校門をくぐると、桜の花びらがあの日の雪のように舞い降りては地面に積もっていた。それを踏みしめ、花壇に挟まれた小道を抜けて、懐かしい校舎を見上げる。
変わっていない。
春風に髪を揺らしながら歩き、校庭への短い階段を途中まで降りる。今は授業中だから生徒のすがたはない。なのに、やっぱり私はそこにあの子のすがたを探してしまう。
会えることはない。分かっていても忘れられない。伝えられなかった想いが、彼のことを私の中に息づかせている。
彼に会ったのは、九月に入った残暑の厳しい頃のことだった。
私は中学二年生で、月曜日の校庭での朝礼でくらくらしはじめていた。太陽がぎらぎらと容赦なく輝き、風もない、空気には熱気が停滞してはじめている。息もできない暑さに頭が破裂しそうで、吐き気までこみあげていた。
早く朝礼終わらないかな。校長だの、生活指導だの、生徒会だの、何でこんなもん長引かせるの。みんな、うんざりした顔をしているのに。
喉がからからだ。頭の芯が本当に痛くて、かすんでくる視界に目をこする。足元がゆらゆらして崩れそうで、ほてった呼吸が苦しくなる。
あ、何か、無理かも。
そう思ったのを最後に、ぐらりと目の前が引っくり返った。遠ざかる中で名前を呼ばれた。大丈夫か、とか聞こえた気がする。硬い地面に崩れ落ち、土の匂いがして、そのまま、日射しに朦朧としていた私は、気を失ってしまった。
気がついたのは、チャイムが耳に障ったときだった。チャイム。あれ。何時間目だろう。いや、というか私、寝てる? 寝て……る、ということは──
「遅刻!」
そう叫んでがばっと起き上がって、やっと自分のベッドじゃないことに気づいた。
妙に白いシーツ、消毒液のにおい、涼やかなクーラー──の中で、かすかに、くすりと笑いを噛む声が聞こえた。私は眉を寄せ、毛布に手をついてベッドを囲うカーテンをめくった。
そこには、普段あんまり来る機会のない保健室があった。薬の並ぶ棚、薬物反対のポスター、座卓くらいの高さのテーブルに沿ったソファに、ひとり、制服の男子生徒がいた。
彼はこちらを振り返って、「大丈夫ですか?」とおっとりした声で訊いてくる。大丈夫か……って、そういえば何だか頭痛がする。
「先生、呼んでこようか?」
「え……えと、私──」
「熱中症だって」
そこまで言われて、思い出した。そうだ。狂いそうに暑い中での朝礼中、私は倒れてしまったのだ。見ると、紺のスカートの裾には土をはらわれたあとがある。
気絶なんて初めてだ。保健室にどうやって来たのか、まったく憶えていない。
「先生……いないんですか」
「職員室に行ってる。すぐ戻ってくるけど」
「そう、ですか。……う、ちょっと吐きたい」
胸から喉へ、ムカつきがまとわりついている。
その男子生徒はソファから立ち上がって、勝手を知った様子で冷蔵庫のミネラルウォーターを紙コップに入れて、こちらに歩み寄ってきた。
「水分、摂って」
こんなに暑い日だけど、ここはクーラーが涼しくきいているせいか、彼は薄手の長袖のシャツを羽織っていた。
「ありがとうございます」と私はそろそろと紙コップを受け取り、ひやりと伝わった心地よい冷たさをこくんと飲みこむ。
ちらりと盗み見ると、彼は名札の色が赤で三年生だと分かった。
「先輩、ですよね」
「君が三年生じゃなければ」
「私、二年です」
「そっか」
「今、休み時間ですか」
「授業中だよ。休み時間は生徒が来るから、先生いるしね」
授業中に、なぜのんびり保健室で過ごしているのか。首をかしげていると、「教室に行けないから」と彼はうつむいて小さく咲った。
「保健室登校って奴だよ」
「いつも、教室じゃなくてここに来てるんですか?」
「うん」
ミネラルウォーターで喉を潤す。
保健室登校。そんな生徒、うちの中学にもいたのか。いや、クラスに登校拒否をしている子ぐらいいるけれど。
私には、そういうことは違う世界の話だ。学校なんて来て当たり前だし、教室は何だかんだで友達に会える。
何で保健室登校をしているのだろう。やはりイジメか。こののんきそうな田舎の中学でも、そういうことがあるのか。
あんまり関わりたくない学校の裏に視線を下げていると、保健室のドアが開く音がした。「羽木くん」と女の人の声がして、「気がついたみたいです」と彼は振り返る。
足音が近づいてすぐ顔を覗かせたのは保健の先生で、彼は身を引いてソファに戻った。その背中をちらちら見ながら、私は保健の先生の質問に答えていた。
羽木──先輩、か。まあ、関わりたくないなんて思わなくても、もう関わることもないか。そう思っていたのに、数日後、私はまた羽木先輩に出逢うことになる。
登校したばかりの朝の靴箱だった。気にもならない光景のはずだった。先生と生徒が挨拶を交わしている。生徒のほうは居心地が悪そうで、先生のほうは何やら生徒をしかっている。
何かやったんだなー、くらいで通り過ぎそうになったけど、男子生徒に見憶えがあってまばたきすると、羽木先輩だった。
「そろそろ、教室に戻ってきてもいいだろう。いい加減、保健の谷島先生の厚意に甘え過ぎだぞ。どうしても教室に来れないなら、その理由を話してもらわないと、先生もクラスのみんなに説明がつかないんだ」
足を止めた。羽木先輩の担任だろうか。
……イジメ、かもしれないのに。そういう言い方って、ない。
羽木先輩はうつむき、たまに小さな声で「すみません」とだけ言っている。担任らしき教師は、羽木先輩の肩に手を置いた。
「なあ、もしひとりで教室に入る勇気がないなら、今から先生が一緒に──」
「先輩っ」
教師の物言いにいらついているうち、無意識に声を上げていた。いくらか生徒が振り向く中、羽木先輩も顔を上げ、駆け寄ってくる私のすがたに目を開いた。
「先輩、今日も保健室来るんですよね?」
「え、あ──」
「私も教室行きたくないから、一緒に話とかしましょう」
言いながら、私は羽木先輩が羽織るシャツを軽く引っ張った。
先輩はとまどったものの、「行きましょう」と私が言うと、一歩踏み出した。「すみません」とまたその教師に言って、私と保健室のほうへ歩き出す。
私はわざとその教師に非難めいた目を向けておき、廊下を歩きながら、先輩の顔色を見上げて窺った。
「大丈夫ですか」
今日も快晴で蒸し暑いのに蒼ざめている先輩は、私を見て、「ありがとう」と弱い声で言った。
「あれ、担任ですか」
「……うん」
「やな感じでしたね」
「心配、してくれてるんだけどね」
「そうですか? 言ってること、自分勝手に聞こえましたけど」
「悪いのは僕だから」
「教室に行きたくないだけじゃないですか」
「あんまり分かってもらえないよ」
「行きたくないなら、行かなくていいと思います」
先輩は首をかしげて、困ったように咲った。
綺麗な人だな、と改めてその容姿を見て思った。色素の薄い髪、穏やかな顔立ち、華奢な軆。
保健室は靴箱と同じ並びなのですぐに到着した。ドアに手をかけて、先輩は私を見下ろした。
「君は──やっぱり、教室行けるんだよね」
「えっ。ああ、まあ」
「ごめんね、嘘なんかつかせて」
「いえっ。話とかできるのはほんとですし」
「え」
「あ、私には話せって、あの教師みたいな意味じゃなくて。その、ええと──」
先輩は私を見つめる。その視線になぜか熱くなってくる頬に言葉がまとめられずにいると、先輩はくすりと咲った。
「僕は学校に来たら、ずっと保健室にいるから。たまに、あんなふうに担任とかクラスメイトに遭うと、いろいろ言われてるけど」
「……いろいろ」
「仕方ないよ。僕の保健室登校が、実際に教室を気まずくさせてるらしいしね」
「教室に行けない理由はあるんですよね」
「一応は」
「じゃあ、気にしなくていいですよっ。保健の先生も、ぜんぜん先輩のこと嫌がってなかったし。私も、保健室登校ってびっくりしたけど、だからって教室に行けとは思わないし──」
なぜか一生懸命になって言葉を選んでいると、チャイムが鳴った。「あ、」と言葉を止めた私に、「君がよければ」と先輩は優しく私の背中を押した。
「また、話せると嬉しい」
先輩を振り返った。柔らかく微笑まれる。どきん、と心臓が深く脈打つ。
「じゃあ、その、休み時間に保健室に来たりしてもいいですか」
「もちろん。ホームルーム、始まるよ」
「あ、はい。えと、じゃあまたっ」
羽木先輩はなごやかに微笑して、私は頭を下げると、階段へと駆け出した。
頬に触れると、熱い。残暑の熱気のせいだけじゃない。クラスの男子なんかには感じないものだ。これは、何というか──
それから、私は友達を撒いて、たまに保健室を訪ねるようになった。
保健室には、ほかにも教室に行けない子が来ている日もあった。誰かいると、羽木先輩は比較的黙りこんでしまう。あの倒れた日、保健の先生に少し任されていたとはいえ、私に気さくに話しかけてくれたのは、ずいぶんめずらしかったことなのが分かった。
「私と話すのはつらくないですか」と心配すると、「君は僕のこと分かってくれるから」と言われて、何だかひとりで笑みを噛みしめてしまった。
「僕、切っちゃう奴なんだ」
季節が秋に移ろい、やっと気候が良くなった頃の放課後だった。私は例によって保健室を訪れ、帰ろうとしていた羽木先輩を見つけた。
その日はほかの生徒もいたから、先輩は荷物を持つと私と保健室を出て、校庭に出た。そして、学ランになった腕をさすりながら、そんなことを打ち明けてきた。
「切る……?」
「カッターとかカミソリで、腕とか手首を」
「えっ、と。それは、その、死にたい……みたいな感じですか」
「どうだろう。小学生のときから、つらいと切ってた。僕の両親、離婚すればいいのに、親権とか財産とかを話し合う余裕もないくらい喧嘩ばっかりでね。怒鳴り声がすると、切っちゃうんだ。血を流すと、少し楽になれる」
息苦しい残暑にも、先輩が長袖を羽織っていたことを思い出した。
「教室に行けないのは」と続ける先輩の髪がさらさらと秋風になびく。
「夏に上着を脱げないから。冬服になっても、体育の着替えとかが嫌だから」
「……イジメ、ではないんですか」
「うん。切ってることをみんなに知られたくないだけ」
「イジメだと思ってました」
「みんな、そう思ってると思う。先生も何とか僕から『イジメだ』って聞いて何とかしたいんだろうし、クラスメイトもこのクラスでイジメがあったんだって気まずいんだろうし。保健の先生しか、ほんとのこと知らない」
「私に話してよかったんですか」
「うん。ごめん、聞きたくなかったかな」
「いえっ。その、気の利いたことは言えないですけど」
先輩は微笑んで、「話したいと思わせてくれるだけでいいんだよ」と言った。それから校庭の部活動を見やって、ふと「教室にいた頃は、体育が一番好きだった」とつぶやいた。
「体育ですか。意外」
「僕、頭のほうがよっぽど悪いよ?」
「そうなんですか?」
目をしばたく私に、先輩はくすくすと咲う。
「中学になって、授業も受けてないしね。もっと成績ひどくなってるだろうな」
「体育では、何が好きだったんですか」
「チームプレイはうまくなかったから、個人競技かな」
「陸上とか」
「うん。走るのはすごく好きだった」
「いいなあ。私は走るの遅いですよ」
「そうなの?」
「すぐ息切れします」
「はは」
羽木先輩の横顔を見つめる。青空から、さわやかな風が抜けていく。
その腕に目を落とし、切ってほしくないな、と思った。でも、それをそのまま言ったら、先輩を苦しめるような気がして言えなかった。
イジメどころか、家庭が原因だなんてますます私に口を出せない。それでも、切るよりもっと先輩のはけ口になれるものがあればいいのに、と思った。
私は、なれないのかな。たとえば、話を聞いたりとか、できるのに。聞くしかできないけど。言葉をかけられるわけでもないけど。先輩の傷が、腕や手首を蝕まなくていいように、何かできないかな。また思いっきり走ったりできるくらい、何か力に──
思うばかりで何もできず、ただ、羽木先輩と話をした。「羽木くんはあなたの前ではよく咲うね」と保健の先生に微笑ましそうに言われた。羽木先輩はそれにちょっと照れても、やっぱり私に咲ってくれた。私も咲い返した。
いつのまにか、いつまでも先輩はそうやって咲ってくれていて、自分を切ったりなんてしなくなるんじゃないかとか思っていた。
「両親も、僕が切ってることは知らない。だから、そんなに派手に切れないんだけどね。血が止まらなくなっても、手当てのために部屋は出れないし。だから、切るって言っても、ティッシュで抑えられる程度なんだ」
季節は冬が深まっていった。山手のこの町は、けっこう雪が降る。その朝も柔らかい雪が風の動きのまま舞っていた。雪に足を取られるかと少し早めに家を出たら、意外とすんなり学校に到着したので保健室を覗いた。
すると、ヒーターのついていないそこで、保健の先生が顔を覆って泣いていた。ぽかんと突っ立った私に気づいた保健の先生は、「羽木くんが」とまで言ったけど、また顔を伏せて涙をこぼした。
遺書は、なかった。きっと、たぶん、自殺ではなかった。腕にはたくさんの自傷痕があった。いつものように切ってしまった傷のひとつが、予想より深かったのだろう。止血しようとその傷を抑えたらしい、血まみれの服が散乱していた。
緊急集会が開かれ、体育館で全校生徒で黙祷を捧げた。例の担任の先生は、イジメではなかったことばかり強調していた。
それは事実だけど、こんなときに自分や学校に責任がないことを強調するなんて、無神経すぎて吐き気がした。でも、この吐き気でたとえばあの日のように倒れても、保健室には絶対に羽木先輩はいない。
放課後になっても雪は降りしきっていた。そろそろ、足音がざくざくと食いこむくらいになってくる。誰もいない校庭に立ってみた。雪が奪う視界の中に、一瞬先輩が混じったような気がした。雪の中に溶けるように、向こう側へ走っていくすがた──
急に視界がゆがんで、頬を雫が何度も伝っていった。
何もできなかった。何かしたかったのに。先輩の力になりたいと思ったくせに。何でその気持ちを行動に移さなかったのだろう。どうしてどこかで日和ってしまったのだろう。そのまま咲っていて、先輩は切らなくなるなんて。
先輩は話をしてくれた。それでじゅうぶんだった。心を開いてくれていた。どうしてその心に飛びこまなかったのだろう。やめてくださいって、切ってほしくないですって、きっと、先輩は言ってほしかったのに。そう言われることなんか承知だっただろう。なのに、私はそう言えば苦しめるかもしれないなんて──
何も、分かってあげられなかった。分かってくれてるって言ってもらったけど、私も結局先輩を分かってあげられてなかった。
それから、私は何とか心に闇を持つ人たちに近づこうとして、気づいたら教師を目指していた。そして、春が芽生えた今、桜が満開のこの中学に新任教師として戻ってきた。
今でも羽木先輩のことが忘れられない。一生、忘れられないのかもしれない。平凡な中学生には、むごい幕切れの初恋だった。
自分を切るなんてやめて。その言葉を言えばよかったのだと当時は悔やんだ。でも、いろんな傷ついた人たちと接して、そうではなかったことにも気づいた。
私はもっと違う言葉を持っていた。私の前では自然に咲えていた先輩。こう言えばよかった。
先輩が好きだって。
その笑顔が大好きだって。
恋に落ちていればよかった。それだけで、先輩の切らない支えになれていた。先輩の心に寄り添うことができていた。甘ったるい考えのようだけど、恋をしていればそれは確実に光になっていた。
桜の花びらがちらつく校庭に立つと、あの真っ白な雪の日に戻ったように涙がこみあげてくる。
今でも、まだ、あなたのことが好き。
きっと、この恋は報われないまま、終わることもない。あなたは私の中で咲っている。その残像を私は追い続けて、繰り返しこうして涙を流す。
あの日の雪は永久にこの心で降り続ける。やまない雪は、虚しく灯る恋の熱に溶けて、溶けて──その雪代水は、私の視界を滲ませ、また倒れてしまいたくなるほど、とめどなく頬を流れていく。
FIN