恋が灯るまで

 怪しいとは思っていた、歓楽街ど真ん中のホテルの最上階にあるレストランで夕食なんて。
 おかあさんのパート代はもちろん、おとうさんのお給料にも見合っていない。うちはあくまで、ファミレスすらなるべくランチタイムにしか行かない家庭だ。
 それが、ドレスコードまである一流レストランでディナー? 絶対おかしいでしょ。
 おとうさんもおかあさんも、さりげなくフォーマル感を出した装いをしている。あたしは無理やり、袖がフリルになった黒いシックなワンピースなんか着せられた。
 何なのか知らないけど、こんながちがちの食事、どうせ楽しくないしおいしくないよ。エレベーターでこっそりため息をつくと、「しゃんとしなさい」なんておかあさんが耳打ちしてくる。
 エレベーターが最上階に到着すると、おとうさんの表情がいよいよ緊張で硬くなった。何なの、と思っていると、開いた扉の向こうにロマンスグレーな初老の男の人がいた。
「社長」とおとうさんは垂直にお辞儀をして、おかあさんもそうして、あたしだけぽかんとしていると、「果苗かなえっ」と言われて、訝しむまま頭を下げておく。「いやいや、今日はくつろいでくれ」と男の人は微笑み、「君が鈴木すずきくんのお嬢さんだね」とあたしに目を向けた。
「鈴木くんが酔ったとき、よく自慢をしてくれているよ。ああ、僕は鈴木くんと趣味が通じていてね」
「……麻雀ですか?」
「はは、そうだよ。よく一緒に卓を囲んでいるんだ。鈴木くんはうちの社の中でもなかなか強者でねえ」
 男の人──もとい社長さんは、にやりとして自分の顎をさする。麻雀って。そんな縁で社長と通じていたのか、おとうさん。何がきっかけになるか分からないものだ。
 というか、もしやここでの食事はこの社長さんのおごりなのか。それを察すると、逆に申し訳なくて「父だけでなく、母と私まですみません」と言ってしまう。すると社長さんは目を細めて笑い、「今日の主役のひとりが、そんな謙遜をするもんじゃないよ」と言った。
「主役……ですか?」
 あたしが首をかしげたとき、「おい、じいさん!」という横柄な声が割って入った。レストランのほうから、ジャケットにパンツ、革靴をスマートに合わせた、服装だけなら品のいい男の子が歩いてくる。歳はあたしと変わらないくらいだろうか。「何だ、裕文ひろふみ」と社長さんはあきれた様子で応える。
「席で待っていろと言っただろう」
「僕のことを五分以上待たせるな。まだ来ないのか?」
「今来たところだ。彼女が鈴木果苗さん。お前のお見合いの相手だよ」
 は?
 頬をこわばらせたあたしに反し、男の子はあたしをじろりと見定めてきた。ポケットに手を入れたままの高圧的な視線にいらっとしたので、あたしは睨み返すような面持ちになる。
 男の子はそれに軽く眇目をしたあと、「いい加減、腹減ったから」と社長さんに言った。「ああ、そうだな」と社長さんはあたしを、そしておとうさんとおかあさんをレストランのほうへとうながす。
「……えっ?」
 やっと声が出たあと、あたしはがばっとおとうさんとおかあさんを振り向いた。「今、お見合いって」とあたしが焦ると、「お前の人生最大のチャンスだぞっ」とおとうさんは素早くささやく。いや、あたしじゃなくて、あんたの出世のチャンスじゃない?
「気に入ってもらうのよ。我が家に光を!」
 おかあさんまで小声で言うけど、あたし、勇者ではないからね? 光をもたらす役目なんかないからね?
 それでも、さすがにこの場を「ふざけんなっ」と立ち去る度胸はない。仕方なく、社長さんに続いてレストランに踏みこんで、ごくりと緊張の唾を飲む。
 優雅にクラシックが流れる中、ひときわ大きなテーブルであたしは男の子と向かい合って座らされた。白いテーブルクロスに、銀のフォークやナイフが並んでいる。これ、使う順番が決まってるんだっけ……じゃなくて!
 待て。ちょっと待て。お見合いって、普通、結婚を前提にした奴だよね。あたし、まだ高校二年生なんだけど。そりゃ彼氏はいなくても、できたこともなくても、早くもそんなことを親にお世話される憶えはない。
 彼氏くらい、まだまだ自分で選んで決めるわ。少なくとも、目の前のこんなふてぶてしい態度の野郎はお断りだ。
「お前、行ってる学校はどこだ」
 裕文、と呼ばれていたそいつが訊いてきて、あたしは一応校名を答えた。すると、「聞いたこともないな」と奴はわざとらしく息をつく。あたしとしては第一志望だった高校なので、さらにこめかみがぴきっとする。
「あなたは、さぞ偏差値の高いところに通ってるんでしょうね」
 つい嫌味が出たけれど、「もちろんだ」と奴はむしろ満足そうに胸を張る。褒めてないんだけど。
「僕は将来、じいさんの地位に着く男だ。勉強はかなりやってるぞ」
「へえ……」
 あたしが明らかに冷めた返答をすると、そのぶん、おとうさんとおかあさんが奴を持ち上げる。何なの、どうしたの、おとうさんもおかあさんも。本気であたしに玉の輿に乗ってほしいの? あたし自身の幸せは?
 うちは確かに裕福すぎる家庭ではない。けれど、最低限のものは揃った家だ。なのに──
 料理なんてちっとも味がしなかったし、テーブルマナーも知ったこっちゃなくて大変だった。それでも何とか食事を乗り切ると、あたしと両親が先に席を立った。
 エレベーターに乗り、ロビーを抜け、ホテルを出るまでは押し殺していた。しかし、ネオンが降りそそぐ一等地の通りに出ると、「何考えてんの!?」とあたしは両親をぎろっと睨めつけた。
「何なの、お見合いって! おとうさんが出世したいなら、自力でやってよ。あたしを巻き込まないでよっ」
「ま、まあまあ果苗。裕文くん、いい子そうだったじゃないか」
「どこが? どこがそう見えたの? えらそうにもほどがあるわ」
「果苗、おかあさんたちへの親孝行と思って」
「親孝行で、あれと結婚するの? 毒親か! あたしは彼氏くらい自分で見つけるっ」
 そう言うとくるりと身を返し、駅の方角へとひとりで歩き出した。「タクシー捕まえるから」と呼び止める声が聞こえたけど、無視して夜の騒がしい雑踏に紛れこむ。
 ありえない。何を考えてるの。あたしの両親はいたって普通、そこそこ愛もあるふたりだと思ってきた。が、ここにきて余計な私欲があることを知ってしまった。
 電車でひとり帰宅しても、翌朝になっても、両親とは口をきかなかった。たとえ親でも、踏みこんではいけない領域があることを分かってほしい。
 学校で友達の涼子りょうこに顛末を愚痴ると、「漫画か!」と展開を大笑いされたものの、親に結婚相手を決めてほしくないという点は同意してもらえた。「果苗が折れなきゃ親も理解するよ」と涼子は言って、「だといいけどなあ」とあたしは頬杖をついて、窓の向こうの夏空に視線を投げる。
 放課後、あたしは涼子と酷暑を嘆きながら教室を出た。靴箱で靴を履きかえて、あたしはなおもぶつくさしていた。蝉の声に負けない、澱みなき愚痴。そして、校門へとさしかかったときだった。
「おい、果苗」
 突然名前を呼ばれ、「は?」とあたしは涼子を見た。涼子もこちらを見た。それから、あたしたちはあたりを見まわして──
 すると、このあたりでは見かけない制服すがたの野郎が、校門の柱にもたれかかっていた。
「遅いぞ。僕は五分以上待つのは嫌いなんだ」
 待っていてくれなんて約束していないし、頼んでもいない。
「帰るところだな。じゃあ、そのまま僕につきあえ」
「は? 何で?」
「婚約者の言うことは聞け」
 婚……約、って、いや、とっくに破談でしょ! まさか、うまくいったことになってんの? 口をぱくぱくさせながら涼子を見ると、「あれははっきり拒否しないと理解しない」と彼女はあたしの肩に手を置いた。
 はっきりと、拒否。望むところだ。両親の思惑なんかあたしには知ったことではない、あたしは裕文の頬でも引っぱたくのも辞さない。
 裕文に歩み寄った。裕文はあたしがついてくるのは当然と言った様子で、校門のそばにつけていた車に近づく。
 運転席に乗りこむ裕文に、高三とか言ってたからそういや十八歳か、とぼんやり思う。あたしは助手席のドアを開け、車ってどこ連れていかれるか分からないからやばいかなと思っても、捨て鉢に乗りこむ。
「どこ行くの?」
「どこに行きたいかはお前のわがままで決めていい」
「あー、じゃあ自宅まで送ってもらえます?」
「いきなり家に行くなんてふしだらだろう!」
「その発想がふしだらだわ! 家に上げるなんてしないに決まってるでしょ。てか、ふしだらって言い方、猥褻ニュース以外で初めて聞いた」
「夕食のあとに、ちゃんと家には送るぞ?」
「………、じゃあ、あんたが行きたい場所でいいよ」
「優柔不断か?」
「あんたと行きたい場所がないんだよ。あんたをよく知りもしないのに」
「買い物とかは、ないのか?」
「金がないね」
「それは僕が持ってるから、よし、買い物に行こう」
 裕文はエンジンをかけて、車を発進させた。ハイブリット車なのだろう、驚きの静かさだ。うちの車なんて、もう古いからエンジン音はうるさいし、振動も響いてくる。
 あたしはシートにもたれ、確かにうちは貧乏ではないけれど、実は両親は必死に生活をまわしてるのかななんて考える。
 しかし、だからって娘を人身御供するのは理解できない。そう頑として思っていると、車は快調に市街地に出て、デパートや百貨店が立ち並ぶ街中に出ていた。
 地下駐車場に停車し、一応ラブホに拉致はしなかったなと思いつつ、あたしは車を降りる。つかつか歩いていく裕文に、エスコートはしないんだよなあ、と肩をすくめつつ、百貨店特有のきらびやかなアクセやメイクのショップがひしめく店内に気圧される。
「欲しいものがあれば言え」
「高校生が持つレベルのものがないし……いや、そもそもあんたに何か買ってもらう義理がない」
「婚約者じゃないか」
「それはっ──」
 濃厚な化粧品の匂いに噎せそうになりつつ、その気なんかないことを言おうとすると、「よく考えたら、指輪を贈ってやらないといけないな」と裕文は勝手に突っ走る。「こっちだ」と裕文は速足に歩き出し、あたしでも聞いたことがあるブランドのジュエリーショップに踏みこむ。
「好きなものを選んでいいぞ」
「あんた、自分で決められないの?」
「僕が決めていいのか?」
「いや、いらな──」
「じゃあ、指のサイズを測ろう」
「いらないって。こんなブランドのもの、高校生には似合わないよ」
「僕の同級生の女は、よくこのブランドを身に着けてるぞ」
「それはあんたの高校が、金持ちの集まりだからじゃないの」
「気に入るものがないか、見るかぐらいいいだろう」
 あたしはため息をついて、金持ちめんどくさいなあ、と思いつつ指のサイズをショップの店員さんに測ってもらった。当然のように左薬指だから、かなわない。
 ショップの店員さんが、並ぶ商品の中でもカジュアルだというものを見せてくれた。それでも、値札を一瞥させてもらうとめまいがした。
 これを買ってもらったら後に引けなくなる。そう思って、本当はどれも素敵なのに、どれにも首を横に振って、ただひたすら裕文よりショップの店員さんに申し訳なくなった。「仕方ないな」と裕文が言ったことでほっとしたら、「僕がいいと感じたものは、とりあえず抑えておこう」とか言って、彼は何個かの指輪を一気に購入していた。
 抑えておくって──普通、取り置きのこと言わない? とあたしが混乱していると、裕文は会計をして満足そうにショップをあとにした。
 感覚が違うわ、と思いながら場違いな制服で裕文と百貨店の中を歩き、予約している時間が近いということでレストランに向かうことにした。「制服じゃ入店を断られるからな」ということで、無理やりロイヤルブルーのワンピースを与えられてしまった。
 裕文も自分の服をおろし、あたしたちは百貨店が立ち並ぶ街を出てオフィス街を通り、飲食街に出る。車はパーキングに停め、次第に人出が出てくる中を裕文と歩く。
 もうじき夏休みになる時期なので、外をこうして歩くと暑い。こんな高いワンピに汗染みなんかつけるのは気が引けるけど、やっぱり汗はかいてしまう。
 髪、昨日と違っておろしているけれど、いいのかな。化粧も生活指導に引っかからない程度のナチュラルメイクだし。でも、それが気になると言うとこいつは美容院にでもあたしを連れこみそうだ。黙っておこう、とうつむいていると、裕文は案の定高そうな煉瓦造りのイタリアンレストランへと足を踏み入れた。
 ホテルのレストランよりはくつろげる雰囲気だったけど、やっぱり自分が見合っていないのは分かる。「予約していた紀ノ川きのかわだ」と裕文が言うと、「どうぞこちらへ」と案内されたのはライトアップされた庭が一望できる個室だった。どうせよく分からないので、料理の注文は裕文に任せて、「かしこまりました」と黒服の店員さんが去るとあたしは彼と見合う。
「あのさ」
「何だ」
「あたしは、あんたと結婚するなんて、ひと言も言ってないはずなんだけど」
「見合いに来たってことは、それが答えだろう」
「答えじゃないっ。あたし、お見合いなんて知らされずに、昨日ホテルに引きずって行かれたんだからね?」
「そうなのか」
「そうだよ」
「まあ、僕に会ったら気持ちは決まっただろう」
「決まらねえわ。むしろヒく一方だわ。何より金遣いが常軌を逸してる」
「そこはお前はまだ庶民だからだろう。僕と過ごしていれば──」
「あたしは庶民でいい。あんたと合わないままでいい。てか、あんただってあたしのこと気に入ってるわけじゃないでしょ? おじいちゃんに逆らえないだけなんじゃないの」
 裕文はあたしを見つめてまばたきをしたあと、しばし考え、「まさか」とつぶやく。
「お前、僕に興味がないのか……?」
「ねえよ。何で『まさか』だよ」
「僕は、お前が望むものは何でも手に入れてやれるんだぞ」
「じゃあ、あんたよりいい男でも紹介してよ」
「そんな奴いないっ」
「同級生にいくらでもいそうだけど」
「い、いたとしても、そいつらは僕ほどお前を大切にしない。お前を幸せにできるのは僕だ」
 あたしが胡散くさい目をすると、「果苗」と裕文は急にまじめな顔になって身を乗り出してくる。そのぶん、あたしは軆を引いた。
「好きだ」
「……は?」
「今日一緒に過ごして、やっぱりそうだと思った」
「え……えっ?」
「僕に媚びたりしないし、僕になら何でも買ってもらえるとか、財布と思っていないところも素敵だ」
「す、素敵……か?」
「だから、僕と結婚してほしい」
 ええー……。
 あたしが困惑してだんまりになっていると、やがて料理が運ばれてきた。きのこが添えられた仔牛のステーキ、蟹とトマトクリームソースのパスタ、焼き立てのパンの盛り合わせ。全部おいしかったのだろうけど、昨日に引き続き、味なんて分からなかった。
 せっせと裕文があたしを口説きはじめて、げんなりしてしまっていた。あたし、本当にその気が持てそうにないんだけど──
 すぐ夏休みに入った。裕文はあたしの家に来てまでデートに誘う。あたしは断るのだけど、「あらあら、行ってきたらいいじゃない」とシフトがない日のおかあさんに見つかると追い出され、家を締め出されてしまう。軽い虐待じゃないの、と心密か毒づき、猛暑に負けて裕文の車のクーラーに逃げこむハメになる。
 裕文はあたしをいろんなところに連れていった。映画やイベント、水族館に美術展、遠出して海やら牧場やら。よくこんなに行き先思いつけるな、と感心はする。
 裕文は想い出に何か買うのが好きで、お揃いのそれはあたしにも押しつけられた。捨てづらい、とか思っても、一応「ありがとう」と言っておく。
 裕文に悪気はなくて、本気であたしのことを楽しませようと必死なのは、緩やかに伝わってきた。それでも、彼氏としてつきあうのはピンと来なかったけど、友達ぐらいならなれるかもしれない……。
 夏休みが終わる頃には、そんなふうに思いはじめていた。
 あと数日で夏休みが終わる日、その日は裕文と展望台に来ていた。うんと高い場所から望める景色に、この夏休みはいろんな場所に行ったなあとしみじみする。
 すると「紀ノ川くん?」という凛とした声がして、「何だ、長谷川はせがわか」と裕文が応えたのであたしも振り返った。
 そこには、オフホワイトのワンピースを華奢な軆で着こなした女の子がいた。ふわふわの柔らかそうな髪に、長い睫毛が縁取る瞳。お人形さんか、と思っていると、彼女はあたしをちらりとして「夏休み前に話してた人?」と裕文に目を戻す。
「ああ。だいぶ仲良くなったぞ」
「そうなんだ。よかったね」
「長谷川はひとりか?」
「友達と一緒だよ。みんなはお店見てる」
「あ、僕たちも何か買って帰らないとな。果苗、僕、ちょっとショップ見てくる」
「はーい」
 あたしは生返事をして、ミニチュアの景色に向きなおった。晴れた日だし、けっこう見えるもんだなあと見入っていたけど、ふと隣に長谷川さんと呼ばれていた女の子が立っているのに気づいた。
 そんなに大きな目に見つめられると、迫力があって、かわいいというより怖い。
「な、何ですか?」
 あたしが愛想咲いを作ると、「何かがっかり」と長谷川さんは裕文に対するのとは明らかに違う、砕けた口調で口を開いた。
「紀ノ川くんが『好きな人できた』って言い出して、どんな女かみんな騒いでたけど、ぜんぜんじゃない……」
 ぜんぜん。ぜんぜんとは。ともあれ悪意だよね、これ。
「身分とかわきまえてます? どうせ、あなたのほうが紀ノ川くんをたぶらかしてるんでしょ」
「え……いや、」
「ほんと鬱陶しい。貧乏な人って、何でこんなに無神経なの? お願いだから、紀ノ川くんを早く解放してあげてくださいね」
 唖然としていると、言いたいことを言った彼女は「私もお店見ようっ」とひらひらと立ち去ってしまった。
 何……っだ、あいつ? 蝶に見えていたのが、いきなり蛾に見える。何、あの女! 無神経はどっちだよ。裕文のことで、迷惑してるのはあたしのほうなのに──
 軆の芯からの怒りで、ついにわなわなしはじめていると、裕文が戻ってきた。あたしの様子にまじろぎ、「どうかしたのか?」と顔を覗きこんでくる。
 あたしはきっと裕文を睨みつけた。
「帰る!」
「えっ」
「もう今日は帰る。ここにいたくない」
「えっ、でも下に入ってるカフェのふわふわパンケーキ、果苗も食べたいって──」
「うっさい、車行くよっ」
 あたしは裕文の手をつかんで引っ張った。「わっ」と前のめりになりつつも、あたしの強引な足取りに裕文はついてくる。何度もあたしの名前を呼んでくるけど、振り返らない。エレベーターで地下駐車場まで行き着くと、あたしと裕文は車に乗りこんだ。
「果苗」
 裕文は息をついて、少し乱れたジャケットを整えながら尋ねてきた。
「何かあったのか?」
「……違うん、だよ」
「え」
「あんたとあたしは、やっぱり違うんだ」
「何──」
「もう会うのやめよう。あんたといるの、わりと楽しいかなってなってたけど、ああいうのがつきまとってくるならきつい」
「ああいうのって、」
「さっきの女!」
「ああ……長谷川?」
「何、あの女。元カノ? あんたにはああいうのいっぱいいるの?」
「いや……夏休み前に、告白はされたけど断っただけで……女子は、友達にもいないし……」
 眉を寄せたあたしに、裕文は表情を切り替えて「あいつに何か言われたのか?」と身を乗り出してあたしの肩をつかんでくる。
「ごめん、僕が悪かった。振ったのが気まずいから、長谷川とはあんまり話したくなくて。でも、あいつとお前をふたりきりにしたのは僕だよな。本当にごめん」
「……あたしのこと、」
「ん?」
「あたしのこと、貧乏とか……身分が違うとか、あんたは思わないの?」
「果苗は僕と結婚するから、どっちみち裕福になるし、同じ身分になるじゃないか」
「だから、結婚ってねえ──」
「僕たちはいつまでも一緒だ。絶対離さない」
 あたしは裕文を見つめた。それから、ぐったり首を垂らして、井戸ぐらい深いため息をつく。
「望むものなんか、ないんだよ」
「えっ」
「何でもやれるとかさ……告白ってそういうのじゃないし」
「………、あ、」
「あたし欲しいものとかないし、これで──」
「でも、僕は果苗が欲しいんだっ!」
 裕文の目が泣きそうにゆがんで、あたしはそれを見つめた。
 分からない。こいつのその言葉が、今夢中になっているものなのか、本当に永遠を誓えるのか。そんなものは分からない。でも──
 叶わない恋にするのは、まだ早い、のかな……?
「裕文」
「えっ? あ、ああ……いや、何だ?」
 なぜか一瞬ぎょっとした裕文を、「何でびっくりすんの」と怪訝に思って追及すると、「あ、名前初めて呼んでくれたから」と彼は嬉し恥ずかしといった感じで頬を緩める。……変なとこ純情かよ。
 あたしは首をかしげたのち、「まあ、名前くらいいくらでもこれから呼んでやるし」と言った。裕文はうなずきかけ、はたとあたしを見る。
「これからも、僕といてくれるのか」
「あんたがいつまでも一緒とか言ったじゃん」
「そ、そう──だな。うん。必ず果苗を幸せにする」
「幸せじゃないって感じたら、瞬殺で振るからね?」
 裕文はあたしの瞳に瞳を重ね、大きくうなずくと、ぎゅっと抱きよせてきた。車の中、サイドブレーキのせいでちょっと体勢が無理だけど、まあいいか。
 正直、長谷川さんに対して折れるのが癪だっていう気持ちもあるけれど。裕文といるのが少しは楽しくなってきていたところだし。ちょっとだけ、様子見してやるか。あたしの親のしょうもない私欲で出逢った君だけど、だからって突き放す理由もないのは、この夏休みの日々に証明してもらった。
 これからの君に期待しよう。まだ約束はしないけど。頑張ってあたしから、「君が欲しい」という気持ちを奪い取って、心に恋を灯してみせてよね。

 FIN

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