Koromo Tsukinoha Novels
あなたなしで、私たちは私たちではないのに。あなたなしで、私たちは私たちになってしまう。そばにいてほしいのに、あなたは隣にいない。
早音。縛られたくないあなたに、私のものになってほしいなんて言わない。けれど、せめて瞳に触れるところにはいて。ねえ、もうどこにも行かないでよ。
また、三人で過ごしたい。それだけなのに──。
二十四歳の誕生日の夜、蛍の部屋でプロポーズされた。蛍の作ったチーズの入ったハンバーグを食べながら、プレゼントだと小さな箱を渡された。ナイフとフォークを置いてそれを開くと、ダイヤモンドの粒があしらわれた指輪があった。
「結婚してほしい」と蛍はまっすぐな瞳で言った。私はそれを見つめ返し、真っ先に泣きそうな顔になって、「今は」と声を震わせた。
「早音がいないよ?」
私の声音に、蛍は視線を下げた。けれど、「八年前だぞ」と苦しそうに私を見つめた。
八年。そうか。あのとき早音に会ったことを蛍は知らない。とはいっても、それさえ六年前に変わりはない。
「きっと、もう会えない──」
「私たちは早音を待つんでしょ。そう決めたじゃない」
「子供の頃の話だ。早音だって、きっともうどこかで──」
「だとしたら、そうだって早音は連絡してくれる。まだ早音は居場所がないんだよ。私たちだけ落ち着くなんて、」
「美沙夜が早音を想ってるのは俺が一番知ってる」
口をつぐむ。「一番近くで見てきたのは俺だしな」と蛍は目線を下げて息をつく。
「早音のことも含めて、つきあいたいって言ったのも俺だ」
「………、私と蛍が結婚したら、私たちさえ早音の居場所じゃなくなるんだよ」
「そうなってもおかしくない時間は経った。すぐ答えろとは言わない。だから、結婚、考えてほしい」
「そんなの、」
「俺は美沙夜を幸せにしたいんだ」
幸せ。蛍のことは好きだ。すごく大切に想っている。でも、それはやっぱり、私が早音を忘れないのを知ってくれているからで──
早音を置いて、結婚なんて……
早音は、私と蛍が幼稚園から帰宅するのをいつも公園で待っている同い年の男の子だった。私と蛍は同じマンションに住んでいて、一緒にバスを降りて、特に私はおかあさんを引っ張るようにしていったん部屋に帰る。
「ただいま!」と玄関にバッグを放って、服を着替えて、ときにはおやつを食べるのも忘れて一階に戻る。それでもたいていは蛍が先に待っていて、「早く」と私を急かす。「分かってるよ」とか言い返しながら、マンションに面している広い公園に行くと、早音はいつもジャングルジムの一番上から私たちを見下ろす。
「早音!」
私が満面の笑みで手を振ると、早音は降りてくる。「よう」というそっけないひと言にも、私はにっこり咲ってうなずく。そんな早音に、「おい」と蛍は包みをさしだす。
「今日、何?」
受け取りながら尋ねる早音に、蛍はそうやっていつも自分のおやつを半分持ってくる。
「マドレーヌ。ふたつも食べれなかった」
「あ、私、今日もプリンひとりで食べちゃった……」
まだ舌に残るカラメルソースの味につぶやくと、甘く香るマドレーヌを取り出す早音は少し噴き出した。
「美沙夜は食べてばっかりだな」
「野菜は残すけどな」
「明日は何か持ってくるよっ」
「どうだか」と早音も蛍も笑うから、私はむくれる。早音の家にはおやつがない。理由は深くは考えなかった。早音は幼稚園に行っていない。それも深く考えなかった。
そんな早音が私たちの前から初めてすがたを消したのは、私が五歳になりそうなときだった。
誕生日が近かった。プレゼントは何がいいかと両親に訊かれ、数日前にテレビで水族館の特集を見た私は、行ってみたいと言った。さいわい、そう遠くないところに水族館があった。
友達も誘っていいよと言われたので、蛍を誘って、早音ももちろん誘った。ふたりとも「美沙夜の誕生日なら」とうなずいてくれた。蛍とは幼稚園やバスも一緒だけど、早音とは公園以外で会うのは初めてだ。
わくわくしていた。けれど、当日の日曜日、約束の時間になっても早音は現れなかった。それどころか、その日以降、ぱったり私と蛍の前にすがたを見せなくなった。
両親も蛍も、その日、「もう行こう」と何度も言った。私は首を横に振って、「あとちょっと」と早音を待った。冬の日だから、冷たい風がやけに吹きつけていた。
早音がいないと何の意味もないと感じていた。早音が一緒に祝ってくれるから、この日がすごく楽しみだったのだ。日が暮れてきても私は動かなかった。
結局、その日は水族館に行かなかった。「ごめんね」と両親は何度も蛍に謝っていた。翌週、誕生日を過ぎてしまってから、「お祝いなんだから」と水族館には連れていかれたけど、まるで欲しいものを買ってもらえなかったように私は拗ねていて、泣きそうだった。隣を歩く蛍が、私のぶんまではしゃぐふりをしてくれた。
早音とは公園で落ち合っているだけだったから、何も突っ込んで聞いていなかったから、本当に消えてしまったように会えなくなった。わんわん泣き散らすことはしなくても、代わりに、溜めこむようにうつむいている時間が増えた。「もう会えないのかな」という泣き言を、一緒に早音と遊んでいた蛍だけは察した。
早音がいつも腰かけていたジャングルジム。早音がよく立ち漕ぎしていたブランコ。早音がいて当たり前だった公園。誰かの駆けまわる影に早音の影を見た気がして、喉が詰まって、私はやっぱりうつむいて唇を噛みしめてしまう。
「……美沙夜ちゃんと蛍くん?」
早音がいない涙なんか流さなくても、汗が水分をむしりとっていく真夏になっていた。蝉が異常なほど鳴いていた。
去年は早音もいて、猛暑だろうと蝉取りなんかに走りまわったものだけど、今年はベンチに腰かけて、ただ膝に頬杖をついていた。蛍も隣で、遊んでいる子たちをただ眺めていた。
発狂しそうな日射で無駄に肌を焼いていると、突然そんな声がかかって私はびくんとして、蛍ははっと警戒した。
知らない、ひどくやつれた女の人がいた。目の下に隈が染みついて、髪もばさついている。
「行こう」と蛍が素早く私の手を取ってベンチを降りた。とまどいながらも私もついていこうとしたら、突然女の人が私の手を握った。冷たい手にとっさに恐怖が粟立った。
振りはらおうとしたけど、「早音が」と思いがけない名前を女の人が口走って、私は嫌がる動きを止めた。
「……戻ってくるから」
「え……」
「おい、美沙夜」
聞こえなかったらしい蛍に引っ張られても、私は女の人を見つめた。
「早音って──」
「あなたたちには伝えておいてって言われたの。それだけよ。じゃあね」
女の人はぱっと手を離して、幽霊のようにふわふわと公園を出ていった。「大丈夫か」と蛍は私のつかまれた左手を見て、何もないことにほっとしている。
「早音……が」
「え?」
「早音が、戻ってくるって」
「……あの人が?」
「早音にまた会えるよ、蛍!」
「で、でも、あんな──」
「戻ってくる! 早音に会えるよ!」
蛍はまだ不審そうな色を残していても、私は構わず笑顔になって蛍の手をつかんで振りまわした。
ずっと曇っていた心に、やっと晴れ間が射したようだった。そして、どんどん灰色の雲はちぎれていった。私はまた、幼稚園が終わるとすぐに公園に駆けつけるようになった。
でも、蛍が訝った通り、得体の知れない人の言葉に過ぎなかったのか──一週間経っても、二週間経っても、早音は公園に現れなかった。
「……戻ってきたら、公園来るよね?」
「あんまり信じるな」
「でも、私と蛍に伝えてほしいって」
「あれが誰なのかも分かんないだろ」
「早音は戻ってくるよ。別にあの人が何なのか分かんなくても、早音なら私たちのところに戻ってくるもん」
蛍は息をついて、うなずいてほしい剣幕の私に、「そうだな」とうなずいた。蛍が同意してくれると心強かった。
そうしているうちに私は六歳になり、蛍と共に小学校に上がることになった。大きなランドセルを背負って校門をくぐり、入学式を終えて、蛍とは別の教室に担任の先生に先導された。
公園にいられる時間が減るなあ、とまだ早音を待つつもりでいた私は、ぜんぜん気づかなかった。先生のお話が終わって、あさっての始業式にまた会いましょうと解散になり、ランドセルを背負おうとしていると頭にとんと何か当たった。足元をきょろきょろすると、紙飛行機が落ちている。拾って教室を改めて見まわした私は、目を開いて口を開けた。
「よう、美沙夜」
そう言って私のつくえの前に歩み寄ってきたのは、記憶の中のすがたより背が伸びた、でも顔立ちは変わらない早音だった。私はすぐさま笑顔になって、「早音!」と置いたランドセルの上に身を乗り出し、つくえ越しにその手をつかんだ。
本物だ。
触れる。温かい。影じゃない。
「同じクラスみたいだな」
「ほんと? え、あれ、早音この学校に通うの?」
「小学校はさすがに来るよ」
「じゃあ、また前みたいに毎日会えるの? というか、どこ行ってたの? もういなくなったりしない?」
早音はおかしそうに噴き出して、「一気に答えられねえよ」と私の額を小突いた。何だか、それがすごく嬉しくて幸せで、咲ってしまう。
早音。早音だ。目の前にいる。もう会えないかもと思った。でも、今、ちゃんと私の手を握り返してくれている──
蛍ももちろんびっくりしていた。けれど、私が早音の手をつかんで離さないのを見て、「しばらく美沙夜がくっつきまわるぞ」と早音に苦笑した。「みたいだな」と早音は私を見下ろして、その瞳に自分がいることに私はすごくほっとした。
また三人の時間が始まった。女の子の友達ももちろんいたけれど、どちらかといえば、早音と蛍と過ごす時間のほうが好きだった。女の子といると、早音と蛍のどちらが本命なのかとか、そんな話ばかりになる。
ふたりに優越なんてつけられなかった。早音のことはずっと待っていたし。蛍はそんな私のそばにいてくれたし。ふたりとも、私の大事な存在だった。
「俺は父親の顔を知らないんだ」
早音がその話を打ち明けたのは、クラス替えで三人とも同じクラスになった小学三年生の春だった。
学校が終わると、誰の家に集まるでもなく、私たちは暗くなるまで公園の代わりに校庭で過ごす。温かくなってきた風に、桜の花びらがまだはらはらと空を踊っていた。ドッヂボールで騒がしかった高学年が帰宅して静かになり、野原に通る校庭への階段に腰掛けて春の匂いに包まれていると、不意に早音がそう言った。
「知らない……?」
私は首をかしげ、早音は足元の草をむしる。
「俺は今、かあさんとふたりで暮らしてる。かあさんには、お前らも会ったことあるだろ」
蛍と顔を合わせた。いつ? 憶えがなくてとまどっていると、「俺がここに戻ることになったとき、写真見せて伝えておいてって頼んだんだけど」と言われて私も蛍もはっとした。
「あの人、早音のおかあさんなのか」
「まあな。昼から酒ばっか飲んでるダメな人」
哀しそうに咲う早音に、「大丈夫なのか」と蛍が懸念を浮かべる。
「そんな人と、暮らしてて」
「そんな人だから、ひとりになるのが嫌で、俺を呼び戻したんだ」
「……どういうこと?」
よく飲みこめない私に、早音は一度息をついてから話を続ける。
「あの日──美沙夜の誕生日祝いの日、俺はいきなりじいちゃんとばあちゃんのところに預けられることになった。かあさんが、新しい男と暮らすのに俺は邪魔だからって」
「な、何それっ」
「今日だけ、一日だけって言ったんだけどな。やっぱ、五歳のガキのわがままだろって聞いてもらえなかった。だから美沙夜、あの日はほんとにごめん」
「いいよ、そんな……早音は悪くないんでしょ」
「うん──。それで、じいちゃんもばあちゃんも、かあさんが俺を生むのにすごい反対してたらしくてさ。何か、父親は結婚してたんだ。不倫っていうのかな、そんな男との孫なんか嬉しくも何ともなかったみたいで。けっこう、きつく当たられた」
ぷち、と早音の手の中で草がちぎれる。
「向こうはお前らみたいに仲良くしてくれる奴もいなくて、ひとりだった。小学校に上がる準備を始める頃、かあさんが男と別れた。それで、また急に俺を引き取るって言って──それで俺はお前らに、戻るって伝言するのを頼んだんだ。冬くらいにこっち来てたけど、何か、公園行くの怖くてさ。もう忘れられてるよなあって」
早音は私を見た。その目には見たことのない弱さがあった。
「ここに入学して、美沙夜と同じクラスにならなかったら、まだ声かけられてなかったかも」
「……こっちから声かけてただろ、そしたら」
蛍がぶっきらぼうにつぶやくと、早音はそちらを見て「そっか」と小さく笑った。
「お前らがいてくれてよかった。じいちゃんとばあちゃんも、かあさんだって、俺のことなんか必要としてないんだ。落ち着ける居場所がなかった。でも、お前らといると落ち着ける」
「私たちは、早音のこと必要だよっ。早音がいなくなって、ほんとに寂しかった」
「美沙夜の落ちこみはすごかったぞ。あの誕生祝いの日も、お前のこと待つって言って聞かなくて、結局行かなかったくらいだしな」
「そうなのか?」
「そうだよっ。早音がいなきゃ、つまんないよ。三人だから、何でも楽しいの」
早音は私を見つめて、「俺も美沙夜と蛍といると楽しい」とちょっと照れながら言った。「俺たちの前では無理するな」と蛍に小突かれ、早音はうなずきながら咲った。
もしかしたら、早音はそんな話をした時点で悟っていたのかもしれない。また自分がつらい現実にさらわれていくと。早音がすがたを消したのは、小学四年生に上がるのを待たない早春だった。「おうちの事情で」という先生の説明だけで、早音は挨拶もなくどこかに行ってしまった。
「美沙夜の前では見せなかったけど」
茫然と迎えた終了式、並んで帰宅しながら蛍がつぶやいた。
「体育の着替えのときとか、あいつ、軆に傷とか痣があった」
「えっ──」
「……やっぱ、母親なのかな」
私は足元を見つめた。歩道の脇に、たんぽぽやシロツメクサが生えていた。
早音。また、何にも残していかなかった。連絡先くらい、教えてくれていていいのに。
またおじいちゃんとおばあちゃんのところなのだろうか。ひとりだと言っていた。せっかく、私たちといたら「居場所だ」と言ってくれたのに──
数年間、早音に言った通りだった。早音がいないから、三人じゃないから、つまらなかった。運動会も、林間学校も、遠足も、修学旅行も。蛍と一緒にいても、ふたりとも、欠けた気持ちをぬぐえなかった。次第に、早音の名前を出すこともはばかられていったけど、お互い、心ではその名前を想わない日はなかった。
少なくとも、私はそうだ。いつも早音が今どうしているのかばかり考えていた。三人じゃないと、私と蛍にとっても、共に過ごすことは居場所じゃなかった。
そのまま中学校に進学した。早音がどんな日々を過ごしていたのかを私は知らない。でも、たぶんつらかったのだと思う。その厳しさが、早音を変えてしまっていた。中学二年生の秋だった。隣のクラスにかっこいい転校生が来たと、女友達に見物へとつきあわされた。窓際のそのすがたを見て私は目を開いた。
「早音!」
その女友達も、クラスの子たちも──その人もこちらを見た。少しだけその人は驚いたようだけど、笑顔を作ることはなく、窓へと目をそらした。その反応に、もしかして人違いかとも思ったけど、いや、間違いなく早音だ。
つくえを縫ってその目の前に行き、「早音」ともう一度呼ぶと、あのそっけない目で彼は私を一瞥した。
「……美沙夜か」
声は、記憶と違って低かった。でも、私の名前を言い当てるということは、やっぱり早音だ。
私が安堵で笑顔になっても、早音は苦笑さえ返さない。無頓着な目を横に投げて、鬱陶しそうに舌打ちした。
「早音──」
「うざい」
「えっ」
「いらつくから失せろ」
「な、何言っ──」
「美沙夜っ」と私を連れてきた女友達がいつのまにか脇に来ていて、腕を引っ張ってきた。私はまだ何か言おうとしたけど、「ごめんねっ」と友達は早音に媚びるような笑みを向けてから、「行くよ」と私を廊下に連れ出した。
「ヒカれたじゃん」と友達にぶつぶつ言われたけど、私は早音を振り返って、何で、と混乱した。
うざい? いらつく? 失せろって──早音が私に言ったの? あの早音が?
放課後、今度はひとりで隣のクラスを覗いてみた。早音はまだ席に残って、空を眺めていた。私は少し躊躇ったものの、教室に踏みこんでその席に歩み寄った。気配で気づかれたのか、早音がこちらを向く。
冷たい眼だった。どうして、そんな目をするのだろう。私は早音に何かしただろうか。
「……早音」
早音は目をそらすと、苦々しい顔つきで席を立った。
「な、何かあったの?」
「は?」
「私、何でも聞くよ? だから──」
「お前らがいないほうに慣れただけだ。いまさら近づいてくるな」
「そんなっ……私も蛍もずっと早音のこと心配してて、」
「うぜえっつってんだろ。そういうの、もういらねえんだよ」
毒気をたっぷり含む口調に突っ立ってしまうと、早音は私とすれちがっていった。
何で、と喉が震えて、今にも泣き出しそうになってくる。私も蛍も何もしてない──何もしなかったから? ただここで待つだけだったから?
けれど、私たちは早音の連絡先も何も知らされなかった。忘れないことしかできなかった。それだけでは、早音には足りなかったの? 足りないほど……何か、つらかったの?
早音はすぐに、素行の悪い生徒として先生たちにマークされるようになった。困惑する私を、同じく困惑しつつもなだめてくれるのは蛍だった。
蛍に対しても早音は冷淡になっていて、「何だよ、あいつ」といつも冷静な蛍なりに混乱しているようだった。そんな蛍は、三年生になると前期の生徒会長になり、早音と同じクラスになっていた。必然的に早音を注意することが増え、ふたりが喧嘩するとうわさとしてすぐ流れた。
「俺のことはどう思ってくれてもいいが」
早音に何か注意していた蛍は、聞きもせずにとっとと早退しようとした早音を腕をつかんだ。ひとりだけ別のクラスだった私は、ちょうどふたりの教室を通りかかっていてそれを見た。
「美沙夜の気持ちは考えろ」
早音は蛍を見て、皮肉っぽい笑みを浮かべた。
「ほんとに、お前がそんなこと思ってんのかよ」
「何っ──」
「俺が消えてせいせいしてたんじゃねえのか。そしたら、美沙夜をひとり占めだもんなあ?」
蛍は早音をきっと睨み、「美沙夜はほんとにお前のこと心配してたのに、」と早音の胸倉をつかむ。
「俺はそれをずっと見てきたんだっ。お前が勝手に消えたのは事実だろ。やっと現れたと思ったら、何なんだよっ」
私は顔を伏せて、教科書を抱きしめ、見たくない、と移動教室に急いだ。
何で。早音と蛍が言い争うなんて、どうしてそんなことになるの。早音に何があったの。あんな人ではなかったはずだ。私たちには咲ってくれていた。
もう、早音は私たちのことすら信じられなくなってしまったのだろうか。そこまで、何があったというのだろう。
結局、和解のないまま私たちは中学を卒業した。私と蛍は同じ高校に進んだ。早音は高校に進まなかったみたいだった。
「もう早音のことは考えるな」
蛍は苦しげにそう言った。それでも私は早音が心配で、高校に行かずにどうしているのかばかり案じていた。家にこもっているのか。どこかで遊んでいるのか。
再会したのは、高校三年生のとき、何人かの女友達とファミレスでしゃべっていたときだった。「あのウェイターさんかっこいい」とみんながささやくので見てみたら、早音がテーブルを片づけていた。
早音、と呼ぼうとした。でも、中学で再会したときの突き放した態度や蛍の言葉がよぎって、勇気が出なかった。
けれど、今話しかけないと、次いつ会えるか分からない。またこのファミレスに来たら会えるだろうか。でも、通いすぎてまた「うざい」と言われたら──
会計のとき、ちょうど早音がレジに入った。ひとりずつ自分のぶんの会計をして、無駄に時間がかかった。最後に私の番が来て、何となく気づかれないように顔を伏せてお金をはらう。
「夜──」
はたと顔を上げた。早音はバーコードを読み取りながら、無表情は崩さずに小さな声で言った。
「あの公園に来れるなら」
早音を見つめた。早音はお釣りとレシートをさしだし、一瞬、私を見返した。あの毒気は含まない目だった。
私がうなずいていると、「美沙夜ー」とドアへと歩き出している友達が呼んでくる。私はもっと、記憶の中の近いこの早音と話したかったけど、どのみちレジを終えた早音はさっさと店内に戻ってしまった。
「何、美沙夜もああいうイケメンに興味あんの?」
「あんたには蛍くんがいるだろー」
ファミレスを出て、友達にそんなことを言われても、曖昧に咲っていた。
夜。公園。行こう。そこで早音から何か聞けるなら、私は聞きたい。私はまだ、早音には何か本音があると信じている。
友達と別れて、マンションに着くと、蛍も呼んだほうがいいのか悩んだ。でも、早音と蛍は中学時代はひどい関係だった。蛍に言ったら、かえって会うのを止められるかもしれない。結局、私はひとりで「少しコンビニ行く」と親には言って、マンションに面している公園に出た。
残暑だった。空気はまだ熱気を残していて、でも夜風はわずかに涼しくなった。二十時前、静まり返った暗い公園に人影はない。ここで早音たちとよく遊んだなあ、とベンチに腰かけて、ため息をついた。
夜、と言われたから暗くなってから来てみたけど。早かったかな。遅かったかな。
早音、ほんとに来るかな。来て、またあの中学のときの態度を取られないかな。ファミレスでは、客や同僚の目もあるから冷たくなかっただけかも。あの態度取られたらきついなあ、とひとりで小さく苦笑していたときだった。
「美沙夜」
はっと顔を上げる。よく見ると、人影が近づいてきていて──かたわらの街燈に照らし出されたのは、早音だった。
「あ……、」
「悪いな。さっきバイト上がった」
「……バイト、してるんだ」
「金がいるから」
早音は隣に腰かけて、慣れた手つきで煙草を取り出した。「吸ってみる?」と言われて首を横に振ると、早音は少しだけ笑った。
あ、大丈夫だ。なぜだかそれが分かった。
それから、早音はゆっくりと自分のことを話した。
またおかあさんの恋人によって祖父母の家に追い出されたこと。相変わらずかわいがってくれなかった祖父母のこと。田舎の偏見に晒されてイジメを受けたこと。おじいちゃんが亡くなって、おばいちゃんに「もう養えない」と施設に行かされそうになったこと。その頃、おかあさんがまた男の人と別れて引き取られたこと。ずいぶん心を閉ざした状態になっていたこと。だから私のことも蛍のことも、もうよく分からなくなっていたこと。いつか手のひらを返されるくらいなら、と思って突き放したこと。私といられる蛍が、蛍といられる私が羨ましくて、気持ちがゆがんでいったこと。中学を卒業してからは、あのファミレスで働いていること。もうすぐ辞めるつもりであること。ある程度の資金が溜まったので、違う町で自活しようと思っていること──
「どこに、行くの?」
「さあ。ただ、あの家からなるべく離れたいから。遠くだ」
「……また、離れちゃうんだ」
「そうだな」
夜風が紫煙の匂いをふわりと舞い上げた。私は膝の上で手を握りしめた。
「もう、戻ってこない?」
「たぶんな」
「会えないの?」
「……分からない」
「いつも、行き先も教えてくれずに行っちゃうよね」
「ジジイんとこの住所教えたら、変に巻きこむかもと思って」
「じゃあ、今度は教えてくれるの?」
「………、さあな」
私は唇を噛んでうつむく。たぶん、教えてくれないのだろうと思った。
「早音がいないと、私、楽しくないよ」
「お前には蛍がいるだろ」
「早音だって、私の大事な人だもん」
「あんなに冷たくしたのに──」
「関係ない、だって早音がほんとはそんな人じゃないの知ってたし。私は早音のこと好きだよ」
早音は私を見た。「あ、」と私は口をつぐんで頬に熱を覚える。
「す、好きっていうか……いや、好きだけど、その……」
「……俺も美沙夜が好きだよ」
「えっ」
早音は煙草を地面に落として潰すと、私を抱き寄せた。どきん、と心臓が跳ねる。早音の肩幅や腕は、いつのまにかびっくりするほど男の人だった。私が固まっていると、「お前には蛍がいるから」と軆を離した。
「俺が消えても、きっと大丈夫だ」
「早音──」
「蛍になら、任せられるしな」
「わ、私、」
「お前と蛍は、ずっと俺の友達でいてくれるよな」
息苦しさを感じた。
友達。友達なの? まだ鼓動が早い。早音の匂い。体温。感触。嫌だ。離れるなんて嫌だ。また、これからも、何度も早音に──
早音は立ち上がった。私はおろおろとそれを見上げた。早音は私の頭をくしゃっとすると、昔の面影のまま微笑んだ。
「また会うときがあれば、俺のことも仲間に入れろよ」
──それ以降、早音には会っていない。高校を卒業して、蛍に告白されて自然とつきあいはじめた。大学生活も何事もなく、穏やかに過ぎていった。第一希望の会社は不採用だったけど、第二希望の会社に何とか採用されて、そこそこ仕事も頑張っていた。そうしているうちに二年近くが過ぎて……蛍にプロポーズされた。
蛍は、中学校の卒業式から早音に会っていない。だから、八年、早音に会っていない。蛍も早音がどうでもよくなったわけではないのは分かっている。むしろ早音が大事だから、早音が残していった私を「幸せにしたい」のだろう。険悪なままの別れだったとはいえ、蛍も早音を信じているのだ。
私も、六年以上早音に会っていない。やっぱり、連絡先なんか何も伝わってこなかった。
今、早音はどうしているのだろう。そればかり考える。置いていった早音は、私のことも蛍のことも吹っ切れているのかもしれない。でも、置いていかれた私たちは──
蛍はひとり暮らしを始めても、私はまだ実家から会社に通っている。零時になる前に地元に到着すると、白く色づくため息をつきながらマンションまで歩いた。
ポケットの中の指輪が妙に重い。早音。私、蛍と結婚するかもしれないよ。そうしたら、私たちは早音の帰る場所じゃなくなるよね。早音なしで「私たち」なんて言いたくない。でも、早音なしで「私たち」になってしまう。そんなの──
あの公園の前で立ち止まった。背後にはもうマンションがある。公園もだいぶ変わった。危ないからとジャングルジムは撤去された。早音はいつもその上で私たちを待っていたっけ。どんどん、早音の想い出が街並みから奪われていく。
そのときだった。
「もうすぐ誕生日終わっちまうな」
背中にかかった声に、はっと身をこわばらせた。
え? 幻聴?
「二十四歳か。おめでとう、美沙夜」
前方を向くまままばたきをして、ゆっくり、振り返る。そこには、二十年以上、私の心を捕らえつづけた人がいる。
無理、だ。そう、やっぱり無理だ。あなたなしなんて、考えられない。あなたなしで、「私たち」なんて言えない。あなたこそ、私にとって必要な人なのに──
ねえ、だからどこにも行かないで。わがままでも、私のそばにいて。早音。あなたなしで、「私たち」になったって──そんな私は、私ではないよ。
FIN