい?』というひと言が来ていた。いそがしい──いそがしいけど、浩介くんなら特別だし、私は通話をかけてみた。
『あっ、清香ちゃん。よかった、つながった』
 そんな浩介くんの声が流れこんできて、「どうかしたの?」と私は平静を装って訊いてみる。
『あー、うん。お願いがあるんだけど』
「お願い」
『今日、清香ちゃんの部屋に泊めてくれない?』
「はっ?」
『近くで飲んでたんだけど、そこで友達と揉めたから帰ろうとしたら、終電もう出ちゃってて』
「はあ……」
『そしたら、清香ちゃんの部屋が近くにあったなと思って』
「いや、ええと……構わないけど、めちゃくちゃ散らかってて汚いよ?」
『そんなの気にしないよ! 雨がしのげればいいから』
「あ、けっこう降ってるもんね……分かった、来ていいよ」
『やった! ありがとう。二十分ぐらいで行く』
 二十分。二十分で、どこまで片づけられるかな。不安に思いつつ、「了解」と私は通話を切った。
 それから二十分間、急いで部屋を掃除した。こういうとき、コロコロ様は偉大だ。目を凝らして髪の毛とホコリが絡みあった奇怪なものも集めて捨てる。
 あとは、ユニットバス。お風呂はともかく、トイレは貸すことになるだろう。散乱した髪の毛を細かく拾っていく。ぐちゃぐちゃのベッドも整えて、突然、泊まるってそういうことになるのでは、と気がつく。
 やばい。部屋の掃除の前に、シャワーを浴びておくべきだったかもしれない。でも、あからさまにシャンプーとボディソープの香りをさせるのも──
 そのとき、ドアフォンが鳴った。ああ、もう来てしまった。玄関を開けると、浩介くんがけっこうびしょ濡れの状態で立っていた。「すごい濡れてるじゃん」と私がびっくりすると、「駅から傘なしで歩いてきた」と浩介くんは答える。
「傘持ってなかったの?」
「飲み屋に忘れた」
「……喧嘩って、女友達?」
「男。職場の先輩で、酔うと説教始めるんだよ。それでついに切れた。酒も全部まずくなっちゃったよ」
「はあ……」
 浩介くんは、この部屋から近所の定食屋で働いている。私はよくそこで夕食を食べてから帰るので、だいぶ年下の浩介くんとも自然と仲良くなった。
 ある日、浩介くんがミスをやらかして女将さんに怒られているのを見て、私は「愚痴はためこむなよ」と連絡先をそっと渡した。それから、気紛れにメッセが飛んでくる程度の仲にはなった。
「何か、変な感じだね」
「え、何が」
「お客さんの部屋に遊びにいくとかないし」
「そうなの?」
「うん。ばれたらまた怒られそう」
「え、じゃあ泊まって大丈夫?」
「平気平気。雨に打たれてたほうが死ぬから。ほんと命の恩人です」
 大袈裟だなあ、と苦笑しつつ、私は浩介くんのぶんのコーヒーも淹れて渡した。「ありがと」と浩介くんは受け取り、こくんと飲んで息をつく。
「お酒飲んでたなら、けっこう眠い感じ?」
「そうだなー。ちょっとお腹すいた」
「ごめん、カップラーメンしかない」
「はは、いいよ。てか上着、脱いでも濡れてるから置くとこないね」
「ハンガーにかけとくよ。除湿かけてるから乾くし」
「いいの? サンキュ」
 浩介くんはパーカーを脱いで私に渡す。私はそれをハンガーにかけ、ガラス戸のカーテンレールにかける。
 雨音はますます強くなっている。
「清香ちゃんは大丈夫なの?」
「え、何が」
「いや、俺がここに泊まるとか。彼氏怒るよね」
「彼氏はいないけど……」
「マジで? ほんとはいるでしょ」
「いないって」
「そ、そっか。いや、いてもいなくても、変なことはしないけど」
 別に変なことしていいよ。と言っていいのか、軽い発言はやめたほうがいいのか。思案していると浩介くんはスマホをいじって、床に座りこんだ。
「清香ちゃん、仕事中だったんだね」と浩介くんは座卓のPCを覗く。
「俺、邪魔かな」
「そんなことないよ。っていっても、私、仕事続けていいかな」
「もちろん。一時近いし、俺は少し休んでみる」
 そう言って浩介くんは床に寝転がる。「ベッド使っていいよ」と言ったものの、「それはさすがに」と浩介くんは遠慮した。私はPCの前に座り直し、音楽を聴こうとしたけど、やめて雨音の中で作業を再開する。
 そのうち、浩介くんは本当に眠ってしまい、何にもないわけね、と静かに納得した。
 三時になる前に作業を切り上げて、私はPCや書類を片づけると、軽くシャワーを浴びてベッドにもぐりこんだ。だいぶ頭はうとうとしていたので、明かりを消せばすぐ微睡んでぼおっとしてきた。
 雨は相変わらず降っている。梅雨だからなあ。都合よく朝にやむってことはないかな……そんなことをぼんやり思っていたときだった。
「清香ちゃん、寝た……?」
 雨にかき消されそうな、低く抑えた声がした。ん、と思ったものの、眠気が軆に浸透していて動けない。すると、ぎし、とベッドがきしんで息遣いが聞こえた。
「……いつも、俺の愚痴聞いてくれてありがとね」
 そして、口元に軽く柔らかい感触が触れた。
 ん……んっ? とっさに目を開きそうになったのをこらえ、渾身の寝たふりをする。
 そのまま気配はベッドを離れ、私はばくばくとせりあげてくる心臓に、軆の熱が一気に上がるのを感じる。
 キス? 浩介くん、私にキスした?
 今すぐ起き上がり、どういうことなのか訊きたかった。浩介くん、私が好きなの? まさか両想いなの? 私みたいな年上でいいの? 矢継ぎ早に訊きたいことがあふれてきても、あっという間に寝息が聞こえはじめたので、結局何も訊けなかった。
 雨は降りつづけている。胸ははりさけそうにどきどきしている。ああもう、朝まで眠れそうにない。朝になって訊くのは遅いかな。ほんとは起きてたんだけど、なんて──いやいや、言えない。それで浩介くんと下手に気まずくなったら……
 ふとんの中で軆を丸めて、どうにかまぶただけおろして深呼吸する。
 浩介くん。私のほうだよ。私なんかに、つらいこと愚痴ったり、こうして部屋に来たり、そうして甘えてくれるだけで嬉しい。君に「好き」って気持ちを伝えられる日が来るかは分からない。私も君も、いずれ別の人と幸せになるのかもしれない。
 それでも、私はこの梅雨の夜を一生忘れないと思う。強くなる雨脚も、除湿された温度も、口づけた瞬間の感触も。大切に箱にしまって、つらいときは思い出して頑張るよ。
 ありがとね。それも、私の台詞。ありがとう、浩介くん。まだしばらくは、君が好きなことをバネにさせてね。
 雨音が耳に染みこむ中で、まだ残る微熱を揺蕩う。たぶんこのまま眠れないけど、今日はそれも悪くないか。そう思って私はうつらうつらとするまま、雨の音に包まれて朝まで意識をうつろわせた。

 FIN

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