どうか、幸せにしてください。確かに私は、あの月にそう強く願ったけれど、こんなのを望んだわけじゃなかった。
今夜は秋の冷たい雨だった。雨粒が窓ガラスを打ちつけている。私はそれをぼんやり眺めながら、指先を温めるミルクティーに口をつけて、少し飲みこむ。
暗いガラスに半透明に映る私の目は虚ろで、あの日からずっと、和澄の前で嘘咲いをしていたぶんだけ疲れている。
何なの。何だっていうの。何でこんなことになっちゃったの。ずっと和澄の隣にいて、仲良しで、誰より想っていたのは、私だったのに。
二ヵ月くらい前のことだ。熱気にめまいがしてくるような残暑。高校生のときからの友達で、私の秘かな好きな人である和澄に、大学に好きな女の子がいると打ち明けられた。
名前だけは聞いたことのある、私たちと同じ高校出身の女の子だった。
「やっぱあいつかわいいから、モテるっぽいんだよな。彼氏できたらどうしよう。告白していいと思う?」
心臓に、重い鼓動が突き刺さる。そして出血が起きて、血だまりが吐き気みたいに胸に広がっていく。
好きな人? 和澄に? しかもそれは、ほかの女の子──
「なあ」
「……えっ」
「聞いてる? あー、俺とか、あいつから見たらやっぱ冴えないよなあ」
そんなこと、ないよ。和澄はかっこいいよ。優しいよ。私は知ってるよ。だから、和澄のことどうせよく知らない女の子なんてやめなよ。私なら──
和澄はその子を想う話を続けて、私はその日、アスファルトからの照り返しに名残る熱気のせいじゃなく、むしろ寒気さえ覚えながらくらくらして、ひとり暮らしの部屋に帰った。
視界がちかちかとぱさついて、涙さえ出てこない。浅い息切れが続き、息がうまく吸えない。
だって、和澄の好きな人も私じゃないかなんて、思いあがってさえいたのに。
ガラス戸にカーテンを引くとき、浮かんでいるのが満月だと気づいた。まぶしい。きらきらして。目が痛い。満月にかける願い事なんて、明るいものでないと逆にやましい。
私が今、心に食いこむほど願っていることは、もっと黒くて醜くて──
カーテンをつかんで、ゆっくり、深呼吸する。
和澄。何で。どうして私じゃないの?
あんなに仲良くしてきたじゃない。私の何がダメだったの? そばにいる私といるときより、遠くのあの子の話をするときのほうが嬉しそうだなんて、そんなのないよ。
それから、和澄はあの子のことを私によく相談するようになった。会ったときも。電話もメッセも。頭の中が壊れていく。もう聞きたくない。咲って聞いているのがつらい。涙も故障して出てこないままだ。
大好きだったはずの和澄の笑顔が、私の喉をきつく締め上げる。
『今夜は新月です! 願い事っていうと満月のイメージがありますが、サイクルがリセットされる新月にもパワーがあるのをご存知ですか?』
あっという間に、半月が過ぎた。
十月になっても、まだ暑いどころか、台風もやってくる。その日も空模様を気にして、出かける前に朝の天気予報を見た。
すると、晴れやかに笑うお天気おねえさんが、そんなことを言っていた。
『今日、思い切って話しかけたら、あいつ俺のこと完全に忘れてたわ……』
大学で講義を受けて、テラスで昼食を取りながらスマホを見ると、和澄からそんなメッセが届いていた。
思わず、その内容にほっとしてしまった私は、卑しいのかな。そのまま、脈がないって和澄があの子をあきらめたらいいのに。私がなぐさめてあげるから。いくらでも、何だって、してあげるから。ねえ和澄、もう、そんな子のことは忘れちゃえばいいんだよ。
その夜、私はベランダに出て真っ暗な空を見上げた。晴れているのに、月のすがたはない。いや、そこにあるのだろうけど、真っ黒で見つからない。
新月の願い事は、必ず叶う。さっきネットで検索したら、そんなことも書いてあった。
それを鵜呑みにするほど、私も子供ではないけれど。輝く満月には願えないと思った。だから私は黒い月に願った。
幸せにしてください。もう和澄が苦しまないように。彼を幸せにしてあげたいから、どうか──
それから、一週間、和澄から連絡がなかった。これまでは三日もすれば、何かあったのに。でも、『どうしたの?』とか『何かあった?』とか連投も鬱陶しいよな、と躊躇っているうちに、何事もなかったかのように『明日、ちょっとお茶しよう。』と和澄からメッセが来た。私は安堵して、もちろんOKし、翌日、よく会っているカフェで和澄とお茶をした。
「──それでさ、あの次の日に、『昨日はごめんね』ってあいつがクッキー焼いて持ってきてくれたんだ。で、連絡先も交換できたんだよ。そしたら、好きな漫画とか映画とか多くて、話が途切れなくてさ。すげー長電話とかしちゃって」
楽しそうにそんなことを話す和澄に、私はたまに「そっか」と小さく相槌を打ちつつも、そろそろ咲えなくなってきた。
瞳がふっつりと死んでしまった気がする。でも、そんな目に気づかれてはいけないから、必死に嘘咲いを繕う。
和澄はその子とどんどん距離を縮めていった。それを全部私に話して、ほとんどのろけみたいで、私の心は堕ちていった。
私のこと、バカにしてるのかな。そんなことを考える。私の気持ち、実は気づいてる? それが鬱陶しいから、そんなにほかの女の子の話をするの? 私の想いがそんなにも迷惑なの?
私、別に何も言ってないじゃない。好き、なんて伝えてないじゃない。だから責めないでよ。そんなに嬉しそうに話さないでよ。これ以上、私の精神を黒く汚さないで。
──そして一ヵ月、冷たい秋雨の日、同じ傘に入った彼女に告白した和澄は、その子とつきあいはじめた。
帰宅してバッグからスマホを取り出し、私は和澄のメッセでそれを知った。でもまだ、既読だけつけて『おめでとう』は送信できずにいる。
ほのかに甘いミルクティーを飲み、ガラス越しに空を見つめる。暗い空。あの夜から一ヵ月くらいだから、ちょうど今も新月なのかな。でも、今夜は雨雲がぶあつくて、黒い月にさえ手は届かない。
お願いしたのに。幸せにしてくださいって。ぜんぜん、叶わないじゃない。
そのとき、スマホの着信音が鳴った。通話着信だったので、ベッドに放ったままだったスマホを手に取る。
ミルクティーのカップをベッドスタンドに置いて、画面を確認すると“和澄”。じわりと心臓が毒が広がったけど、何とか深呼吸して、“応答”をタップする。
『あ、もしもし』
「どうしたの?」
『どうしたのって──何というか、お前、既読はつけてるから知ってるだろ』
「……ああ」
『テンション低いなっ。何だよ、親友として祝福とかしてくれないの?』
私はスマホを握りしめた。
幸せにしてください。……ああ、そうか。確かに彼は幸せになった。苦しみからも解放されたんだ。
……そうだよね。そうなるよね。
そして、私ができる彼を幸せにする言葉は──
「おめでとう、和澄。幸せにね」
和澄の嬉しそうな声が聞こえてくる。遠く。私は座りこんで、そのまま深い海に沈みこんでいくような感じを覚える。
生まれたばかりの黒い月に、私は願った。でも、あなたの幸せを願ったわけじゃないんだよ。じゃあ、誰を幸せにしてほしかったの? ううん、確かにあなたを幸せにしたかった。そう、私があなたを幸せにしたかったのに。
でも、あなたの幸せは、どうしようもなく私じゃなかったんだね。
すぐに通話は終わり、私は唇を噛んで暗いガラス戸を見上げた。雨はまだまだ窓ガラスをたたいている。それを見ていたら、急に嗚咽がこみあげて涙があふれてきた。
しめやかな雨音が意識を犯す。呼吸が痙攣するほど泣いた。胸の痛みから水中に、ゆらりと血煙が流れ出す。そして海底に沈んだみたいに、私は月のない場所で、ひとりぼっちでうずくまった。
FIN