熱い息遣いが絡まって、とまどい気味の彼の唇に唇を重ねる。もつれる舌はぎこちない。猫が喉を鳴らすように、あたしは喉の奥で笑いを噛むと、そっと唇をちぎって、母親が幼い我が子の風邪を心配するように額に額を当てた。
「あたしはこの先も構わないけど」
子供っぽさの残る丸っこい瞳が視界を泳ぐ。
「君は困る?」
濡れた唇を這わせて耳たぶを柔らかく噛むと、彼がごくりと生唾を飲みこむのが聞こえる。
「お、男は困らないけど、女の人は困るんじゃ」
「何? 妊娠とか?」
「ん、まあ……」
「いいじゃない。妊娠するくらい、あたしの中に出してほしいな……」
あたしは彼と見つめあい、微笑んでその頬をさすった。そしてゆっくり彼の首に腕をまわし、そのまま、あたしたちはその場に崩れ落ちた。
──彼氏に振られた。理由は単純だ。彼には本命の片想い相手がいて、その本命が彼氏と別れたから告ってみたら成功した。
「お前も俺とは遊びだろ?」
そんな勝手なことを吐いて、彼は教室を出ていった。放課後の誰もいない教室で、あたしは泣くよりぼんやりとして、「本気じゃなかったけど」とつぶやいた。
「都合のいい女じゃないわ」
言ってみたあと、目の前の誰かのつくえを思いっきり蹴りつけた。がたんっとテスト中みたいに静かだった教室に乱暴な音が響く。
しばらく睫毛を伏せて落ち着こうとしたけど、いらいらしたトゲは振りはらえない。ひとまずこの場を離れようと、教室を出てつかつかと歩いて、学校もあとにした。
帰り道、通りかかる団地の花壇にくせで目をやった。すると、相変わらずそこには腰かけている男の子がいる。制服は同じ中学のものだけど、学校では見かけたことがないから、学年が違うのだろう。彼はいつもそこで何をするでもなく穏やかに目を閉じている。
今日もいる、なんて思いながら通りすぎようとしたけど、ふと足を止めて振り返った。初夏の風に、染めたりなんかしていない黒髪がなびいている。あたしがじっと見つめても気づかない。あたしは無意識に足を軌道修正し、彼に歩み寄っていた。
「このピアノ?」
彼のいる場所まで行くと、どこからかピアノの旋律が聴こえてくるのに気づいた。だからそう声をかけると、彼ははっと我に返った様子であたしを見あげた。
「え、あ──」
「綺麗ね」
伏し目がちになって彼と瞳を重ねると、彼は笑んでうなずいた。あたしは紺のプリーツスカートを折って隣に腰かけると、彼の名札をちらりとする。赤。一年生。ちなみにあたしは三年生で、知らないはずだわと膝に頬杖をつく。
ピアノの旋律は続くと優美だが、まだ練習中の曲なのかたまにつまずくときがあった。そんなとき彼は微笑ましそうに咲って、その笑みの優しさに、彼がその旋律を奏でる主に淡く恋をしているのが窺えた。
どの男もあたしなんか見ないのかしらと何心なく思って、反発するように彼に話しかけていた。
「君、いつもここにいるね」
「えっ。あ、何か、あのピアノを聴くのが日課で」
「知り合いのピアノ?」
「いえ、ぜんぜん」
「男って場合もあるわよ」
「え──、あ、……そうですね」
本当に思い設けていなかったのか、気まずく頬を染める彼にあたしはくすりとすると顔を近づけた。
「ちょっと、遊ばない?」
そうして、近くの公園のベンチの陰で、制服すがたのまま草むらであたしたちはもつれあっている。
あたしが上になって、仰向けに倒された彼は、まだ状況に混乱した表情をしている。あたしは彼の顔を頭で陰らせると、肩からすべりおちた髪で彼の頬をくすぐった。あたしは彼の耳元で秘めやかにささやく。
「初めて?」
彼はわずかに身を硬くしたものの、抵抗しても仕方ないと思ったのか、小さくこくんとした。
「もらっていい?」
彼の瞳が、魚が跳ねた水面のように揺れてあたしを捕らえた。あたしは微笑んで、彼の白い開襟シャツのボタンをはずしていく。
「どうして」
「ん」
「どうして、俺なんか」
そんなの、あたしにだって分からない。
だから答えずに彼の胸をはだけさせると、イジメるように口づけを散らした。たまに彼は声をもらし、唇を噛んで右腕で視界をおおう。
あたしは彼のベルトを緩めてファスナーをおろすと、じわりと反応を始めている彼を、口の中を唾液で潤して含んだ。彼は引き攣った息を吐き、こらえられない身動ぎをした。あたしは彼を喉まで受け入れると、ぎゅっと締めあげる。
「……るい」
首でも絞められているように、彼は切羽つまった声で言う。あたしは顔を上げると、相変わらず顔を隠している彼を、手で刺激しながら首をかたむける。
「なあに」
「……ずるい、よ」
「あたしが?」
「俺ばっかり、こんな、されてばっかで」
「じゃあ、あたしを攻めてみる?」
彼の右腕を持ち上げて瞳に瞳をそそぐと、彼は起きあがってあたしの赤いスカーフを奪って、セーラー服のボタンをぶちぶちと開いた。もう暑いから、つけている下着はブラジャーだけだ。彼はそこで手を止めると、息をついて、「さっきの本気?」とあたしの肩に顔を伏せる。
「さっきのって」
「……中にって」
「あたしは構わないわ」
「気持ちいい?」
「たぶんね」
彼はあたしに上半身を密着させたまま、スカートの中に手を忍びこませてきた。慣れない指がショーツをたどる。女を知らない指は、核より湿り気をこすった。「濡れてる」とぼそりとした彼の耳を齧って、「入れたい?」と熱っぽくささやく。
拍子、彼はあたしを抱きしめてそのまま地面に押し倒すと、あたしの下着をずらして中に入ってきた。ほてった湿りがえぐられて、卑猥な熟れた音を立てる。お互い呼吸が乱れて、不器用に激しい動きであたしは声がもれる。
その声に興奮をあおられたのか、いっそう彼はあたしを奥深くつらぬいてきた。汗が滲んで、むせかえるように体温が上がって、不明瞭な声と荒い息遣いしか聞こえなくなる。視覚がぐらつく。草いきれだけが妙に澄んだ中で、やがて、彼の絶頂があたしをつんざいた。
どろり、と内腿に粘液がしたたる。切れ切れの呼吸が残って、ぱたんと彼はあたしの胸に顔を伏せた。あたしは頭の上の青空に気づきながら、彼を抱いて頭を撫でる。頭皮は汗ばんでいても、髪はさらさらと指を透き通る。
「ごめん」
「ごめんって」
「何か、ほんとに……」
「気持ちよかった?」
「ん……でも」
「いいの、誘ったのはあたしよ」
ゆっくり身を起こして彼に微笑んだ。彼はあたしの瞳を見つめると、木の葉が揺れるようにそっと咲って、「また会える?」と照れながら訊いてきた。
そうして、あたしと彼の仲が始まった。わざわざデートに行ったりはしない。帰宅中、遭遇すればそのへんで軆を交わす。
初めは割り切った関係だと思っていた。でも、次第に彼の瞳には蝋燭の柔らかな炎のようにあたしへの想いが灯っていった。あたしもちょっとずつその炎に焦がされ、心を溶かしはじめた。
軆から始まったけど、あたしたちの関係は、確かに“恋”へとうつろっていった。
そんな頃、久々にひとりで彼と出逢った団地の通りを歩いていた。今日はいない、と花壇や公園をちらちらとして、葉桜の下をまっすぐ家に帰ろうと足を速めた。
そのときだった。
「あ、あのっ」
鈴を鳴らすみたいな儚い声が背中にかかって、あたしは振り返った。そこには白いレースがあしらわれたカーディガンを羽織った小さな女の子がいた。小学校高学年くらいだろうか。髪も肌も色素が薄く、茶色っぽい髪は緩く波打っていた。肌も白いというより蒼く、典型的な病弱そうな女の子だった。
知り合いではない。あたしは首をかたむけ、流れた髪を耳にかけて「何?」と軆も返した。
「あ……」
あたしにまっすぐ見つめられると、すくんだ様子で彼女は視線を彷徨わせた。あたしも睫毛は長いほうだけれど、彼女はカールしているせいかもっと長く見える。彼女はぎゅっとロングスカートを握ると、精一杯強気にあたしを見つめ直してきた。
「あ、あの人を……返して、ください」
「は?」
「あの男の人を、私に返して……ください」
「……何のこと?」
「こないだ、その、あの人があなたといて、公園で……」
目を開いた。別に恥ずかしくはなく、彼女のほうがよほど真っ赤になっている。あたしは学生かばんを持ちなおし、するりと抜けた夏風に髪を舞わせた。
「あなた、彼の妹か何か?」
「……いえ」
「友達?」
「違います」
「彼女とか?」
「そんなん、じゃない、です……」
「じゃあ、どうしてそんなこと言ってくるの?」
彼女は林檎のような頬のままうつむいて唇を噛み、沈黙にゆらゆらと髪だけ踊らせる。あたしは息をついて、面倒そうなので彼女を置いていこうとした。
すると、彼女は急いで言葉をはじいた。
「いつも、聴いてくれてたんです」
彼女を見直して、眼光に疑問を混ぜる。彼女は泣きそうな顔で、いっそうスカートを握りしめた。
「いつも、あの人、私のピアノを聴いてくれてたんです」
その言葉が鍵になって、ぜんまいが逆流しはじめた。
ピアノ──
「病気で学校にも行けなくて、それが、ひとりぼっちだった私の支えだったんです。窓からしか見れなかったけど、話したこともないけど、ずっと大切な人だったんです。でも、最近ぜんぜん来てくれなくて、偶然病院の帰りにあの人が公園にいるのを見て。こないだ、おかあさんに黙って公園に行ってみたら、あなたと……」
一気に言葉をつないだ彼女は、そこまで言うと黙りこんだ。あたしも目を開いて何も言えなかった。ただ、葉桜の木漏れ日が、すでにセピア色の彼の優しい笑みを映し出した。
『あのピアノを聴くのが日課で』
そう言っていた。はにかんで咲いながら。その淡い恋は、たわいない切っかけだった。あたしには。でも、この子には──
あたしはうつむいて、咲った。彼女に歩み寄った。彼女は迫ったあたしのことをびくりと見上げる。
小さい。本当に小さくて、壊れそうで──あたしはそっと、彼女の手を手に取った。
「じゃあ、両想いね」
「えっ」
「彼もあなたのピアノが好きだって言ってたわ」
「え……」
「邪魔できないわね」
彼女はあたしを見つめ、そのまま、ぽろぽろと大粒の涙をこぼしはじめた。あたしは彼女の柔らかな髪を撫でる。
そのとき、自分のものになっていると錯覚していた彼の、「先輩?」という声が背後に聞こえた。
身をこわばらせた彼女の肩に手を置くと、あたしは夢のように消えゆく恋に少しだけ胸を痛めながら、振り返った。