Cross The Line

『いちおーご報告。
 例の女装男子と同棲することになりました。』
 モーテルのベッドにはだかで寝そべり、スマホでSNSのTLをたどっていた私は、そんなつぶやきに指を止めた。
 はとのつぶやきだ。そういえば、あの子、女装男子とつきあってたっけ。一度、『別れた』とひと言だけ流れてきて心配したけれど、その後、結局よりを戻したとか何とか。
 それが去年の夏だったから、もう約半年。はと子はあんまり恋愛ツイを流さないので、詳しいことは分からなかったものの、順調にいっていたのならよかった。私はいいねして、『おめでとう、はと子!』というリプも送信しておいた。
 私のほかにもちらほら反応がついていて、その中には鵺の『おめでと』という質素なリプもあった。そう言う君はあれから恋愛してるのかなあ、と思いつつ、またTLを指先で流しはじめる。
 たまにいいねやRTを押しながらそうしていると、シャワーを浴びていた彼女が戻ってきて、タオル一枚のまま、ボディソープの匂いをまとってベッドに飛びこんできた。
「何? 何かメッセ来てた?」
「ううん、TL見てただけ」
「どれどれ」
 彼女は素肌をくっつけて私のスマホを覗きこみ、「うお、流れ早くない?」と長い睫毛をしばたかせる。ゆったりうねるセミロングの髪が、私の肩を滑り落ちる。
「セクマイのアカだから、広がっていくの」
「ふうん。あたしは本アカ一本で狭くやるタイプだわ」
「そっちのが楽だよね」
 そんな会話を交わしつつも、相互しようかという話題にはならない。
 彼女は私の顔を見つめて微笑み、「キス」とねだってくる。私は彼女のまろやかな軆を抱き寄せて唇を重ねると、水気に湿ったタオルも剥ぎ取った。ぴったり合わさった温かい肌が柔らかい。
 彼女は私にまたがって上になると、愛らしい顔立ちにちょっとSっぽい笑みを浮かべ、今度は自分から私の口の中に舌をさしこんでくる。私は彼女の首を腕まわし、うなじを優しく撫でた。
 口づけの水音が一夜限りの部屋に響いて、彼女の手が私の胸から腰、腰から脚のあいだへと伸びていく。
 ああ、同棲か。はと子は確か、まだ三十歳になっていなかったはずだ。それに引き換え、この冬に三十路になった私は、もう何年恋することなく、性欲はこうして行きずりで済ましているだろう。
 最後の恋さえ、ぼんやりしてよく憶えていない。ときおり夢で昔の恋を再体験して、信じられないほど相手が恋しくなることはあるけれど、目が覚めて冷静になると「いや、もう会わなくていいな」と思う。
 恋の仕方なんて、忘れてしまった。「そろそろいい人はいないの?」と親にも友達にも、上司にまで訊かれるけれど、私は曖昧に咲ってごまかしている。
 彼女との情事を終えると、酔っぱらったサラリーマンのせいで酒臭い終電で、ひとり暮らしの部屋に帰る。ちょっと古いけど、駅から五分、コンビニまで一分という立地がありがたいアパートだ。暮らしはじめて五年くらいだろうか。
 205号室のドアを開けて、返事はないけど靴を脱ぎながら「ただいま」と暗闇に投げかける。廊下を抜けて、リビングの明かりをぱちんとつける。ベッド、クローゼット、PCの載ったローテーブル。カーテンは紺色で、星柄の銀箔がかわいい。
 暖房をつけてバッグをおろすと、シャワーはモーテルで浴びたからいっかあ、と私はベッドサイドに腰かけ、そのままぱたんと仰向けに倒れる。
 今日は土曜日の夜だから、明日はゆっくり歌い手さんの動画でも観て過ごそう。なんて、こんな生活も悪くないのだけど。
 やっぱり、恋人がいたらもっと楽しいのかな。せめて好きな人。
 十代後半から二十代前半まで、私の恋は苛烈なくらいだった。女の子をよく好きになったけれど、男の人ともつきあった。今もどちらのほうがいいということはないから、私はバイセクシュアルだと自認している。
 ボブの髪に綺麗めの化粧、あまりボリュームはなくてもすらりとした体型、女の子とのときに受けなのは意外だねと言われる。行きずりできる相手がいるわけだから、若いときに較べて、魅力が衰えきったというわけではないと思うのだけど──やはり、アラサーが恋愛しようとすると、自分も相手も覚悟がいるのかなあと思う。
 化粧を落としてルームウェアになると、お腹空いたな、と思ったものの、我慢して電気毛布にくるまって眠った。快感に身を任せたあとだったせいか、よく眠れた。
 目が覚めたのは日曜日の昼前で、しばらく暖かいふとんの中でもぐもぐしていたけれど、コーヒー飲みたい、と思ってようやく身を起こした。
 インスタントのスティックでブラックコーヒーを淹れると、何となくスマホをチェックしようと思い、昨日バッグに入れたまま、充電もせずに寝てしまったことに気づいた。電源落ちてるかな、と思いながらバッグから取り出したスマホの残量は、十四パーセントだった。
 いくつか着信がついていて、ひとまず充電につないでからチェックする。リア友からネ友まで、いろいろな人の連絡がスマホには来る。その中で、幼なじみの怜美れみからのメッセに気づく。
 怜美とは高校まではよく一緒に過ごしたけれど、大学からは進路が別になって、現在は基本的に疎遠だ。半年に一度くらい、予定が合うと飲みにいって、身近な人には言えないことをいろいろ話す。
 怜美だけにはカミングアウトもしていた。怜美は怜美で、あんまり三次元の恋愛に興味がないというヲタクなタイプで、アニメやゲームのキャラクターに本気の恋をしている。結婚願望はあっても、相手が二次元なので叶わず、私と同じく独身だ。
『やばい、『クリスタルメイズ』のファンイベントに当選した!
 遠征とか初めてだわ。
 三月の最初の週末に一泊二日するんだけど、一緒に行かない?』
 私はそのメッセを読み返し、いろいろ思うこともあったので、通話ボタンをタップした。五コールで怜美が『もしもし』と応答する。
「あ、怜美。メッセ見たんだけど」
『マジ? もお、やばいでしょ! 朝に当選メール来ててさ。どうしよう、悠麻ゆうまの中の人も出るんだよー。あのお声を生で……っ』
「いや、でも私、アニメイベントには興味ないんだけど」
『あ、それは平気。チケはあたしのぶんしかないから』
「何それ」
『あたしが当たったの、夜の部の一枚だから、イベントのあいだは別行動でお願い。観光でもしてなよ』
「あんたねえ、何のために私がついていかなきゃいけないの」
『乗り換えとか分かんないから?』
「ひとりで何とかしなさい」
『迷子になってイベント遅刻したらどうすんだよっ。死ぬわ』
「そこは、余裕をもって行動するとか」
『いいじゃん、イベントのあとはホテルで朝まで飲もうよ』
「あのねえ……」
『あんたとゆっくり旅行とかもしてみたかったしさー。いいじゃん。ねえ、いいじゃーんっ』
 怜美は言い出したら聞かない。私はわざとらしく息をついてから、バッグから手帳を取り出して正確な日時と場所を聞いた。行き先の都市の名前を聞いて、少しどきっとした。確かそこは、はと子と鵺が住んでいる街だ。
『決まりでいい?』と怜美は急かしてきたものの、「考えてから折り返す」と私はすげないことを言い、『えーっ』と抗議を始めようとした怜美が語り出す前に、「ちゃんと前向きに検討するから」と通話を切った。
 さて。同じく三十路の怜美を甘やかすのもどうかと思うし、ついていかないのが妥当なのだろうけど。もしかしたら、はと子や鵺とオフできるかもしれない。ネ友とのオフは私は初めてではなくも、向こうは──
 いや、よく考えればはと子と鵺もオフでつるむようになったのか。ちょっと会ってみたいかも、と私は思うけども、向こうはどうだろう。訊いてみるのが早いよね、と思った私は、はと子と鵺にリプでなくDMを使って、そちらに行く用事があるけど、夜がヒマになる旨を送信しておいた。
 すぐには返事は来ないだろうと、スマホをまくらもとに置くと、着替えをして朝食兼昼食に香ばしいバタートーストを食べる。
 ベランダを覗くと、ガラスは二月の空気にひやりとしたけれど、雲も見当たらないほど天気がよかった。洗濯できるなと思ったので、ベランダに外置きしている洗濯機に、昨日の服を投げこんで乾燥までまわす。
 やがて目も覚めてきたのも感じていると、いつのまにかスマホが着信のランプを点滅させていた。手に取ってみると、怜美の追撃もあったけど、DMも届いている。開いてみると、はと子だった。
『ゆすらさんこっち来るの!?
 夜自由なら、一緒に飲んじゃいましょー!
 私は土日仕事ないし、お会いしたい!』
 はと子はOKか。鵺の返事はまだない。鵺も来るかなとはと子に送信してみると、すぐにチェックがついて返信が来る。
『今から休み取らせとけば、来れると思いますよー。』
『仕事かもしれないの?』
『あいつショップ店員なんで、土日は出勤が多いですけど。
 オフ取るのが不可能ってわけではないと思います。』
 とはいえ、仕事かもしれないなら、鵺に無理を言うのは悪いか。鵺にも会いたいな、と思うのだけど、はと子だけでも会えるなら行く価値はありそうだ。
『じゃあ、鵺の返事も分かったら、会えるように調整していこうか。』
 私がそう送ると、『わー、すごい楽しみ!』とはと子の無邪気な返事が来た。かくして、私は画面を切り替えて怜美に『しょうがないからついていく。』とメッセを送信した。すぐに既読がついて、『やった! ありがとー!!』と返ってくる。
 それから、交通手段や泊まる場所をふたりともPCを見ながら通話で相談して、怜美はさっさとネットで予約を取ってしまった。それから怜美は、今の王子様らしい悠麻というキャラのことを語り出し、「はいはい」と聞き流していると、何か着信した通知音が聞こえた。
「何か来たから」と言ってどうにか怜美との通話を切ると、通知バーにDMが届いている。
『仕事中だったんで、遅くなってすみません。
 ゆすらさんにはお礼も言いたいから会いたいな。
 てか、すでにはとが「会うでしょ」って決めてますけど。
 今ならまだ休みも取れますんで、遊びに来てください。』
 お礼、か。あのときのことかな。
『行くのは確定したから、そっち行ったときはよろしくね。』と返信を送ると、『了解です。楽しみにしてます。』と返ってきた。簡素な文体が、やはり男の子だなあと思う。
 はと子と鵺、ふたりともセクマイつながりのネ友だ。はと子はパンセクシュアル、鵺はトランスセクシュアル。
 でも、鵺は手術はしていなかったと思う。そのままの軆でいいと思っているわけではないようだけど、親とかいろいろ、あっさり軆や戸籍を変えるわけにもいかない事情があるみたいだ。そして、「あの子」はそれを承知して、あくまで鵺を男の子として愛していたと聞いている。
 そんなわけで、その日からちまちまと旅行の支度を整えていって、三月に入った土曜日の朝に怜美と飛行機で発った。
 怜美は結婚していないせいか若々しい印象の子で、少しふっくらしているのもかわいらしい。髪型は綺麗にぱっつんと揃ったストレートロングだ。顔立ちもおっとりしていて、モテないわけじゃないと思うのだけど、「リアルの男は無理、気持ち悪い」と言い切る。特にそうなる切っかけがあった様子もないので、それが怜美のセクシュアリティなのかなと思う。
 飛行機で約一時間、義弟設定キャラの悠麻くんについて聞かされていると、無事目的の空港に着陸した。
 イベントは夜の部でも、物販のために結局早く並ぶらしい。「昼の部はもう絶対並んでるから、そしたらグッズ全滅だったわ」と怜美はつぶやく。「夜の部でよかったね」と言うと、「昼の部だったら前日の飛行機で来てたね」と当然のように怜美はうなずき、こいつ猛者だわと思った。
 私は怜美を会場まで送るのが役目だったけど、怜美が心配になったのも分かるほど、電車の乗り換えは複雑だった。怜美は実際歩行音痴なところがあるし、スマホのマップを見ながら進んでも迷う子なので、私を連れてきたのは彼女的には正解だったのかもしれない。
 会場は、痛バッグからコスプレまで、お子様からおば様まで、あらゆるヲタ乙女たちで埋め尽くされていた。真冬の寒空なのに、列の熱気がすごい。
「イベント終了時間分かんないから、終わったら連絡するー」と怜美はその中に混ざっていって、私はスマホで時刻を確認した。十四時をまわったところだ。はと子と鵺との待ち合わせは十七時だったけど、土地勘はないのだから早めに行動することにした。
 土日のせいか、電車は時刻が遅くなるほど混みあっていって、駅構内の放射線状に行き交う人混みもすごかった。出口何番まであるの、とホームをうろうろして、やっと言われていた駅の西口に到着したのは、十六時半だった。
 私そんな道で迷うほうじゃないのに、とため息をついて、周りにたくさんいる待ち合わせらしき人たちを見まわす。はと子はローズピンクのニットワンピース、鵺は黒のパンツスーツだと聞いている。ちなみに私は紺のタイトスーツだ。
 ふたり揃ってたらすぐ分かりそうだけど、と思いつつ、報告ついでに景色を撮って、『着いたー』というつぶやきをTLに流していると、「ゆすらさんですか?」と声がかかって私ははたと振り返った。
 そこには、黒髪ショートで耳元のピアスが光るすごくかっこいい男の子がいた。え、とまばたきをしたものの、黒のパンツスーツを着ている。「もしかして鵺?」と訊くと、「『もしかして』って何ですか」と彼は苦笑する。
「えっ……と、いや、予想以上に男の子に見えたので」
「男に見えるようにしてんですからそうですよ」
「え? 胸取っちゃった?」
「つぶしてるだけです」
「そっか。へえー、かっこいいじゃん」
 私がそう言うと、「ゆすらさんもキャリアウーマンっぽい」と鵺はどこか照れたように咲う。
「服装はすごく迷っちゃった。あ、まずは初めまして」
「初めまして。本名とかいりますかね」
「いや、別に。突然呼び方変えられないし。はと子は一緒じゃないの?」
「すぐに来ますよ。あいつ、今引っ越し前でばたばたしてるんで」
「あ、女装男子と同棲始めるんだっけ」
「そうです。四月に決まったみたいですね」
「四月って、引っ越し代ぼったくりでしょ……」
「ちょうどみなちゃんが店舗異動するらしくて、どのみち今引っ越さなきゃいけないみたいです」
「みなちゃん」
「あ、女装男子。うちのメーカーのカリスマ店員ですよ。異動も、人気店に引っ張られたらしいです」
「そうなんだ。結婚するのかなあ」
「前から結婚したいってはとは言ってますね」
 いいなあ、と言いそうになったものの、ひがみっぽく聞こえても何なので抑える。
 私は鵺を盗み見て、ちゃんと男の子だなあと改めて思った。確かに頬の線とか肩幅とかががっしりとはしていなくても、これくらいスレンダーな男の子はいくらでもいるだろう。中性的でなく、ほとんど男性寄りだ。
 普通に男として女の子にモテそうじゃない、なんて思っていると、「あっ、鵺いたーっ!」という女の子の声がして、私も鵺も人混みを見渡す。
「あー、あれがはとです」
 こちらに駆け寄ってくる、ローズピンクのワンピースにレギンスを合わせた女の子をしめして鵺が言い、私はうなずく。はと子も私をすぐ認めて、「わあっ、ゆすらさんですか?」と華やかな笑顔を見せた。思ったより、かわいいというより綺麗な感じの女の子で、でも軆つきの量感はある。
「はと子。初めましてだね」
「初めまして。わー、ゆすらさんイメージ通りだ。アダルト」
「アダルトって。はと子も大人っぽいよ。もっとかわいいタイプかと思ってた」
「いやいや、アラサーがかわいくてもですよ」
「みなちゃんはちゃんと置いてきたんだな」
 鵺が言うと、「まあ、ぶっちゃけついてきたがったけどね」とはと子は腕を組む。
「あの子は今仕事。オフだったらついてきたと思う」
「ゆすらさんとみなちゃんは、接点ないだろ」
「深夏は気合いで仲良くなると思うわ」
「女装男子は、確かにちょっと見てみたかったな」
「ほらほら。深夏はマジでかわいいんでびっくりですよ。写真見ます?」
「彼氏の写真をペットの写真みたいに言うなよ。まずどこか入ろうぜ」
「あ、ちょうど十七時になるね。お酒であったまろうよ」
「ゆすらさんは、酒大丈夫ですか」
「人並みには飲めるよ」
「はとはぐいぐい飲むんで、何か面倒だなって感じたら俺に言ってくださいね」
「別に絡んだりはしないじゃん」
 むくれた顔になるはと子に、「深酒すると、たまにはとはめんどい」と鵺はざっくり言い返す。そんなふたりのやりとりに笑ってしまいつつ、私たちはその場を動きはじめた。
「ゆすらさん、こっちに来たのって出張か何かですか」
 鵺がそう訊いてきて、私は苦笑いながら怜美のことを話した。「ゆすらさんがそんなガチなヲタクと友達って意外ですね」と人混みの中、アーケードの左右に並ぶ店を物色しながらはと子が言う。
「幼なじみじゃなかったら、縁は切れてたかも」
「別にひとりだと危ない街とかじゃないけどなー」
 首を捻る鵺に、「かなり方向音痴な子だから」と私は咲う。
「乗り換えとか付き添った感じ、よかったのかもしれないとは思う」
「えー、ゆすらさん甘いですよ。あっ、おでんいいなあ。そうだ、お鍋行っちゃいますか」
「ゆすらさん、いきなり俺らと同じ鍋とか平気ですか」
「構わないよ。そうだね、今日寒いし」
「よし、鍋なら行く店も決まりっ。となると、やっぱ日本酒か。わーい、熱燗!」
 はしゃぐはと子の先導で、私たちは鍋料理のお店にたどりついた。早くもにぎやかな店内は暖房がきいて、巻いていたマフラーを緩める。スタッフに案内されて通路を歩くと、座席のお鍋のいい匂いとすれちがった。
 席は座敷になっていて、私ははと子と鵺と向かい合う。メニューを開くと、定番の寄せ鍋やもつ鍋以外にもいろいろとあった。チキンチャウダー、完熟のトマト鍋、チーズのキムチチゲ。「ゆすらさんが決めちゃっていいですよ」と言われて、迷った挙句、気になったのでカルボナーラ鍋にさせてもらった。
「さっき鵺とも話してたけど、はと子、彼氏との同棲おめでとうね」
 私がそう言うと、はと子は照れ咲いして「ありがとうございます」とちょこんと頭を下げた。
「一度、『別れた』ってツイ流れてきたことあったから、あのときは心配した」
「『別れた』のひと言だけだったもんな」
「そう。事情とかは分かんないし」
「語り出したらうざいじゃないですか。いろいろあったんですよねー。彼氏に男がいるのが分かったり」
「えっ、浮気?」
「そうではなかったんですけど。彼氏、ちょっとポリアモリー傾向あったんですよね」
「恋人は複数って奴」
「そうです。でも、最後は私ひとりがいれば、ほかの人はいなくてもいいって」
「ポリアモリーなら、彼ははと子に絞ってつらくなさそうなの?」
「んー、今までの恋はそうだったけど、私とは違うからって。私にさらにべったりにはなりました」
「のろけじゃねえか」
「事実だよ」
「いいなー。私もパートナー憧れるんだけどなあ」
「ゆすらさんなら、さくっとできそうですよ」
「そうでもないよ。三十路は警戒される」
「でも、ゆすらさんおねえさん系だし、鵺はタイプでしょ?」
 はと子がにやにやしながら鵺を見て、どきりとした私を鵺は一瞥して、「ん、まあ」と決まり悪そうにうなずく。
「あ、ゆすらさんって男の子とつきあいましたっけ」
「私はL寄りかなあ。でも、男の子とつきあったこともあるよ」
 はと子が嬉しそうに「鵺ー」と鵺の腕を揺さぶる。「何だよ」とその手をはらう鵺に、はと子はなおもにやつく。
「私、途中で消えてもいいよー?」
「バカ。それ、せっかく来たゆすらさんに失礼だろ」
 そう言って鵺ははと子を小突き、私は秘かに、鵺と積もる話もあるけど、と思いつつ黙っておく。
 やがて具材がつまった土鍋と追加の食材が運ばれてきて、クリームの匂いがまろやかな鍋パーティが始まる。煮こまれるのは、ベーコンや白菜やエリンギ、ちゃんとパスタも入っているのは笑ってしまった。私とはと子は熱燗、鵺は白ワインを飲んだ。
 SNSのセクマイ関係で緩くつながっている人たちのうわさもしたりしつつ、時間はあっという間に過ぎた。最後はチーズとごはんで締めて、すっかり軆がぽかぽかになる。
「このまま眠りたい」とはと子は背後のパーテーションにもたれて、満足そうにつぶやく。私はスマホをチェックして、怜美からまだ連絡が来ていないのを確認する。
「ゆすらさんは時間大丈夫ですか」
「私は余裕ありそう」
「じゃあ、はと、眠いなら帰れ」
「んんー。次どこ行くの?」
「俺はゆっくり話せるとこ行きたいですけど、ゆすらさんは」
「鵺に任せる」
「はあ、じゃあ、私いよいよお邪魔だなあ。帰るかあ」
「みなちゃんに迎えにきてもらうか」
「大丈夫。鵺、ちゃんとゆすらさんエスコートしろよお」
 言いながらはと子は背伸びして、伝票を見る。「割り勘でいいの?」と私がバッグから財布を出そうとすると、「俺とはとではらっておきますよ」と鵺がひょいと伝票を奪って、はと子を座敷から追い出して自分も靴を履いた。私もヒールの靴を履き、会計に向かうふたりについていく。
 外はぐっと気温が下がって、明るいアーケードの中はさらに行き交う人が増えていた。話し声。笑い声。叫び声。
 マフラーをきゅっと締め直していると、「ゆすらさん、あとは鵺に任せますね」とはと子が声をかけてくる。「ほんとに帰るの?」と問うと、「彼氏が寂しがるので」とはと子は苦笑した。「そっか」と私はうなずくと、「また会えたら会おうね」とはと子と軽くハグをした。
 それからはと子は、「鵺はまた近いうちに飲もうぜ」と鵺に言い、身を返して雑踏に混ざっていった。私は鵺を見上げて、「鵺はほんとに時間とか大丈夫?」と確かめる。
「俺は別に待ってる奴もいないですし」
「はは、私と一緒だ。じゃ、友達から連絡来るまでよろしく」
「どこ行きましょうか」
「静かなとこがいいかな。いろいろ話もしたいし」
「ミックスバーでも行きますか」
「そうだね。このへん都会だから多そう」
「ミックスはそこまで多くないですよ。ゲイバーがミックスナイトやることはあるんですけど」
「鵺が行くのはゲイバーになるの? ん?」
「いや、俺は男はちょっと。でも、やっぱビアンバーは入れてもらえないことが多いですね」
「だよね。会ったとき、かっこよくてびっくりしたもん。普通に女の子にモテるでしょ」
「そう簡単にいってたら、いい加減、俺も新しい恋愛してますよ」
 並んで歩き出しながら、私は鵺の整った横顔を見る。耳でピアスがきらきらしている。
「鵺はあれから、恋愛してないのかなって心配してた」
「はは、してないですね。見事に」
「私も人のこと言えないけどね。何年行きずりばっかやってんだか」
「ゆすらさんこそ、相手には不足しなさそうですよ」
「パートナーと思うと、なかなかいないよね」
「分かります。てか、あいつ以上の女がいるのかなって思うし」
「泣いてたもんねえ」
「あのときはたくさん聞いてもらって」
「いーえ。もうぜんぜん会ってないの?」
「はい。あいつ……どうしてんのかな。結婚したかな」
「今なら結婚できなくもなかったのにね。パートナーシップだっけ」
「それで許してもらえてたかな。今度は子供ができないとか言われてたのかもしれない」
 鵺のため息を見つめてから、何年前になるのかな、と思った。
 私と鵺は、今日初めて会った。けれど、言葉を交わしたのは初めてではない。数年前、一度だけ電話で話したことがある。鵺が今までの生涯で、一番愛した女の子と別れたときだった。
 その頃、鵺は保育士をやっていた。今だって、本当にやりたい仕事は保育士だと思う。それくらい子供が好きなのに、今その仕事をしていないのは、セクを押し隠して「保母」さんをやろうとしても、子供たちに「男」だと見抜かれて不思議がられるのと、保護者の目が厳しくなってきたせいだった。結局、保育園はカミングアウトを切っかけに辞めて、今のショップ店員になったそうだ。
 鵺はこれまでにふたりとしかつきあったことがなく、しかも一人目はあまり好みではないフェムネコだったので、長く続かなかったらしい。二人目の女の子は、どこにでもいるストレートの女の子で、向こうから鵺を男だと信じて告白してきた。
「まだ軆は女だよ」と鵺が気まずく打ち明けると、彼女はかなりびっくりしたようでも、「迷惑じゃなかったら友達でも」とそれでも鵺と親しくなりたいと言ってくれた。そんなわけで、ふたりは初めは友達だったけれど、共に過ごすうちに鵺も彼女に惹かれて、自然と手をつないでキスをして、恋人同士になっていた。
 数年、穏やかにつきあいを重ねていた。でも、年上だった彼女の親が結婚の話を持ち出しはじめた頃から、鵺には嫌な予感がしていた。彼女の親には、まだ戸籍と軆が女であることを言っていなかった。「打ち明けて分かってもらえたら」と言う鵺に対し、「理解なんてしないから言わないほうがいい」と彼女も譲らなかった。
 その食い違いが不協和音になって、鵺と彼女の関係にも暗雲が垂れ込めてきた。なぜ彼女は打ち明けることに賛成してくれないのだろう。親に対し、やはり自分とつきあっていることが後ろめたいのか。恥ずかしいのか。それはすなわち、結局は彼女自身もこの心と軆を偏見しているということではないのか。そんな猜疑心があふれだして、止まらなくなって、ある日鵺と彼女は喧嘩になった。
「あなたに傷ついてほしくないの」と彼女は言った。心と軆が引き裂かれていることで、あなたがたくさん傷ついてきたことを知っているし、もうそのことで悩んでほしくない。私と一緒にいることで少しでも嫌なことを忘れてほしい。当たり前に男の人でいてほしい。でも、私の親に話したら、その軆を蔑まれる、しょせん女じゃないかと責められる、けして結婚できないことで拒絶される。私は結婚できなくてもいいからあなたといたい、だから、親の理解なんていらない──
 そのとき、鵺と彼女の仲は修復しかけた。しかし、それとほぼ同時期に、鵺の仕事が彼女の親に調べられてしまった。前述通り、保育園では鵺は女ということになっている。彼女の心配はすべて的中して、鵺は二度と娘に近づくなと追放されてしまった。彼女とは、最後にゆっくり会って話せることすらなかった。ただ、『愛してました。』とひと言メールが来て、折り返したらメールアドレスも、電話もつながらなくなっていた。
 そして鵺が泣き崩れているとき、ちょうど私が、どうでもいいリプだかDMだかを投げたのだ。そうしたら突然、『電話させてもらっていいですか』と鵺が返してきたのでびっくりした。
 でも、ネ友とはいえ鵺のことはわりと信頼していたので、私たちは電話をつなぎ、鵺は彼女のことを泣きながら全部吐き出した。私は気のきいたことも言えず、ただ聞いていた。やっと鵺が口をつぐむと、まだ残る嗚咽を聞きながら「はと子にも聞いてもらったほうがよくない?」とやっと言ってみた。
『いや……あいつの前で、こんな、泣けねえし。ゆすらさんが今連絡くれてよかった』
「私でよかったのかな」
『変なタイミングに巻きこんですみません』
「ううん、私はいいの」
『今、誰にも話せてなかったら、自殺とか考えてそうだった。よかったです』
「もう彼女に会いに行かないの?」
『『愛してました。』って……過去形だし』
「そんな、簡単に過去になってるわけないよ」
『……あいつが心配してくれた通りだ。親御さんに女だったのかとかさんざん言われて……また、そういうこと言われるのが怖い』
「鵺……」
『あいつを愛してることより、お前は女だって言われるつらさのほうが強いんですよ。……こんなの、恋人の資格ないや』
 鵺が保育士を辞めたのは、そのあとのことだった。急に鵺がいなくなることを知った子供たちが、泣いてくれたのだけが救いだった。
 そして、前からはと子の勧めもあったメーカーのショップ店員になった。ちなみにはと子は、そのメーカーの本社でセクをオープンしていたので、鵺も現在は職場ではオープンだ。そういう社風らしい。
 ──まだ開店間もなく、客もまばらのバーのカウンターで、そんな当時のことを私と鵺は話した。「あのときはありがとうございました」と鵺は改まり、「はと子には、結局話してないみたいだね」と私は荷物を入れた足元のボックスからスマホだけ取り出しておく。
「もう話してもいいんですけど、訊いてこないんで」
「はと子なりに気を遣ってるのかな」
「そうだと思います」
「鵺ってあのときの印象が強烈だったから。泣き虫なのかなあと思ってた」
「泣き虫って。確かに、あんなに泣いたことって人生で何回かですけど」
「意外とクールな男の子だと分かりました」
「はは。ゆすらさんだったからあんなに泣けたんだなって、俺も今日納得しました」
「私だから」
「ほんとにおねえさん系で俺のタイプだし」
「それは、口説いてますか?」
「ちょっとだけ」
「ちょっとじゃ私はなびかないぞ」
 私はくすくす咲って、カウンター内の男の人にカクテルを注文した。すると鵺も注文し、ついでに「彼女の会計も一緒でいいんで」とつけくわえた。
「ねえ、鵺」
「はい?」
「ほんとに君、かっこいい男の子だからさ。次の恋はちゃんとしなさいね」
 鵺は私を見つめて、「そうですね」と曖昧に微笑んでうなずいた。
 そのあともカクテルを飲みながらまったり過ごして、二十一時を過ぎた頃にふと私のスマホに着信がついた。怜美からだ。
『イベ終わったよ!
めちゃくちゃ楽しかったー!!』
 私はその画面を鵺に見せた。鵺は少し噴き出して、「ほんとにこの人、」と私を見る。
「ただの幼なじみですか?」
「ただの幼なじみですね」
「これから迎えにいって、一緒にホテル」
「そうだけど」
「そこまでつきあってあげるって、好きな人だったりしませんか」
「何で。ないよ、あの子は」
「ふうん」
「えー、妬く? 妬くの?」
「妬くというか……まあ、そうかも」
 私は鵺を向いて、まばたきをした。「いや、何というか……」と鵺は口ごもりながら言う。
「その人は、ゆすらさんにまた会えるじゃないですか。俺はもういつになるか分かんないのに……」
 言いながら、どんどんばつが悪そうになる鵺に、私は軽く咲ってしまう。それからしばし考えて、「じゃあ」と言ってみる。
「夜中に、もう一度会おうか」
「えっ」
「ホテルの部屋まで行ったら、友達は何だかんだで拘束はしないと思うの。電車なくなるかもだけど、タクシーあるし」
「いいんですか」
「ただ、行く場所が鵺の部屋くらいしかないよ?」
「それはぜんぜん。いや、ちょっと片づけたいかも」
「エッチな本を?」
「そうじゃないですけど──散らかってるし」
「ふふ、気にしないけどね。じゃあ、夜中にお部屋デートしましょうか」
 私がにっこりすると、鵺は首をかしげて「……俺、口説かれてます?」と訊いてくる。私は含み笑って、カクテルをひと口飲んで言う。
「口説くかどうかは、夜の君に任せる」
 鵺は私の瞳を瞳に映し、「やばい」と頭を抱える。
「マジでゆすらさんが好みのおねえさんすぎる」
 思わず笑った私に、鵺は一度テーブルに顔を伏せ、それからこちらを見て「男の部屋に来るんですよ?」と確かめる。
「まあ、そういうことだろうね」
「ほんとにいいんですか?」
「だって、鵺ってほっとけないんだもん」
「ほっとけない」
「うん」と私はそっと鵺の髪に触れ、ピアスに指を滑らせる。
「あのときも、泣いてる鵺のこと抱きしめてあげたいと思ったんだよ。でもできなかった。今夜それが叶うなら、私は鵺を抱きしめたい」
 鵺は私をじっと見つめた。そののち、静かに私と唇を重ねて、「友達の一線、超えますか」と低くささやく。私は答える代わりにこちらからも鵺にキスをして、「部屋の住所教えて?」とすぐそばの瞳に言う。
 ああ、かなり心臓がどきどきして、体温がほてって、期待している。
 これでひと晩、何もなかったら笑っちゃうな。終わって気まずくて、友達でさえなくなっちゃうのも怖いな。それでも、この一線を我慢できそうにない。私はこの寂しがる男の子を抱いてあげたい。
 だから私は、思い切って彼のほうに踏み出す。友達の一線を超える。
 そばにいたいと思う。今日一緒に過ごして、ますますそう感じた。この男の子をひとりにしたくない、何なら私が捕まえる。
 鵺は私の手帳に住所を書きつける。カウンター内にたくさん並ぶリキュールのボトルがきらきらと視界の隅で輝く。
 そんなお酒より綺麗な鵺のピアスの光に触れながら、彼はどんなふうに私を蕩かすのかなと、疼くように心がじわりと灯った。

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