Back to Blue

 ふとんの中にこもって、一日じゅう雨戸も閉めきった暗い部屋で、どうしようもなく不安定な、吐き気そのもののような心を抱えている。
 僕の青春時代は、そんな闇に包まれて葬られた。みんなの中傷する目。気持ち悪い自分の性。そして、こんな僕を病人だと言った先生。
 考えているだけで、持久走のときより息が苦しくなって、指先が震えてきて、死ねば楽になるなら誰か殺してくれと願う。
 たぶん、僕の初恋は小学五年生のときだ。クラス替えが行われた新学期から、女の子たちが「米田よねだくんってかっこいいよね」とこそこそささやきあっていた。窓際一番前の席の僕は、そっと後ろをかえりみて、おもしろくなさそうに窓の向こうを眺める米田くんの横顔を盗み見た。
 小柄な僕と違って、成長しはじめた首や肩、軆つきの骨格は綺麗で、髪はけっこう無造作だけど、射抜くような黒い瞳を持っている。確かにかっこよかった。性格も、あんまり誰かとつるむことなく、無口で、よく面倒そうにため息をついている。
 しゃべってみたら、いったい何が好きで、どんな話をしてくれるのだろう。そんな想像をして、何だかどきどきした。
 話せる切っかけはないかな。仲良くなれたりしないかな。一緒に帰ったりしたい。放課後に会ってもらえたら嬉しいのに。休みの日は何をしてるんだろう。
 ……ううん、そんなことより、僕のほうを一瞬見てくれるだけだっていい。
 一応同じクラスなのだから、まったく口をきかないというわけではなかった。が、言葉を交わしたといったって、ぶつかりかけて「ごめん」と言いあったとか、僕が日直のときに「はい、これ」と集めなくてはならない提出プリントを出してくれたとか、そのくらいだ。
 それでも、ぼそっと聴こえる低い声に僕の心臓は高鳴った。せめて、米田くん、と名前を呼ぶだけでもしてみたかった。そして振り返ってほしかった。しかし、それさえも叶わず、六年生に進級する直前に米田くんは親の仕事の都合で転校してしまった。
 小学生のあいだは、ずるずる米田くんを想って引きずっていた。僕、よっぽど米田くんと友達になりたかったのかな。そんなふうに考え、少し首をかしげた。
 友達、というか、僕のことを見てほしかったな。名前を呼びたかったし、名前を呼んでほしかった。誰とも仲良くしてない人だったけど、僕だけはそばにいられるような、そんな──「米田くんの転校、まだショックだよー」と女の子たちが騒いでいて、「失恋だー」とか「彼女すぐできそうだよね」とか、そんな発言に夜の森の葉擦れのように胸がざわざわしてきた。
 失恋?
 彼女?
 え……あれ、何で、僕、泣きそうになってるんだ。慌てて唇を噛んで顔を伏せた。気づかれないように目をこすった。それでもどうしても涙が止まらなくて、「森川が何か泣いてんだけど」と誰かの声がして、教室は無遠慮に大笑いした。
 米田くん。ああ、そうか。僕は米田くんが好きだったんだ。そばにいたいって、つきあいたかったんだ。でも、米田くんは遠くに行っちゃって、僕は失恋してしまったのだ。
「森川くん、男の子なんだからみんなの前では涙は我慢しようね」
 チャイムが鳴って教室に戻ってきた女の担任の先生は、そんなことを言って僕のつくえにティッシュの箱を置いた。僕は「すみません」と何とかかぼそく言いながらも、今度は別の不安に取り囲まれはじめて、涙が止まらなかった。
 失恋って。米田くんが好きって。ちょっと待ってよ。何で? 僕は男なのに。米田くんも男じゃないか。
 そんなの、知らない。この担任の先生だって、こないだの必死そうな性教育で、男と女が結ばれて新しい命を育むというかたちを解説していた。男と男? そんな説明はなかった。確かに男同士じゃ子供も作れない。なのに、どうして僕は米田くんにあんなにどきどきしていたんだろう。
「同性愛」という言葉より、「ホモ」という言葉が耳に入ってきたほうが早かった。テレビで男の芸人が、共演している男のタレントに無理やりキスをして、「ホモをうつしてやるー!」とか言っていた。何となく親には訊いてはいけない気がして、僕はその夜、『ホモ』を辞書で引いてみた。
『男性同士の性愛。異常性欲のひとつ。』
 ばくんと心臓が跳ねあがって、まるで突き刺さるように胸にぶつかった。
 男性同士。異常性欲。……僕が? 僕はこのホモという奴で、異常な人間なのか?
 どうしよう。どうしよう。異常なら、正常にもできるのかな? どうやったら正常になるのかな? 男なのに男を好きになるなんて、確かに気持ち悪くて異常だ。治せるなら、……治る、なら……
 やがて、中学生になった。僕の自分の性が後ろめたくて、もともと内気だったのに、さらにおとなしくなった。そんな性格に合わせるように、軆つきもなかなか完成しなくて、いつまでも華奢なまんまだった。
 どこからともなく、みんなに「オカマ」と言われるようになった。「ホモ」というあの言葉が刺さってくるときさえあって、それが真実であることに恐怖を覚えて、全身が引き攣るようにわなないた。
 一年生も、二年生も、ひとりぼっちのままひたすらにつらくて、いっそ学校に行くのをやめたかった。でも、学校に行かないなんて大胆な選択肢は、まだ僕の中にはなかった。登校拒否という字を目にしたときも、どうやったらそんなことができる神経が持てるのかと信じられなかった。
 だって、勉強が分からなくなったら? 学校に行かず将来はどうなる? 僕だって、いつかは働いていかなきゃいけないのに、登校拒否なんて軌道が台無しではないか。
 中学三年生になった。そして、新たな教室で出逢ったのが香野先生だった。
 僕たちが中学三年生で、香野先生も教師三年生で、ずいぶん若い先生だった。でも、受験生の僕たちに親身になってくれる熱意があって、とても優しかった。僕がなかなかクラスの中になじめないことも気にしてくれて、声をかけてくれたり、話相手にもなってくれた。僕は香野先生の穏やかだけど力強い瞳を見て、そこにきちんと自分が映っていることに小さく心を震わせた。
 ダメだ、と思った。いけない。もう見ちゃダメだ。このまま先生の瞳を見つめて、あまつさえ微笑みかけられて、こんなの、どんどん……
 夏がはじけ、秋に染まり、受験勉強に集中しなくてはならない時期になっても、僕はそわそわと香野先生のことばかり考えていた。もう分かっていた。僕は先生に恋をしている。
 だって、先生は僕を見てくれる。僕に声をかけてくれる。名前だって呼んでくれるのだ。僕を元気づける優しい笑みには、呼吸が蕩けてしまってかえって苦しくなる。
 冬が深まっていった。僕はついに、はちきれそうな想いを我慢できないのと、もしかして打ち明けても嫌悪しないのではないかという期待で、「相談がある」と香野先生と放課後の教室でふたりきりになった。
 あんまり天気は良くなかった。灰色の雲は重たく、空全体に垂れこめている。ストーブが切られて、灯油のにおいだけが名残る教室も寒かった。風音が響く中、僕がなかなか「相談」を切り出さないので、先生は怪訝そうに僕を見たり、雪でも心配しているのか外を一瞥するときもあった。
 僕は脈打つ心臓が喉元までせりあげ、緊張なのか何なのか吐きそうだった。ああ、どうしよう。言うのか? 本当に言うのか? 言っても本当に大丈夫なのか? 先生が僕の名前を言いかけて沈黙を破ったとき、僕は涙を浮かべながら一気に口を引き裂いた。
「僕、先生のことで勉強に手がつかないんです」
 先生はきょとんと僕の瞳を見つめた。本当に、無垢なくらいの目だった。僕が頭を酸欠で茹だらせていると、やがて先生の瞳には不安が浮かんだ。
「ええと──どういう、意味だ?」
「えっ……あ、」
「先生、森川に何か悪いことしてるのか?」
 先生の口調は柔らかいものの、とまどっている感じだった。悪いこと。違う。そうじゃない。僕は泣きそうになりながら、思い切って、心の中心を奪っているほどの先生への想いを伝えた。
「ぼ、僕、先生のことが好きなんです」
 先生は、また、ぽかんと僕を見つめた。たぶん無意識に、「……は?」と声をこぼした。「分かってます」と僕は言葉をつなげた。
「先生は男だって。でもダメなんです。どうしても、先生のことばっかり頭に浮かんじゃって」
「も、森川──」
「先生、僕、どうしたらいいんですか。僕、初めて好きになった相手も男だったんです。どうしたらいいんですか。僕ってみんなの言う通りオカマなんですか。病気なんでしょうか」
「お、落ち着け。な。分かったから」
 言葉をあふれさせるうち、涙もぼろぼろとしたたっていた。指で大粒をぬぐっても追いつかない。
「そ、その──」
 僕は泣きながらも先生の狼狽を見つめた。まばたきが明らかに増えて、どう答えたらいいのか悩んでいる。でも、先生は『分かった』って言った。僕を否定しないのだ。そうだ、男が男を好きになったって、それは──
「大丈夫だ。俺も協力するから。きっと治そう」
 僕は大きく、ぱっくりと目を開いた。その裂け目は、心に走った傷口と同じだった。
 まだまだ涙が止まらない。
 どんどん血があふれてくる。
 治そう。……治すって。
 そんなの、僕が一番考えた! 真っ先に僕が自分で考えた!! あの日見た『異常性欲』の文字。治せるなら。治るなら。どれだけ切実にそう思ったことか!
 けれど、治るとか、治すとか、そんなんじゃないって、もう……気づいてしまっている。
 いっそ、病気だったらよかった。
 治療できるものならよかった。
 でも僕は病気じゃない。病気じゃないんだよ、先生。
 僕は息を吐くのと一緒に先生を押し退け、かばんも持たずに教室を飛び出した。ばたばたと駆け抜ける足音が静まり返った廊下に反響する。誰ともすれちがうことなく、上履きのまま僕は学校もあとにして、ただ凍るような空気に寒さだけはひしひし感じながら、家まで走った。
 息切れがひどくて、本当に血を流しているんじゃないかと思うほど、心臓が痛い。鍵のかかっていなかった家のドアを開けて中に飛びこむと、僕は玄関にへたりこんでわっと泣き出した。おかあさんがびっくりして顔を出し、「どうしたの、啓太けいた」と僕の肩を揺すぶった。
 僕は嗚咽を吐きながら、「もう学校に行きたくない」とわめいた。何度もわめいた。おかあさんは狼狽えつつも、僕を抱きしめて、「行かなくていいよ」と僕がうなずくまで根気よく繰り返してくれた。
 その後、仕事から帰宅した背広のおとうさんは、僕の申し出にちょっと渋い顔をしたものの、僕よりおかあさんが真っ青になって訴えるので、登校拒否を受け入れてくれた。
 心の病気? そんなものはただの甘えだ。そんな風潮が当たり前だから、僕の家は近所からかなり偏見を受けるようになった。それがおとうさんとおかあさんには申し訳なくても、僕は学校には行きたくなかった。先生の顔を見たくなかった。
 なのに、先生は僕の家を訪ねてきて、話をさせてほしいとおかあさんにことづけしてくる。僕はそれがだんだんストレスになって、何とか紙に『先生の顔を見るのはつらいです。』と書いて、おかあさんに渡した。おかあさんはその文面を見て以降、先生が来たことを僕に伝えなくなった。
 それでも、チャイムが鳴ると、先生がやってきたのだとときどき察知してしまい、僕はふとんの中にこもって耳をふさぎ、目をつぶった。僕は卒業式すら出なかった。先生は卒業式にも僕の家に来て、「力になれず、本当に申し訳ありませんでした」と僕のおかあさんに一瞬だけ涙も見せたという。それから、ついに先生は僕の家に来なくなった。卒業したんだもんな、と僕はほっとしつつも、どこかでは思った。
 本当に、僕は先生と話合いができなかったのだろうか?
 もしかして、先生と話し合っていたら、僕の人生はこんなに台無しにならず、軌道修正できていたのではないだろうか?
 分からない。もう先生と会う機会も気力もない。一生、このままなのだ。
 高校にも当然進学せず、僕は何年も家に引きこもって過ごした。二十歳になったとき、成人式にももちろん行けない代わりのけじめで、両親に自分が同性愛者だと打ち明けた。
 何も事情は語らずに閉じこもってきた僕の種明かしが、ホモだからでしたなんて、ふたりを絶望させるのではないかとすごく怖かった。拒絶されたら、年齢のキリもいいし死ぬかとか思っていた。
 けれど、僕がそんなことを思っていたせいかもしれない。ふたりは予想よりも動揺してみせることなく、「きっと誰かをすごく好きになったんだな」ととうさんは僕の肩をたたき、「素敵な人さえ連れてきてくれたら」とかあさんは涙ぐんで咲ってくれた。
 そんな両親が、すごくありがたかった。初めて受容された安堵感が、沁み入るほどに嬉しかった。けれど、そのぶん僕は家庭内にますます依存し、外出することが本当に滅多とない状態になってしまった。
 ゆいいつ出かけるのが、本屋だった。いつも店番をしている女の子は、僕に可哀想なものを見る目を向けたけど、攻撃や軽蔑、嫌悪の目よりはマシだった。そそくさと毎月買ってくるのはロジックの雑誌で、僕は一ヵ月、これを黙々と鉛筆で塗りつぶして解いて過ごす。気づけばあの冬の日から十年近く経とうとして、僕は二十四歳になっていた。
 その頃から、ロジックの読者交流のページで文通を募集している人と、ときおり手紙をやりとりするようになっていた。その中で特にまめに返事をくれるのが、雅嗣まさしさんという三十歳の男の人で、けっこう遠方に住んでいるのに、僕の地元まで行くので会ってみたいと切り出してきた。
 僕は迷って、正直に今の状況を雅嗣さんへの手紙に書いた。同性愛者とかはさすがに伏せても、中学から引きこもって、いまだにあまり外出しないこと。すると、雅嗣さんは『俺も中卒しかないよ! 高校行かずに、ずっと現場で働いてるような奴。』と返してきた。
 中卒。高校に行っていない。打ち明けるのがすごく恥ずかしかったぶん、僕だけじゃないのか、とやっぱり嬉しくなって、僕たちはいっそう手紙を交換した。そして、もう一度『啓太くんに会ってみたいなー。』と言われたとき、どこかではそれを待っていた僕は、『会いましょう。』という返事を出した。
 本当に最寄り駅まで来てもらうのは申し訳なかったので、その春の日、僕は僕なりの遠出で市街地まで出た。けれど、案の定人混みやら建物やらでわけが分からなくて、僕は迷子になってしまった。
 でも、雅嗣さんのほうがおろおろしていた僕を見つけて、「啓太くん!」と呼んでくれた。はたと顔をあげると、笑顔で駆け寄ってくる男の人がいて、僕は慌てて頭を下げると「初めまして」と噛みそうになりながら挨拶した。
「森川啓太です」
「はは、やっぱり啓太くんだった。あ、江藤えとう雅嗣まさしです」
「あ、えと、僕ってすぐ分かりましたか」
「いや、まあ……ジャージしか服がないとは聞いてたけど、ほんとにジャージだったから」
 引きこもっていると、完全にファッションのセンスが衰退する。まさか、いきなりお洒落な服を買いたいとか親に言い出すこともできず、僕はほとんどいつもと変わらないトレーナーとスウェットでやってきた。やっぱりださいよな、と恥ずかしくなってうつむいてしまうと、雅嗣さんは僕の頭をぽんぽんとして身をかがめ、耳元で言ってくれた。
「大丈夫、かわいいよ」
 僕は雅嗣さんの目をどぎまぎと見つめ返した。雅嗣さんはにこっとすると、「もう迷子にならないようにね」と僕の手を取って、握ってから歩き出した。僕は急いで雅嗣さんの隣に並んで、一緒に街を歩きはじめた。
 僕がふらふら迷っていたせいで、にぎやかな街並みを外れて、やや殺風景な景色だった。そんな中にファミレスが見つかると、お昼も過ぎていたので「おごるからさ」と雅嗣さんは僕を引っ張った。「いいんですか」とか言いつつ、確かにそんなに手持ちもない僕に、「えー、年上にいい格好させてよ」と雅嗣さんは笑う。
 僕はよく分からないままうなずき、雅嗣さんとつなぐ手を見た。男同士なんだけど、と思っても、同性愛者の僕がそれに違和感を唱えるのも変な気がして、どうとも言えなかった。
 ファミレスで僕はドリア、雅嗣さんはハンバーグを食べた。食事をしながら、いろいろ話もした。雅嗣さんは僕のどんな話にもうなずき、共感してくれる。もしかして、僕が同性愛者だということも肯定してくれるのではないか。
 そんなことさえ感じたけれど、やはりそれは言えずにいると、「俺、このあたりにときどき来てたことあったんだよね」と不意に雅嗣さんのほうが話を始めた。
「え、そうなんですか」
「うん。だから、わりと気軽に『あ、啓太くんのところに遊びに行けるな』と思って」
「お仕事で、とかですか?」
「いやいや。俺の仕事、水道屋だし。こんなとこまで来たりしないよ」
「じゃあ、何でこんなとこに来てたんですか」
「んー、まあ、恋人がこっちに住んでたんだ」
「恋……人」
「もちろんもう別れたよ。そいつが……その、男でさ」
「えっ」
 僕は目をみはって雅嗣さんを凝視した。男? 恋人が男? 雅嗣さんは苦笑しながら、じゅうじゅうと鉄板で焼けるハンバーグのひと切れを頬張って、飲みこむ。
「やっぱさ、近所で同性の恋人作るのは怖かったんだよね。だから、周りにばれないように、いつも恋人は遠方に作ってた」
「え……えと、雅嗣さんは、男の人が……」
「そう。ゲイなんだ」
 ゲイ。僕がスプーンを持ったままかたまっていると、雅嗣さんは僕を見つめてくる。
「……違った?」
「は……っ?」
「いや、もしかして啓太くんもそうかなって、会ってから感じてたんだけど」
「え、……ど、どうして」
「そりゃ、同性が手をつないできたら、とりあえずびっくりして振りはらうでしょ」
「あ……」
「啓太くんもゲイなんでしょ?」
 雅嗣さんと見つめあい、動揺でどくどくと鼓動を速めながらも、否定する理由が見つからなくてこくりとした。すると雅嗣さんは優しく微笑み、「もしかしてずっと誰にも言えなかった?」と僕の頭をまたぽんぽんとしてくれる。
 僕は顔を伏せ、思わず涙がこみあげてくるのをこらえきれず、声を殺して泣き出してしまった。「つらかったね」と雅嗣さんは僕の手に手を重ねてくれる。
「俺も若い頃は、孤独感で頭がおかしくなりそうだった」
 僕はうなずき、そのまま、これまで誰にも話せなかったことを雅嗣さんに話していた。初恋のこと。中学時代のこと。先生のこと。雅嗣さんは僕の嗚咽混じりの話に耳をかたむけ、物柔らかに相槌も入れてくれた。
 でも、何やら男が泣いて、それを男が手を重ねて励ましている様子に、周りの視線がちらほら刺さってきはじめた。雅嗣さんもそれに気づいたのか、「出ようか」とうながして、僕はまた雅嗣さんと手をつないでファミレスを出た。
「ゆっくり話せるところに行こう」
 そう言った雅嗣さんに連れられるまま、僕は見慣れない道を歩く。雅嗣さんがこのへんに通っていたというのは本当らしく、迷うことなく道を進んでいる。
 僕はといえば、今、自分がどこにいるのかも分からない。恐る恐る、帰り道は駅まで一緒に来てくれるか頼んでみると、「もちろん」と雅嗣さんはにっこりした。ほっとしていると、「何かちょっと暑いから、このへんでいいかな」とふと立ち止まった雅嗣さんがしめしたのは、ラブホテルだった。
「え……あの、ここって」
「大丈夫だよ、何にもしないから。ここなら、涼みながらふたりで話せるでしょ」
「……はあ」
 そんなに暑いかなあ、とそもそもまだ三月で風は軽やかな気候に首をかたむけても、ふたりで話す場所に行くのを嫌がるのも失礼な気がして、雅嗣さんについていった。
 雅嗣さんはパネルで部屋を選んで鍵を手に入れると、エレベーターで五階まであがった。僕は落ち着かなくて視線を彷徨わせ、唾を飲み込むたびに気分が悪くなる感覚を覚えた。
 部屋に到着すると、雅嗣さんはドアを閉めた。オートロックの音が響き、僕はぎこちなく部屋を見まわした。かなり広く、ベッドやテレビ、なぜかスロットマシーンまであった。雅嗣さんが僕の肩に手を置き、「暑かったでしょ」と笑みを向けてくる。
「先にシャワー浴びておいでよ」
「えっ。いや、僕は──」
「どうせ入ったんだから、浴びちゃいなよ。すっきりするよ」
 でも、ともごもご言ったものの、もしかして実は僕が汗臭かったりするのかなと思ってしまい、それならシャワーを浴びるのがマナーの気もした。「じゃあ、えと、すぐ浴びてきます」と僕は逃げるように洗面所につながるドアに駆け寄り、中に入った。自分のにおいを嗅いでみたけど、人がどう感じるかは分からない。僕はおずおずと服を脱ぎ、だだっ広い浴室に踏みこんだ。
 スポンジが見当たらなくて、手のひらでボディソープを肌に塗っていると、「わ、広いね」という声が背後に聞こえたのでぎょっと振り返った。腰にタオルは巻いていても、全裸になった雅嗣さんだった。
 思わず言葉を失っていると、「はいはい、座って」と雅嗣さんは僕を風呂椅子に腰かけさせた。ボディソープのポンプを引き寄せ、同じく手のひらで僕の軆をまさぐるように洗ってくる。
「あ、あの」
「うん?」
「……何も、しないって」
「しないよ? これは、男同士で風呂入ってるだけじゃん」
 そう言いながらも、僕は雅嗣さんの手によって性器まで洗われてしまった。ざあーっとシャワーで泡を落とされると、「も、もうすっきりしたので」と僕は浴室から逃げ出し、すぐ服も身につけた。
 部屋に戻ると、何なんだよ、とため息をついてベッドサイドに腰かける。ベッドもやたらと広く、シーツは異様に真っ白だ。ベッドスタンドにコンドームがあって、生々しさに怖くなってきた。
 雅嗣さんは、いい人だし。優しい。僕の話も聞いてくれた。同じくゲイ。僕の同性愛者としての苦悩も理解してくれた。
 別に怖いことないじゃないか。そういうことになっても、雅嗣さんなら身を預けてもいいんじゃないか。僕も二十四歳で、興味がないと言ったら嘘になる。これを逃して、また別の機会なんてあるかも分からない。雅嗣さんに、僕の軆を渡しても──
 部屋に戻ってきた雅嗣さんは、相変わらずタオル一枚のままで、僕の隣に腰をおろした。ぎし、とかすかにベッドがきしむ。僕がうつむいていると、「啓太くんが」と雅嗣さんは僕の手をまたぎゅっと握ってきた。
「彼氏になったら、すっごく自慢だなあ」
「えっ」
「カミングアウトしてる友達、何人かいるけど。そいつらに、すっげえ自慢する」
「……僕なんか、自慢になりますか」
「なるよ。かわいいし、性格もすっごいピュアだし」
 何とも答えず、ただ自分の膝に乗っているつながれた手を見つめた。「服着ちゃったんだね」と雅嗣さんは僕の耳元でささやく。
「だ、……って、何にも……しない、から……」
「ほんとに何もしない?」
「えっ……」
「キスだけ、してみる?」
 僕は揺らめく瞳で雅嗣さんを見た。雅嗣さんは僕を見つめ返し、そっと空いているほうの手を頬に添えてくる。あ、と思って、身をすくめそうになった瞬間、雅嗣さんの顔が近づいて、そのまま僕たちは唇を重ねていた。
 ぬるりと舌が口の中に入ってきて、僕はすくんだまま身動ぎもできない。雅嗣さんは僕の口の中をむさぼりながら、つないだ手に体重をかけて僕をベッドに押し倒した。まさしさん、と名前を呼んで制止しようとしたものの、雅嗣さんは僕の首筋を舌でたどり、耳たぶを甘咬みしながら布越しにぴったり性器を重ねる。
 雅嗣さんはすでに硬くなっていた。雅嗣さんがやっとキスをやめて、僕の顔を覗きこんでくる。
「セックス、する?」
 僕は雅嗣さんを泣きそうに見つめた。ここで首を横に振れば、この人はやめてくれるのか? もっと強引に、荒々しい行為になるだけではないか? どうせ同じことをされるなら、優しいほうがマシか。頭が錯落として、どうしたらいいのか分からない。僕は判断力を失ったまま、雅嗣さんから目をそらして、小さくうなずいた。
 そして僕は、初めて男に抱かれた。雅嗣さんは僕の服を脱がせ、性器を丹念にしゃぶりながら、ローションを取り出して後ろをじっくり広げた。人に性器に触れられるのも、まさか口づけられるのも初めてで、僕ははしたなく勃起してしまった。
 雅嗣さんの入れられるんだよな、と思うと、どれだけ痛いのかと怖かった。でも、予想していたようなこじあける痛みはなく、でも、別に僕が気持ちいいわけでもなかった。雅嗣さんは汗を流しながら腰を使い、うめいて「気持ちいいよ」と言っていたけど、僕は快感のないまま雅嗣さんのピストンを受けた。後ろから攻められて、ぼんやりベッドスタンドのコンドームの空きぶくろを眺めていると、異様に虚しくなってきた。
 なぜだろう。僕は香野先生のことを思い出した。先生とこうしたかったなあと思ったわけじゃなく、ただ、先生は僕がその日会ったばかりの男とこんなことをしていると知ったら、哀しんでくれる気がした。何てことをしたんだ、と怒ってくれる気もした。
 先生のことを想って、久しぶりに涙が出て、その涙に「そんなに気持ちいい?」と嬉しそうに訊いてきた雅嗣さんが、急激に気持ち悪くなってきた。
 事が済んだら、「啓太、俺とつきあおうよ」と雅嗣さんはしつこく言い寄ってきた。僕は何とも答えず、「もう帰る」とぽつりと言った。駅までの道のりは暗く、仕方なく手をつないでいたけど、駅に着いたら人目も多いのでさりげなく振りはらった。雅嗣さんは僕の機嫌があまり良くないのを察したのか、パスタの夕食をおごってきた。別れ際には、「また会おうね」と握手させられた。僕は歯切れ悪く「うん……」と言ったものの、身を返したら雅嗣さんを振り返らなかった。
 かたんことんと電車に揺られ、地元まで帰った。時刻は二十一時をまわっていて、車内はぎゅうぎゅうのラッシュは過ぎても、座席には座れない混み合いを見せていた。
 自分のラブホテルの安っぽいボディソープの香りが鼻につき、周りの人に申し訳なくなる。二十分くらいで自宅の最寄り駅に到着して、夜風が優しいホームをふらふらと歩いて改札も抜けた。
 まっすぐ家に帰る気になれない。こんな時間まで外出して、とうさんとかあさんにはどう説明しよう。あてもなく自分の町を歩きまわっていると、十年くらい外出の空白があるのだから、また迷ってしまった。情けなくて涙が出てきた。
 無性につらかった。自分の軆が穢れてしまったように感じる。気持ち悪い。別に好きでも何でもない人と、何てことをしてしまったのだろう。
 ああ、何かもう死にたいな。この軆を捨てたいし、この心を喪いたい。全部終わってほしい。
 そんなことを考えていると、どこからか、かんかんという踏切の音が聞こえてきた。初めて自分が線路沿いに出ていることに気づいた。迷っているうちに、ひと駅くらい歩いてしまったようだ。誘われるように踏切までたどりついた。
 ここに飛びこんだら、死ねるのか。ぼうっとそんなことを思いつつ、踏切が断続的に開いたり降りたりするのを見ていた。そんな僕は、明らかに自殺を考えている人間に見えたのかもしれない。「すみません」と突然声をかけられて、びくんと振り向くと、そこには警察の制服を着た男の人が立っていた。
「ええと、ちょっと、あなたが危ないかもって通報がありまして」
 僕は硬直し、はたからもそんなふうに見られていたことに頬を発火させた。
「失礼ですが、変なことは、考えていませんよね?」
 おまわりさんを見上げると、僕は急にうめき声をもらし、その場にしゃがみこんだ。おまわりさんは驚いて、すぐ膝をついて僕を覗きこむ。
「どうしたんですか? もし気分が悪いなら──」
「僕、……僕なんか、死ねばいいんだ」
「えっ」
「どうせ、病気だし。治らないし。死んだほうがいい」
「………、」
「もう死にたい。全部消したい」
 おまわりさんは、子供みたいに泣き出した僕を困惑して持て余していたけど、「とりあえず、ここでは住民の方が心配するので」と僕の肩を担いで立ち上がらせる。
「交番行きましょう。そこで、話ぐらいなら聞けますので」
 おまわりさんの紺色の制服は糊のきいた匂いがした。僕はぐちゃぐちゃで、連れられるままおまわりさんと交番に行った。あまり広くない交番には、ほかに誰もいなくて、僕はデスクの向かいの椅子に座らされた。
 おまわりさんは湯飲みにお茶に淹れると、僕に渡し、デスクにおさまっていた椅子を持ってきて、僕の隣に腰をおろした。僕はしずしずと熱いお茶に口をつけつつ、今日は何かと泣きすぎたなと、頭の中が腫れているように感じた。
「何か、ご病気なんですか?」
 おまわりさんが不意に口を開き、「えっ」と僕ははたと顔をあげる。おまわりさんは涼しい目元をした精悍な顔立ちで、年齢は僕とさほど変わりそうになかった。
「さっき、治らない病気だって」
「ああ……」
 完全に捨て鉢な気分だったし、この人とまた会うこともないだろうと思ったので、僕は吐き捨てるように言った。
「ゲイなんです」
「はっ?」
「男が好きなんですよ。男なのに」
「………、」
「気持ち悪いですよね。僕も自分が気持ち悪いです」
「いや、そんなことは……」
「いいですよ、そんなもの治そうとか言われてきましたし。病気ですよ」
「……それは、本当に命に関わるご病気の方に失礼ですよ」
 僕はおまわりさんを見た。
「異常な変態と一緒にしてるからですか?」
「そうではなくて、あなたは別に病気じゃない。なのに、病気だから死にたいなんて──病気で命が危ないなら、そんなことは逆に考えられないですよ」
 湯飲みをぎゅっと手のひらに抱きしめた。病気じゃ、ない。僕は病気じゃない……
「でも……僕、もう、汚れちゃって」
「汚れる」
「今日初めて会った男の人に、ホテル連れていかれるの断れなくて、最後までされちゃって」
「………」
「もう、ダメなんです。生きてるのが恥ずかしい。好きだった人が、もし、今の僕をしかってくれるなら頑張れるかもしれないけど。もうその人はどうしてるか分からないし、僕は男が好きな自分を頑張って生きられない」
「好きな人がいるんですか」
「……十年くらい前なので、失恋してます」
「十年」
「ずっと引きこもりだったから。それを、やっと外に出て、会いにいった人が……何か、たぶんあの人は僕としたかっただけなんですよね」
「十年ぶりに外に出かけたんですか」
「はい」
「すごいじゃないですか。じゅうぶん頑張りましたよ」
 僕はまばたきをしておまわりさんを見た。ずっと渋い顔をしていたおまわりさんが、ようやく笑顔を見せてくれていた。「そっか」とおまわりさんは嬉しそうにうなずく。
「十年引きこもってたのに、外に出れたんですね」
「……でも、出たら、あんなことされちゃったし。こもってたほうがよかったです」
「そんなことないですよ。まあ、その男は確かに許せないですけどね。俺が殴ってやりたいな」
 そう言ってこぶしを振ったおまわりさんに、僕もようやくわずかに咲ってしまった。するとおまわりさんも微笑み、「もしその男が」とふとまじめな顔になる。
「つきまとうとか、そういうこと始めたらすぐ俺に通報してください。それは俺の仕事なんで」
「……はい」
「死のうとかは考えちゃいけませんよ。そういうときは、この交番に来て俺に何でも話してください。聞くだけならできるんで」
「そういうのも、お仕事なんですか」
「いやー、あはは、それはカウンセラーさんの仕事ですね。あ、近くの心療内科を探しておいてみましょうか」
「いえ、……えと、おまわりさんが迷惑じゃなかったら、話してほしいです」
「俺、何もアドバイスできませんよ?」
「でも、僕が病気じゃないって、初めて言ってくれたから」
 おまわりさんはまじろいだあと、照れ咲いをして「じゃあ、いつでもここに寄りにきてください」と言ってくれた。僕はこくんとして、お茶を飲み干す。
「家に帰ります」と言うと、「あ、通報だったので、一応名前とか書いてもらうの規則で」と台帳のようなものをさしだされ、僕は素直にそれに記入した。「ひとりで帰れますか」と心配されたが、さっきの線路沿いに歩いて最寄り駅に戻れば大丈夫なので、うなずいた。
「もし森川さんがここに来なかったら、心配なので、家に伺うかもしれませんが」
 台帳で僕の名前を認めたおまわりさんが、悪戯っぽく言って、僕は「また、おまわりさんに話聞いほしいので、よろしくお願いします」と頭を下げた。おまわりさんは微笑し、「俺の名前、海潮うしお志郎しろうっていいます。おまわりさん呼び照れるんで、名前で好きに呼んでください」と言った。
 海潮志郎さん。僕はこっくりとすると、「ありがとうございました」ときちんとお礼を言って、交番を出た。振り返ると、海潮さんは帽子の下でにっと咲ってくれる。その笑顔に僕も頬を綻ぼせると、よし、と夜道を歩き出した。
 その日は、帰宅すると両親にめちゃくちゃ心配された。一応「文通してた人と会ってきてた」と嘘ではない説明をして、それでも危ない人ではなかったかと言われたけど「大丈夫だった」とそこは嘘をついた。
 そうして、まずはしっかりとシャワーを浴び、いつもの石鹸の匂いで軆を包んだ。髪を乾かして、歯も入念に磨くと、部屋のふとんの上に座って、今日は疲れたなと吐息をついた。でも、結局は海潮さんに逢えたからよかった。雅嗣さんのことを思い出すと、ぞわりと嫌悪感が背筋を這いそうになるけど、それより海潮さんのやんちゃな笑顔がまぶしかった。
 両親に対しては、文通相手は海潮さんだったということにして、僕は家を出るとひと駅歩いて、海潮さんのいる交番をときおり訪ねるようになった。海潮さんはもちろん、もうひとりの年配のその交番のおまわりさんも、僕を邪慳にせず受け入れてくれた。
 海潮さんは僕の話を聞いてくれる。つらかった話ばかりでなく、両親が僕の性指向を認めたことやロジックが得意なことも聞いて、楽しいことを話して咲うことを教えてくれた。海潮さんはあまり自分のことを話さないのが、ちょっとだけ寂しかったけど、僕から根掘り葉掘り訊けるものでもない。
 やがて過去を思い返す話題は尽き、それでも海潮さんと話したかったから、テレビを見たりロジック以外の雑誌も読んだり、僕は時代のことを知るようになった。そんな生活は、僕の外出の訓練にもなった。帰りにスーパーに立ち寄り、かあさんに頼まれていたものを買って帰るぐらいにもなった。
 あっという間に月日が流れ、僕は二十六歳、海潮さんは二十八歳の冬になった。交番で僕たちは相変わらず談笑していた。外にじわりと夕焼けが滲みかけているのに気づき、「そろそろ帰ろうかな」とすっかりタメ口になった僕が言うと、「啓太」ととっくに僕を弟みたいに呼び捨てにする海潮さんが呼び止めてきた。
「うん?」
「今度、さ」
 海潮さんは何やら緊張を見せていて、首をかたむけた僕に、躊躇いがちに言葉を続ける。
「俺の非番に──その、どこか、ふたりで出かけようか」
「えっ?」
 思いがけない申し出にどきっとかたまると、「というか」と海潮さんはわずかに頬に色をさす。
「観たい映画があってさ。一緒にどうかなとか」
「い、いいの……?」
「俺はぜんぜん。でも、啓太──」
「僕もっ、海潮さんが、大丈夫なら」
 さえぎるように勢いよく言うと、海潮さんは照れるように咲い、「じゃあ、今度、一緒に映画観よう」と言った。僕はふわふわする感覚を覚えながら、何度もうなずき、一気にどきどきしてくるのを感じた。
 海潮さんと映画。ふたりで。デートみたい、なんて思って、慌てて首を横に振る。海潮さんはストレートだ。それは聞いている。ただ、友達として遊んでくれるだけだ。でも、そうだとしても、海潮さんが僕のために時間を作ってくれるのは嬉しかった。
 浮き足立ちながら家に帰り、郵便受けを見ると、新聞しか入っていなくてほっとする。『江藤雅嗣』という差出人の手紙は来なくなった。もちろん、あのあとには何通も送られてきた。僕が返事を出さなくても送られてきて、僕は封も切らずにゴミ箱に捨てていた。しかし、その執拗さに辟易とした頃、一度だけ返事を書いた。ただ短く、雅嗣さんにされたことを警察に相談していると。それでようやく、あの人からの手紙は止まった。
 海潮さんの次の非番は、偶然にもクリスマスイヴだった。クリスマス当日は、もうひとりの年配のおまわりさんが、家族サービスのために非番を希望したらしい。
 朝、僕が出かけようとしていると、「もしかしてデート?」なんてかあさんが揶揄ってきて、僕は頬を染めて「友達だよっ」と言いながら家を出た。吐く息が白い。凍るような空気に身震いして、あの日の時期か、とやっぱり今年も思った。
 海潮さんとは僕の最寄り駅で落ち合った。黒のオーバーにカーキのパンツ、私服の海潮さんを見るのは初めてで、またどきどきした。「啓太、いつもよりかっこよくしてるじゃん」と言われて、確かにこの日のために精一杯服を選んだ僕は、「だって、ジャージだと、あの、その……」ともぐもぐ言って、海潮さんをからからと笑わせてしまった。そして、「じゃあ行こうぜ」と海潮さんは僕は肩をぽんとして、僕は慌ててその隣に並んだ。
 海潮さんが観たいと言った映画は、『水空』という映画だった。監督と主演の女の子の名前は、僕でも知っていた。内容もけっこう話題になっていたから耳にしている。確か、同性愛を取りあつかった作品だ。
「ほんとにこれ?」と確認すると、「天海あまがい智生ともきはいいぞー」と海潮さんは監督の名前で推してきた。もしかして内容知らないのかな、と「ゲイの話だよ」とぼそっと言うと、「だから啓太と観るんだよ」と海潮さんは苦笑いしてチケットを二枚買った。
 上映時間が近づいてシアターに入場し、周りをさっと見まわすと、手をつなぐ男同士や腕を組む女同士がちらほら見つかった。海潮さんはポップコーンをむしゃむしゃとしながら、無頓着な面持ちをしている。何で僕とこの映画なのかな、とよく分からずに烏龍茶をストローですすっていると、場内が暗転して予告が延々と流れたあと、映画本編が始まった。
 思っていたより、激しい映画だった。いきなり教室での中学生の性描写だし、ゲイへの偏見も削らずに描かれているし、何よりゲイカップルのあいだでは暴力行為が行なわれている。
 でも暴力を受ける側の少年はそれを「愛の汚物」と表現し、同性愛は汚い、なぜなら同性愛も恋愛だから、と言い、僕ははっとした。暴力を振るう側の男には、昔は辞書に同性愛は『異常性欲』と書かれていた、だから治ると思っていたという台詞もあって、僕は無意識に息を止めてしまった。
 少年はひたむきに男を愛している。男は不安にさいなまれながら少年を愛している。そのアンバランスを、主人公の少女は淡々と見つめる。少女の無関心な瞳にさらされ、次第に男は自分の性が「わざわざ目を止められる奇異なものではない」と悟りはじめる。ラストシーン、男と少年は少女に見送られて、束の間の駆け落ちとして、手をつないでふたりで遠くの町に旅立つ。
 そのラストシーンに泣きそうになりながら、息苦しいほどに思った。ああ、僕も、一緒にどこかに行ってしまえる人がいればいいのにな──RAG BABYというバンドの主題歌が流れるエンドロールの中、ふと右手に温もりを感じて、僕ははっとした。海潮さんが、僕の右手に左手を重ねている。
「……あ、」
 心臓が跳ねて、海潮さんに顔を向けつつも狼狽えてしまっていると、海潮さんは僕をまっすぐ見つめながら、抑えた声で言った。
「啓太」
「う、うん」
「俺、辞令が下ってさ。春には転勤するんだ」
「えっ」
「町を離れることになる」
 目を見開いて海潮さんを見つめた。
 辞令。転勤。……海潮さんが、遠くに行ってしまう?
 え……。
 そんな。
 やだ。
 置いていかないで。
 とっさにそんな感情が渦巻いて、でも何も口にできずにいると、海潮さんは一度うつむき、そののちもう一度僕を見据えると、はっきり言った。
「一緒に、来ないか」
 驚いて海潮さんの目を見る。海潮さんは、真剣なまなざしで僕を捕らえている。
 一緒に。……一緒に。
「で……も、海潮さん、は」
「そうだな。ゲイ……ではないよな。たぶん。でも、何かよく分からないけど、啓太のそばにいたいと思うんだ。啓太に俺の隣にいてほしい」
「海潮さん……」
「……ダメ、かな」
 海潮さんの視線がしゅんとしぼんで、僕は急いで首を横に振りながら、涙を我慢できずにぽろぽろこぼしてしまう。「啓太」と不安そうに名前を呼ばれて、「嬉しい」と僕は嗚咽に紛れそうになりつつも言った。
「僕も、海潮さんといたい。離れたくない」
 涙で視界がぼやけて、何にも見えない。それでも、海潮さんが咲ってくれたのは分かった。いつのまにかエンドロールも終わっていて、僕たちに近づいて「おめでとう」と声をかけてくれるカップルもいた。それがすごく温かくて、僕はますます泣いてしまって、「あー、もう」と海潮さんは困ってしまったように笑ってから、僕の頭を抱き寄せて髪をくしゃくしゃに撫でてくれた。
 映画館をあとにして地元に帰ると、海潮さんはそのまま、僕の家に挨拶に来た。とうさんが仕事から帰宅して、両親が揃うと、海潮さんはふたりに頭を下げて、転勤に僕を連れていきたいということをきっぱり伝えた。
 とうさんとかあさんは驚いていたけど、海潮さんの隣ではにかむ僕を見て、力強く首肯して承諾してくれた。「幸せになれ」ととうさんは励ますように言い、「素敵な彼を見つけたね」とかあさんも微笑んで言った。クリスマスイヴの夜は、四人で楽しく過ごした。
 僕は引っ越しの準備を始めるのと一緒に、ずっと閉ざしていた雨戸も解放してみた。部屋の中にきらきらと冬の陽光が満ちる。明るい室内で、てきぱきと荷物を分けていく。時間が止まっていた部屋だから、中学時代の教科書や学ランなんかも出てきて、ひとりで笑ってしまった。
 海潮さんと一緒に引っ越す予定の町にも出かけて、物件を見てまわった。不動産屋さんには、一応、カップルの同棲でなく、友人とのルームシェアとして自己紹介しておいたけれど。そしてふたりで暮らす部屋も決まり、桜が咲きはじめる春が来て、僕は海潮さんと共に、長年暮らした、長年閉じこもった町を、晴れやかな笑顔で出ていった。
 生まれ育った町とは、ずいぶん遠くの土地だった。そこで僕は、志郎さんと呼ぶようになった彼と、順調に同棲を始めた。ぜんぜん働いたことがない僕のぶんまで、志郎さんは仕事を頑張ってくれて、僕もせめて家事は担ってあげられるように努力した。
 毎朝、同じふとんで寄り添いあって眠る志郎さんより三十分早く起きて、お茶を飲んでから朝食を作る。今朝はチーズトーストとベーコンエッグ、サウザンドドレッシングをかけたレタスたっぷりのサラダ、それから昨夜の残りだけどかぼちゃのスープだ。
 スープをちょっとおたまですくって舐めて、熱さを測っていると、「おはよー」といつのまにか起き出した志郎さんが、甘えるように僕の背中をぎゅっと抱きしめてくる。僕はくすぐったく咲いながら「おはよう」と答えて、おたまを置いてから「ごはんできるよ」と志郎さんのぼさぼさの頭を撫でる。
「ん……食べる。眠い」
「もう、どっちかにしないと」
「はは。うん、じゃあ啓太」
「僕?」
 きょとんと振り返ると、志郎さんは僕の唇に唇を当てて、「へへ」と咲ってから朝食の支度をしている座卓へと向かった。僕は唇に触れて、嬉しさと恥ずかしさでもじもじしてしまったけど、「コーヒーだよねっ」と志郎さんに問うて「おう」という返事を聞き届けると、インスタントだけど、豊かな香りのブラックコーヒーを淹れはじめる。
 僕には青春の頃がない。その頃、僕は暗い部屋に閉じこもって、何もかも拒絶して、ただ死にたいと思っていた。
 多くの人が青春時代に大切なものを得るのだろうけど、僕はむしろその頃にすべてを失った。だけど現在、愛する人と暮らして、触れあって、どきどきして、愛されて──僕は取り返している。失われた青い時代を、もう一度やり直している。
 そう、僕はやっと、あの時代に満たされるはずだったものを取り入れているのだ。まばゆいほどの青に帰り、今、瑞々しいぐらいの恋をしている。

 FIN

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