飛べない僕は風に救われず

 きっと僕は人に愛されることはなく。人を愛することもないのだろう。
 ある日、何かの拍子で動脈まで深く切るとか。ガムテープが首を絞めるとか。すくむことなく飛び降りるとか。
 自分を最後まで生きられない。生きるための力が、もう、ない。
 実百合が悠紗を連れて出ていくのが、霞みがかって聞こえた。ずきんと痛むたび、手首の笑うピエロの口のような裂け目から、血があふれて生臭い血だまりになっていく。
 冷たいバスルームのあたり一面が、血まみれだった。タイル、壁、僕自身も、ペンキを浴びせたようにべっとり赤い。
 今度こそ、このまま、死ぬのかな。それでも、もう、いいか。疲れた。何もかも、疲れた──……
 実百合と出逢ったのは、高校三年生、十七歳のときだった。小さなライヴハウスだった。
 僕の友達は、XENONというバンド名で音楽活動をしている。ヴォーカルの梨羽。ギターの紫苑。ベースの要。ドラムスの葉月。四人とは中学時代に出逢った。やっとコピーができるようになった頃からのつきあいで、僕はずっと一番近くでXENONの活動を見守ってきた。
 四人は高校には行かず、毎週ライヴを重ね、徐々にファンを増やしている。実百合がその日、楽屋をこっそり覗いていたのは、XENONでなく対バンの相手が目当てだったけれど。
 その夜、四組出るうち、XENONは二番手だった。袖に待機するときになって、葉月がスペアのスティックを忘れたとか言い出した。「まあどうにかしろ」と要は流したけれど、僕が楽屋に取りにいくと裏手にまわった。
 すると、楽屋の前で艶々の黒髪を長く伸ばした女の人が、何やらドアを開けようとしていた。
「あの……」
 躊躇ったものの、どのみちそのドアを抜けて楽屋に入らなければならない。そう声をかけると、女の人はぎくっとした様子で振り返った。僕はちょっと首をかたむけ、彼女に歩み寄る。
「そこは、その、立入禁止ですよ」
「……出演者の人ですか?」
 二十歳ぐらいだろうか。暗目でも、黒い髪と瞳、しっとり白い肌、赤く塗られた唇が際立った美人だった。十字架が裾にあしらわれた、黒いワンピースを着ている。
「え、いや、二番手のバンドの友人です」
「何だ」
 ほっとした様子でそう息をついた彼女は、僕にぐっと顔を寄せてきた。この香りは──香水、だろうか。
「ねえ、ここ楽屋よね? 中にトリのバンドいる?」
「さ、さあ」
「私ね、あのバンドのすっごいファンなの。友達がCD持っててね、今日初めてライヴに来て。だけど、観るだけじゃなくてどうしても直接会ってみたくて」
 いきなりまくしたてられ、とまどうしかできない。
「だから、ここ覗いたら会えるかなって」
「あの……いや、そういうのはやめたほうが」
「何で? バンドやってる人には、ファンって嬉しいものでしょ?」
「………、あのバンドなら、CD持ってきてたので。物販のときに話せるかと」
「ほんと!?」
「はい。あの、僕、この中に急ぎの用事があるので」
「あなたは入れるの? 出演者じゃないのに?」
「え、まあ。ちょっと事情が」
 XENONは──というか、ヴォーカルの梨羽は、精神的に危うい。リハーサルで泣き出して中断することも少なくなく、そういうとき僕は梨羽をなだめられるので、たいていのライヴハウスで“関係者”と見なされて楽屋にも入れてもらえる。
 でも、そんな細かい事情を話しているヒマも何もない。なのに彼女は「どうして?」と食い下がってくる。
「どうやったら、バンドやってる人とそんなに仲良くなれるの?」
「え、えと、ちょっと、ほんとに用事が」
「私ね、男に遊ばれてばっかりで、何かもう誰も信じられないような気持ちなの。それを、あのバンドの歌詞が救ってくれて」
「あ、あとで聞きますから!」
 はずみで言っただけだ──と、通じる相手ではなかった。とりあえず、葉月にスティックを届けることはできたけど、彼女は僕のすがたに目をつけていて、ライヴが終わると例のバンドより僕に声をかけてきた。
 彼女は実百合と名乗った。
「私の話、聞いてくれるんでしょ?」
 実百合はするりと僕の腕に腕を絡めた。体温が伝わる。その瞬間、言い知れない鳥肌が立った。
「あの──」
「私、そばにいてくれる人が欲しいの。みんなが注目してる人じゃ、やっぱダメだよね」
「え、あ……まあ、共感したことはあの人たちに伝えたほうが」
「いいの、どうせほかの人が似たようなこと言ってるだろうし。そりより私、あなたと話したい」
 困って、物販に参加せずカウンターでオーナーとしゃべる四人を見た。梨羽は凄惨な目を開いてしゃがみ、その梨羽に紫苑が付き添っている。要と葉月は未成年なんて関係なくカクテルを飲んでいて、でも、僕のことは気にかけていたようですぐに目が合った。
「あー、何か眠くなってきたかも」
「俺らはそろそろ帰りますわ」
 そんなことを言って、ぞろぞろと近づいてきた四人が、そのときは助けてくれた。
 けれど、実百合の行動はそのひと晩で終わらなかった。彼女はXENONがステージに立つ夜にはライヴハウスの通りに来て、僕に近づこうと画策してきた。
 XENONの四人は、口にしたりしなかったりでも、「あの女はやめておけ」と訴えてきた。なのに僕は、断る隙も口実も見つけられず、会話のうちに増えるスキンシップのまま、実百合とモーテルに行っていた。
 実百合が好きかと問われたら、正直よく分からない。ただ、みんなしていることだと気づいた。四人とばかり過ごし、異性に目を向けることがなかった。僕はただ、“経験”が欲しかったのかもしれない。
「初めて?」
 幼い頃に見た母親以外の異性の裸体から目をそらしていると、実百合はぴったりと胸のふくらみを押しつけてきてささやいた。密着する皮膚をとっさに押しのけたいと思った。思ったのに、軆がこわばっている。覚えがある感覚でも、思い出す前に実百合に唇を奪われた。湿った熱い舌が舌に絡まり、無意識に心が叫んだ。
 気持ち悪い──!
 一度関係を持つと、実百合はどんどん僕を求めるようになった。会えば必ず行為になる。それが普通なのだろうか。僕たちは一応、つきあっているというかたちになっていた。それでも、会うたび会うたび交わるなんて、多すぎるのではないか。
 よく分からなくても、誰に訊けばいいのか分からない。四人には恋人がいる様子はないし、そのほかには僕には友達なんていなかった。
 実百合と会うの嫌だな、と思うのに時間はかからなかった。好きとか嫌いではなく、会えばしなくてはならないのが憂鬱だった。会う約束をしている夜が近づくほど、胃の重さに気分が悪くなり、昼間の授業に集中できなくなる。
 またあれをさせられるのだろうか。嫌悪がふつふつと沸騰する。それでも僕は、「今日は何もせずにゆっくりしよう」とか、うまくかわす術を得られなかった。
 気持ち悪かった。服を脱ぐのが気持ち悪い。肌がこすれるのが気持ち悪い。性器を見られるのが気持ち悪い。ほてった息、耳元のささやき、たまに快感が走ることすら、気持ち悪くてたまらなかった。
 実百合に“意見”ができなかった。いつも実百合の言う通りだった。コンドームもつけなくていいと言われたらそうした。最中も自分で動けず、実百合が上になることが多かった。性器を愛撫されて、気持ちいいなんてないし、たまに使える状態になっても、勝手に果てる。
 行為が長引くと、涙がこみあげるほど吐き気がした。早く終わってほしくて、「好きなように使って」と言ってしまうこともあった。自分でも、なぜそんな言葉が突いて出たのか分からない。けれど、重なる軆の熱が耐えられなくて、彼女が達して横たわるのと同時に、僕はトイレで嘔吐さえするようになった。
「……僕は、おかしいのかな」
 聞いてほしいことがある、と僕はついに四人に生々しい話も交えて相談した。無言で聞いていた梨羽と紫苑、「お前が童貞卒業かあ」とか言いながらポルノ雑誌をめくっていた要や葉月も、僕がそうぽつりとつぶやいてうなだれる頃には、何か言いたげなつっかえた目をしていた。
「要と葉月は、もう、したことあるよね」
「ん、まあそうね」
「恋人はいたことねえけどな」
「楽……しい? ……あんなの」
「楽しいっつーか、俺は溜まったら吐いてるだけ」
「俺はしゃぶってる女を見下ろすのは大変気分がいい」
「僕は、口をつけられると嫌なんだ。触られるのも、見られるのすらつらいときもある。変、だよね」
 要と葉月は顔を合わせ、紫苑は暗い瞳を床にやり──梨羽が、じっと僕を見つめている。僕が首をかしげると、梨羽は眉を寄せてかぶりを振った。
「梨羽──」
 梨羽は何か言おうとしたけど、それを声に乗せる前にうつむいた。そんな梨羽の頭を要がぽんぽんとして、葉月は僕の肩をたたいた。
「俺たちは、美人なら何でもいいけどさ。お前は相手選べ」
 僕は葉月を見て、うなずく要も見た。
 相手を選ぶ。実百合ではない女の子なら、ということだろうか。でも、うまく言えないけど、それは違う。僕は実百合が嫌なのではなく、行為が嫌なのだ。
 肌に肌が触れる感触。愛撫される嫌悪。終わったら、胃液でもいいからとにかく吐く。
 ほかの女の子ならそれがない、とは何となく思えない。何でうまく伝えられないんだろう。そんなことを思う僕は、みんなの優しさを、まだ分かっていなかった。
 気づくとクリスマスの頃になっていた。僕はもう専門学校に進むことが決まっていた。特に志望のなかった僕は、「これからはパソコンだ」と親に言われるままコンピュータ系に進むことになっていた。
 聖夜はやっぱり実百合としていて、こすれ合う体温に気が遠くなっていた。何とか使える状態で動きながらも、実百合の喘ぎに耳を塞ぎたかった。そんないやらしい声、聞きたくもない。やめたら止まるのか、と思うと行為の途中だなんて気にせず、やめたかった。
 実百合がしがみついてきて、その肢体の熱にいよいよ吐きたくなる。汚物が喉に迫るのが分かり、耐えられなくて、僕はまたタイミングも何もなく実百合の中に出した。
 腫れているかのように、胃がむかむかする。鼓動がやたら刺さり、頭はくらくらする。実百合が何か言ったけど、僕はベッドを逃げ出して全裸のままトイレに駆け込んだ。そしていつのまにか涙さえこぼしながら、トイレの中に一気に嘔吐した。
 ぐちゃぐちゃした嫌な臭いが立ちのぼる。口の中が酸っぱい。白っぽい胃物に涙が降る。脳みそを乱暴に揺すぶられたように、めまいで目の焦点が合わない。
 でも、終わった。何とか、今日は終わった。これで、しばらくは──
 助かった……
 命からがらのようなそのひと言に、既視感が重なった。
 助かっ……た?
 何だ、それは。いや、でも、そうだ。僕は助かった。頬をべたべたに濡らす涙も。震え出しそうに走る虫酸も。麻痺して冷たくなる感覚も。喉元を締めつける絶望感、このまま殺してほしい虚脱感、剥き出しにされた軆の汚辱感──
 そんなすべてに、覚えがある。
 何だろう。もやもやする。死体を掘り返すように、爪を立てて脳内をかきむしる。汚臭のする灰色の靄をかきわけ、物音たちを手繰って、僕はのしかかられるまま逆流して──
 突然、目の前が白光した。ついで、あらゆる場面が赤くあふれてきた。荒い息。舐める舌。えぐる射精。それらの生き血のような鮮やかさな温度に、ぺたんと冷たい床に座りこんだ。茫然と空中を見上げ、ついに、むごたらしい記憶が蒸し返された。
 そうだ。
 僕は昔、毎日のように。
 男に、同性に、無理やり。
 この行為を──
「俺たちも、そのことのせいなんじゃないかとは思ってた」
 なかばパニックになりながら、軆を流して服を着て、実百合など放り出して、梨羽の家に向かった。四人は家族とうまくいっていない。それでも“放置”というかたちのため、比較的過ごしやすい梨羽の家に、四人はたいてい寝泊まりしている。
 クリスマスイベントのライヴも終え、四人はケーキと酒で適当に聖夜を祝っていた。そんなところに申し訳なかったけど、すべてを知る四人にしか打ち明けられなくて、重なった記憶について僕は泣きながら話した。
 みんな神妙になって、顔を見交わし、要が静かにそう言った。そして、葉月がつなぐ。
「でも、思い当たらないぐらい忘れてるみたいだったしさ。思い出させるのもな、って」
「こいつも言ってただろ、相手選べ。お前は、信頼して預けられるような女じゃないとむずかしいんじゃねえかと思う」
 このとき、やっと四人の優しさを痛いぐらい理解した。
 分かっていないのではない。分からないふりをしてくれていたのだ。僕の記憶を刺激して、傷をこじあけないように。「梨羽」と紫苑の低い声がしてそちらを見ると、梨羽は抱えた膝に顔を伏せていた。
 そうだ。梨羽はこんな話は聞きたくなかっただろう。僕がまだ苦しんでいるということは、同時に梨羽の傷もえぐる。「ごめん、」まで言いかけたけど、「ほっとけ」と要が煙草を取り出した。
「そいつは、自分で一番分かってるしな」
「つかさ、もう別れろよ、あの女。別れたいだろ」
「どうやって、別れたらいいんだろ。全部話すの?」
「いや、打ち明ける価値ないわ」
「吐いてんのはばれてないのか」
「……分からない。話題になったことはない」
「これからはベッドでゲロ吐きなさい」
「え、そ、それは」
「とにかく、あの女からは離れろ。何とでも言って」
 要を見て、うなずく葉月も見た。紫苑も僕をちらりとして、梨羽は震えて嗚咽をもらしていた。
 でも僕は、大事な友人からのその忠告を守れなかった。
 年末年始は、実百合とは会わなかった。ほとんど登校しなくていい三学期が始まった頃、久々に僕に会った実百合は、禍々しい笑顔でとんでもないことを報告してきた。
「あなたの赤ちゃんができちゃった」
 カフェの雑音も、紅茶の香りも、目の前の実百合も、ぶつっと途切れた。心の闇に立ち尽くし、行き止まりにぶつかったような恐怖に圧倒された。
 とっさに、ひどいことを思った。
 ──どうやって堕ろす?
 でも、そんなことは口にできない。僕は踏み外してしまった。階段を転がり落ちるようだった。
 卒業と同時に、実百合と結婚した。僕の急変をよく思わない実家を出た。マンションで実百合と生活し、専門学校に通いながら、出産資金のためにバイトも始めた。実百合も働いているのだが、「友達がお祝いにって誘ってくれて」と遊びにいくことも少なくなかった。だから、家事も僕がやらなくてはならかった。やがて、僕と実百合の子供が生まれた。
 男の子だった。月並みだからお世辞かもしれないけど、目が僕に似ていると言われた。悠紗と名づけたその子は、退院した実百合と共に帰宅できる健康的な子だった。
 実百合が留守のとき、改めて、そっとその子を抱いてみた。意外と重みがあって、でも柔らかくて温かくて。
 ずっと不安だった。僕は自分の子供の体温も気持ち悪いかもしれない。ひどいことをしてしまうかもしれない。愛せないかもしれない。
 杞憂だった。悠紗を抱いていると、とても優しい安らぎが、日向に干した毛布のように心を包んだ。
 大丈夫。大丈夫だ。僕は、この子を守りたい。
 実百合とは、妊娠を機にずっと交わっていない。悠紗を生み落とし、実百合は僕を求めてきたけど、「まだ君の軆が心配だから」「悠紗が泣き出すかもしれないから」「明日はいそがしいし寝ておきたいから」、そんな、どんどんほつれていく理由で断るようになっていた。
 実百合は、少しずつ不機嫌を表すようになってきた。
「寝ておきたいからって、どうせ寝てないじゃない」
 僕が相手にしないから出かけるのだろう、クローゼットの服をあさりながら実百合は鬱陶しそうに吐き捨てた。
「昨日、また夜中に泣いてたわよね。また“嫌な夢”? 夢で泣くなんて、どれだけガキなのよ」
 何も言い返さず、クッションにちょこんと座る悠紗の静かなまばたきを見つめていた。実百合がまだ何か言っている。けれど、結局彼女は僕の無視に舌打ちして、部屋を出ていった。
 ふたりきりになって、僕は悠紗を抱き起こしてみる。実百合がいなくなると、なぜか悠紗もほっとするらしい。素直に僕に甘えて、しがみついてくる。実百合譲りらしい艶々の黒髪を撫でていると、不意に悠紗が僕の胸に顔を押しつけてきた。
「悠紗──」
「おと……しゃん」
「えっ」
「おとうしゃん」
 僕は目を開いて、悠紗の顔を覗きこんだ。悠紗の小さな手のひらが、昨日も涙で濡れた頬に触れた。悠紗の熱がすうっと頬に染みこむ。それはすごく心地よくて、僕は悠紗を抱きしめた。
 それは、悠紗の初めての言葉だった。
 ──頑張ろう。この子のために、もっと頑張ろう。悠紗のためなら、僕はどんな無理も頑張らなくてはならない。そう、僕はこの子の父親なのだから。
 そんな立派な決心をしてみても、実際の状況は悪くなる一方だった。
 実百合をよく思っていなかった実家の僕の弟が、非行に走り始めた。一度、話をしようと実家で帰宅を待って会ったけど、軽蔑しきった眼と汚い言葉で突き放された。
 そして、XENONの四人が、要が運転免許を取ったことで、活動を県外にまで広げるようになった。もともと家庭に居場所の無かった四人は全国あちこちをまわり、なかなか会えなくなった。
 実百合とは堂々巡りの口喧嘩が絶えず、同時によみがえる記憶が、ずきずきとこめかみで軋んだ。
「どうして私を抱いてくれないのよ」
「……したくないだけだよ。大声は出さないで」
「私に魅力がないっていうの? 子供を生んだあとの軆は不満?」
「そうじゃないけど、」
「それしかないじゃない! 女をバカにしてるの? だいたい、昔からあなたのセックスはおかしいわよ。私を感じさせようって気がぜんぜんないわよね」
「君だって、僕の気分なんか知らずにいつも──」
「私たちはもう夫婦よ! ずっとつきあってきたの、あなたは私を抱く義務があるのに。私ばっかりあなたに尽くしてるわ、あなたは私に何もしてくれない!」
「大声はやめてくれよ。悠紗が起きるだろ」
「あなたばっかり勝手に中出しで終わって、妊娠までさせておいて。私を何だと思ってるの、私はあなたのおもちゃじゃないんだから!!」
 そんな口論はひどくいらいらして、実百合を突き飛ばしたくなった。
 義務? 尽くしてる? おもちゃじゃない?
 彼女は何を言っているのだろう。どうしてそんなことを言えるのだろう。
 そんなの、全部僕の台詞だ。
「私たち、結婚したのよ。私を愛してるでしょ?」
 ……愛してない。
「子供だって生んであげたじゃない」
 ……悠紗を物みたいに言わないでくれ。
「あなたはもっと私を褒めて、かわいがってくれなきゃいけないの」
 ……どうして。
「あなたは自分勝手よ」
 ……それは君のほうだ。
「ねえ、応えるくらいしなさいよ、人形じゃないでしょ!?」
 あの頃、口元からどろりと白い液体がこぼれたように。脳裏にどろどろと血が流れて、血痕に記憶が映る。窃笑。息遣い。性器をつかんだ手。絡まる唾液。直腸まで突き刺さる。射精。射精。射精。射精されるためだけの人形──
 どんどん頭が混濁して、意識が薄れ、ときおり飛ぶようになった。気づいたら講義を受けている。気づいたら実百合に責められている。気づいたらバイト先に向かっている。日々がよく分からなくなった。
 久々に四人が帰省して会えた途端、僕は泣き出して、壊れたように泣いて、みんなを困らせてしまった。
 アルバムを作るのもあって、四人はしばらく滞在してくれることになった。みんな、悠紗のことはすごくかわいがってくれた。「確かに目が似てるな」と要は悠紗を高く持ち上げ、「やばい、持って帰りたい」と葉月は悠紗を抱いて連発する。悠紗も片言ながら四人の名前を口にするようになり、ますます盛り上がる。
 まあ、梨羽と紫苑は興味がない感じだったけれど、拒絶しないということはこのふたりなりの受容だ。紫苑はギターを弾いていて、めずらしく静かな曲調だなと思っていた。そしてある日、梨羽に服を引っ張られて、振り返るとレポート用紙を突き出された。
「え──」
「直せるなら歌う」
 梨羽がはっきりした口調で話したことに、僕はしばたく。
「無理なら捨てる」
 レポート用紙を受け取って、梨羽の丸っこい字をたどった。読むほどに、頭の中にカマイタチが走った。
 訊かなくても分かった。梨羽はじっと僕を見ていて、読み終わって顔を上げると苦しげに睫毛を伏せた。
「……僕のこと?」
 梨羽はこくんとした。
「直す、って。梨羽、自分の歌詞に手を入られるの好きじゃないでしょ」
「この曲は、僕だけじゃ完成させられない。僕には分からない」
「梨羽は──」
「僕だけだと無神経」
 歌詞に目を落とした。タイトルは“BOY”だった。男の子である幼い自分の記憶が、男性として大人になった自分の現在を、つけまわしては襲う。そんな歌詞だった。
 僕は悠紗を膝に乗せて、課題の合間に、“BOY”の刺さる言葉や触れてほしくない箇所を削っていった。そうするとやっぱり曲調に穴ができるので、それを補うように紫苑も曲をいじってくれた。梨羽と一緒に、加える歌詞も考えた。

  俺は羽を失くした
  みんな羽ばたいていくのに
  何度も堕ちてしまう
  飛べない俺は風に救われず
  このままひとり
  泥まみれで置きざりにされる
  どんなに追いこまれたって
  命にきらめきが見えない
  あんたたちにもがれた羽で
  命乞いさえできやない
  俺は死ぬしかない
  命なんか苦しいだけだ

 きっと歌い切れるのは一度きりという精神力で、“DAYFLY”と改題されたその曲を梨羽は録音した。そして、続いての問題で、「アルバムに入れていいか」ということを話し合った。
「俺たちは入れたい。お前も俺たちの中のひとりだからな」
 要を見て、傷を晒されることに迷ったけれど、みんなの中のひとりとして認められる証なら、欲しいと思った。僕はうなずいた。そうして、XENONのファーストアルバム『EIRONEIA』が完成した。そして、その記念にまた全国をまわることが決まり、僕は悠紗を抱いて四人を見送った。
 再び、意識のおぼつかない日々が始まった。実百合は外泊が増えたものの、そのぶん帰宅すると疲れる口論を吹っかけてきた。僕の性の希薄さをなじられると、嫌でもその理由である記憶が脳裏がよぎる。
 吐きたくなった。実百合が出かけると、実際吐くときもあった。でも、それより、つらくて苦しくて、「死にたい」とまで思いつめて、手首を切りつけるようになった。
 その日も、ぐらぐらする頭でバイトに出ていた。僕のバイト先は、一階がカフェで二階はオーナー夫婦の自宅という、小ぢんまりした喫茶店だった。常連さんが多くて、アットホームだから僕でも続いているのかもしれない。
 それでも、実百合と朝まで喧嘩した翌日、学校に行ってその足でシフトに入って、さすがにふらふらしていた。僕は勤務を上がってエプロンを脱ぐ手を取り落として、そのまま倒れこんでしまった。
 はっと目を覚ますと、知らない匂いのベッドにいた。小鳥の鳴き声がしていて、朝なのかと思った。でも、ここはどこ──
 起き上がって部屋を見まわすと、アンティークなものが多い、落ち着いた部屋だった。窓際の吊り籠に黄色の綺麗な小鳥がいて、さえずりはその声のようだ。本気でどこにいるか分からずおろおろしていると、不意にドアが開いて名前を呼ばれた。
 オーナーの奥さんだった。起きている僕にほっとした様子で歩み寄ってくる。更衣室で倒れていたと言われて、やっと憶えが接続された。そうだ、僕はバイトは上がった。でも、上がった途端ほっとして、そのまま──
「君は、いつも頑張る子だから。たまには息抜きもしなきゃ」
 うつむいた。頑張ってなんか、いない。少なくとも、実百合は僕は甘えていると言った。僕は頑張っているつもりだ。でも……
 小鳥が籠の中で澄んだ声で鳴いている。何心なく、「ああいう鳥って飛べませんよね」と言うと、風切り羽を切っているからと返ってきた。鳥はその羽で風を切るから、飛べるのだそうだ。
 羽を失くした。“DAYFLY”の歌詞にもあった。本当に僕にはそれがないんだな、とぼんやり思った。
 専門学校を卒業し、喫茶店のバイトを辞めて、コンピュータ系の会社に就職した。僕なんか、人間として壊れているのに。昔から成績だけは優良で、みんなが内定が決まらないと嘆く中、すんなりと内定をもらえた。仕事は予想以上に重労働で、この仕事で過労死もあると聞いた。それでも僕は、キーボードをたたいて仕事を早く終わらせた。
 悠紗がどうしても保育園になじまないのだ。朝はいつも激しく泣き出す。でも、実百合は悠紗をほとんど見ようとしない。早く迎えにいってあげないと、と僕はいつもみんなより仕事を片づけ、ようやく保育園に現れた僕にしがみついてきた悠紗と、部屋に帰宅した。
 悠紗がいる。僕には悠紗がいる。僕が頑張らないと、この子はひとりぼっちになってしまう。実百合はあてにできない。僕がこの子の保護者にならないと──
 強迫観念のようにそう思って、僕は少ない睡眠時間でも逃げまどっていた。忌まわしい記憶のフィルムは、ずたずたに引き裂かれて、無作為に僕の脳裏に映写された。耳にかかる息。卑猥な言葉。速くなる動く腰。あまりにも簡単に「死にたい」と思うようになった。手首も深く切るようになった。
 その日もそうだった。僕はえぐられた傷口から、記憶だけでなく、あのときの熱、感触、這いまわる手までもを思い出していた。
 吐きそうだった。けど、最近、食欲すらなくてあんまり食べていない。でも、吐くものがなくても吐きたい。
 僕はバスルームに行くと、せめて、切り刻んだ手首からぼたぼたと紅い血を吐いた。
 どのぐらい、そうしていただろう。血が流れ続けるように、浴槽にお湯を溜めて腕を浸していたときだった。
「何してるの?」
 軆がさっとこわばった。
 見つかった。誰? とっさに意識と記憶が錯誤した。先輩? クラスメイト? 先生? 何で。嫌だ。どうしてみんな。僕はこれ以上されたくない。このまま死にたい。何もかも、もう──
 ふっと明かりがつき、ついで、短い女の悲鳴が上がった。
 女……?
 怪訝がちらついても、浴槽に寄りかかったまま、動けなかった。軆が泥沼にはまったように重く、力に込めようとしても空まわる。びちゃっという水音と共に、傷つけた手首を腕をお湯から引き上げられた。僕はぐにゃりとうなだれ、でもかなり強く頬を引っぱたかれ、ようやく顔を上げた。
 実百合、だった。そして、やっとここが部屋のバスルームだと気づいた。実百合はいらだちを感電させた表情で、僕にきつく蔑視を向けた。
「もう何なのっ。何バカなことしてるのよ!」
 目を開いた。
 バカな、こと? バカなこと、なんて。なぜ、よりにもよってこの人に、そんな簡単な言い方をされたくてはならない?
「もううんざりよ、あんたって最低の男じゃない。迷惑もいいところだわっ。やること、くだらないことばっかりで! こんなバカなことして、何が楽しいのよ!?」
 目をつぶった。聞きたくない。そんな耳障りな言葉は聞きたくない。
 つかまれたままの傷ついた左手首を押し出し、その実百合を押しのけた。傷口がずきっと叫んで血があふれ、べっとりと実百合の服に鮮紅がついた。その生々しい赤に実百合が口ごもった隙に、僕はカミソリを落とした右手で涙をこすり、絞り出すように言った。
「バカなんて……そんな、バカなんかじゃない、君に何が分かるって言うんだよっ」
 実百合は僕を見た。その目は心底から毒々しく、醜い憎悪すら浮かべていた。
「何……よ」
 実百合の声は、煮えるような怒りに震えていた。
「バカよ、あんたほんとに人間のクズなんじゃないの!? 女ひとりも幸せもできない。本当に男として終わってるわよ、そうよ、とっとと死んでくれたほうがいいわ。あんたと結婚したのは失敗だった、私の人生、何もかもめちゃくちゃにして。あんたなんか、出逢わなきゃよかった!」
 実百合は雑言をわめいて、僕はいつのまにか泣きながら顔を背けた。
 見苦しい本音だった。聞かなくても分かっていることだった。彼女には、抱いてもらえない時点で、僕などどうでもよかったのだ。
 その屈辱は、犯されたあとの砕け散ったプライドのようにみじめだった。この無神経さ。同じだ。僕を性処理にしていた。昔の僕は抵抗できなかったけど、もし抵抗していたら、そんなふうにめちゃくちゃに言われたり殴られたりしていたのだろう。
 あの人たちのように、彼女には、僕は都合のいいはけ口だったのだ。
「あんたが何も話さないからよ、分かるわけないわ。あんたにいろいろ教えた私が、信用できないっていうの? 結婚までしておいて、そんなのないわよ。結婚しなきゃよかった、あんたみたいな役立たず。ほんと役立たずよ! だからね、ちゃんと私には役に立つ男だっているの。もう疲れた、あんたといるのはうんざりよ。私はあんたにつきあってられないわ。あんたみたいに頭がおかしいのじゃない、まともな男のところに行くわ!」
 そう言って、実百合は僕を突き飛ばすとバスルームを出て、部屋をばたばたと行き来した。その中で、小さく「おとうしゃん」という声が聞こえた。
 僕はぴくんと顔を上げた。悠紗。「おとうさんなんか忘れようね」と実百合の声がして、僕はせめて何か言おうとした。
 悠紗も連れていくのか? ろくに世話もしたこともない実百合が? あの子は取られたくない。悠紗は僕の──
 でも、力が入らなくて、冷たい床にうずくまった。ばたん、とふたりが出ていくのが聞こえた。
 痛い。手首も、頭も、心も。魂が血を流している。その血の匂いはおびただしく充満し、顔にも髪にもぐちゃぐちゃに飛び散っていた。
 疲れた。僕も疲れた。このまま死ぬのを待ってもよかった。
 でも、やっぱり、僕の胸にはあの声が引っかかった。
『おとうしゃん』
 悠紗。僕の大事な息子。あの子は守ると誓った。そう、たとえ母親である実百合からでも。彼女は悠紗にとって害にしかならない。僕が育てないと、悠紗まで心を病んでしまう。悠紗は僕が守らないと──
 そう思ったものの、取り返すまでもなく、実百合は悠紗をあっけなく投げ捨てた。真っ赤な夜の翌日、僕は仕事を休んで、離婚の相談をしに実家に訪ねた。両親は、昔のことも今のことも、何も事情を知らない。けれど、助言くらいはくれるだろう。そう思って向かった実家で、わんわんと泣いている子供の声がして、僕は慌ててドアフォンを押した。出てきた母がその腕で必死にあやそうとしているのは、悠紗だった。
 僕が抱いた途端、悠紗はすうっと泣き止んで、僕の胸によりかかった。苦笑した母親は、実百合が来たこと、悠紗と記入済みの紙を置いていったことを話した。それは、離婚届で──
 そうして、僕はやっと実百合から解放された。安心して悠紗も手元で育てることができるようになった。気紛れに電話してくる四人にそれを伝えると、『遅せえよ』と笑われた。弟もいつのまにか落ちついて高校に通っていて、僕と話をしてくれるようになった。これで僕は、やっとやすらかな生活を送れると──
 思った、のに。
 何ひとつ、終わらなかった。悪夢、幻聴、錯覚。そんなものが僕の生活を狂わせ、死にたいという想いが消えることもなかった。記憶が何度も再生される。無限に続く過去の光景に、僕は不安になり、恐怖を感じ、現実を逃げたくて──
 実百合が去って、一年が経とうしている日だった。僕と悠紗は引っ越しをして、実家にわりと近いマンションに暮らし始めていた。
 深夜だった。とりわけ生々しい夢を見たせいか、嘔吐までして、手首を切り裂いていた。
 死にたい。実百合がいなくなっても過去は変わらない。もう思い出したくない。早く消えて、自分の記憶から逃げて……
 突然、背後に声がかかった。
「おとうさん……?」
 はっと肩を震わせ、自分がどれだけ醜い状態かを忘れて、振り返った。そこに不思議そうに立っていたのは、悠紗だった。僕のぱっくりした目に、幼い悠紗も驚いたようだった。
 怯えられる、と繕おうとしたけど、手首の血は止まらないし、涙で目は痛むし、口元は胃物で汚れているし──。悠紗は怖がって後退ると思った。けれど、僕に駆け寄ってきて、自分も泣きそうになりながら僕を覗きこんできた。
 パジャマを汚すと分かっていても、悠紗を抱きしめた。悠紗はやはり、柔らかくて温かかった。悠紗も僕のパジャマをつかんだ。「お願い」と僕はかすれた声で哀願した。
「誰にも言わないで。おじいちゃんにも、おばあちゃんにも、沙霧おにいちゃんにも。誰にも言わないで」
 言いながら、自分に絶望していた。この子がいながら、僕は何を思っていた?
 死にたい。
 消えたい。
 逃げたい。
 ……何で。何で、そんなことを思うのだろう。最低だ。僕は本当に、人間のクズだ。実百合、それは否定できないかもしれないよ。
 なぜ、あのことに、悠紗まで奪われなくてはならない? 悠紗がいるのに。守ると誓った、大切な我が子がいるのに。
 僕は死にたいと思う。忌まわしい過去に溺れ、悠紗のことさえ忘れる。そんな瞬間が、自分にはある。そんな、一縷の光もない、ギロチンのように未来を絶つ、残忍な絶望感はなかった。
「誰にも、言わないで……」
 情けなく、そう繰り返した。悠紗は僕にしがみついて何も言わなかった。
 そうだ。誰にも言わない。誰にも言えない。あんな過去。こんな自分。受け入れてくれる人なんて、永遠に現れない。
 僕はひとりでこの傷を抱えこみ、いつかやがて、ようやく死ねるのだろう。僕には死しか残されていない。悠紗がいる。四人がいる。家族もいる。それでも僕は、ひとりだ。
 風切り羽がない。だから、僕が空に向かえることはない。飛べない僕は風に救われず、ただ地を這って嗚咽をもらす。
 孤独にうずくまる。生きる価値もなく、魅力もなく、あるのは希死念慮だけ。
 こんな僕は、誰も愛せず、愛されず。自由に羽ばたいていく周囲に、土まみれの腕を虚空に伸ばしても、こんなに重たく泥がこびりついた手──誰もつかんでくれたりしないだろう。
 僕はひとりだ。ずっと。穢された魂を枷にして。虚ろな心を隠して。明日生きているかも分からない蜉蝣のように──
 僕は、望まれるまま、命じられるまま、実体もなく、「鈴城聖樹」という人間を演じていくしかない。

 FIN

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