南国に位置する島の、露店が並ぶにぎやかな夜の通りは、人がごったがえしている。
笑い声、叫び声、歌声まで聞こえてくる。皮膚にまとわりつく熱気に、雑多な匂いがむせかえる。
前に進むのもむずかしい中、はぐれないように裕佑の大きな手を握って、あたしはほてった気温にちょっとくらくらしている。
本屋だった職場が、書籍だけでは苦しくなったのでCDもゲームも取り扱うことになった。音楽は配信があるし、ゲームだってオンラインプレイが主流だ。この時代なら事業を拡大するより縮小させ、棚の数を減らすほうが得策なのだけど、何せ、うちの本屋はあたしたちの町に残る最後の本屋だ。
「棚が減ったら、そのぶん客層も狭くなるんだ」と言った店長に、あたしも、同僚で恋人の裕佑も、異論はなかった。そんなわけで、お店を改装することになり、急にお盆を含めて連休が取れることになった。
「あたしたちも手伝いますよ」とは言ったけど、「しばらく何時に帰れるか分からないような作業が続くからね」と店長はあたしと裕佑を含めた五人のスタッフに休暇を与えた。
「レストランの予約の時間まで、少しあるな」
人の足につまずいてしまうそうな人混みに、裕佑はあたしを引っ張って腕の中にかばう。本が詰まった、重いダンボールを毎日移動させている腕はたくましい。そして、染みこんだ煙草の匂い。
喧騒に紛れないように、裕佑はそう耳元でささやいた。
「どっかで時間つぶす?」
あたしは首をかたむけ、「この通りに見たい店があるなら」と裕佑を首を捻じって狂騒の通りを見渡す。あたしは路傍のアクセサリーやイラストの露店をちらりとして、「ちょっと気になったんだけど」と口を開いた。
「ん?」
「お店というか、歩いてきた道端にさ、魔法使いみたいなおばあさんがいたの」
「何だそれ」
「黒いローブで、皺くちゃで、ほんと魔女って感じの」
「……お前、海外文学好きだもんな。特にファンタジー」
「そうなの! だから、あのおばあさんは何だったのか気になる。何か売ってたのかな? そこまで見なかった」
「関わりたくないわ」
「何で!?」
「どうせ怪しい開運グッズを高額で買わされる」
「写真は撮らせてくれないかな?」
「そういうヲタ根性は、旅行中には自重しろ」
「魔女だよ!? ローブ来てたんだよ、ガチじゃん。萌える!」
「怪しい」
あたしはむうっと頬をふくまらませ、「じゃあ、ひとりでちょっと行ってくる」と裕佑の腕の中をすりぬけた。すると、裕佑は慌てたように追いかけてきて、「はぐれるだろうが」と手をつなぎなおす。
「ったく、仕方ねえなあ」
そうため息をつき、「どこだよ」と裕佑はこちらを見おろす。わがままが通ったあたしはにっこりしてから、ホテルを出て歩いてきた、混雑する通りを裕佑と引き返す。
舐めるような空気に軆が汗ばんで、ひたいやこめかみに水滴が伝っていく。ここは国内の島だけど、聞こえてくるのは日本語だけではないし、すれちがう中に外国人もいる。テイクアウトのフード、誰かの香水、独特のお香とか、いろんな香りがぬるい風に混ざる。
時刻は十七時をまわっている。レストランの予約は二十時だったはずだから、三十分探して見つからなかったら仕方ない。どこかなあときょろきょろしていると、「あれじゃね」と裕佑があたしを引っ張った。
はたして、広げた紫の布の上にじっと座っている、黒いローブをまとった白髪のおばあさんがいた。やっぱガチな魔女、とファンタジー大好きなあたしは色めく。
でも、魔女さんが露店で何を売っているのだろう。やっぱり、裕佑の言う通りスピリチュアルなグッズかな。
近づいてみて、「こんばんは」と声をかけると、おばあさんは皺だらけでやや物々しい顔立ちをあげ、あたしを見た。
「何だね?」
あたしはおばあさんが布に何も商品らしきものを並べていないのを認め、首をかしげた。
「売り物、何も並んでないですね」
「儂は占い師だよ」
「占い師! わっ、本物初めて見たかもしれない。裕佑は?」
「いや、見たことないけど。つうか──」
「え、水晶玉とかで見えちゃう系ですか」
「タロットカードだ」
「あっ、いいなあ。カードの絵とかすごく綺麗ですよね」
「見てみるかい?」
「いいんですか? 一度、意味とか聞いてみたかったんです」
あたしはおばあさんの正面にしゃがみこみ、おばあさんはおもむろに古びたカードを取り出す。
「何か占うかい?」
「はいっ」
あたしが即答すると、「おい」と裕佑は腰をかがめて耳打ちしてきた。
「さすがに胡散臭いぞ」
「でも、一生に一度は本格的な占いってやってみたかったし」
「本格的っつうか……」
「今、迷いはあるかい? 占いというものは、心の迷いを切り開く道を助けるものだ。信じる道がはっきりしている者には必要ない」
おばあさんの言葉に裕佑は反論できなかったのか、眉は寄せても息をついて背筋を正し、煙草を取り出す。
「恋仲のおふたりかな?」
「そうです。つきあって二年くらい」
「歳は?」
「あたしが二十五歳で、彼は二十八歳」
そのあともいくつかあたしたちに質問をしたおばあさんは、「もう一度尋ねるが、カードに訊きたいことは?」と最後に問うてくる。
「じゃあ、どうやったら、これからもいつまでもこの人とつきあっていられるか」
「二枚のカードで見てみよう。そのための課題と対策が見えてくる」
「おおっ、すごい」
あたしはすっかり魅入られていても、裕佑は腰に手を当てて、煙草を吸っている。おばあさんはシャッフルしたカードを布に並べ、あたしに二枚カードを選ばせた。
「一枚目は悪魔だな。彼の気持ちも表している」
「えっ、やだ」
「二枚目は節制だ。こちらはお前さんの気持ちをしめしている」
「節制……?」
「悪魔は堕落や誘惑を表している。彼は何か──いや、ほかの女性から甘い言葉のようなものを受けているようだな」
「えっ」
「しかし、節制は自制や調和を表すカードだ。お前さんの献身的な思いやりが、彼を誘惑から目を覚まさせるだろう」
あたしは息を飲みこんで、上目遣いで裕佑を見上げた。裕佑はつまらなさそうに煙草を吸って、どうやらあたしたちの話は聞いていない。
甘い言葉。心当たりは、ある。
仲良しの職場の女の子なのだけど、店内恋愛は伏せても、彼女だけには裕佑とつきあうことになったと報告した。そのとき、彼女はすごく苦しげで──彼女も裕佑に想いを寄せていたのだと、そのときあたしは初めて知った。
「ありがとう」とあたしはおばあさんにお金をはらうと、立ち上がった。「どうだった?」と訊いてくる裕佑は、本当に何も聞いていなかったらしい。携帯灰皿に煙草をつぶした裕佑に、「どうでしょうねえ」とあたしははぐらかし、相変わらず騒々しい通りを縫って、予約を入れておいたレストランに向かった。
ディナーのあとのデザートは、新鮮なトロピカルフルーツだった。あたしはライチ、裕佑はマンゴー。丁寧な店員さんが、食べ方を教えてくれたついでに、果物の花言葉を教えてくれた。
ライチは自制心。
マンゴーは甘いささやき。
あたしはさっきのタロット占いを思い返し、頬杖をついた。
「裕佑」
「んー?」
「もしなんだけど」
「うん」
「誰かほかの女の子に、『好きです』って告白されたらどうする?」
「は?」
「あたしとつきあってること知ってるけど、『それでも好きなんです』とか言われたら」
「そんなん、普通に断るだろ」
「へえ……?」
「何だよ? あっ、あのばあさんに何か言われた?」
「ううん。ただ、そういうお誘いがあっても、あたしは裕佑を信じてるよって話」
裕佑はあたしを見た。かすかに、瞳が揺れた気がした。あたしはそれににやりとしてみせると、剥いたライチを口にふくむ。ふわりとみずみずしい甘みが広がる。
道端の占いを、あたしだってそこまで鵜呑みにはしない。でも、あたしが信じることで、裕佑が裏切りに走らないなら、猜疑や心配に駆られて彼を責めたりはしない。本音では心配だけど、ぐっとこらえて、深呼吸する。
ふと裕佑は「マンゴー甘すぎるわ」とつぶやき、あたしのライチをひとつ奪って頬張った。
「おいしい?」
「うん。こっちのがさっぱりしてる」
あたしはくすりとして「じゃあ一緒にライチ食べようか」と盛られたお皿をテーブルの真ん中に置く。
こんなふうに、同じものをおいしいって言いながら、裕佑とずっと一緒にいたいな。
そう思いながら、あたしは口の中にほとばしるような果肉を転がし、果汁も不安もまとめてこくんと飲みこんだ。
FIN