約束をした。とても大切な約束。私のすべてをかけた約束。忘れられない、大好きな人との約束。
その約束を交わした日ほど、私は泣いたことがない。
その日は、彼が私のそばからいなくなる日だった。
「翔ちゃん」
何度も彼の名前を唇からこぼして、喉が痛くなってくるほど嗚咽を漏らし、黒い瞳からは大粒の涙を流していた。彼は私に名前を呼ばれるたび、旅立つ準備から顔を上げてこちらを向いた。
「大丈夫だよ、舞奏」
根気よくそう言って微笑み、くしゃっと私の頭を撫でてくれた。
大丈夫じゃない。私は大丈夫じゃない。
翔ちゃんがこの島からいなくなってしまう。生まれたときからずっと一緒だったのに。翔ちゃんは私の大切な大切な一部なのだ。身の一部をもがれて、痛まないものなんてない。
私は内地からだいぶ離れた、小さな島で生まれ育った。海と山しかなく、過疎化が進んでいる問題もかかえているけれど、のんびりした自然が豊かな島だ。
テレビで観るようなおしゃれな街なんてない。夜は真っ暗だし、駄菓子屋くらいが買い物できる場所だし、インターネットもゲームもない。それでも、私はこの島が大好きだ。立てるようになった頃から外を走りまわり、肌をこんがり小麦色にして、毎日が笑顔にあふれていた。
翔ちゃんは六歳離れた私の幼なじみだ。おっとりして、ちょっと病気がちなせいか私と違って色白で、柔らかな印象のおにいさんだ。私の母と翔ちゃんの母が、同じくこの島出身の親友で、翔ちゃんは私が生まれたときから面倒を見てくれていた。
私は海でばしゃばしゃ泳いで、翔ちゃんは浜辺で本を読む。本屋なんてこの島にはないけど、週に一回、仕事で内地まで行くおじちゃんが、読書好きな翔ちゃんのために適当に古本を買ってきてくれる。
私はいつも翔ちゃんのあとを追いかけて、そんな私の手を翔ちゃんは優しく握ってくれた。
「僕、大きくなったらお医者さんになりたいな」
いつからか、自分の病弱さをかえりみて、翔ちゃんはそんな夢を語るようになった。大きくなったらお医者さんになりたい。そして、医者がいないこの島のような場所で医療所を開きたい。その夢が自分と翔ちゃんを引き離すことになるなんて、思ってもみなかった。
この島にも、かろうじて学校はある。でも、小学校から中学校までつながって、十数人しかいない分校だ。翔ちゃんはその学校で学べることは学んだけれど、夢のためにもっと踏み出すことにした。内地の進学高校に進んで、医大に入る──
「翔ちゃん」
もともと少ない翔ちゃんの部屋の荷物は、ほとんど片づいていた。あとはおじちゃんが買ってくれた本をダンボールに積めて、ここに残しておくくらいだ。
カラスが鳴いて、窓がオレンジ色に染まって、三月に入って長くなってきた日も暮れてきていた。
翔ちゃんは隅で膝をかかえる私を見ると、色素の薄い栗色の瞳で微笑んだ。
「舞奏、夜、僕と海に行ける?」
「えっ」
「最後に、舞奏と海に行きたいんだ」
「最……後」
「ダメかな」
「………、ううん。行けると思う」
翔ちゃんは嬉しそうに咲い、その笑顔に私はまた泣いてしまう。
「舞奏、大丈夫だから」
翔ちゃんはその台詞をくりかえし、私のほうに軆を向けた。
「僕がいなくなっても、みんないるじゃないか」
「翔ちゃん……翔ちゃんがいなきゃ、ダメだもん。翔ちゃんが一番だから、一番がないと、そのあとなんてないもん」
翔ちゃんはちょっとだけ困ったように咲うと、私の頭をいいこいいこした。
「ありがとう、舞奏」
「翔ちゃん……」
「夜、舞奏に大切な話するよ。とりあえず、そろそろ帰りなさい」
「やだ。ここにいる」
「僕もこの本片づけたら、夕食で一階に降りるよ」
「私も一緒に食べる」
「………、ごめん、今日は家族だけで食べたいんだ」
翔ちゃんを見て、もう泣き顔を見られることすらつらくて、翔ちゃんの胸に飛びこんだ。翔ちゃんは優しく受け止めると、切る機会がほとんどなくて長い私の黒髪を撫でた。
翔ちゃんの匂いはあったかい。自分の部屋の匂いより落ち着く。翔ちゃんのシャツは私の涙でどんどん湿っていった。
翔ちゃんは長らくそうして体温を共有してくれていたけど、「じゃあ」と私を覗きこんだ。
「夜にまた会えるから。ごはん食べておいで」
「ほんとに、夜、会える?」
「うん。浜辺で待ってる」
「ほんとに来てね」
「舞奏こそ、ごはん食べたら忘れるなんてなしだぞ」
「そんなことしないもんっ」
思わずがばっと軆を離して強く言ってしまうと、翔ちゃんは笑って「うん」と私の頬を軽くぱんぱんとたたいた。
「その調子」
「……意地悪」
「舞奏は元気なのが一番だよ」
「ん。じゃあ、ごはん食べてくる」
「うん。おばさんとおじさんに、よろしく」
こくんとすると、まだ鼻をすすりながら立ち上がった。部屋を出る前、翔ちゃんを振り返った。翔ちゃんは優しく私を見守ってくれている。すぐ駆け戻りたくなったけど、何とかこらえて、翔ちゃんの部屋をあとにした。
唇をぎゅっと噛んで、翔ちゃんの家は我慢して出た。けど、おばさんにお辞儀して引き戸を閉めると、またじわりと視界が水分でゆがんで、ぽたぽたと雫が落ちはじめた。
翔ちゃん。翔ちゃん。翔ちゃん。
何度も心の中で叫んで、すぐ近くの家に着く頃にはひどくしゃくりあげて泣き出していて、おかあさんがびっくりして飛び出してきた。
泣きながら、あんまり食べられずに夕食を終えると、私は急いで家を出た。住宅地というほど近代的でもない住宅地を抜けると、港に沿った広めの長い一本道があって、それをまっすぐ行くと浜辺に出る。
波の音がなだらかに押し寄せ、港に並んだ漁船がきしめき、空には星が敷きつめられている。月の光が明るく、走る脚がもつれることはなかった。
やっと浜辺に到着すると、波打ち際にたたずむ翔ちゃんのすがたがあった。
「翔ちゃんっ」
私が声をあげると翔ちゃんはこちらを振り向いた。そしていつも通りおっとりと微笑んで、「舞奏」と落ち着いた声で返してくれた。
「ごめんね、もっと早く来ればよかった」
「僕もさっき来たんだから、大丈夫だよ」
大丈夫だよ。翔ちゃんの口ぐせだ。病気になっても、落ちこんでも、いつも大丈夫だと言う。大丈夫じゃないときほど、翔ちゃんはそう言ってひとりで抱えこもうとする。
「翔ちゃん……」
翔ちゃんは海に視線を投げやると、私の手をつかんだ。
「舞奏は、よくここで泳ぐよね」
「……うん」
「僕も、たまには泳いでおけばよかったな」
「翔ちゃん、太陽でひりひりになっちゃうじゃない」
「はは、そうだね」
「………、でも、今なら大丈夫だよ」
「え」
「お月様は、優しいから。ちょっとくらい海に入っても、翔ちゃんを焼いたりしない」
翔ちゃんは私を見下ろし、ゆっくり咲うと、「じゃあ足だけ」と靴を脱いだ。私も靴を脱いで、夏みたいに熱の残っていない冷たい砂に裸足をさらす。
さくさくと砂浜を進み、翔ちゃんはちょっと躊躇ったあと、ちゃぷんと水辺に足をさしこんだ。私はつながっている翔ちゃんの右手を両手で包むと、「怖くないよ」と引っ張った。
翔ちゃんは静かに潮騒に足を沈め、ふと、「冷たい」と咲った。
「ふふっ。でも、気持ちいいでしょ」
「うん。夜だから冷たいのかな」
「昼でも海は冷たいよ。夏でも」
「海水ってやっぱり塩からい?」
「当たり前じゃない。もう、翔ちゃん、この島で育ったのに」
「あはは。ちょっと舐めてみてもいいかな」
「たくさん飲むと、ほんとにからいからね」
「うん」
翔ちゃんはハーフパンツをめくって身をかがめ、空いている左手を海に浸すと、そのまま指を舐めた。そして、体勢を正してちょっと考えたあと、「ほんとにしょっぱい」とつぶやく。
「ねえ、舞奏」
「うん」
「僕、忘れないよ」
「えっ」
「この海の味も、冷たさも、波の音も、この島も、全部。もちろん、舞奏のことも」
翔ちゃんを見上げた。翔ちゃんの濡れた左手が、私の右頬をおおう。
「翔ちゃん」
「僕、約束したいんだ」
「約束……?」
「僕、舞奏が好きだよ」
「えっ」
「舞奏は、僕のことおにいさんみたいに想ってると思うけど、僕は舞奏が女の子として好き」
「翔……ちゃん」
「舞奏は? やっぱり、僕はおにいさん?」
栗色の瞳の中の、自分の黒い瞳を見た。その瞳に問いかけた。
好き? 翔ちゃんが好き? その“好き”は──?
「わ、私も翔ちゃんが好きっ。おにいちゃんじゃやだ。その、えっと、お、男の子として、好き」
しどろもどろの私の答えに翔ちゃんは嬉しそうに咲った。初めて見る笑顔だった。愛おしさのこもった、深い深い、幸せそうな笑顔だった。
「じゃあ、舞奏。約束してほしいんだ」
「え、うん」
「学校を卒業して、十六歳になったら、僕のところにおいで」
「えっ」
「結婚しよう」
私はぽかんと翔ちゃんを見上げた。翔ちゃんは、穏やかながらまじめな目で私を捕らえている。
結婚。
翔ちゃんと結婚。
途端、私は力が抜けて、ばしゃっと音を立てて海の中にへたりこんでしまった。翔ちゃんが慌てて私を抱き起こす。私は翔ちゃんのシャツをつかんで引っ張って、そこに顔を埋めた。
「舞奏──」
「好き。翔ちゃんが好き。そばにいたい」
「………、」
「……だから、わ、私を、お嫁さんに、してください……」
「舞奏……」
「待つ。十六歳まで頑張って待つ。だから、そしたら、ご褒美に翔ちゃんと──」
翔ちゃんはぎゅっと私を抱きしめた。水飛沫が月明かりに飛び散った。翔ちゃんは私の肩に顔を伏せ、震える呼吸が私の鼓膜をくすぐった。翔ちゃんの軆はこうして密着すると、意外と硬い弾力のある男の人の軆だった。
潮の匂いが満ちてきている。翔ちゃんは私と軆を離すと、真剣な眼差しで私を見つめた。
「約束だよ、舞奏。僕たち、結婚しよう」
「うん」
「舞奏がいてくれるなら、僕は大丈夫だから」
ゆらりと水面のように翔ちゃんの顔が近づいて、私は睫毛を伏せた。温もりが唇に降る。そんな初めてのキスは、汐の味がした。
そうして、翔ちゃんはこの島から旅立っていった。私はやや躊躇したものの、思い切って漁師のおじちゃんたちの食堂で、バイトすることにした。バイトといっても、私は十歳なわけで、初めは一日五百円のお手伝いだったけれど。
十六歳になったら、翔ちゃんと結婚したい。その話に、おかあさんは笑って、おとうさんはため息をついた。そんなことは分かっていた。そんな感じだった。
翔ちゃんはときどき手紙をくれて、私も返事を書いた。翔ちゃんの字は、ほっそりとしていて綺麗だ。私のつたない字は、罫線からはみでてしまう。それでも、一生懸命書いた。
翔ちゃんの返事は初めはこまめだったけれど、次第にあいだが空きはじめた。でも、私はたゆまずに手紙を書いた。おかげで上手に字を書けるようになって、お金もそれなりに貯まって、平べったかった軆もゆっくり豊かになって──
翔ちゃんの手紙の返事は、いつしかほとんど来なくなっていたけど、私はついに十六歳を迎えた。
「じゃあ、向こうに着いたら電話するから。──おじさん、よろしく」
港まで見送りにきたおかあさんに手を振って、私が合図すると食堂で顔見知りになった漁師のおじさんは、舵を取り出した。気のいいおじさんで、今日は漁を休んで、私を明け方から内地まで送ってくれると協力を申し出てくれたのだ。
いってらっしゃいとおかあさんが言う前に、船は港を快調に出発した。
しばらく操舵室に引っこんでいたけど、揺れに慣れてくると、足元を確かめながら甲板に出た。内地にはいかなくても、漁船に乗ったことはあって、自分が酔わないのは知っている。
白い帆が風を切り、舳が波を裂いていく音が瑞々しい。慣れた香りの濃い潮風に、腰に届く黒髪をなびかせ、私は濃紺の海原と金色の朝陽を眺めた。
十月に入った日曜日の朝は、長かった初夏を寝つかせて秋を感じさせる肌寒さがあった。私は縹色のワンピースだったけど、念のため、白と黒のボーダーのカーディガンを羽織ってきた。
まばゆい朝陽が、桃色や橙々色を通して、黒かった空をすうっと水色を染めあげていく。先月はもうこの時間帯は明るかった。誕生日まで一ヶ月を切って、じりじりしていた頃だ。
私はまだ、十六歳になって一週間しか経っていない。この一週間は、荷物をまとめたりお世話になった人たちに挨拶したりしていた。翔ちゃんにも手紙を書いたけど、返事を待たずに出てきてしまった。
返事待ったほうがよかったかな、と思わなくもない。私はカーディガンのポケットから、翔ちゃんの最後の手紙を取り出した。
手紙、というか、はがきだ。手紙によると、翔ちゃんは高校を首席で卒業し、医大にストレートで合格したらしい。そして、今年で三回生だ。
『いそがしくなるけど、大丈夫だから。』
口ぐせ変わってない、とこのはがきを読み返すたび笑みがこぼれてしまうけど、そのこぼれた笑みのぶんだけ、はがきの四隅はほころびていった。
このはがきが来たのが、今年の春だ。そのあと、私は三通くらい手紙を出している。返事はなかった。でも翔ちゃんだから大丈夫だよね、ときゅっと唇を結んでから、自分まで“大丈夫”と言い出していることに笑った。
明け方に出発して、内地の港に到着したのは昼過ぎだった。おじさんに何度も頭を下げて、公衆電話でおかあさんにも電話して無事到着を知らせた私は、ボストンバッグを連れて、緊張しながら足を踏み出した。
内地の日中は、肌寒いどころか蒸し暑いくらいだった。でも、カーディガンを脱いだらひやりとしそうな感触がある。だからそのままの格好で、はがきの住所を頼りに、まず駅とやらを探すことにした。
島で暮らしてきたせいか、内地の人はどことなく怖い。けれど、怖いなんて言っていたら、翔ちゃんにたどりつけない。なるべく怖くなさそうなおばさんやおじいちゃんに道を尋ねながら、まずバスで駅まで行った。
どきどきしながらシートに座って、駅は終点って言ってたよね、と道ゆく人のアドバイスに沿って進んでいく。バスを降りると、人の密度にびっくりした。人が川みたいに流れている。怖くなさそうな人がいない、と泣きそうになったけど、思いついてきょろきょろしたら、島にもひとつあった交番があった。
内地は駐在さんも怖いかなあと思ったけど、さいわい親切なおまわりさんで、翔ちゃんのアパートに一番近い駅までの乗り換えを、全部メモしたものまで書いてくれた。私は深々と頭を下げてから、翔ちゃんに会える、とそれだけを支えに人混みに飛びこんだ。
電車は予想以上につらかった。場所によっては、人が物みたいにぎゅうぎゅう詰めに乗ってくるときがあって、電車の揺れには慣れていない私はすぐよろけてしまう。
舌打ちが聞こえたり、くすっと嗤われたりして、恥ずかしくて情けなくて怖くて、涙腺がどうにかなりそうだった。こんなにぐちゃぐちゃした感情は初めてだ。人の数だけ、負の感情が比例していく。
それでも、目的地が近づくにつれて乗車客も減って、やがて座れるぐらいになった。何でみんな隅っこに座るんだろう、とか思っていると、いよいよ翔ちゃんのアパートの最寄り駅に着いた。
すっかり夜だったけど、ここまで来たら楽だろうと思っていた。が、大変なのはここからだった。アパートの名前は分かっていても、アパートの前にその名前が看板としてはっきり出ていないことが多いのだ。
港の一本道に、すべてがあった私にはつらすぎる。しかも、誰かに訊きたくても夜で人通りがない。いい加減、空気の濁りにも吐き気がしてきた。
ほんとに翔ちゃんこんなとこに住んでるのかな、と街燈を頼りに歩いていく。翔ちゃんも、内地に来て六年だ。変わってるかな、と一抹よぎる。だから手紙も減ったのかな。今は私のことなんてどうでもいいのかな。約束、忘れちゃったのかな──
そんな暗い思考に侵されていたら、ようやく、はがきに書かれているアパートの名前がある群衆にたどりついた。5‐308って何だろ、とずいぶん考えたあと、五棟の三階の八号室ということかと気がつく。
そして、私はやっと翔ちゃんが住むアパートの部屋を見つけ出した。
『石田翔真』
目を凝らして確認した308号室の下の名前も、ちゃんと翔ちゃんのフルネームだ。よし、とドアフォンを押すと、高めのベルが鳴った。
しかし、返事はなかった。私はもう一度押そうとして、留守かな、と眉を寄せる。日曜日だし、大学はないと思うのだけど。いや、サークルとかいうのがあったりするかな、と曖昧な知識が巡る。でも夜だし。夜だから飲み会とかなのか。
分かんない、ととりあえず再びドアフォンを鳴らすと、何やら部屋の中から音が聞こえてきた。
「翔ちゃ──」
『うっせえ、セールス帰れ!』
ぎょっと声がしたインターホンを見た。汚い言葉遣いじゃない。どう聞いても、女の人の声だったのだ。え、と急激に胸から黒雲がはみだしてくる。
女の人? 翔ちゃんの部屋に?
インターホンを凝視したまま固まっていると、乱暴に内線は切られた。中でまた物音がしたあと、部屋は静かになってしまう。私は生唾を飲みこみ、弱く引き攣った息をもらした。
何? どういう──こと?
「翔……ちゃん」
かろうじて、そうつぶやいた気がする。でも、錯覚かもしれない。分からない。鼓膜が破れたみたいに、声と耳が引きちぎられている。恐怖と言っていいほどの絶望感が、膝からがくがくと力を引き抜いていく。
翔ちゃんの部屋に女の人がいる。翔ちゃんが女の人といる。翔ちゃん、が……。
答えが見えた途端、私はがくんと崩れて泣き出してしまった。嘘だ。嘘だ嘘だ嘘だ。翔ちゃんが、ほかの女の人を……なんて。私、ずっと翔ちゃんのこと信じてたのに。信じてきたのに。あの約束を支えにここまでやってきたのに。
「ちょっと、あんた何!?」
そんないらだった声がいきなり聴覚を刺激して、はっと顔を上げた。ドアが開いて、茶髪のショートカットに赤い無地のカットソー、スリムジーンズを合わせたすらりとした女の人が、迷惑そうな顔で私を見下ろしていた。
「あ……」
「っとに、翔真狙いの女って絶えないなあ。あんたいくつ? このへんの中学生?」
「わ、私は、」
「とにかく、あいつはあたしとつきあってんだから、お子様はとっとと帰って、宿題でもやってなさい」
「そんなの嘘!」
涙をこらえて言い切った私に、女の人は少したじろいだ。それに乗じて、私は部屋の中に向かって大きく声をかける。
「翔ちゃん! 嘘でしょ? 嘘だよね? 私、来たよ? 約束守って、来たよ? 翔ちゃんのところに──」
「……“翔ちゃん”?」
女の人が小さくそうつぶやいたとき、隣の部屋のドアが開いた。それに気づいた女の人は、すかさずお隣に謝り、「話がある」と私の腕をつかんで、強引に部屋に引きこんだ。
朝から何も食べていなかった私は、ふらりとそのまま部屋に入れられてしまう。
「あなた、翔真のこと、“翔ちゃん”って呼んでたけど」
部屋の中は、雑然としていた。“医学”や“医療”の文字が多い気がする本棚、PCが設置されて紙がたくさんのつくえ、シーツがちょっとよれたベッド──翔ちゃんのすがたはなくても、何となく、確かに翔ちゃんの部屋だった。
ボストンバッグを抱きしめ、かすかに震えながら冷えたフローリングに座りこんでいると、女の人はそう言って私に眇目をした。
「もしかして、マカナちゃん?」
「えっ、どうして……」
急に目が覚めたように女の人にまばたきをすると、「なるほどね」と女の人はにやりとした。そして、さっきとは打って変わった笑顔になる。化粧はしていないようで、さっぱりした顔だ。
「ちょっと待ってて。すぐ翔真呼ぶ」
「しょ、翔ちゃんいるんですか」
「たぶんね」
この人何なんだろ、と思いつつ口に出せずにいると、女の人は電車の中でほとんどの人が手にしていた携帯電話を取り出して、どこかにかけはじめた。
「あ、翔真?」
その名前に、はっと顔をあげる。電話の向こうの声はぼんやりとしか聞き取れなくても、心臓が脈打つ。
「今から部屋帰ってこれる? ──とにかく帰ってきて。──うん。──早くね。じゃ」
そして携帯電話をぱたんと閉じると、女の人は私なんか放って、化粧を始めた。翔ちゃんの前では化粧するのか、と化粧なんてしたこともない私は、それをよく理解できずにうつむく。
「マカナちゃんはさー」
唐突に話しかけられて、慌てて顔をあげると、女の人は鏡を覗きこんで目のあたりをいじっている。
「翔真のこと、やっぱり好きなの?」
「えっ」
「あいつには虫多いよ」
「虫……ですか」
「やめといたほうがいいんじゃない」
やめとくも何も、あなたとつきあってるって言ったじゃない。
そうだ。翔ちゃんはこの人とつきあっている。留守の部屋にまで許している。それだけ翔ちゃんはこの人を信頼しているということだ。
これから翔ちゃんがここにやってくる。翔ちゃんの口からこの人とつきあっていると聞かされる。
私は鼓動を締めつけられ、今のうちに帰ろうかなとちらりと思った。翔ちゃんに裏切られるなんて、そんなの私には耐えられない。
「──じゃあ」
陰った面持ちを伏せて、しがみつくようにボストンバッグを抱きしめていると、女の人はいつのまにか化粧どころか着替えまで済ましていて、私に声をかけた。
「あたし、出かけるから」
「え、あ、でも、翔ちゃん──」
「翔真は三十分ぐらいで帰ってくると思うよ。ヒマなら、テレビでも観てたら」
「あ、あの」
「ん」
「あなたは、その、翔ちゃんの──」
「翔真に訊けば、嫌でも分かるよ」
その言いまわしで、じゅうぶんだった。
女の人が出ていっても、翔ちゃんが来る前に帰ろうと思っても、虚脱して動けなかった。ただ、期待のぶんだけふくらんだボストンバッグが、粗大ゴミみたいに転がった。
いつのまにか、私は静かに泣きはじめていた。
魔法が解けたのだ。あの日、翔ちゃんが旅立つ前日、私は泣きじゃくっていた。翔ちゃんの告白が、瞳が、キスが、私に魔法をかけて涙を止めていた。
でも、その魔法が切れた。翔ちゃんの魔法──心は、私に向けられなくなっていた。
だから、気づかなかった。こみあげる涙をただ流して、まぶたを伏せていた。ときどき嗚咽がもれたけど、抑えて、息苦しく傷ついた胸で、虚しい想い出ばかりめくっていた。がたん、と何か大きな音がしてびくっと振り返って、目を開いた。
「舞奏……?」
涙でぼやけた視界でも、その人が誰なのか分かった。
忘れることのなかった、いつでも頭の中で再生できたおっとりした声。
「舞奏……なのか?」
何も言えなかった。涙ばかりがバカみたいに増える。
本当にバカだ。これから死に近い宣告をされるのに、それでもこの声を聴けて嬉しいなんて──
「翔……ちゃん」
ずきずきする喉でかろうじて言えた瞬間、駆け足のあと私は抱きすくめられていた。え、と一瞬こわばったけど、懐かしい匂いと体温が伝わってきて、私は耐えきれずにぎゅっとその軆に取りついていた。すると、私を抱きしめるあの懐かしい腕に、もっと力が入って、このまま壊れてしまってもいいと思った。
「何やってんだよ。何で来るんだよ……」
絞り出すような声の意味を解する前に、私のうなじに押しつけられた顔が濡れてくる。
「ちゃんと、迎えにいくつもりだったのに」
「……えっ」
「ごめん。俺がすぐ迎えにいかなかったからだよな。手紙が着いた日、島に戻ればよかった。戻りたかったけど、もっと、ちゃんと一緒に住む部屋とか決めておこうって」
「翔ちゃん……?」
「この部屋も、もうエリナと恋人に譲る話つけてるんだ。俺は舞奏と暮らすから」
「ま、待って、翔ちゃん」
軆を離し、喉を手で抑えて呼吸を整え、まばたきで視界を邪魔する水分をはらった。
私の顔を覗きこんでいるのは、紛れもなく翔ちゃんだった。変わらない。柔らかそうな髪も、栗色の瞳も、白い肌も。
「ん」
「あ、あの、あの人が」
「あの人?」
「さっきの、女の人が」
「ああ、エリナ?」
「えりな、さんが、翔ちゃんとつきあってるって」
「えっ。あー……、それは、だな」
ばつが悪そうに視線をそらされ、私は不安になって翔ちゃんの服をつかむ。すると、翔ちゃんはとまどう私の手に手を置いて、「エリナは友達だよ」とはっきり言った。
「で、でも」
「ただ、その、大学とか近所には“恋人”って言ってる」
「どういうこと?」
「その、ダミーだよ。俺は舞奏以外、興味ないし。変に女が近づいてこないように。あいつにはあいつで、恋人いるしな……女の」
「へっ」
「エリナには同性の恋人がいるんだ。だから、エリナたちにとっても俺はダミー。そうしてたら都合いいかなとか酒入ってるときに話しちゃってさ。そのとき合鍵も渡して、あいつ、ずうずうしいとこあっただろ。ほんとに部屋で勝手に寝泊まりとかされて」
翔ちゃんは情けなさそうに息をつき、私はほどけたからくりにぽかんと脱力した。けれど、「大丈夫だよ」とあの口ぐせに耳をはじかれて、はたと顔を合わせる。
「俺が好きなのは、今でもちゃんと舞奏だから」
「……“俺”?」
「え。あ、……うん」
「翔ちゃんじゃないみたい」
「変かな」
「ん、分かんない」
私の下手な答えに翔ちゃんは咲った。その笑みは変わらなかった。穏やかで、温かくて、愛おしそうで──そんな優しい笑顔を見せられると、私はまた泣き出してしまう。
翔ちゃんは仕方なさそうに咲ったけど、あのときのように、唇に温もりが降ってくる。
「……汐の味がする」
そして、私が思ったことと同じことをつぶやく。
私は幸せすぎて、もう一度翔ちゃんに抱きついた。すると、翔ちゃんは包みこむように私を抱き寄せ、私の耳元に、あの約束を甘くささやいた。
「愛してるよ、舞奏。だから、僕たち、結婚しよう」
FIN