Sweet Dreams

 私が中学一年生で、妹の佳世かよが小学四年生のとき、おかあさんが妊娠した。
 変だなとは思った。だって、あんなおとうさんといまさら肌を重ねるなんて、絶対ありえないもの。
 案の定、その子はよその男の子供だった。それを知ったとき、相変わらずおとうさんはおかあさんをめちゃくちゃに殴ったけど、「離婚します」とおかあさんが言えば、悔しそうにだけど落ち着いた。
 うちの家はおかあさんが働いていて、おとうさんには何の収入もない。おかあさんに離婚されたら、おとうさんはたちまち生活できなくなってしまうのだ。
 おとうさんは私と佳世には優しい。どこか媚びるみたいに。私も佳世も、おかあさんを怒鳴って殴るおとうさんを軽蔑していた。うちで一番えらいのは、おかあさんだった。
 おかあさんは、冬の終わりに男の子を出産した。吉希よしきと名づけられた子を抱いて、おかあさんが家に戻ると、私も佳世も興味津々にベビーベッドを覗いた。
「あなたもかわいがってね」
 おかあさんはおとうさんに言ったけど、さすがに残酷な気がした。おとうさんは陰惨な眼つきで、「ああ」とだけ答えた。
「吉希のおとうさんって、どんな人なんだろうね」
 子供部屋で一緒にマニキュアを塗りながら、佳世がそんなことを言った。
「おとうさんよりはマシなんでしょ」
 私はパールブルーを丁寧に爪に乗せていく。佳世はラメピンクを塗っている。
「おかあさんたちが離婚したら、その人がおとうさんになるのかな?」
「分かんないけど、そうなんじゃない?」
「あー、早く離婚しないかなあ」
「実際はどんな人か分からないよ」
「正直、あれがおとうさんじゃなくなるなら何でもいい……」
 確かに、と思いつつ口にはせず、トップコートも仕上げていく。
 塗り終わると、私たちは仕上がりを見せあって、「おねえちゃんみたいにうまく塗りたいなあ」と佳世は自分の指先のわずかなムラを嘆いた。「上手になってきてるよ」と私が微笑んだとき、唐突に吉希が泣き出す声がして、私たちは顔を見合わせた。
 おかあさんは、まだ仕事から帰っていない。私たちがベビーベッドがあるリビングに行った。
 おとうさんが吉希を見下ろしていた。「何かあったの?」と訊くと、「赤ん坊のほっぺたって柔らかいなあ」とおとうさんはつぶやいた。
 吉希を覗きこむと、左頬だけ少し赤くなっている。
 つねった──のかな。
 そう思って何とも言えずにいたけど、吉希はまだわんわん泣いている。おとうさんはため息をついて、「うるせえなあ」と眉を顰めると、涎掛けを吉希の口につめこんだ。声が詰まった吉希が、ぱっくり目を開く。
 私も佳世もびっくりして、「こんなの息ができないよ」と急いで涎掛けを引っ張り出した。
「いいんだよ……こんなガキ、どうにでもなればいいんだ」
 おとうさんはゆらりとベビーベッドを離れ、こたつに入った。「大丈夫?」と私は軽く咳きこむ吉希の頭を撫でる。吉希はまた噎せながら泣き出して、「……確かにちょっとうるさいね」と佳世がぼそっと言った。「赤ちゃんだから」と私が言うと、「分かってるよ」と佳世はおもしろくなさそうに答えた。
 それから、おかあさんがいないときに、おとうさんは吉希にひどいことをするようになった。タオルで口をふさぐ。熱いお茶をわざとこぼす。抱っこして床に落とすまでやっていた。
 吉希があまりにも激しく泣くので、近所から苦情が入り、ついにおかあさんがおとうさんの行動を知ることになった。
「かわいいと思えないよ、やっぱり。美和みわと佳世とは違うだろ。お前が……ほかの男と、あいつを作ったなんて」
 おとうさんは力なくおかあさんに打ち明け、私も佳世もついにこのふたりの離婚かと期待した。しかし、おかあさんの答えは予想外だった。
「私が愛しているのは、今でもあなたよ」
 おとうさんは、おかあさんに顔を上げる。
「あなたが暴力を抑えられないことも、分かって結婚した」
「……じゃあ、」
「だから、吉希はあなたのために作ったの」
「俺のため……?」
「いくらでも、何でもするといいわ。殺さない程度に。だから──私を殴るのはやめてほしい」
 しばし茫然としたのち、嗚咽をもらしたおとうさんの肩を、おかあさんは受け止めるように抱いた。それを見ながら、何だか理解が追いつかなくて、私と佳世は目を交わした。
 とりあえず、ふたりが離婚しないことだけは分かった。
 おとうさんの吉希への虐待が始まった。泣き声がうるさいとまた近所に怪しまれると、吉希はいつも口にタオルをつめこまれていた。
 吉希に向かっていらだちを発散することで、おとうさんは一気におかあさんに優しくなった。両親が仲良くなって、佳世は何だかんだで安堵したようで、吉希が何をされても無視していた。私も何もできなかった。
 そうして何年か過ぎて、成長した吉希は、すっかり家族の感情のはけ口になっていた。おとうさんは殴る。おかあさんは冷たい。佳世は興味もなさそうで、私は見て見ぬふり。罪悪感はあったけれど、そもそも「そのため」に生まれてきた吉希を助ける術なんて、なかった。
 吉希の犠牲によって、私の家族は初めて安定し、やすらぎが生み出された。
 どこから嗅ぎつけるのか、たまに児相が訪問に来ることがあった。でも、私の家族はとても穏やかで、吉希もそれに合わせないとあとがひどいので笑顔を作っていたから、いつも問題はないとすぐ帰っていった。
 何でこんなことになったんだろう。そう考えるときがある。なぜこんな方法でしか、私の家庭はやすらぎを得られないのか。どこかでは、私だけでも裁かれてしまいたかった。傷と痣にまみれる吉希を助けられない罪。断罪されないまま生きていくのは、頭がおかしくなりそうだ。
 生きている価値がないのは、自分だと思った。私は家族に縛りつけられ、正しいことも行なえない。吉希の心が壊れていくのをただ見ている。
 いつか私たちは、裁かれるときが来るだろう。その足音が私には聞こえている。両親や佳世にも聞こえているのかは分からない。
 こんな悲惨な情景に、私の家族は何を求めているの?
 偽造された安寧に、何の意味があるの?
 狂った幻想のやすらぎを作り出してもいい理由なんてあるの?
 いつしか私は二十歳になり、吉希は七歳になっていた。小学校には行かせてもらえているみたいだった。両親としては、不登校を強いて周りに怪しまれないためだったのだろう。
 しかし、それが仇となり、吉希は小学一年生の終わりに学校に家庭内のことを告発した。全身の火傷や打撲が何よりもの証拠だった。
 この家庭を支えていた幻影のやすらぎは、ついに砕け散った。
 両親は逮捕された。非行に走っていた佳世は補導された。私は町を離れ、ひとり何とかバイトで食いつないだ。私たちは、『生贄を求めた悪魔の一家』と報道されていた。
 安いアパートでひとり暮らしながら、周りの生活音はわずらわしかったけど、吉希のすすり泣きが聞こえてこないのはだいぶ心が落ち着いた。
 ずっと、あの子を傷つけてきた。その手を取って、かばってあげられなかった。結局、私はそうすることが怖かったのだ。
 このままひとりで暮らそう。幸せにはならない。それが私が受ける罰だと思えば。
 偽りの平穏に溺れていたのは私も同じ。
 よかったんだ、あんな異常なやすらぎはたたき壊されて。
 一日を終えた夜、明かりを消した部屋の中でふとんにもぐる。こういうのでいい。こういうのでよかったんだ。あの泣き声に聞こえないふりをするために、耳をふさがなくてもいい。それだけでよかった。
 睫毛を伏せると、なだらかな心が全身に広がり、手足が柔らかく虚脱していく。
 きっと吉希は、保護されたけれど、まだまだこんなふうには眠れないのだろう。恐怖で、憎悪で、苦痛で、安心して眠ることすらできないのだろう。
 そんな吉希に、安眠を願う資格する私にはないけれど、それでも祈っている。
 あの子だけは、いつか本当のやすらぎの中で生きていくこと、優しい夢を見て眠れるようになることを。

 FIN

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