夜野灯里のことは、小学生に上がったときから知っている。でも、幼なじみというほどの関係ではない。
夜野とは同じクラスになることが多かった。そんなに広いわけでもない町で、小学校、中学校、高校まで同じで、彼女が同じクラスにいなかったほうが少ない。
夜野のあだ名が「蝶子さん」である理由を知ったのはけっこうあとだったりする。名前の字面でホステス、夜の蝶、蝶の子というわけだ。親が水商売をやっているわけではないらしかった。
しかし、それを知った男子連中に「カイコさん」と呼ばれるのは不憫だった。夜野もめちゃくちゃ嫌がっていた。蚕は蛾の子なんだよなと俺は内心突っ込みつつ、いちいち注意はしなかった。
高校生のとき、そんな夜野にも彼氏ができたとかうわさも聞いた。率先してカイコさんと揶揄っていた野郎はなぜか泣いたらしい。俺としては「ふーん」でしかなかった。
大学生になって、さすがに夜野とはキャンパスが違ったが、地元は相変わらず同じだから駅前とかでたまに見かけた。
そうして、俺も夜野も社会人になった。夜野は自立して、この町を引っ越していったらしい。いよいよ、長年の暗黙の接点はなくなった。
一方、俺は大学卒業後も内定が取れなかった。ブラックなうわさがある会社を排除していたら、結果的に高望みになってうまくいかなかった。というわけで、小遣い稼ぎと思ってバイトに勤しむ日々だ。
バイトのあとは、駅前のファーストフードで夕飯を食う。ショウウィンドウに面したカウンターが、空いているからお決まりの席だった。せっかくのバイト代は、ほぼこのファーストフードで消費している。家の食卓だと、就職しないことを親にちくちく言われるのが嫌なのだ。
その日も、発売されたばかりのグラタンコロッケのハンバーガーを食べていた。とろりとクリーミーなホワイトグラタンと、さくさくの衣に染みこんだソースが絶妙にうまい。熱々のグラタンソースがこぼれないように食べていると、ふと隣の席に誰かが座った。
「青原ー」
いきなり名字を呼ばれたので、ビビりながら隣の客を見た。そして目を開いた。
そこにいたのは、髪が腰まで伸び、黒地にピンクのラインが入った上下ジャージという恰好をした、夜野灯里だったのだ。
「……え、えっ?」
「ちょっとさあ、話聞いてよ」
「はい?」
「彼氏が新しい女と暮らしたいって、あたしのこと部屋から追い出したのよ」
「………」
「しゃーなしだから実家戻ったけど、親には当然男と同棲始めてたとか言ってなくてさ。就職して自立するっつって出ていったから、どんどん辻褄合わなくなってて……マジで気まずい」
「そ、そうか」
「だからここでぐだぐだしてたら、青原が来たから何か笑ったわ」
「何で笑うんだよ」
「いや、さっそく登場で笑うだろ」
夜野と話すのは、あれだけ長年視界に映っていたのに初めてかもしれない。いや、それよりも変わってないって失礼だな。
「養ってやるって彼氏が言うから、あたしほんと仕事してなくてさ。あ、だけど代わりに家事は上達したんだよ。何とあたしは、オムライスをたまご破らずに包めます」
何だよ、この会話の流れ。そう思いつつ「それ普通じゃね」と俺が返すと、「普通じゃないよ!」と夜野は憮然と反論した。
「俺の彼女、破れたオムライスなんか出したことねえぞ」
「え、彼女いるの?」
「いるよ」
「そうか」
「文句ある?」
「爆発しやがれ」
「どうも」
「いらっしゃいませー」とか「ありがとうございましたー」とかの雑音が流れる謎の沈黙のあと、ずずず、と夜野は音を立ててドリンクを飲んだ。
「給食にカレーが出ると泣いてた青原に、彼女か」
「………、あれはにんじんが嫌いでな」
「シチューでも泣いてたもんな」
「にんじんまずくね?」
「この歳で、にんじんまずくね? とか言ってることがまずい」
「るせえな」
「にんじんは菓子に使うとうまいぞ」
「そういうのは食えるけど、ごろっと入ってるのが無理」
「青原って、意外とお子様か?」
「夜野もイメージが違うんだよ」
「イメージ」
「あ、だけど、カイコさん呼びされたら、泣くんじゃなくて殴ってたな……」
「ふざけんなよ、何でそんなの憶えてんの!?」
いまだに地雷ではあるらしい。俺が飄々とするままハンバーガーを頬張ると、「マジでないわ」と頬杖をついた夜野は、空になったらしい紙コップをテーブルに置いた。
「まあ……彼女のこと、大事にしろよ」
「おう」
「浮気すんなよ」
「分かってる」
「浮気されると、かなりつらい」
俺は夜野に横目をする。夜野はかったるそうに天井を仰いで、「そろそろ帰るかー」と席を立った。
俺が特に何か言うこともなくハンバーガーをもぐもぐしていると、夜野はゆらゆらした足取りで席を離れる。ダストボックスに向かい、氷とカップを分けて捨てると、あくびをしながらファーストフードを出ていった。
何だよ。
どういう女に育ってんだ。
あんな変な奴とは知らなかったな、と俺は静かに思い、グラタンコロッケと共にはさまれる瑞々しいキャベツを噛みしめた。
バイトがあった日は、俺は必ずファーストフードに寄る。ただのバイトなのに週五勤務だから、ほぼ毎日だ。店員に顔を覚えられているかなど、どうでもいい。ただ、夜野も俺の習慣を把握してきて、なぜかそのファーストフードに出没しはじめた。
夜野はニートのままであるらしい。金はない様子だ。俺も奢らない。だから、夜野が注文するのはコーヒーのSサイズだけだったりして、これは店からしたらうざいかもしれないと他人事ながら思う。
俺を見つけると、夜野は隣に移動してきて、別れた彼氏の愚痴を連綿と聞かせた。俺にそういうのを聞いてやる義理はないし、そんなに未練があるなら彼氏本人にでもぶつけておけばいいのに。まあ、真剣な相槌は求めてこないので上の空のまま聞いておいた。
そんな毎日を過ごしていると、急に毎日が寒くなった。十二月になっていた。大学を卒業して以来、ずっと俺のうだつは上がらない。年内には変わってやるとか決意することもなく、年の暮れが迫ってきた。
彼女の幸奈にクリスマスの夜に会いたいと言われていたので、その日は予定を開けておいた。幸奈は大学時代に後輩として知り合った子だ。いつもの駅前で、たいてい俺が少し待たせてしまうのに、その日は幸奈のほうが少しだけ遅れた。
「創也くん」
とりあえず、よく行くカフェで今日行きたい場所をふたりで決めようと歩き出した。しかし、幸奈はその場を動かないまま、硬い声で俺の名前を呼んだ。
振り返って、幸奈の表情を見て、俺は何だか理解してしまった気がする。
「クリスマスに会いたいって意味、分かった……?」
「え」
「毎年クリスマスイヴだったのに、今年はクリスマスってこと、変に思わなかった?」
別に──なんて言えるはずもなく、視線を落とす。幸奈の薬指には、プレゼントした憶えのないリングまであった。
俺は幸奈を見つめ直した。
「……好きな人、できた?」
今度は幸奈が視線を落とした。
「友達には、創也くんより彼を選んだほうがいいって言われてる」
「友達って……」
「彼は内定決まってて、春にはちゃんと就職する人だから」
顔でもない。性格でもない。スペックかよ。
「イヴも彼と過ごしたの。ちゃんとデートコース決めてくれてて、エスコートしてくれた」
「……楽しかった?」
「大切にされてるって思った」
「そう……」
「創也くんが嫌いになったとか、飽きたっていうのではないの」
「無理しなくていいよ」
「無理っていうか、」
「俺は幸奈の気持ち優先でいいよ。そいつが好きなら止めない。でも、友達みたいにそいつにしろって君に押しつけることもしない」
「押しつけって……友達は私の幸せを考えてくれてっ」
俺はうんざりしたため息をついて、クリスマスの夜の雑踏へときびすを返した。無言で歩き出すと、幸奈が追いかけてくる。
「創也くん」
「もういいよ、無理することない」
「無理なんてしてない、ただ創也くんに私の幸せを考えてほしくて」
「それは自分で考えることだよ」
「じゃあ、私が彼とつきあって、幸せになれなかったときには責任取ってくれる?」
は?
俺は足を止め、少し信じられないまま確認した。
「それって、俺をキープしておきたいってこと?」
「そうじゃなくて……」
「幸奈がそいつとつきあって幸せになれなかったら、そいつとは別れて俺とまたつきあおうってことだよな?」
「っ……」
「……はは、俺はその男に同情するわ。じゃあな」
幸奈の泣きそうな顔は視界に入ったが、目をそらして駅前の人混みに紛れこんだ。どこかで流れる幸せそうなクリスマスソングにいらいらした。
そのまま電車に乗って地元に帰り、いつものファーストフードの前を通りかかった。ショウウィンドウを見て、カウンター席に夜野がいることに気づいた。こいつもヒマだな。そう思ってガラス越しの正面で足を止めたことで、夜野も俺に気がついた。
夜野はにっとすると、空席をしめすように隣の椅子をたたいてみせた。そうだな、今日は俺が愚痴るか。そう思ったので、俺はおとなしくファーストフードに踏みこんだ。
「青原ー。しけた顔だな」
「彼女と別れてきたから」
「あれだけ浮気はするなと」
「浮気したの彼女のほう」
「マジ? 肉食だな」
「子羊みたいな子と思ってたのに」
「そういう女、実はゲスだから」
「………、とりあえず食いもん頼んでくる」
俺はチキンハンバーガーとフライドポテトのL、コーラをセルフで注文して、全部乗ったトレイを受け取って席に戻った。
夜野は相変わらずSサイズのコーヒーだけだ。「嫌いじゃなきゃ食っていいぞ」と俺はフライドポテトを分けてやることにした。
「ソースある?」
「ナゲットは買ってないんだよ」
夜野はむくれつつも、素直にフライドポテトをつまむ。俺もチキンハンバーガーに咬みつく。じゅわっとした肉汁に、今年のクリスマスチキンはこれになりそうだななんて考える。
「浮気されて、振られたの?」
「俺が振ったような感じになった」
成り行きを軽く説明すると、途中から夜野は「うわっ」と声を何度も上げて、最終的に「女子だなー」とつぶやいた。
「そういう女とは、別れてよかったとあたしは思うよ」
「そうだな。そう思っとく」
ショウウィンドウ越しに、この小さな駅前も夜色に染まっていく。連れ立って歩いているカップルもちらほらしている。微笑みあうカップルに、またいらいらした神経が戻ってきた。
「夜野は、いい加減に吹っ切れたのか」と何となく問うと、「微妙ー」と間延びした声が返ってきた。
「忘れたいんだけどねー」
「同棲までしたんだもんな」
「やっぱ今頃、彼女とうまくいってんだろね」
しばらく無言で、ふたりともドリンクを飲んだ。コーラがしゅわっと舌から喉へとはじけていく。
「今、あたしたち通夜みたいな雰囲気だな」
「クリスマスなのにな」
「よし、今夜は一緒に過ごすか」
「何でだよ」
「何となく」
「寂しすぎんだろ」
「えっ、あたしも青原も気が紛れて、利害一致かと思ったよ」
「………、家にはいづらいな。彼女の存在は親に話してたから」
「あたしも親にだいたい感づかれてきてるー。うざー」
俺たちは、揃って陰気なため息をついた。
「確かに、この状態でひとりでいるのはきついな」
「母校の夜の学校行くか」
「行かねえよ」
「ほかに過ごせるとこある?」
「こんな田舎の駅前にネカフェはないしなー」
「あ、ラブホあんじゃん」
「ねえよ」
「車道沿いに出たらあるって」
「それは知ってるけど、夜野とラブホに行くという概念が俺にはねえんだよ」
「えーっ、カラオケついた部屋で歌って、ピザをデリバリーして食い散らかして、テレビで他人の性の夜を見て笑おうぜ」
俺はチキンハンバーガーを無言で咀嚼する。そういう場所で、男がしょせん我慢が効かないことをこいつは考えないのだろうか。さっさと乗り気になった夜野は、「よっしゃー」と席を立つ。
何で哀しくて、クリスマスの夜に性欲との耐久勝負になるのだ。まったく理解できないものの、夜野が勝手に盛り上がっているので、俺もチキンハンバーガーを食べ終えると立ち上がった。
線路が通る歩道から、車がメインになる車道沿いまで、けっこう歩く。骨まで刺さる寒さに肩が縮み、俺は手をポケットに突っ込んだ。先を行く夜野の長い髪が、ひらひらと風に揺れている。
「青原」
「ん?」
「あたしたち、小学校のときから一緒だよね」
「……一緒か?」
「同クラにはたいてい青原がいた気がする」
「あー、それは俺も思う」
「話とかはしたことなかったね」
「だな」
「でも、青原がクラスの中にいると、とりま知ってる顔でほっとしたんだよなあ」
俺は夜闇に溶けそうな夜野の後ろすがたを見つめた。
これは、手ぐらいつかむタイミングか? 何なら肩を抱くのか?
ふと夜野が振り返ってきて、俺はその微笑む顔を見つめた。老けたけど。幼い頃から観てきた面影はやっぱりある。
せまい歩道で、俺は夜野の隣に並んだ。夜野は俺を見上げる。見つめ返していると、キスくらいはいいのかなとくらくらしてくる。
そっと、夜野の指先に指を絡めた。お互い冷たい指なのに、なぜか触れ合わせているとほのかに熱が灯る。
しかし、それだけだった。夜野の顔を覗きこむことも、同じ目線に腰をかがめることも、俺にはできなかった。
ただ、並んで歩く。やっと出れた車道では、時速を飛ばして車が行き来している。
「夜野」
「ん?」
「ラブホやめて、母校行くか。小学校」
「マジ?」
「俺たちのこと知ってる先生、まだいるかな」
「それはどうだろ。小学校なら、二十年くらい前じゃん」
けらけらと笑いながら、夜野は俺の手を握る。俺も少しだけ握り返す。
「遠足みたい」
「遠足?」
「青原は優しいな。別に好きとかないけど、すでにいろいろ知られてるから安心感ある」
「俺は別に夜野のこと詳しくないけど……」
「あたしのこと、『カイコさん』って絶対呼ばなかった男子は、青原くらいだよ」
「いや、カイコは蛾の子で、蝶の子ではないなと思ってただけで」
「それはそれで、あたしが芋虫青虫になるんだけど」
「そうだな」
「そうだなじゃないわ、ったく……。よしっ、じゃあ後輩たちの終業式を終えてくたくたになってる先生を突撃しよ!」
夜野にぐいと手を引っ張られた。小学校のあるほうへと急に方向転換した彼女についていく。
夜野灯里とは、小学校のときから一緒だった。でも、特に築いているものなんてないと思っていた。だが、いつのまにかこんなに不思議な信頼が成り立っている。
この距離感が心地いい。壊したくない。壊したくないものがある。よく分からない絆のようなものが。
お互いの視界の中に、自然とお互いがいた。それが日常になっていた。だから、こうして並んで歩くのも悪くない。
大切なものに気づいた心は、夜に灯る明かりのように明るく、俺もまた安心感に包まれている。冬空を見上げると、ひんやり冷えた空に浮かぶ星と月も、幼い頃から変わらない輝きだった。
FIN
