君を知るほどに

木実このみ、俺たち結婚しようか」
 狂ったように蝉の声が反響している。レースカーテンも虚しく、とっくに日射で暑く、クーラーの恩恵を受ける八月の朝。
 亮次りょうじが私にそう言ったのは、よりによって、バカみたいにいそがしい月曜日の朝だった。
 このあいだ、私たちは同棲して二年が経った。そろそろ言われてもいいとは思っていた。
 けれど、何も、すっぴんパジャマのまま、ばたばた朝食を用意していて、「はいっ」とハニートーストを渡したついでに言われること?
「何?」
 薄い眉を寄せて思わずそう言い返すと、「あ、サンキュ」と亮次はハニートーストを受け取る。
 いやいやいや。これをさしだして、受け取るあいだに、とんでもないこと言われたよね?
「結、婚……?」
「おー、この蜂蜜しみしみのトーストがたまらんな」
「いや、待って。結婚って言った?」
「ん? ああ、木実の寝起きの顔とか普通になったし、トイレも風呂も共用できてるし、そのほかも──とにかく、いいかなって」
「いいかなって思うのは勝手だけど、今、言うか? もっとこう──」
「気合い入れて申し込んで、断られたらショックだもん」
「ショック受ける覚悟で、ホテルの最上階レストラン予約して言えよ」
「木実ってそういうベタなの好きなの?」
「一応憧れるわっ」
「そうか……。じゃあ、やってもいいけど、プロポーズ断らない?」
 私は自分の食パンをトースターにぶちこんでタイマーをまわすと、コーヒーを淹れてから亮次の正面の椅子に腰をおろした。
「あんた、ほんとそういうとこだから」
「うん?」
「最初っからそうだわ」
「最初」
「初めて会ったとき」
「面接だよな」
「そう、コンビニのバイトとはいえ、面接だっていうのに君は金髪で現れました」
「受かったら黒にするって言ったと思うけど……」
「受かったら、って驕ってんじゃねえよっ。何度も言った話だけど、ああいうときは、受かるためにすでに黒戻ししておくのが基本なの」
「でも、木実は俺を採用したじゃん」
「ただの人手不足だわ。あのとき、一気にバイト三人抜けて死にそうだったから」
「三角関係になって、その三人とも辞めちゃったんだよな」
「そう……みんないい子だったのに、恋愛が絡んだ途端、バックヤードの雰囲気は最悪」
 私はわざとらしい息をついて、香りが豊かなブラックコーヒーを飲む。
 私はチェーンのコンビニの社員で、直営店舗の店長を任されている。ちなみに亮次はそこのスタッフだけど、同棲はもちろん恋愛関係になっていることは、店側には隠している。
 理由はもちろん、その三角関係になった子たちのおかげで、店内が荒れに荒れたからだ。今はだいぶ穏やかな空気が戻ったけれど、私は当時店長として悩み、心療内科の予約を取ろうかとも思った。
 チン、とベルが鳴って、私のトーストができあがる。きつね色から、ふんわり香るバター。私は蜂蜜無し、ただのバタートーストとして食べる。
 レタスをちぎって、輪切りのトマトときゅうりを乗せ、クルトンとフレンチドレッシングをかけたサラダを、亮次はざくざくと食べている。
「亮次の第一印象は最悪だったんだよなあ」
「そうなの?」
「生き生きしたやる気も感じないし、うちの店で働きたい理由も近所だからとかだし、金髪だし……ほんと、金髪って」
「今、黒で働いてるからいいじゃん」
「金髪のまま働こうとされたらさすがにクビにしてるよ」
「俺も木実のこと、最初は怖かったなあ。自分ができることをできない人を理解しないじゃん」
「理解できないもん」
「そこは上司なら、自分もできなかった頃を思い出して見守らないと」
「そういうのはもう、バイトリーダーの亮次がやってるからいいでしょ」
「まあね。木実に足りてないとこだから、俺が補うよ」
 甘ったるい香りのハニートーストに、亮次は噛みつく。
 私はトーストの皿に添えた粗挽きウインナーをぷちんと食べて、結婚かあ、と息をつく。そういえば、うちの会社は店長が結婚したら夫婦経営もOKだったっけ。
 結婚するなら、いよいよ今のスタッフに亮次と結婚前提の同棲をしていることを言わないと。
「プロポーズさ」
「うん?」
「断らないなら、ホテルの最上階に連れていってくれるの?」
「お金が貯まってからね」
「マイペースだなあ……。まあ、断らないよ。私も亮次が寝てるあいだぼりぼりお腹かきむしるのも、朝に起きた日の低血圧も、何か慣れた」
「俺たち、第一印象はあれだったけど、相性はいいと思うよ」
「そうだね。そう思う」
 私の言葉に亮次はにこっとして、ハニートーストを口に押しこむ。私も肩をすくめ、レタスを嚙み砕いてサラダを食べる。
「──本元ほんもとさんですか? 先日は当店の面接はありがとうございました。よろしければ、一緒に働いていただけたらと思ったのですが」
『ほんとですか!? よっしゃっ、大学卒業して半年、ついに無職脱却ですよ!』
「おめでとうございます。ただ、ひとつお願いがありまして。髪の色は黒に戻していただけるとありがたいです」
『了解です! 今から黒にしますねっ』
「………、では、明日渡す書類や説明などがあるので、お店に来ていただけますか?」
 亮次と電話でそんな会話を交わしたのが、なかなか涼しくならない十月だった。
 翌日、亮次は黒髪で店に現れた。金髪のときの軽薄さがなくなって、無邪気なくらいに見えた。
「採用ありがとうございます!」と頭を下げられ、わりと素直でかわいいのかな、と思ったときには、第一印象は払拭されて恋になっていた。
 一年間一緒に働いて、亮次のほうから告白された。私は最初は断っていたけれど、こいつがしつこく折れなかった。気紛れでデートに行ってしまったら、思いがけないほど楽しくて──それは、私だって、この人のこと好きだけど。
 恋愛を選んだら、仕事を失くすかもしれない。
 そんな私の気持ちを聞いた亮次は、「絶対ばれないようにしよう」と協力を申し出てくれた。
「俺、森田もりたさんの仕事の邪魔はしたくないから」
 そんなにうまくいくかなあ、と思いながら一年半つきあって、ちょうど梅雨の時期に同棲を始めた。それが約二年前で、今、私たちは知り合って五年になるのをひかえている。
 私は二十九歳、亮次は二十八歳だ。
「みんなに結婚することは言わないとね」
「言っていいの?」
「夫婦経営になるから、そもそも本社に隠せない」
「ぎすぎすするかなあ」
「結婚までするなら、覚悟分かってくれるでしょ。──亮次、お皿シンクで水に漬けといて。私、シャワー浴びて化粧する」
「了解」
 ばたばたする朝に戻り、私は出勤する支度を終える。亮次は基本的に深夜スタッフなので、これから寝る。疲れていて眠いだろうに、私を玄関先まで見送ってくれる。
「じゃあ、行ってくるね」
「いってらっしゃい。あ、木実」
「うん?」
「一緒に頑張ろうね」
「……仕事? 結婚?」
「どっちも。俺たちは、分かりあっていくほうが相性いい」
「はは。第一印象のままだったら、こうはなってなかったね」
「うん。木実のこと──」
「あ、もう時間ないや。続きは帰ってから聞く」
「待って。木実のこと、ちゃんと知っていって、好きになってよかったよ」
 私は靴を履くのをいったん止めて、亮次を振り返る。亮次は「へへ」と照れたように咲う。私も何だか気恥ずかしく微笑むと、「いってきます」と背伸びして亮次の唇を掠め取った。
 ドアを開ける。ますますすごい、空に降りしきる蝉の声。八月上旬、おろしたてみたいな青さが広がる快晴。むわっと肌を舐めて、喉の潤いをもぎとる熱気。
 今日もドリンクやアイスが売れるかな。
 そんなことを思いながらアパートの一室を出て、七時になる前に職場のコンビニに急ぐ。
 亮次の第一印象は最悪だった。コンビニナメてんのかとしか思わなかった。でも、今では立派なバイトリーダーだし、それどころか今朝から私の婚約者だ。分かんないもんだなあ、と小さく苦笑いしてしまう。
 深呼吸する。もう亮次に初対面のときの不安なんて一抹もない。
 君を知るほどに、私はただ君を好きになる。
 朝の夏風に髪をなびかせながら顔を朝陽に向ける。一緒に頑張ろう。そうだね、と胸の内で答えると私は速足になった。

 FIN

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