光の羊水

 安桜さんの下の名前って、思えば、婚姻届を書いたときに初めて知った気がする。
 美澄さん。「みすみさん……?」と首をかしげた私に、「これで『ヨシト』って読むんだよ」と、安桜さんはふりがなを書きながら笑った。
「これからは優真梨ちゃんも安桜だから、名前で呼んでほしいなー」
「美澄……さん」
「そうそう」と言いつつ、安桜さんは婚姻届に目を通し、「よし、これでOKだ」と満足そうに笑んだ。
「明日、提出に行こうね」
 私はこくんとして、一緒に婚姻届を覗いた。証人のところにある名前は、『安桜あさくら美喜よしのぶ』と『安桜あさくら晶代あきよ』──
「安桜さんのご両親?」を訊くと、ジト目をされたので、「美澄さんのご両親?」と言い直した。すると、安桜──美澄さんは笑顔になってうなずき、「優真梨ちゃんに会いたいって言ってたよ」と婚姻届をクリアファイルにしまう。
「会ってくれるんですか」
「すごく会いたがってた。僕は結婚しないんじゃないかとか思ってたらしくてさ。何でだろ?」
「こんな子供で、がっかりされないでしょうか……まだ十六ですよ」
「優真梨ちゃん、僕よりしっかりしてるから」
 美澄さんは私の頭をぽんぽんとして、「娘ができるのは、僕の両親はきっと嬉しいよ」と言った。私は美澄さんを見つめ、小さくうなずく。そっか、と思った。私は、美澄さんのご両親の娘にもなるのだ。
 そうして翌日、私と美澄さんは婚姻届を無事受理してもらったあと、ふたりで美澄さんの実家におもむいた。
 春のまろやかな陽射しが、電車の窓から射しこむ。帰宅ラッシュに入る前で、まだ電車は空いていた。座席に腰かけ、そわそわしそうなのをこらえて美澄さんと手をつなぐ。
 日暮れの中、到着した美澄さんの実家は、少しひなびた住宅街の中にあって、ドアフォンを鳴らすとインターホンでなく直接玄関が開いた。
「ヨシくん。おかえり」
 顔を出したのは、美澄さんの母親と思しき初老の女の人だった。「奥さんの前で『ヨシくん』はやめてー」と言いつつ、美澄さんは門扉を開けて、色とりどりに花が咲く庭を横切って玄関に向かう。女の人は私を見て微笑むと、「初めまして」と頭を下げた。私も慌てて頭を下げ、「初めまして」と応じる。
「とうさんはまだ仕事?」
「七時前には帰ってくると思うわ」
「そっ。じゃ、僕たちはお茶でも飲んでおこうか」
 そう言った美澄さんに続いて家に入ると、どこか覚えがあるような、安桜家の匂いがした。和風のリビングに通されて、座卓の周りにあった座布団に腰を下ろす。
 リビングの奥の和室に仏壇があって、「おねえさん?」と小声で訊くと、美澄さんはうなずいた。「あとで挨拶してもいいかな」と言うと、「もちろん」と美澄さんは咲った。
「お洒落な飲み物とかなくてごめんなさいね」
 美澄さんのおかあさんは、緑茶を淹れてきてくれて、「和食のときは私もお茶なので」と私は持ち上げた湯飲みに口をつける。おかあさんが私を見つめてくるので、「えと」と曖昧に咲うと、おかあさんははたとして笑顔を作った。
「ごめんなさい。聞いてはいたけど、本当にずいぶん若い奥さんだったから」
「あ、いえ。実際子供です」
「でも僕の秘書もやってくれてるんだよ。家事もしてくれるし」
「ああ、美澄って苦手だとか言って、家事分担なんてしてくれないでしょう?」
「いえっ、私にできることならやりたいので」
「あら。美澄、ずいぶんできた子を捕まえたわね」
「ふふ、さすが僕でしょ」
「愛想尽かされないように、ちゃんと協力できることはするのよ」
「はあい」
 そう言って美澄さんもお茶をすすり、「熱い」とつぶやいている。
「主人ももうすぐ帰ってくると思うので。そしたら、四人で夕食をいただきましょうね」
「あ、何かお手伝いあれば言ってください」
「ふふ、今日は任せて。優真梨さん、だったかしら」
「はい。香春──じゃなくて、今日から安桜優真梨です」
「美澄のこと、どうぞよろしくね。親でもつかめないときがある子だけど」
 私は咲って、「こちらこそ、こんな子供で頼りないですが」と頭を下げる。「もう親子なんだからそんな恐縮しあわなくても」と美澄さんが言うと、私とおかあさんは顔を合わせ、「それもそうね」とおかあさんは明るく咲った。
 おかあさんが夕食の支度を始めると、私と美澄さんは、おねえさんの仏壇の前に行った。写真の中の女の人は、まだ二十歳くらいで若く、おかあさんの面影がちらつく。
 亡くなったのは、二十三歳のときだったと聞いている。自殺だった。ひと息もつけない会社の過労が原因だった。おねえさんのことがあり、ご両親は美澄さんが探偵なんていう不安定な仕事に就いているのを受け入れている。
 いい企業に入っても、そこで忙殺されたら何も意味がない。人権も無視されてこき使われるくらいなら、やりたい仕事で生きがいを感じてくれるほうがいい──と。
「おねえさんも、私が家族になるの喜んでくれるでしょうか」
「『お前ロリコンかよ』と僕に言いたいだろうね」
「けっこうそういう感じだったんですか」
「うん。最後まで僕たちの前ではそんな感じだった。だから、気づいてあげられなかった」
「……そうですか」
「『つらい』のひと言も聞かなかったなあ。全部SNSで吐いてた感じ」
「最近は、そういう人多いですよね」
「僕たちのこと、信頼できなかったのかな」
「重荷になりたくなかったんだと思いますよ」
「そっか……そうだね」
 美澄さんとそんな話をして、夕食の香りがただよってきた頃だった。背後のリビングから「ヨシ。来てたのか」という声がした。
 振り返ると、ロマンスグレーな背広を着た男の人がいた。「とうさん、おかえり」と美澄さんは立ち上がり、私も慌ててその場を立って美澄さんを追いかける。
「僕のお嫁さんを連れてきたんだけど」
 そう言って美澄さんは私の肩に手を置いて、おとうさんは少し驚いた目でこちらを見た。美澄さんはおかあさんよりおとうさんに似てるな、と思った。おとうさんは私をしばし見たあと、口ごもりながら言った。
「ずいぶんと……その、若いな」
「何と十六歳」
「お前……。十八まで待ってやろうとは思わなかったのか」
「思わなかった」
「まったく。すみません、この行動力は誰に似たんだか」
 おとうさんは苦笑しながら私に向き直り、「私は美澄さんのそういうところにいつも救われてるので」と私は微笑む。「そうかそうか」とおとうさんがうなずいていると、「おかえりなさい」とおかあさんもリビングにやってきた。
「もうじき夕食できるので、ふたりと話でもしていてくれますか」
「ああ。着替え──いや、ヨシたちがいるあいだは着替えないほうがいいか」
「そうですね。この子がスーツ着てるのに」
「別に僕は気にしないけど」
「私も、楽な格好してもらって構わないので」
「いや、まあ……今日は初対面ということで」
 おとうさんはそう笑うと、荷物を下ろして座布団に腰を下ろした。私と美澄さんは顔を合わせ、湯飲みが置かれたままのその正面に座ることにする。
「ヨシ、仕事はどうだ。結婚するほどなら、収入も安定してきたのか?」
「まあ、ぼちぼち」
「お嫁さんは──ええと、名前は」
「優真梨です」
「優真梨さんは、こいつの仕事に不安とかなかったですか」
「はい。お仕事してるところもよく見てたので」
「そうですか。こいつと結婚してくれるお嬢さんなんか、いるかどうか心配だったんでね。親としてはひと安心です」
 おとうさんは穏やかに笑んでくれて、私もほっとする。去年まで高校生をやっていた私は、美澄さんの支えどころか荷になると思われるのではないかと多少心配だった。
 やがて、おかあさんが夕食を運んできた。緑色が鮮やかなえんどう豆の炊きこみご飯、香ばしい牛肉とたけのこの味噌炒め、どこか懐かしい匂いのつくねと春キャベツの煮物、そして温かいあさりのお味噌汁。
 美澄さんのごはんを作るようになって、私もだいぶ料理をするようになったけれど、こんな純和風のごはんをさっと作ってしまえるってすごい。ほかほかのいい匂いに、これが美澄さんのおうちの味ならレシピ教えてもらいたいな、なんて思う。
 飲み物のお茶まで揃うと、四人で座卓を囲んで夕食が始まった。
「式は挙げないの?」
 おかあさんがそう尋ねてきて、「優真梨ちゃんはウエディングドレス着たい?」と美澄さんは頬張ったつくねを飲みこんで訊いてくる。
「私自身はあんまり興味ないんですけど、美澄さんのタキシードは見てみたいです」
「え、僕メインなの?」
「確かに、美澄はタキシードとか似合いそうねえ。おとうさんが似合ってたから」
「昔の話だけどな」
「僕が着るなら優真梨ちゃんもドレス着てよ。式挙げなくてもさ、記念写真だけでもいいし」
「記念写真は欲しいかもです」
「じゃあ、今度レンタルスタジオ探して行ってみようか」
「はい」
「というわけで、記念写真は撮ります」
 目の前で相談したことを美澄さんが改めて報告すると、ご両親は笑って、「とうさんたちにも見せてくれよ」とおとうさんが言った。
 そのあともなごやかな夕食で、「晶奈あきながいたら、あの子も喜んでたでしょうね」とおかあさんがつぶやき、「あいつにとっては優真梨さんは妹になるからなあ」とおとうさんもしみじみ言った。晶奈さん、とはおねえさんの名前だろう。何となく沈黙するほうが失礼な気がしたので、なるべく自然に「少しお話伺ってます」と私が言うと、ご両親は顔を合わせてからうなずいた。
「直接あいつを知らなくても、晶奈を憶えていてくれる人がいるのはありがたいです」
 おとうさんはそう言い、「訴えたりもしませんでしたし」とおかあさんが言葉をつなぐ。
「晶奈が自殺したことは知っていても、理由は知らない人が多いんです」
「訴えてないんですか」
 しばたいた私に、「弁護士に相談しても、相手にされなくてね」とおとうさんはやや苦い口調で言う。
「家族のケアがなかったのが悪いんだろうとも言われて」
「そんな……」
「それに、遺書もなかったの。残されたものがSNSのつぶやきだけで、それだけじゃ訴訟を起こすには弱いって」
 弱い、って。人がひとり、自分の命を絶っているのに。それに対して、そんな物言いをする人がいるのか。
「優真梨ちゃん」と呼ばれて美澄さんを見ると、スマホをさしだされた。「ねえさんのアカウント」と言われ、私は箸を置いてスマホを受け取る。
『今日も仮眠室に泊まることになりそう
 眠れるか分からないけど……』
『何でこんなに上司の顔色窺ってるの?
 親の顔でもここまで気にしたことないよ
 課長はイライラしてる』
『また定時近くになって仕事増えた……
 誰も手伝ってくれない』
『研修で今度の日曜も出勤だ
 友達との約束キャンセル』
『頭が痛いし、耳鳴りもする
 ノルマ達成できなかったらどうしよう
 怖い』
『やっぱり残業代は出ないんだ』
『一日でもいいから休みたい
 有給じゃなくていい
 頭がおかしくなる』
『休みたいって言ったら、人手不足が理解できないのかって怒鳴られた』
『死ねばいいのかな?』
『死んだら楽になれるかな?』
『会社に行きたくない
 死んだら行かなくていいなら死にたい』
『また課長怒ってるなあ……』
『死なないと休憩時間もないよ』
 適当にさかのぼり、そこから最後のツイートまでかいつまんで読んでいった。鍵がかかったアカウントのようで、リプライなどは一切ついていない。ただひたすら、おねえさんの感情が誰に向かうこともなく吐き出されている。
 ざっと見ていると淡々としていても、ときおり『死にたい』という単語が混ざってリアルだ。ご両親のことや、弟である美澄さんのことをつぶやいているときもあった。『何も相談できなくてごめん』とか『弟にはこんな想いしてほしくない』とか──
「優真梨さん」
 ふとおとうさんに呼ばれて、私は慌てて顔を上げる。「すみません、食事中に」と謝ると、「いやいや」とおとうさんは首を横に振る。
「君は、美澄に楽にさせてもらいなさい」
「えっ」
「美澄は大事な人を守りたいと思うからね。今度こそ」
「あ……、」
「私たちにも、優真梨さんのこと、本当の娘のように想わせてくださいね。晶奈のぶんまで大切にしたいわ」
 おかあさんが柔らかくそう言ってくれて、私は安堵と感動を交えながら「はい」と答えた。私は本当の両親から愛情を感じたことがなかったから、ふたりのなごやかな包容力が心地よかった。
 夕食が終わると、二階の美澄さんの部屋を覗かせてもらった。そこには本がたくさんあって、ほとんど小説のようだった。「僕、中学生の頃までは作家になりたいとか思ってたからねー」と美澄さんは咲って、「書いてたんですか?」と訊くと「どこにも投稿なんてしてないけどね」と返ってくる。
「いつか読んでみたいです」
「構わないけど、官能小説だよ」
「え……」
「中学生の妄想たくましい官能小説」
「ちょっと怖いですけど、読みたいです」
「そう? じゃあ、どうせだしデータ持って帰ろうかな」
 そう言って美澄さんはつくえのデスクトップPCを起動して、何やら操作する。「空いてるUSBあったかなあ」と美澄さんは引き出しをあさり、何か見つけるとそれにデータをコピーする。
「優真梨ちゃん」
「はい」
「ありがとうね」
「えっ」
「両親が、あんなふうに気丈にねえさんのこと話すことって、あんまりないから」
「あ、やっぱり無理させ──」
「いや、優真梨ちゃんなら受け止めてくれるって両親も信頼できたんだと思う」
「信頼……」
「誰かをそう思えたことで、親としても、救われたところがあると思うよ。誰にも言えなくて心で硬くなってたものが、優真梨ちゃんが聞いてくれてやわらいで溶けたような……そんな感じ」
「そう、でしょうか」
「うん。僕のことも、優真梨ちゃんはそうやって救ってくれてるからね。血だまりみたいなものが透明な水に溶けるんだ」
 私は照れ咲いして、「自分ではそんなことできてるのか分からないですけど」と本棚の前を離れて美澄さんのかたわらに歩み寄る。
「私は美澄さんのそばにいるし、ご両親とも仲良くしていきたいです」
「うん」
「何も言わずに置いていったりはしないですよ」
 美澄さんは私を見つめて微笑み、腕を伸ばして引き寄せるとそっとキスしてくれた。「幸せにするからね」とささやかれて、「頼りにしてます」と私は美澄さんの肩にもたれる。
 血だまりが透明な水に溶ける。ねえ、美澄さん。美澄さんも、かたくなな血痕で閉ざされていた私の心を、綺麗な水で溶かしてくれたと思ってるよ。そして、あなたが初めて、私の心を水中に沈むように丸ごと抱きしめてくれた。
 普段留守のせいか、レースカーテンだけの窓の向こうで、輝いている月が見える。
 ずっとこの人のそばにいたい。一緒に生きていきたい。この人の隣で、私は初めて私でいられる。そして、きっと彼も、私の隣にいることで傷んだ心が月の光を浴びるように清められるのだ。
「美澄さん」
「んー?」
「私を選んでくれてありがとうございます」
 美澄さんはくすりと咲うと、「こちらこそ」と私を抱きしめる。
「ところで、今夜って初夜だよね」
「えっ。あ……そうですね」
「今日は事務所休んで、楽しみますか」
「……ずっと我慢してくれてたのは察してます」
「結婚したら、もう犯罪じゃないよね?」
「そう思いますけ、どっ──」
 美澄さんは私の腕を引いて、片づいたベッドに押し倒してきた。私がまばたきをして見上げると、美澄さんはにやりと見下ろしてくる。「今夜はいろんなこと教えてあげる」と耳元でささやかれて、軆の芯から熱が灯るのを感じつつ、私はそれをどうしても知りたいと思ってしまう。
 そうして、もっともっと強くこの人と結われる。きつく結ばれる。離れないように。離れられないように。私は、この旦那様とひとつに溶け合ってしまいたいと思うんだ。

 FIN

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