二十歳になった冬、成人式の数日後に大学の友達と集まって、初めて飲み会というものをやってみた。
みんなで「どのお酒が強いの?」とか「まずくない奴から飲みたい」とか、初心者全開で居酒屋の掘りごたつでメニューを覗きこむ。本当に飲んだことのない子もいれば、まあ少しぐらい飲んでいた子もいる。私はぜんぜん飲んだことがない。「倉橋は飲んだことある?」と隣で頬杖をついていた倉橋に訊くと、「俺はチューハイでいいや」と返ってきた。
「いや、私に注文するなよ」
「グレープフルーツ」
「知らないって。え、それはおいしいという情報なの?」
「お前、炭酸いける?」
「無理」
「カシスオレンジかファジーネーブルでも飲んどけ」
「初心者はカルアミルクとか聞いたことが」
「カルアミルク飲んだことないから知らね」
使えないと思いつつ、カシス何とかとファジー何とかをメニューから探していると、「さーちゃんとみっちゃんは何にするー?」と幹事の声がかかる。私まだ決まってない、と言おうとすると、「お前、」と倉橋が周りの騒がしさのせいか耳元で言ってくる。
「オレンジジュースでいい?」
「いや、お酒飲むしっ。バカにすんなよ!?」
「いきなり焼酎とかいけんの?」
「……オレンジ」
倉橋は幹事を向いて、「ファジーネーブルとグレープフルーツのチューハイ」と言った。「りょかー」と幹事は他の決めかねている子を向き、私は変な顔で倉橋を見る。
「ファジーネーブルはほぼオレンジジュースだから」
「ちゃんとお酒なの?」
「ピーチリキュールだし」
何それ、と思ったけどあえて訊かず、「ありがと」とだけ言っておいた。「んー」と答えつつ、倉橋はおつまみのメニューを手にして、「からあげは絶対だろ」と騒ぐみんなに混じる。こいつは飲んだことあるのか、と思ったものの、よく考えたら誕生日が春とかでとっくに二十歳になっていたのかもしれない。
注文がひと通り終わると、みんなスマホを取り出して、成人式の写真を見せあった。私の振り袖すがたも、式場で再会した同級生との自撮りもあれば、両親や弟の夕絽が撮ってくれたものもある。
どれが一番かわいいかなあ、と一枚ずつスワイプしていると、ふとメッセが着信した。倉橋からの画像送信だ。開いてみると、そこにはスーツで決めた倉橋の写真があって、私が開いたのを見計らったのかメッセが続く。
『一番「ホストだろ」って言われた奴』
私は思わず噴き出してしまい、隣の倉橋の肩をたたいた。
「確かにホストだね」
「正直に『かっこいい』と言えよ」
「ホストだわ。チャラそう」
「お前は周年のキャバ嬢じゃねえのかよ」
「華の振り袖に何を言うか」
「見せろよ」
私はちょうど画面に表示されていた、夕絽が撮ってくれた家の前での写真を倉橋に見せた。倉橋はそれを覗きこむと、突然私のスマホをぶんどって何か操作する。
「え、何? 拡散とかしないでよっ」
「一枚やったから、一枚もらってるだけ」
倉橋はどうやら共有機能で私の振り袖すがたを受信し、「よし」とかつぶやいている。何だよ、「よし」って。
「私の写真なんかどうするの」
「等価交換しただけですから」
「……変なの」
「これ撮ったの誰?」
「弟」
「お前なあ……弟に恋人できて何ヵ月だよ。ブラコンの姉なんて彼女かわいそー」
「いいじゃない、恋人の子とも私は仲良しだもん」
「気い遣ってるだけだろ」
「うるさいなあ。ホスト写真晒すよ」
「そうさせないために、俺もお前の写真をもらったわけです」
「くっ、そういう魂胆か」
そんなことを話していると、まずはみんなのドリンクが運ばれてきた。ファジーネーブルはオレンジジュースにしか見えなかった。ストローからそうっと飲んでみても、想像していたくせがまったくない。
「これジュースじゃん」と倉橋に抗議すると、「ちゃんとピーチリキュールとオレンジジュースのカクテルだから」とやっと説明された。カクテルなのか、これ。カクテルは甘いから飲みやすいとは聞いたことがある。こんなに飲めるものなんだ、と味に安心した私は、ごくごくと飲んでしまっていた。
気づいたときには、気分がふんわり舞い上がって、暖房のせいだけでなく軆がほてっていた。「暑いー」と言いながら、セーターの胸元をはためかせて風を招く。「やめとけ」と倉橋が私のセーターをつかむ手をはらって、伸びかけた胸元を正す。
「ペース早すぎるからちょっと水飲め」と言われ、「えー」と言いつつも、確かに頭がくらくらしてきているので、目についた透明の液体のグラスを口に運んだ。
「んっ、苦ーいっ」
「バカ、それ月吉のジントニックだろ」
「あれっ、さーちゃんあたしの飲んじゃった?」
「お前、紛らわしいとこ置いとくなよ」
「ごめんごめん。ほらさーちゃん、これがお水ー」
「うー、また苦かったらやだあ」
「はは、酔ってる。大丈夫だよー、みっちゃんが毒見して口移しでくれるから」
「ふ、ふざけんなよっ。月吉、お前──」
「みっちゃん、今なら確実にさーちゃん襲えるよ。頑張れ」
「が、頑張れって、お前も酔ってるだろっ」
「倉橋、とっとと水よこせー」
「水くらい自分で飲めっ」
倉橋は私にグラスを押しつけ、「毒見ー……」と私がつぶやいても、そっぽを向いている。私は仕方なくグラスを受け取り、思い切って飲んでみた。
冷たい、無色透明の味が喉をすべっていく。さっきのお酒が、本当に辛いやら苦いやらだったので、おいしい。「お水最高か……」とひとりごちると、「飲み会でそれを言うなー」という笑い声が飛んできた。
そのあとも私のペースは倉橋が監督して、二十三時、終電がなくなる前に解散することになった。「みっちゃんはさーちゃんを送れよー」とみんな意見が一致して、倉橋はため息をついたものの、私を駅まで送ってくれることになった。
飲食街のにぎやかな人混みを歩きながら、「電車ひとりで乗れるか?」とか「タクシーのほうがいいなら金貸すぞ」とか倉橋は言ってくれる。きりっとした冬の夜風にあてられた私は、少し落ち着いてきていて、「そんなに心配ならうちまで来る?」と右側にいる倉橋に首をかたむけた。「はっ?」と倉橋は声を上げる。
「いや、それは──家族いるんだろ。男が送ってきたら、親も弟も焦るだろ」
「そんなもんかなあ」
「そんなもんなんだよ」
「そっかあ。倉橋、いい奴なのになあ」
「……いい奴って」
「何でこんなに一緒にいるのか、よく分かんないけどねえ」
「………、」
「はあ、眠たいなあ。電車寝そう……。でも、ここからタクシーってさ、」
そこまで言ったとき、急に倉橋が私の手首をつかんできた。「えっ」と私が声を上げたのと同時に、倉橋はそばにあった暗い路地に踏みこむ。
人いきれがなくて身震いしそうになる冷気、そしてかすかなカビっぽい異臭。倉橋は私の背中を壁に押しつけ、服越しにもひんやりした硬さが伝わった。
「いい加減に、しろよ」
倉橋はうつむきながらつぶやいた。
「は……?」
私が間の抜けた声を出すと、倉橋は私の肩をつかむ手に力をこめた。
「いい加減にしろっつってんだよっ」
「なっ……いや、確かに飲みすぎたかもだけど、」
「そうじゃねえっ。どこまでボケてんだよ」
「ボケって、」
「みんなもあんなに露骨に揶揄ってただろ、分かるだろ」
「はあ……?」
「分かってんだよ、お前以外。だから気づけよ」
「……いや、何のこと、」
「俺の気持ちだろうがっ」
ぎょっと目を開くと、すうっとよぎった風と共に、倉橋は顔を上げた。
俺の、気持ち? それは──
「ずっと……ずっと、高校のときから、お前が好きなのに」
え。えっ?
「同じ大学に来たのだって……ストーカーみたいかなとか思ったけど、離れたら、お前俺のことなんか忘れるし」
「……え、と。倉橋──」
「お前が好きなんだ。だから、俺は一緒にいるんだよ」
「………、」
「なのに、いい奴とか……何で一緒にいるのか分かんねえとか、何なんだよ。お前も俺のこと特別に考えてくれよ」
待って待って待って。これは、まだあの居酒屋にいて、眠ってしまって見ている夢かもしれない。
だって、倉橋だよ。あの倉橋美鶴だよ。高校時代から確かに私に構ってくるものの、色気の欠片もなかった倉橋だよ。そんな倉橋が、何で私にこんな痛切に告ってくるの?
俺のこと考えてくれって。夢にしたって、何でそんなこと言われるの。そんなこと言われても、私は倉橋を意識なんてしたことない……
不意に冷たい風が音を立てて抜けて、はっと顔を上げた。
私は、居酒屋でぬくぬくと寝ていたりしない。暗がりで倉橋にじっと見つめられている。綺麗に整った眉、硬質だけど光る宝石のような瞳、冗談しか吐かなかった口元。
「明後日の日曜」
「はいっ?」
「大学の駅の西口で、十三時に待ってるから」
「……えと、」
「あと──」
倉橋は荷物をあさってから、取り出した一万円札を私に握らせた。
「眠いならタクシーで帰れ。金はちゃんと返せよな」
「い、いいよっ。電車で──」
「お前が寝てるところに、痴漢する奴がいたら嫌なんだよ」
倉橋はそう言うと、やっと私を壁に抑えつけていた手を放し、そのまま人の往来に混じっていってしまった。私はくしゃっとなってしまった一万円札を見つめ、日曜日、と心の中で繰り返した。
大学の駅、西口、十三時。これは──デート? デートなの? 倉橋とデート?
ええー、と困り果て、私は霜が降りたみたいにその場からしばらく動けなかった。
おとなしくタクシーで帰宅し、お風呂に入って温まったら、長いウェーヴの髪を何とか乾かしただけで眠ってしまった。そして土曜日、明日はどうしようと、リビングのソファで脚を抱きしめている。
デートするか。行っても断っただけで帰るか。すっぽかすか。
そこまで嫌だという気持ちはないけれど、あいつとそういう雰囲気になるとかわけが分からない。うんうん唸って、デートとかしたこともないのに、と悩んでいると、「おねえちゃん」と声がかかって私ははたと顔を上げた。
夕絽だった。高校三年生、センター試験やら何やらで一番大変な時期の弟だ。なのに、おっとりした顔立ちを愁眉させて、「どうかしたの?」と私の心配をしてくれる。できた弟だ、と感涙しそうになりつつ、「何でもないよ」と私は笑みを作って、隣に座った夕絽の頭を撫でる。
「ほんと? 具合悪くない?」
起きたら具合悪かった、と朝にメッセだけ送ってしまうのも手か、と思いつつ「大丈夫」と夕絽には微笑む。
「ちょっと、悩んでることがあるだけ」
「悩み」
「大したことじゃないから。夕絽は受験のこと考えてて」
「……そっか。ごめんね、力になれなくて」
「そんなことないよ。心配してくれるだけで嬉しい」
「話せるようになったら話してね。僕、ちゃんと聞くから」
「うん。ありがと」
夕絽は微笑し、立ち上がるとダイニングに向かった。そこではおかあさんが昼食のたらこパスタの用意をしていて、おとうさんはといえば同じリビングにいて、座卓でノートPCを開いて仕事をしている。「二日酔いではないのか?」とおとうさんも私の様子に苦笑して、「それはあるような、ないような」と私は曖昧に答えた。
翌日、日曜日の正午前、結局義理のようなものを裏切れなくて、私はスカイブルーのニットワンピースに黒のタイツを合わせ、アイボリーのコートを着てそそくさと家を出てきた。何だかんだ化粧もきちんとしてしまったので、おかあさんあたりが「デート?」なんて勘づきそうなのが恥ずかしかった。
私の初デート相手は倉橋なのか、と何だか複雑になりつつ、いつもの大学の駅まで、ICカードで改札をパスして電車に揺られていく。電車はそんなに混んでいなくても、座席に座れるまでの余裕もなかった。頭がぼんやりしそうに暖房が強くかかっている。
胸のあたりがざわついて、鼓動が速い。これが意識してるってことなのかな、と思っていると、乗り換えも済ましていつもの駅に到着した。
大学に行くなら東口なのだけど、倉橋なりに、万が一知り合いに茶化されるのを気にしての西口だろう。かつかつ、と靴音を残すブーツのヒールがあんまり慣れていなくて、不安定な気がする。スマホで時計を確認すると、十三時の五分前だった。
倉橋来てるかな、とそんなに混雑していない周りをきょろきょろすると、「香河っ」といきなり背後から名字を呼ばれた。この声は倉橋のはず──とそろそろ振り返ると、やっぱり、そこにいたのはデニムジャケットを黒のシャツとカーキのパンツに合わせた倉橋だった。
私は息をついて、普通に呼んでよ、と言おうとしたものの、倉橋の視線に気圧されて黙ってしまう。倉橋は私のすがたをまじまじとしたあと、「ちゃんと、めかしこんできてんじゃん」とにやりとした。何だか、このあいだの夜とは違う、いつもの倉橋だ。
「わ、悪いっ? だって、その──」
「俺のため?」
「ジャージだと私が恥ずかしいからっ。私のためっ」
「ジャージって……極端な例だな」
「いいから、どこ行くの? このあたりじゃ、大学の子も住んでたりするけど」
「んー、とりあえず街出てぶらつくか」
「………、あんた、考えてなかったでしょ」
「いや、だって思いつかねえし」
「何それ!? デートなのに!」
倉橋が目を開いて、それから、口ごもった。そして、「テンション変なほうに上がりそうなの我慢してんのに」とぼそぼそと言う。
「デート、とか……で、いいのかよ、お前は」
う……。
それを言われると、どうなのだろう。確かに、倉橋がやってくれた通り、友達として出かける体のほうが気楽かも。それでも、私はデートとも思ってやってきたわけだし──
「デート……で、いいんじゃない?」
なぜか、気まずく沈黙が流れる。視線も合わせられない。それでも、「じゃあ」と倉橋が私の手を取ったのでどきんとする。倉橋の手が温かいのは、単にポケットに突っ込まれてたせいかな。
「映画……でも、行きますか」
「……うん」
倉橋が私を優しく引っ張り、私はそれについていく。
映画。まあ、定番か。さすがに、この気恥ずかしさの中でラブストーリーは観ないと思うけど。
ICカードで改札を抜けると、電車に揺られて市街地の駅に出た。一気に人が増えた中、ふたりで案内板を見て、映画館のそばの出口へと向かう。手をつないだままなのが、たくさんの人の前だと恥ずかしい。けれど、振りはらうのも悪い気がしてそのままだ。
改札を過ぎ、案内通りにエスカレーターや通路を抜け、ようやく駅構内を出る。すると、すぐ目の前に大きなビルがあって、そこに本屋や服とかアクセのさまざまなショップ、最上階に映画館も入っている。一階の吹き抜けに上映中のポスターが額縁に入っていて、ひとつずつ見ていく。
「何観たい?」
「この状況でラブストーリーだけはない」
「何でだよ」
「耐えられない」
「これは『この冬、一番のラブロマンス』らしいぞ」
「あんたはそれを観たいの? 観たいなら仕方ないけど」
「煽りだけで観る気で失くすわ」
「あ、こっち。脚本が天海芽留だ。おもしろいと思う」
「天海……って、ホモの奴かー」
「ホモをバカにするなら、私ここで帰るよ?」
「え、お前、腐女子?」
私に睥睨されて、倉橋は臆しながらも「いや、いいと思うけど」と言う。同性愛を理解しないのは、私はもちろん、香河家でアウトだ。だって、弟の夕絽の恋人は男の子だから。
「じゃあ、この天海何とかの観る?」
「うん」
そんなわけで、私たちはエレベーターで最上階まで向かい、十四時過ぎ上映のチケットを手に入れた。シアターへの案内が始まるまでのあいだに、ポップコーンやジュースを買いこむ。
やっと手が離れた、と思ってしまいつつ、私はポップコーンを、倉橋は自分のコーラと私のオレンジジュースを抱える。物販を眺めたりしていると、まもなく案内が始まって、私たちはシアターに踏みこんで予約した席に落ち着いた。
スクリーンが見渡せる、わりと後列の席だ。
「あ、あのふたり、男同士で手つないでるぞ」
「天海芽留のを見るならそういう子もいるでしょ」
「女の子同士はいるかなー」
「その差は何なの? 女の子同士なら興味あるの?」
「いや、興味っつーか……」
口をつぐんだ倉橋は、じろりとした私を黙らせるように「男女ももちろん有りだろ」とまた私の手をつかんできた。私はどきっとして、また捕まったと思いつつも、静かに握り返す。手を握っておいたほうが、上映中に変なことをされないかなと思うことにした。
予告が続いたあと始まった映画は、恋人にさんざん浮気されても、彼女のことを想ってしまう男の子の話だった。親戚のツテでゲイバーで働く彼は、職場で自分の恋を愚痴ったり、客の恋を愚痴られたり。そんな毎日の中、また彼女の浮気が発覚して、職場でだらだら愚痴っていたら、話相手になってくれていた常連の客と朝を迎えていて、「ずっと好きだった」と告白される。なぜかあんまり嫌じゃない自分に、セクシュアリティが揺らいできて──みたいな話だった。
ラブストーリーはないと言いつつ、結局ラブストーリーになってしまったかも、と思いつつ、オフショット写真が続くエンドロールまでしっかり観てしまった。
「はー、なかなかおもしろかった」
シアターを出て私がそう言うと、「感覚がよく分からんかった」と倉橋は首をかしげていた。こいつ完全にストレートの場合しか考えてないだろうしな、と思っても黙っておく。
「で、これで終わり? 帰るの?」
「はっ? いや──え、もうちょっと」
「今、十六時かあ。夕ごはんには早いね」
「ここ、いろいろ入ってるだろ。適当に見てまわろうぜ」
「本当にあてもなくぶらつくわけね」
「いいじゃん、そういうのも。夕飯はおごるし」
「割り勘でいいけどさ。あ、タクシー代持ってきたの忘れてた」
「あとでいいよ。こんな人前で諭吉渡されてたら、俺ヒモじゃん」
「はは、そだね」
そんな話をしつつ、私たちはエレベーターでなくエスカレーターでゆっくりビルを降りていく。いろんなショップがにぎわっているのを眺めつつ、三階まで降りると、ここから下はすべて本屋のフロアだ。
「漫画の新刊出てないか見てきていい?」と倉橋に訊くと、「俺は雑誌見てる」といったん離れることになった。用件が終わったら一階レジ横の入口で待ちあわるのも決めて、私は漫画コーナーを求め、立ち読みの人の合間を縫っていく。
面展が並ぶ新刊コーナーをうろうろしていると、不意に「紗暁?」と名前を呼ばれた気がして、振り返った。
「あ、鈴里」
そこには、幼なじみで弟分の鈴里が私服すがたで立っていた。ここ数年で筋骨がしっかりして大人びたけど、夕絽とは同い年だから、あの子とは親友の仲である男の子だ。「何やってんの」と私が思わずほっとして笑顔になると、鈴里は私を見つめて首をかたむけた。
「化粧濃くない?」
「はっ? え、ほんとに。濃いかな」
「濃いな」
「やばい、それなら直したい」
「いや、まあ……おかしくはないからいいんじゃない」
「ほんとに? バカみたいじゃない?」
「うん」と鈴里はうなずいたあと、私の隣に並んで面展を見渡す。その中から一冊手に取ったので、「それ、おもしろいの?」と訊いてみる。
「俺は連載始まったときから読んでる」
「今何巻?」
「十七巻」
「最近の漫画は長すぎるんだよ。手出ししづらいよ」
「気になるなら貸すけど」
「え、ほんと? じゃあ、五巻くらいまで今度貸してよ」
「分かった。紗暁は何探してんの?」
「んー、新刊出てるかなと思ったけど、まだみたい。ないや」
「っそ。その本のためにここまで来たのかよ」
「そっちこそ」
「俺は問題集買いにきたの。一番近いとこで、ここに在庫あるのがネット検索で分かったから、レジに取り置きしてもらってる」
「ふうん。受験生だもんね」
「まあな。紗暁もこないだ成人式だったんだろ。おめでと。夕絽に写真見せてもらった」
「そうなの? 夕絽が撮った奴なら変な写真はないからいいけど」
そんな話をしていると、コートのポケットでスマホが震えたのが分かった。取り出してみると倉橋からのメッセで、もう入口にいるという内容だった。
「あー、私もう行かなきゃ……」
そこまで言いかけて、「そうだ」と私は鈴里の服を引っ張った。
「ちょっとさ、帰る前に一緒にごはんとか食べてくれない?」
「は? 何で? それなら、帰ってから──」
「いや、何というか……私、男友達と一緒なの。一応……デート、だけど。やっぱ、手とかつながれると恥ずかしいわけ」
「………」
「沈黙しないでよっ。そりゃ、あんたは彼女といろいろやってるのかもだけど、」
「彼女なんかいないし」
「え、いないの」
「いない」
「そうか」
「そうだよ」
「じゃ、分かるじゃん? 友達感覚の相手と手をつなぐのが、まだ……慣れないというか、そんな感じ」
鈴里は面倒そうに息をついたものの、「分かったよ」と承諾してくれた。「さすが第二の弟」と私は背伸びして鈴里の短い髪をくしゃくしゃにして、「やめろ」と振りはらわれる。それでも、私はにこにこしたまま「その人、もう待ってるから行こっ」と鈴里の腕を取った。
そんなわけで、倉橋は私の家族の前に、私の幼なじみと対面することになった。私がふたりに挨拶させて、それぞれを紹介しているあいだ、鈴里と倉橋は探り合うように相手を観察していた。
「この子にもごはんおごってあげたいから、一緒にどこか入ろうよ」と私が言うと、倉橋は眉を寄せて私の腕を引いて耳元で「デートに弟引きずりこむのか」とささやいてくる。私はあやふやに咲って、「弟じゃなくて、弟分です」とかくだらないことを言う。「どっちでもいいけど」と倉橋はみるみる不機嫌になったものの、そんな倉橋に鈴里は淡々と言った。
「俺ごときが気に入らないなら、アキねえちゃんの彼氏にはなれないと思いますよ」
一応、「紗暁」呼びはひかえてくれるらしい。しかし、それでも不穏な言葉なので、倉橋はいらっとしたように眉を上げる。
「何でお前みたいな弟風情が、そんなこと言うんだよ」
「だって、アキねえちゃんの本当の弟ってマジでシスコンで、ねえちゃんにべったりだから」
「待って、何か夕絽を悪く言うのはやめて」
「弟は弟で、ほんとは彼女と仲良くしたいに決まってんだろ」
「彼女」とその言葉を拾い、鈴里は私を見た。彼氏だとこいつは知らないのか、という問いだと分かったので、うなずく。「ふうん」とつぶやいた鈴里は、「まあ、邪魔なら俺は帰りますけど」と冷たいことを言いはじめる。
「ちょっ、鈴里──」
「でも、本当の弟の、俺の親友にもそういう態度取ったら、もう脈はないと思いますよ」
「弟には弟への態度取るんで、ご忠告どうも」
「そうですか。じゃあ、俺たちのアキねえちゃんを幸せにできるといいですね」
鈴里はなぜか威圧的ににっこりとすると、身をひるがえし、駅の出口に吸いこまれていった。
何か──何か、怖かったな。そう思っていると、「香河、お前なあっ」と倉橋が私の肩をつかんで揺さぶってくる。
「今の何だよ!? ぜんぜんかわいくねーんだけど、ほんとに弟じゃないんだよな?」
「弟……といえば、第二の弟だけど」
「第一じゃないんだな?」
「第一は、たぶん家で勉強してるかと」
「……ちっ、何なんだよ。てか、お前、俺とデートとか言っておきながら、ほかの男連れこむなよな」
「連れこむって何。それに、男っていっても──」
「男は男だろうがっ。デートは普通ふたりでするもんだろ」
「……ごめん」
私がしゅんとなってしまうと、倉橋は息をついて「今日はお前をひとり占めしたいの」と私の瞳を見つめてきた。あの夜と同じ瞳で。その瞳をされるとどうしたらいいのか分からなくなって、ぎこちなくこくりとしつつ、うつむいてしまう。
倉橋はぐいっと私の肩を抱き寄せ、「もう我慢しないから」とささやくとそのまま歩き出した。
「が、我慢しないって、いや、変なことしないでよ!?」
「変なことって。そこまで急がねえし。ただ、こうやってくっつくくらいさせろ」
「……なかなかに恥ずかしい」
「お前が逃げようとするからだ」
そう言って倉橋は、肩を抱くほうの手で私の頭をぽんとする。私は仕方なく倉橋の肩にもたれ、心臓吐きそう、とどきどきしながら思った。でも、こんな真冬なのに、少しも寒くない。それは、まあ……悪くないかも。
そのあと、ファミレスにでも行くのかと思ったら、きちんとしたレストランに連れていかれた。「高くない?」とコースをいただきながら心配すると、「お前から返ってくる一万でおごるから心配すんな」と言われた。そういえばそうだ、と思い出して、ここはおとなしくおごられておくことにした。
食事のあとも何かあったらどうしよう、とそわそわしてしまったけど、さいわい帰してくれるらしい。駅の改札まで送ってくれた倉橋は、「じゃあな」とやっと私を腕から解放した。「今日はありがと」と私はきちんとお礼は言って、改札を抜け、一度振り返って倉橋に手を振った。倉橋も手を掲げる。何かほんとにデートだったみたいじゃん、なんて思いつつ、私はいつもの町まで帰ってきた。
最寄り駅に着いたのが十九時過ぎで、空は月が澄み渡るほど暗くなってしまっていた。駅前はまだ人の行き来があってさざめいている。これを離れて静かな道をちょっと歩くけれど、まあいいか。コートを深く着こんで、それでも今日は一日どぎまぎして寒さなんて忘れていたので、急にひとりで歩いていると風が冷たい。
倉橋とデートしてしまった、と改めて考える。それ以上のことはなかったものの、そこにつながっていくように始まってしまったのだろうか。倉橋が彼氏になったりするのか、と想像しても、いまいちぼんやりしている。彼氏ができたことないからなあ、と思っていると、家への通りに入った。
公園とコンビニの前を過ぎて、十字路の角が私の家だ。家に帰る前にコンビニに立ち寄って、お菓子とミルクティーとストレートティーを買った。ストレートのほうは、夕絽への差し入れだ。
つきあうとかよく分からないし、夕絽の話をちょっと聞こうかな。そんなことを思いながら家の前にたどりついて、私はまばたきをした。
「……何、してんの」
「受験勉強」
私の家の前にある段差に座りこみ、そう答えて読んでいた本を閉じたのは、鈴里だった。受験勉強って、それはそうなのだけど──
「こんなことでしなくてもいいでしょっ。え、いつからここにいるの。あんたね、こんな時期に風邪でも引いたら」
「さっきまで家の中で夕絽と勉強してた。夕絽のスマホに『今から帰る』って送っただろ。それから待ってた」
「それもけっこう前じゃない。もうっ、いったんうちに入って温かく──」
「デート、こんな時間まで楽しかった?」
突っかかるような物言いに、私は眉を寄せ、「こんな時間って、別に何もしてないし」ともごもご言う。
「というかっ、鈴里、あんたごはん一緒に食べる気なかったでしょっ」
「ないよ。あるかよ」
「もうっ。あいつにも弟巻きこむなみたいには言われたけど、それでも、」
「紗暁、あいつとつきあうの?」
「えっ」
「あの男が好きなの?」
鈴里は座りこんだまま私を見上げ、日没した中で光る黒い瞳でじっと見つめてくる。私は思わず言葉に詰まる。
つきあうのか。好きなのか。私自身、それがよく分からなくて、困っているのだから答えられない。
「……分かんない、けど」
正直にそう言うと、鈴里は何か言おうとした。けど、その前に私は続ける。
「いい奴だよ、あいつは。高校時代から一緒だし」
私の言葉を受けて、鈴里の瞳に切り傷が走った。こちらも不安になるくらい、つらそうな表情が、一瞬覗く。
何で、そんな顔するの。そう言おうとして、躊躇っていると、鈴里は立ち上がって、「分かった」とだけ言ってすれちがっていった。
分かった、って何が。私は分からないんだけど。私がデートしたことが、まさか鈴里を傷つけた? それって──
のろのろと家の中に入った私は、「ただいま」と玄関のドアで寒気を断ち切った。おとうさんとおかあさんはリビングにいるようだけど、何となく顔を出す気にならない。階段の明かりもつけず、すぐ二階に上がった。
夕絽の部屋をノックすると、「はあい」と返事がしたので、ドアを開ける。廊下にぱっとまばゆく光が射しこむ。夕絽はつくえに着いて、こちらを振り返っていた。暖房が冷たくなった軆を包む。私だと認めた夕絽は、「おねえちゃん」と立ち上がって駆け寄ってきた。
「おかえりなさい」
「うん。ただいま」
「今日、気づいたら出かけちゃっててびっくりした」
「はは。ちょっとね」
夕絽は首をかたむけ、「えと」と遠慮がちに言う。
「鈴里に聞いたけど、デートだったって」
「あ、聞いたんだ」
「夕方まで一緒に勉強してたから」
何か鈴里もそう言ってたな、とぼんやり思う。
「おねえちゃん、好きな人できたんだね」
「というか……今日は、まだ男友達の奴と映画観てきただけかも」
「そうなんだ。でも、そんな仲良しの男の人いるの知らなかった」
「うん──。あのね、夕絽」
「なあに」
「夕絽は、鈴里の好きな人って知ってる?」
「えっ」と夕絽はしばたいて、「いや、」と私は言葉をはさむ。
「深い意味はなくて。今日、ちらっと鈴里は彼女いないとか、そういう話になって」
「うーん……鈴里はいつも、恋愛の話になっても好きな人はいないって言うかなあ」
「好きな人もいないの」
「そう言ってるよ」
「……そう、だよね。はは、考えすぎたかも」
「何かあったの?」
「ううん。平気。──あ、紅茶買ってきたよ。乾燥して喉渇くでしょ」
そう言って、提げていたふくろからストレートティーのペットボトルを渡すと、「ありがとう」と夕絽は柔らかく微笑む。その笑顔に何だか癒やされて、「デートだったことは、まだおとうさんとおかあさんには内緒ね」と私は声をひそめる。夕絽はこくんとして、「つきあうことになったら紹介してね」とにっこりした。
私はそれに小さく咲いつつうなずき、「勉強頑張れ」と夕絽の頭を撫でる。夕絽はうなずき、「僕まだ勉強するから、おねえちゃん先にお風呂入ってね」とつくえに引き返していった。私も夕絽の部屋のドアを閉め、自分の部屋に向かいながら、そうだよな、とざわざわする心を落ち着けた。
考えすぎだ。鈴里に好きな人がいて、夕絽がその存在を知らないということはないだろう。仮にそれが私で、夕絽が口止めされていたのだとしても、夕絽ほど素直な子なら、ちょっとぐらい口ごもったりして何か違和感があると思う。でも、夕絽は本当に何も知らない様子だった。
鈴里は幼なじみで、私のだらしないところも、すっぴんもブラコンなのも、全部知っている。わざわざ好きになるなんてない。そんなことより、倉橋との今後を考えなくては。とりあえず無事帰宅した連絡しとくか、と私は自分の部屋のドアを開けた。
それから、倉橋とは微妙な距離感が続いた。たまに髪に触れられたり、駅までの帰り道に手をつないだりする。それを友達に見かけられて、揶揄われる。倉橋は私に「好き」という言葉を伝えるときもあった。私はそんなとき、うやむやに咲うだけで同じ言葉は返さなかった。
言わなくても分かるでしょ、なんて思いあがっていたわけではない。言っていいのか分からなかった。その言葉を発した途端、倉橋とのあいだに始まるものに責任を持てるかどうか。
そんな私に、倉橋も次第に焦れったくなってきたみたいだった。後期の試験が終わり、二月に入った一年で一番冷えこむ時期のことだ。春休み前の大学の帰り道、また手をつないで駅まで歩きながら、「あのさ」と倉橋は切り出した。
「俺たち、つきあわないか」
来た、と大きく跳ねた心臓を何とかこらえ、倉橋を見上げた。倉橋は前を向いていて、この寒さなのに頬をわずかに紅潮させている。
「え……ええ?」
わざとらしくまごついてみると、倉橋は私の手をきゅっと握った。今日もその手は温かい。
「俺たち、高校のときからこんなにずっと一緒にいられてんだし、そこまで相性悪くないと思うぜ」
「……そ、かな」
「俺も、お前のこと大事にするし」
「う……ん」
「お前の気持ちは、まだ、はっきりしないのかもしれないけど……でも、これから好きになってくれるのでもいいから」
倉橋が私を見下ろす。ああ、またあの瞳。惑わされそうで、私は顔を背けるみたいにうつむく。
「香河──」
「か……考え、させてよ」
「考えなくていいよ。俺がこう提案して、お前はどう感じる?」
「どう、って」
「嫌か?」
「や、ではないけど」
「じゃあ、」
「分かんないしっ。まだ恋愛感情じゃないのにつきあうとか、ダメだよ」
「何で。これから──」
「好きにならなかったらどうするの?」
倉橋が言葉を止めた。私も言い過ぎた気がして、視線をぎこちなく足元に抑えつける。倉橋のため息が聞こえて、「俺はなあ」と押し殺した声が続く。
「正直、焦ってんだよ」
「………、それは、確かに私、いらいらさせてるかもしれないけど」
「お前じゃないよ」
「え」
「何つーか、こないだのガキ。弟分とか言ってた奴」
どきりと鼓動が動いたものの、平静を装う。
「何で、鈴里──」
「分かるんだよ。ぼやぼやしてたら、お前のことあいつに取られるって」
「は……あっ? いや、あの子は、」
「あいつは絶対、お前のことが好きだぞ!」
ぐさりと胸を刺されて、息が浅く苦しくなる。いつのまにか、私たちは立ち止まって向かい合っていた。駅がすぐそばで、電車の走る音がたまに抜けていく。
「そ、そんなの……」
「だから俺は、あいつより早くお前を、」
「待ってよ、……分かんないじゃない。鈴里はほんとに、そんな対象じゃないし」
「そんな対象じゃないのは俺も同じだろうが。そこから振り向かせようとしてんだから、俺とあいつは同じ地点にいるんだよ」
「でも、」
「なあ、少しでもあいつより俺のほうがって思うなら、口約束だけでもつきあうって言ってくれよ」
「……そんな、」
「俺はとにかくお前をつなぎとめたいんだ。あいつがお前に告白する前に、」
「そん、なのっ……勝手に言い切らないでよっ。鈴里のこと、倉橋は何にも知らないじゃない!」
目を開いた倉橋の手が緩んだ。私はその隙に倉橋を手を振りはらい、駅まで走った。
後ろで名前を呼ばれる。振り返らない。追いかけてこない。息苦しくて、視界が滲んで涙がこぼれた。熱い雫はすぐに冷たくなって、頬をひりひりに切る。
電車に飛び乗ってまっすぐ地元に帰った私は、夕絽に『話があるから聞いて。』とメッセを飛ばしておいた。すると、よほど心配をかけてしまったのか、夕絽は駅まで私を迎えにきてくれていた。
「おねえちゃん」と呼ぶいつもの声に安心が広がる。夕絽に駆け寄った私は、その手を握って、すると夕絽は嫌な顔もせず握り返してくれた。ほんとに、こんなにかわいい高校生の弟は貴重だろうな、なんて思う。
幼い頃みたいに並んで手をつないで、夕絽とゆっくり帰り道をたどった。その道で、倉橋とのことを全部話していた。夕絽は物柔らかに相槌を打ちながら聞いてくれて、「鈴里の好きな人がおねえちゃん」とぽつりと言った。
「倉橋が言ってるだけだけどね」
「僕も、考えたことなかったけど。でも、僕は鈴里の好きな人がおねえちゃんだったら嬉しいな」
「そう、なの?」
「親友が兄弟になるんだもん」
私はほのかに咲って、「鈴里が私を好きなんてあるかなあ」とつぶやく。
「鈴里は、おねえちゃんのこと大好きだと思うよ。それが恋愛かって話は、したことがないから分からなくても」
「……うん」
「僕でよければ、鈴里に好きな人がいるなら教えてほしいって訊いてみようか?」
私は夕絽を見た。うん、と甘えそうになったものの、何とか自制して「たぶん」と言葉を選ぶ。
「私が知りたがってるって言ったら、言わないでしょ。夕絽だけに教えたのに、夕絽が私に教えるのはダメ。それが鈴里を傷つけるって、夕絽はよく知ってるでしょ」
「……そっか。うん。そうだね」
「………、私が知りたがってるのは言っていいよ。ただ、うーん……私の友達が誰か紹介しろってうるさいから候補として、とか言ってみたらどうだろ」
「鈴里を紹介したいから好きな人がいるか知りたい、って言うの?」
「うん」
夕絽はやや考えたようでも、「分かった」とこくんとした。
「次、鈴里に会ったら、そう言ってみる」
「ほんとにいいの?」
「おねえちゃんが泣いてるのに、何もできないのは嫌だから」
「あ……涙、残ってるかな」
「お化粧が少し落ちてる」
「えっ、やだ。このまま電車乗ってきちゃったよ」
思わず化粧に触れると、夕絽は微笑んで「おねえちゃんのこと、僕も好きだよ」と言ってくれた。「彼氏の次くらいでしょ」と私がくすりとすると、夕絽ははにかんで「好きな人はみんな大好き」と幸せそうに笑みを作った。
次の日は土曜日で、大学は休みだった。週明けに試験の結果を受け取れば、合格次第、春休みだ。倉橋に何か答えなきゃいけないよなあ、とベッドに伏せってぐるぐる考えていた。
日曜日も同じように過ごして、もう倉橋に会わないように避けて春休みにすべりこもうかな、とまで考えていた。春休みのあいだ、じっくり考えて──考えて、答えなんて出る? 私は自分がどうしたいのか分からない。倉橋のことは嫌いじゃない。でも、恋愛感情が芽生える約束はできない。なのに、あんなふうに先走って、鈴里のことを引き合いに出したのは許せない。
そもそも、鈴里が私を好きだなんて、そんなこと──うじうじ考えて、まくらを頭にかぶったりしていると、突然背後でばたんっと乱暴にドアを開ける音がした。
びくりとまくらの下から顔を出して振り返ると、そこにいたのは鈴里だった。ついで「鈴里、」と夕絽の焦った声がして、鈴里はそれに「夕絽は部屋にいて」と一方的に言うと、ドアで廊下と私の部屋をさえぎってしまう。そして、私がいるベッドに大股で歩み寄ってくると、「バカにしてんの?」と開口からはっきり怒りが滲む口調で言ってきた。
「は……?」
「何だよ、俺を友達に紹介したいって。そこまでして俺を厄介払いかよ」
「え、いや……待って、」
慌てて起き上がる。鈴里の面持ちは張りつめて硬い。
「俺がほかの女とつきあえば、罪悪感もいらないもんな。でも、そういうの──」
「違うよっ。そんなのじゃない」
「じゃあ何だよ! ……くそ、紹介って何だよ。俺がどんだけひどい奴だったかも思い出すじゃないか」
どきんと心臓がおののく。あの頃のこと、鈴里はまだ気にしているのだ。
「鈴里、違うの。ほんとに。ごめん、夕絽も悪くなくてね、私が……」
おろおろと言葉が彷徨って、何を言えばいいの分からなくなる。ただ、ひどく焦っていた。鈴里がこのまま、怒りで私からも夕絽からも離れようとしたら──
思わず瞳から雫が落ちてきて、なのに、それも言葉にはならない。
「紗暁──」
鈴里の口ぶりがかすかに揺れて、「夕絽、」とつぶやいて私は顔を上げた。
「そう、夕絽のそばにはいてあげて。あの子、鈴里と仲直りできてほんとに喜んでるの。鈴里に変なこと訊いてくれたのも、全部私がお願いしたことで、夕絽は悪くなくて」
「………、別に、離れたりはしないけど」
「ほんとに? 夕絽のこと……も、……私、も?」
「俺は夕絽も紗暁も離さない。絶対に、離さないから──」
どこか泣きそうに言いながら、不意に、鈴里は腕を伸ばして私の軆を強く抱きしめてきた。
え。え?
思わず頭が沸騰する。鈴里の体温とか、筋肉とか、懐かしい匂いまでもが、軆に流れこんできて、心で錯綜する。
「紗暁」
「あ、あの……鈴里、」
「好きだ」
私は鈴里の胸板に顔を抑えられたまま、わずかに震えた。
「俺の好きな人は紗暁だよ。ずっと昔から、紗暁だけだよ」
「鈴……里」
「だから、ほかの女紹介されても興味ないし。それに、あの男に紗暁を渡したくない」
……鈴里の声、こんなに、男らしかったかな。昔から、私と一緒に夕絽を守ってくれる男の子ではあったけど。
どうしよう。息遣いが乱れてきそうにどきどきしている。頭の中が、初めてお酒を飲んだときと同じように、熱く溶けて思考回路が鈍る。涙痕が鈴里の服に広がる。その服をぎゅっとつかんで、私は壊れそうな深呼吸をした。
「私が、知りたかったの」
「え」
「きっと、私が知りたかったの。気になったの。鈴里に好きな人いるのかなって」
「………、」
「紹介とか、適当なこと言ったけど。鈴里の好きな人って誰なんだろう……とか、思ったの」
「……紗暁」
「私だって、鈴里のそばにいたいし。離れたくない。れ……恋愛、とかよく分かんないけど、ただ、鈴里が私のこと好きだったら、私も嬉し──」
「好きだよ、紗暁のこと好きだ」
そう言って、鈴里はますます私を抱きしめる。私はおそるおそる、その背中に腕をまわした。
鈴里の感触が、愛おしい。倉橋とくっついて、こんな感動ってあったかな。あいつの腕の中も温かかったけど。それを失くしたくないと思うほど、惹かれたわけではなかった。冬の日でちょうどよい温もりだった、それだけかもしれない。
今、鈴里に抱きしめられて、私も彼にしがみついていると、涙が止まらないほど心が安堵する。
「俺は紗暁のそばにいるから」
「鈴里……」
「どんな男が寄ってきても、絶対にうまくいかないように邪魔してやる」
私はきょとんとまばたきをした。そのあと、小さく噴き出してしまう。
なるほど。それは首尾よくいったよ、鈴里。実際、倉橋は鈴里の存在に焦って、私に不用意なことまで言って、つないだ手を離させた。
私はため息をついて、鈴里の胸に埋まる。
「あーあ……」
「何だよ」
「倉橋のこと、振らなきゃいけないなあって」
「振ってくれるの?」
「振るしかないじゃん」
「俺を選んでくれるってこと?」
「選ぶ、というか」
「うん」
「何か、いつのまにか、勝手に鈴里に決まってるんだけど」
鈴里は軆に隙間を作り、私の泣きっ面を覗きこんだ。私が首をかしげつつ照れ咲いすると、鈴里もやっといつもの優しい笑顔を見せて、「じゃあ、二度と俺のこと、弟分なんて紹介はするなよ?」と言った。私は苦笑しつつうなずくと、「彼氏だよね」と確認する。鈴里は嬉しそうに笑むと、「よくできました」と私の額にそっと唇を触れさせた。
ああ、倉橋、ごめんね。あんたのこと、ほんとに嫌いじゃない。友達としてなら好きだと思う。だけど、そのためにこの男の子を傷つけることだけはしたくない。それはできないの。私はこの男の子に愛されているのが幸せだから。
──なんてことを、月曜日のランチのときに遭遇した倉橋に、正直に伝えた。倉橋は黙って聞いて、まじめな表情で考えていたけど、不意に大声を上げてカフェテラスのみんなを振り返らせた。ざわめく周囲を気にせず、倉橋は私を見ると、「結婚式に呼んでもらえるくらいには吹っ切れてやるわ」と舌打ちした。
その言葉にほっとして咲った私が、「ほんといい奴だね」と言うと、「お前に『いい奴』呼ばわりされたときから何か分かってたしなっ」と倉橋は舌を出して見せ、「失恋した俺をなぐさめてくれる女子来い!」と再び叫んでテーブルを離れた。すると、笑い出す男子たちの中で、けっこう顔を見合わせたり、耳打ちしあう女の子がいて、ほんとにあいつすぐに吹っ切るかもな、と思った。
私は大学が春休みになり、そのすぐあとに鈴里、もちろん夕絽も入試だった。試験が落ち着くと、夕絽はひとまず枷が外れた気持ちで彼氏とデートに行っていた。私と鈴里は、お互いの両親に恋人同士になったことを早々に知ってもらったおかげか、家でくつろぐことが多かった。
鈴里は音響系の仕事に就きたいらしく、そちら方向の大学を受けたそうだ。ぜんぜん知らなかったけど、鈴里は高校生になった頃からライヴハウスに通うのが好きで、バンドをしている友人などもいたりするらしい。夕絽はライヴハウスとか怖がりそうだし、私も音楽に熱心なタイプではないので、知らなくて当然か。
「受かるといいね」と私が微笑むと、「バンドやりたいなーと思ったときもあるけど」と隣に腰かける鈴里は言う。ここはつきあうようになってまた訪ねるようになった鈴里の部屋で、並んでベッドサイドに座っている。確かに、つくえや棚、部屋のあちこちにいつのまにかたくさんCDがある。
「それじゃ、もし紗暁とつきあえたとき、養う安定がないかなーとか思って」
「はは。私もやりたいことあるし、若いうちに一度やっとけば?」
「紗暁は学校の先生だっけ」
「二年次でちょっと方向性変えて、養護教諭かな。保健の先生」
「エロい」
「何で? 何でそういう発想?」
「いや、何となく」
「エロくないから。夕絽の面倒見てくれた先生が、話聞いてるだけでも素敵だったし」
ふと鈴里が黙りこんだ。「ん?」と私が覗きこむと、鈴里は私の瞳を見つめて、「ほんとに、紗暁はもう怒ってない?」とだしぬけに問うてくる。
「え。何を」
「その、夕絽のこと。俺、ほんとに……まだ、夢に出るんだ。夕絽に気持ち打ち明けられたときも、手首切ったって聞いたときも……全部、俺のせいで」
「鈴里」
「夕絽が俺のせいで死んでたかもしれないって……すごい、怖くて」
「大丈夫だよ、鈴里。怒ってない。誰も鈴里を責めたりしないよ」
鈴里が私を見つめる。私は鈴里の軆に腕をまわして抱き寄せた。そして頭をさすり、「大丈夫」と何度も穏やかにささやく。
夕絽と鈴里は、親友同士だ。今も。昔も。でも、夕絽は鈴里に対して秘めた想いがあった。それを打ち明けたことを切っかけに、夕絽も鈴里もぼろぼろに傷ついたことがある。
夕絽は今では彼氏もできて、ずいぶん気持ちは癒やされただろう。でも、鈴里のことは、思えば誰もケアしてあげなかったかもしれない。だから、そのことも含めて私は鈴里のそばにいたい。
「大丈夫だよ。みんな鈴里のこと大好きだから」
鈴里は私の胸に頭を持たせかけ、小さくうなずいた。そして、「夕絽が幸せになってくれてよかった」とつぶやく。ほんとにこの子は夕絽が好きなんだな、と思った。私はそんな鈴里を、いっそう愛おしく感じる。
私の大切な弟を、負けないぐらいに大事にしてくれる男の子。私はちゃんと、最高の男の子を見つけたみたいだ。この子と恋をしていて、当たり前に未来の話をできるのが嬉しい。
ずいぶんゆらゆら揺さぶられてしまったけど、私の心が決めたのが鈴里でよかった。
そばにいるよ。大好きだよ。一緒に夕絽を見守ってきてくれてありがとう。
これから、私と君はお互いを見つめあう番だよね。
窓からの陽射しはほんのり春めいている。すぐに鈴里は高校の卒業式だ。それから真新しい季節になる。
桜も咲いたら、今年からは、ふたりで何度もあの優しい花びらの雨を見よう。約束だよ。
FIN
