いまどき、メジャーでCDというかたちにして音楽を発表できるのだから、やっぱりenfant terribleってすごいバンドなのだろう。しかも、邦楽ロックコーナーで面展にされているし。一枚手に取って裏返すと、ライヴ風景のシルエットがある。
帯にはメンバーの名前が載っている。鈴城くんはやっぱりギターだよな、と思った。
「興味あるの?」
ふと声がかかって振り返ると、旦那の友晴がまだ一歳の瑶太を腕に抱きながら、私の手元を覗きこんできていた。
「何? バンド?」
「うん」
「真珠、そういうの聴いたっけ」
「あんまり聴かない。ただ、このバンドのギターの人、知ってるから」
「知り合いなの?」
「それほどでもないよ。保育園が同じとこだった」
「幼なじみじゃん」
「いや、ぜんぜん仲良くなかったし。この人、先生とかにもすごい愛想悪くて」
「はは、そうなんだ。これ、バンド名、何て読むんだろう」
「アンファン・テリブルだったと思う」
「何語?」
「さあ」
「同級生のよしみで買ってあげれば?」
「だから、ほんと関わりなかったんだってば」
私はCDを棚に戻す。そして瑶太の顔を覗いて、「あんな奴には育つなよー」と頭を撫でる。首をかしげる瑶太に笑ってしまいながら、「そろそろランチ行く?」と友晴に問うと、「うん、腹減って呼びにきた」と彼は照れ咲った。
鈴城くんが、まさかこんな表舞台の人になるとは思わなかった。てっきり、引きこもりの魔法使いにでもなるんじゃないかと思っていた。
保育園に通う私が、鈴城くんを認識したのは、朝の送迎バスでのことだった。
停留所で扉が開くと、外でものすごい泣き声がした。にぎやかだったバスの中の子たちが、ぎょっとそちらを見る。すると、「やだあっ、行きたくない、行きたくない、嫌だあっ」とわめく男の子を、眼鏡をかけたスーツの男の人が抱きかかえていた。
男の人は何度も頭を下げながら、先生の腕に男の子を引き渡す。男の子は手足をばたつかせて声をあげ、「嫌だよ、おとうさん、僕も会社に行くもん!」とおとうさんらしい男の人に手を伸ばす。「ごめんね、夕方には迎えにいくからね」とおとうさんは何とか男の子をなだめている。
先生に抱っこされて、ようやくバスに乗りこんできた男の子は、パジャマのままだった。おかげで、きちんと制服を着たみんなは、一気に大きく笑った。
「みんな、ええっと──笑わないでねえ。悠紗くん、ちょっとお寝坊しちゃっただけだから」
バスの外でおとうさんが心配そうに男の子を見守っていて、男の子はぐずってそれをじっと見つめ返している。でも、バスが出発しておとうさんのすがたが遠ざかると、その子は唇を噛んで、先生の腕から通路に飛び降りると、空いていた座席にどさっと座った。
「悠紗くん、保育園に着いたらお着替えしようね」
その子は先生をちらりとして、さしだされた制服を無言でひったくった。
「保育園におとうさんはいないけど、お友達がいるから、それも楽しいでしょう?」
何とかその子から笑顔を引き出そうとしていた先生だったけど、その子はぴくりと頬も動かさず、露骨に窓を向いていた。
そのうち次の停留所に着いて、先生は仕方なく面持ちを切り替え、「おはよう!」と明るく乗ってきた子を迎える。「何でパジャマなの?」と揶揄う子もいたけど、そういう子のことをその子は蔑むような眼つきで睨みつけ、中にはその眼に怯える子すらいた。
それが、保育園の頃の鈴城悠紗という男の子だった。
とにかく、変な男の子だった。保育園でも、誰とも友達にならない。同じ組の子に話しかけられても、平然と無視したり、「うるさい」と追い返したり。いつも壁際でむすっと膝を抱えている。「ねえ、お友達と遊ばないかな?」と先生に心配されても、「お友達なんかここにいない」とか言っている。
「悠紗くん、集団行動が苦手って域じゃないわねえ」
「何か精神的に障害とか?」
「というか、あの子、家におかあさんがいないでしょう。だからやっぱり、ねえ……?」
ある日、先生たちがひそひそとそんな話をしているのを私は聞いた。
おかあさんがいない。そうなのか。じゃあ、もしかしてほんとは寂しいのかな、あの子。
「ねえ、お絵描きしてるなら一緒にやろうよ」
私が声をかけると、床でスケッチブックを広げていた鈴城くんは、露骨に嫌そうな顔をして一瞥してきた。ちょっとすくんでしまいながらも、「何描いてるの?」と私は鈴城くんのスケッチブックを覗く。そこにはギターの絵があった。
「わ、すごい。上手だね」
鈴城くんは何も答えず、スケッチブックをばさっと閉じると、クレヨンも抱えて立ち上がった。私がとまどうと、さっさと離れていってしまう。
何よ。
寂しいだろうから話しかけたのに。
「ねえ、いい子にしないと、おかあさん帰ってこないよ?」
私がそう言った瞬間、鈴城くんはばっとこちらを振り返った。その赤黒い憎しみじみた瞳に、私はびっくりして思わず泣き出してしまった。すぐ先生が駆けつけたけど、鈴城くんは何も言わず、私ばかりが睨まれたとか怖かったとか説明した。
先生は「女の子には優しくしてあげないと」と鈴城くんをたしなめ、すると彼はひと言吐き捨てた。
「好きでもない女の子なのに」
私は鈴城くんを見た。好きでもない。嫌いってこと? 嫌われるようなことなんてしてないのに? 何で? どうしてそんなひどいことを言われなきゃいけないの?
年長組の秋、鈴城くんは急に保育園に来なくなった。どうして、なんて訊く子はいなかったし、私もあの子の顔を見なくてすむようになってほっとした。鈴城くんは卒園式にさえ顔を出さなかった。卒園アルバムでは、鈴城くんの作文や顔写真だけ欠けていた。
鈴城くんとは小学校は別だったので、そのあとのことはよく知らない。でも、小学校にも相変わらず行っていないうわさは伝わってきた。ああいう奴は社会不適合者になって、将来苦労するのだとみんな言っていた。
だから、成人式のときに「あの鈴城悠紗がバンドでメジャーデビューした」と話を聞いたときは、振り袖の私は「は!?」なんて声をあげてしまった。
あの協調性のかけらもなかった子がバンド? ありえない。というか、今日も来てないっぽいけど、それって根暗な引きこもりにでもなってるからじゃないの?
しかし、そのすぐあとに、深夜の音楽番組で鈴城くんのすがたを見た。「enfant terribleは『恐るべき子供たち』って意味だけど、みんなそれぞれ子供時代はやばかった?」と司会の人に訊かれ、「俺は母親いなくて、夏椰は父親ひどくて──いろいろあったね」と鈴城くんが答え、「悠はいまだに気に入らない人には、『あー、お疲れっすー』とか愛想ないよね」とヴォーカルの夏椰という人は笑う。「必要なときは礼儀正しいけどね、ちゃんと」とドラムスの漣という人が言い添え、「彼女には優しいっすよ、悠は」とベースの初生という人はからから笑っていた。
彼女。好きな人。いるんだ。……優しいんだ。
そのとき、幼い頃に鈴城くんに言われた「好きでもない女の子」という言葉を思い出した。今なら、それで上等だと思える。こっちだって、誰にでも優しい人に期待するなんて御免だと思う。
だけれど、あの頃は──きつかったなあ。
大学を卒業して、バイトを経て就職した。バイト時代の後輩だった友晴と何となく連絡が続いて、何度かふたりで遊びにいった。友晴は軽々しくそれを「デート」と呼ばなくて、手もつながなかった。
やっぱり友達なのかなと思うと、なぜか泣けてきた。彼に「好きでもない女の子」と思われるのはつらいと思った。だから私から告白した。そして、こうつけたした。
「もし、私のこと好きとかそんなんじゃないなら、会うのも連絡もやめよう」
別れ際の駅前の夕景の中で、友晴は驚いた表情を見せて、ややまごついたものの、「真珠が俺でよければ」と私の手を取った。
それからつきあいはじめて、私たちには結婚も妊娠も自然な流れだった。
「あー、クリームソースこぼれちゃった」
ファミレスに入った私たちは、カルボナーラとシーフードドリアを注文した。ドリアをじゅうぶん冷まして、友晴は瑶太の口に運んだけど、それでも熱かったのか口に合わなかったのか、瑶太はぽろぽろとソースを口からこぼす。私はウェットシートを友晴に渡し、「ありがと」と友晴は瑶太の口元と服をぬぐう。
「ミルクのほうがいいかな?」
私が訊くと、「そうだね」と友晴がうなずいたので、私はいったん席を立って瑶太を腕に引き受ける。すると瑶太は友晴に向かって「ぱぱー」と手を伸ばし、「瑶太はパパ好きだよねえ」と私は苦笑しながらリュックから哺乳瓶を取り出す。
鈴城くんも、こんなふうにおとうさんに手を伸ばしてたっけ。彼におかあさんがいない事情は今も知らない。
いい子にしないと、おかあさん帰ってこないよ。私の台詞は、たぶん土足だった。でも、鈴城くんにはおかあさんも「好きではない人」だったのだとしたら、私は瑶太にそう思われたくないと思う。
だから、瑶太を鈴城くんみたいには育てたくない。私が愛していることを教えながら育てたい。もちろん、友晴の愛情も感じながら大きくなってほしい。
そして、友達がたくさんいる人になってほしい。バンドマンとして成功するなんて、まばゆいことを成し遂げなくてもいいから、周りの人には優しい人に。
私の育て方が正しいとか。鈴城くんの育ち方が間違いとか。そんなことは別に言わない。けれど、できれば、瑶太にはアルバムに笑顔と将来の夢は残してくれる子になってほしいな。めくって、振り返って、昔話できるように。
鈴城くんには、バンドとしてのアルバムが、自分が生きた軌道を残していくものなのかもしれないけどね。
FIN
