浸された翼

 私の彼氏には、私より大切な女の子がいる。
 恋愛じゃなくて妹のようなものだと彼は言う。ほっとけないだけで、好きなのは私のことだと彼は言う。それでも、今頃彼が私でなくあの子と過ごしている、そんな夜もある。私は部屋でひとり膝を抱え、信頼を不安で黒く塗りつぶす。
 樹生いつきとは、今年の夏に同じ派遣バイトで知り合った。同じ日に入ったから仲良くなって、最後の日に連絡先を交換して、プライベートで一緒に遊んで。
 手をつないで街を歩くようになり、これってデートなのかな、と思ったけれど、訊く勇気が出ないまま時間は過ぎていった。私のほうはとっくに樹生を好きになっている。樹生は? 私のこと、やっぱり友達?
 やがて、もうじき冬が始まる十一月になった。帰りが遅くなった夜、人もまばらなホームで、樹生と並んで電車を待っていた。寒いなあと凛と輝く月を眺めていると、不意に「美雲みぐも」と名前を呼ばれた。
 樹生を見上げ、その拍子、軽く肩を抱かれてふわりとキスをされた。とっさに固まって目を開いた。けど、「ダメだった?」と自信なさそうに樹生に問われると、もちろんすぐに首を横に振った。
「私で、いいの?」
 こわごわそう訊くと、「美雲がいい」と樹生ははにかんで言った。その笑顔に、何だか私も照れ咲いしてしまった。
 それから私は樹生とつきあうようになった──けど。
 その後、すぐにやってきたクリスマスイヴの夜、樹生のアパートの部屋に向かうと、すでに来ていた彼女がおいしそうな料理を作っていて。三人で座卓を囲んで、私は樹生に彼女を紹介された。
珊瑚さんごっていって、俺の幼なじみなんだ。美雲にもこいつのこと知っておいてほしくて」
 だからって、よりによってクリスマスイヴに、ほかの女を連れこむことないでしょ。そう思って不機嫌になりそうだったけれど、それはこらえて、樹生の隣にいる女の子を見た。
 私と樹生もまだ二十歳と二十一歳だけど、珊瑚ちゃんは高校生くらいに見えた。実際、十七歳であるらしかった。
「俺たちが混ぜないと、クリスマスをひとりで過ごしそうだったから。一緒にいさせてやっていいよな」
 何で、と思って、うなずいていいのか迷った。だって、その子の彼氏は? 友達は? 家族は?
 その疑問が顔に出たのか、「珊瑚はさ」と樹生は優しく珊瑚ちゃんの頭を撫でた。その手つきに、みぞおちでかすかに嫉妬が焦げた。
「家出してるんだ」
「家……出」
「親が、けっこうひどくて。今、珊瑚が暮らしてる部屋も俺が保証人になってるんだ」
 私は、うつむいて恐縮している珊瑚ちゃんを見た。
「美雲が珊瑚の姉貴みたくなってくれたら嬉しいんだけど」
「はあ……。え、じゃあ高校は」
「行かずに工場で働いてるよ」
 工場。そういう話だと、水商売とか風俗がよぎるけど。珊瑚ちゃんを見た。確かに、短い前髪は幼く、怯えた垂れ目も客商売向きではなさそうだ。
「美雲も一緒に珊瑚を支えてやってくれないかな。珊瑚も、俺の彼女なら怖くないって言ってるし」
 怖くないと言われても。そもそも今日も、私は樹生とふたりで過ごしたいのに。しかしそんなことを言えば、私が心ないわがままな女に見える。
 つらい想いをしてきた子なら、少しぐらい譲るのも仕方ない、のかな。しぶしぶそう考え、「分かった」と私がうなずくと、ほっとした様子で樹生と珊瑚ちゃんは顔を合わせ、「ありがとう」と樹生は私の手を取った。珊瑚ちゃんも「樹生くんと美雲さんの邪魔はしないようにするので」と頭を下げた。
 邪魔はしない。その意味分かってんのかな、と思っても、口にはしなかった。
 それから、樹生との仲に、珊瑚ちゃんがちらつくようになった。デートを早く切り上げるのは、珊瑚ちゃんの部屋に寄るから。会う日取りも、珊瑚ちゃんのシフト次第。珊瑚ちゃんと出かけるから、会うことができないことさえあった。
 これって、本当に私が彼女なの? どうして樹生はいつも珊瑚ちゃんを優先するの? それなら、せめて私は捨てて、珊瑚ちゃんとつきあえば──
 年が明けて、春にさしかかって桜前線が近づく頃、専門を出て一年間就職浪人だった樹生の就職が決まった。報告を訊いた夜、お祝いに樹生の部屋を訪ねると、今回ももう珊瑚ちゃんが来て料理を始めていた。たぶんそうだろうと思ったから、ドアを開けた樹生に、私はケーキの箱を渡した。「作った奴?」と樹生は箱を受け取り、「買いました」と私はブーツを脱いで部屋に上がる。
「いろんなケーキ?」
「ううん、チョコのホール」
「お、奮発じゃん。珊瑚の料理ができたら、三人で食べるか」
 私は生返事をして、部屋には暖房がかかっているのでスプリングコートを脱ぎ、座卓のそばに座った。珊瑚ちゃんもいるだろうなんてあきらめて、いくつかのカットケーキにしたかったのにやめておいた自分が情けない。
 台所でいい匂いを作る痩せた背中を眺め、この子はこの状況をどう思ってるのかなと思った。いくら重い事情があったって、たまには遠慮とかないのかな。樹生に甘えてみせたりするわけではないし、私には恐縮を見せるときもある。でもしょせん、私たちのあいだにいることを譲らない。
 私と樹生はお酒だったけど、珊瑚ちゃんの飲み物はオレンジジュースだった。カクテルにも使っていたそれがなくなってしまったとき、「ちょっとコンビニで買ってくる」と樹生が席を外し、私と珊瑚ちゃんは部屋でふたりきりになった。
 時刻は二十二時が近づいていた。まだいるのかと珊瑚ちゃんに何か言いたくても、あとから樹生に泣きつかれたら立場が危ういのはきっと私のほうだ。仕方なく無言で座卓に頬杖をついて、テレビを眺めていると、「美雲さん」とかぼそい声に呼ばれた。声の主である珊瑚ちゃんを見ると、泣きそうな顔を伏せ、申し訳なさそうにしている。
「何?」
「あの、……ごめん、なさい」
「え」
「私、ずうずうしいですよね。樹生くんには、もう美雲さんがいるのに。甘えてて」
 私は珊瑚ちゃんを見つめ、頬杖の肘を座卓から下ろすと、ぎこちなく咲って「樹生がそうしたいみたいだから、しょうがないよ」とライムグリーンのカーテンのかかった窓のほうに目をそらした。
「でも、美雲さんにしたら不愉快です、よね」
「別に。樹生と珊瑚ちゃんが仲良くても、私にはどうこう言えないよ」
「このままじゃいけないって分かってるんです。いつまでも、美雲さんに我慢させてちゃいけないって」
「そう見える?」
「……少し」
「そう──」
 私は息を吐いて、「じゃあ」と珊瑚ちゃんを見つめ直した。
「今夜は、樹生とふたりきりにしてくれる?」
「えっ」
「珊瑚ちゃんも樹生の就職を祝いたいだろうけど、別の日は無理?」
「い、いえっ。そうですよね、美雲さんが優先ですよね。分かりました、私は今日は帰ります」
「ごめんね」
「そんな。私が邪魔してるので。じゃあ、えと──また、っていうのも悪いかもしれないですけど」
「うん。樹生には適当に言っとく」
 珊瑚ちゃんは立ち上がり、連れてきていたリュックを背負うと、「すみませんでした」と私に頭を下げて部屋を出ていった。
 それを見て、普通にいい子なんだろうなあ、と思った。本当に、悪気があって私と樹生と過ごしているわけではないのだろう。たぶん、あの子には誰もいなくて。樹生だけがよりどころで。
 邪魔、か。それって、どっちが?
 やがて樹生がふくろを提げて帰ってきた。「あれ」とテレビの音が妙に響く部屋を見まわし、スニーカーを脱いで私に歩み寄ってくる。
「珊瑚は?」
「帰った」
「は? ひとりで?」
「うん」
「何だよ、もう時間帯危ないじゃん。さっきか?」
「あんまり経ってないかな」
「じゃあ、探して部屋に送ってくるよ。悪いけど、美雲は待って──」
「ほんとに、悪いなんて思ってる?」
「え」
「私に悪いと思っても、それでも珊瑚ちゃんを心配するの?」
 樹生は眉を寄せて私を見た。その表情を見て、私はなぜか笑ってしまった。
「ねえ、樹生」
「何、だよ」
「私が泣いて、それでも珊瑚ちゃんを追いかけるなら、樹生の好きな人は私じゃないんだよ」
「……え」
「珊瑚ちゃんのそばにいてあげなよ。樹生だって、珊瑚ちゃんの一番近くにいたいんでしょ?」
「美雲……」
「珊瑚ちゃんにも、樹生が必要だよ」
「……俺、は。あいつには、兄貴みたいなもんだし──」
「だからって、私がカムフラで彼女になるのはちょっとひどいでしょ。珊瑚ちゃんも、よっぽど傷ついてると思う」
 うつむく樹生に、「私は樹生の友達だから」と私は自分の気持ちにナイフを刺しながら言う。
「樹生が幸せになれる人とつきあってほしい」
「………、」
「追いかけなよ。最後に留守番くらいしとくから。珊瑚ちゃん連れてきたら、私が帰る」
「美雲、俺──」
「いいから」
「………っ、ありがとう、ほんとにごめんっ」
 どさっとふくろを落として、樹生は部屋を駆け出していった。部屋に取り残された私は、「あーあ」と背後に手をつき、顔を仰がせて天井を見上げた。
 思ったよりつらくなくて、やっと胸に閊えた鉛が取れた気がした。だって、ひとりで耐えているほうが、樹生の彼女でいるほうが、きっとつらかった。邪魔なのは、私のほうだったのだから。
 樹生が珊瑚ちゃんを連れてこの部屋に戻ってきたら、やっと恋人になるふたりに、何て言おうかな。
 そう、樹生にとって珊瑚ちゃんは大事な女の子だった。私とは較べ物にならない、大切な存在だった。でも樹生は、「自分は兄のようなものだ」と気持ちを認めきれず、しがらみは自由に飛び立てない、水を含んだ羽根のようだったと思う。
 ねえ、樹生。だとしたら私は、せめてその水分を乾かす切っかけにぐらいはなれたかな?
 水気を切って、想い続けた女の子の元に飛び立っていく。私はそれを見送り、少しだけ失った恋心に泣くけど、すぐ晴れやかに咲える気がするよ。
 珊瑚ちゃんを選ぶ樹生が、想いのまま羽ばたく樹生のほうが、私は好きだと思うから。

 FIN

error: