清められた闇

 軆がひどく重い夢をいつも見る。何でこんなに重いのか。寝返りを打てないし、身動ぎさえできない。
 苦しい、怖い、そんなことを思っていると、背中に何かのしかかってくる。こちらを覗きこむ人の気配を、肩にはっきりと感じて、わけもなく強烈な嫌悪感を覚えて──
 はっと目を覚ますと、頭の上に窓があって、カーテン越しに朝が来ていることを知る。
 ゆめ、と心の中でつぶやき、またあの夢かと息をつく。俺は膝を抱えて、そこに顔を埋めた。冬の朝のせいでなく、指先が震えている。
 ちらりと隣を見たけど、メイちゃんはまだ仕事から戻っていないみたいだ。早く風俗なんて辞めてほしい。でも、メイちゃんは俺がまだ仕事ができないから働いてくれているのだ。感謝しないといけないんだよな、とのろのろとふとんを這い出ると、リビングのカーテンを開け、朝食を作ることにした。
 メイちゃんは優しい。無愛想だと言う人もいるけれど、それはメイちゃんに好かれていないだけだ。
 昔から、メイちゃんは俺に優しかった。孤児院で俺が仲間外れにされてぽつんとしていると、いつもメイちゃんが隣に座り、別に何か言うわけではないのだけど、そばにいてくれた。
「僕ね、メイちゃんのことが好き。だから、大きくなったら結婚するの」
 小学生にもならない俺のたわごとに、メイちゃんは微笑んで「そうだね」と言ってくれていた。
 しかし、いつからメイちゃんは咲わなくなったのだろう。俺との結婚にうなずいてくれなくなったのだろう。
 俺の隣に座るメイちゃんに、園長先生も声をかけてくるようになっていた。園長先生もメイちゃんがどこかおかしいのに気づいて、心配してくれてるんだ。そう思っていた。
 園長先生に呼ばれたあと、メイちゃんはお腹を抑えてうずくまっていた。「どうしたの」と心配しても、「何でもない」とメイちゃんはいつになく冷たく俺を突き放す。それが哀しくて、園長先生はメイちゃんに嫌な訊き方をしてるんじゃないかと不安になってきた。
 だから、その日メイちゃんが園長先生に呼ばれて、園長室に入っていくのをこっそり尾けてみた。かちゃっと鍵が締まる音がした。俺は大きなドアを見上げて、ノックしようとして、やめてドアに耳をあてた。おぼろげに会話が聞こえてくる。
「ちゃんと下着はつけてないな」
「……はい」
「じゃあ、この椅子に座って──こうだ、脚を開け」
「はい」
「自分でいじってみろ。濡れるまで続けろ」
「……分かりました」
 首をかしげた。どういう会話なのか分からなかった。
 園長先生が、メイちゃんの不調を窺っているわけではないのは確かだった。かといって、怒られている様子でもない。園長先生の声は冷ややかだけど、同時に何となく昂ぶっている。
 俺は園長室の前を離れ、誰にも注意されないよう警戒しつつ、孤児院の裏庭に忍びこんだ。ここなら、窓から園長室が覗けるはずだ。ここは音楽室、ここは図書室、と窓を数えていって、ここだ、と園長室の窓にたどりついた。
 俺は段差に危なっかしく足をかけると、かたつむりみたいに首を伸ばした。
 ついで、大きく目を開いた。
 そこでは、はだかのメイちゃんが、脚のあいだを園長先生の見たことのない赤黒いものでえぐられていた。本能的に、そのむごさに吐き気がした。
 動揺で足を踏み外してしまい、一瞬ふわりと軆が宙に浮き、すぐ地面にたたきつけられた。膝や手のひらが擦り剝けた。
 けど、泣かなかった。泣けなかった。だって、メイちゃんも泣いてなかった。なのに、男の子の俺がこんな怪我くらいで泣けるものか。
 夕ごはんのあとは、みんなテレビの前に集まってしまう。俺はメイちゃんの手をつかみ、玄関の昇降口まで行った。
 夏休みだった。俺は来年小学生になる。メイちゃんは小学一年生だ。暗くなった外は虫の声が澄んで、その透明感に心はむしろかき乱されて壊れそうな気がした。
「どうしたの、絃音」
 めずらしくメイちゃんからしゃべってくれたのに、俺は沈痛な表情を隠せない。つないだままの手を握りしめ、「ダメだよ」と何とか言った。
「え」
「園長先生と、あんなのしちゃダメ」
 メイちゃんが目を見開いた。「何で、」と言いかけたメイちゃんは、言葉を止めて小さく息をつき、「誰かに聞いたの」はあきらめた声で訊いてきた。
「誰か、って」
「みんな知ってるでしょ。あたしだけじゃないし」
「え……?」
「絃音は園長のお気に入りだから、何もされてないと思うけど。ここのみんな、先生たちにたたかれたりするの普通なんだよ」
 まばたきをした。ぜんぜん知らなかった。俺はメイちゃん以外の人とはめったに口もきかないし。「絃音が仲間外れにされるのも」とメイちゃんは言葉を継ぐ。
「ひとりだけ嫌がらせされてなくて、みんなやっかんでるの。絃音だけ特別あつかいだって」
「どうして、僕……何にも、違うところないよ」
「絃音は綺麗だから」
「え」
「とにかく、あたしと園長のことには関わらないで。そしたら、絃音は傷つかなくていい」
「でも僕、」
「絃音のことは守らせて」
 メイちゃんはつないだ手を引いて俺を抱き寄せ、頭を撫でた。ボディソープの匂いがした。
 守らせて、って。俺だってメイちゃんを守りたい。あのときのメイちゃんの、歯を食いしばって泣くのをこらえた表情が焼きついている。
 メイちゃんにまた咲ってほしい。俺が結婚したいと言ったら、うなずいてほしい。
 だから俺は、九月になってメイちゃんが学校から帰るのが遅かった日、幼稚園から帰ると歩きまわって園長先生を探した。そうしていたら、「絃音くん」と廊下で声をかけてきたのは、園長先生のほうだった。
「どうしたんだい。芽衣奈ちゃんはまだ帰ってきてないぞ?」
 園長先生はにっこりして言う。そういえば、確かに園長先生ってほかの子にはあまり笑いかけたりしないかもしれない。
 恐怖が鳥肌になって現れていたものの、園長先生に近づいた。すると、園長先生は軽く俺を抱き上げた。
「芽衣奈ちゃんが帰ってくるまで、先生と遊ぶかい?」
「……先生」
「うん」
「僕、メイちゃんが好きなの」
「ははっ。知ってるさ、ふたりはいつも一緒にいる──」
「だから、先生がメイちゃんに嫌なことしたら、僕も嫌なの」
 俺の顔を覗きこんでいた園長先生の目が変わった。いきなり氷点下になったような。
「芽衣奈に聞いたのかい」
「……ううん」
「じゃあ誰から?」
「ま、窓……から、見えた」
「窓? ──そうか、裏庭からか。裏庭に勝手に入ったのかい」
「う、ん……」
「じゃあ、お仕置きがいるねえ?」
 園長先生がぐにゃりと笑う。何だか気持ち悪くて、逃げようともがいた。けれど力が敵わなくて、俺は園長室に連れていかれた。
「ズボンとパンツを脱ぎなさい」
 そう言われてもまごついて突っ立っていると、園長先生に下半身を剥き出しにされた。そして、壁に手をつかされて、何度も何度も園長先生の素手でお尻をぶたれた。
 腫れあがってきても執拗にぶたれるので、俺は泣き出してしまった。
「絃音くん」
 かちゃかちゃと音がすると思って小さく振り返ると、園長先生がベルトを緩めている。
「芽衣奈に嫌なことをしてほしくないんだね?」
 俺は力なくうなずいた。先生がズボンと下着をおろすと、あの赤黒い棒が飛び出した。
「じゃあ、絃音くんが先生としてくれるなら、芽衣奈にするのはやめてあげるよ」
「してくれる、って──」
 何を、と訊く前に先生の棒が俺の腫れあがった双丘を分かち、その奥の後ろの穴に押しつけられる。
 何。何をされるの。あの日、メイちゃんは先生にその棒でえぐられていた。俺があれをされるの?
 怖くて身をすくめてしまうと、「力を抜いて」と言われて、先生は棒を俺の後ろの穴にめりっと食いこませた。
 目を剥く。痛い! 押し広げられて裂けてしまいそうだ。
 遠慮なくずぶずぶと進む棒に、お腹がひどく圧迫される。異物感で下腹部が重い。園長先生の野太い吐息が気持ち悪い。園長先生は、こすりつけるように乱暴に棒を俺に出し入れした。そして、最後にはどろりとした白い液体を俺の内腿に噴射した。
「芽衣奈は、絃音くんには手を出すなって条件で、自分から言い寄ってきたんだけどねえ」
 俺の軆を濡れタオルでぬぐいながら、園長先生はくつくつと嗤う。
「絃音くんも同じこと言って芽衣奈をかばうんだもんなあ」
「……メイちゃんに、もう何もしないで、ください」
「分かってるよ。その代わり、絃音くんは先生の性奴隷だからね?」
 セイドレイ。その言葉の意味は分からなかったけども、これからは園長先生の言うことを聞かなくてはならないのは察した。「分かりました」と俺が答えると、園長先生はまたぐにゃりと笑った。
 もちろん、そのことはすぐメイちゃんに知られた。「何で!」と責めるようなメイちゃんに、「僕もメイちゃんを守る」と俺は答えた。
 しかし、メイちゃんは神様に裏切られたみたいに泣き崩れてしまった。「自分がされるよりつらい」と首を横に振って嗚咽をもらした。
 俺は間違っていたのだろうか。この人を生け贄にして、ひとりぬくぬく贔屓されておけばよかったのか。けれど、俺だってメイちゃんがあんなことをされるのは、自分がされるよりつらいのだ。
 それから、メイちゃんは学校の友達とよく過ごすようになり、俺にあまり構わなくなった。
 絃音は綺麗だから、とメイちゃんは言っていた。俺は汚れてしまった。俺のことなんて嫌いになったのかもしれない。
 それでも、俺はメイちゃんが好きだった。園長先生は、俺が抵抗すればまたメイちゃんにひどいことをすると言う。だから、痛くても吐きたくても、園長先生の棒を受け入れた。ごはんのときとか、休みの日とか、俺はメイちゃんのあとをついてまわって声をかけた。
 メイちゃんは、嫌な顔こそしなかったものの、俺の顔を見ると苦しそうだった。何で。俺が気持ち悪いの? 鬱陶しくなったの? だから、孤児院に遊びに来てまで、メイちゃんと過ごすあの女の子のところに行ってしまうの?
 高学年になって、園長先生としていることの名前を知った。ところが、それは本来、男と女でする行為のようだった。しかし、それゆえに俺はメイちゃんの態度を理解した。メイちゃんは、男と男でセックスしている俺が気持ち悪いんだ。メイちゃんと結婚すると言ったくせに、好きでもない男の性器につらぬかれて、裏切ったのは俺のほうなのだ。
 メイちゃんは中学生になった。すごく綺麗な女の子に成長したメイちゃんは、ほとんど咲うことがなかった。俺の前でも。ゆいいつ、あの女の子の前では咲っていた。俺はそれにひどく嫉妬した。あの女の子から、メイちゃんを取り返したかった。
 どうやったら、ふたりを引き裂けるだろうなどと考えていた。園長先生に犯されているあいだも。「絃音はほんとに綺麗だなあ」と園長先生はささやく。
「髪も、肌も、唇も乳首もお尻も、本当に綺麗だ。こんなことするのだって、お前が誘惑してくるから悪いんだぞ?」
 腰をつかまれて後ろから突かれながら、誘惑、と思った。もし、俺があの女の子を「誘惑」したらどうなるかな。メイちゃんを離れて、俺に注意を向けるかもしれない。
 俺はあんな女の子に興味はないけれど、とにかくこれ以上、彼女にメイちゃんをひとり占めされたくない。園長先生に解放されたあと、俺は自分の部屋で鏡を見つめて、引き攣る笑顔をなめらかにする練習を始めた。
 我ながら完璧な笑顔を作れるようになったと思った冬のはじまり、メイちゃんもあの子も通う中学の前で待ち伏せをした。ふたりは談笑しながら、一緒に校舎を出てきた。俺はメイちゃんでなく、女の子の名前を呼んだ。
 立ち止まった女の子は、きょとんと俺を見て、「あんたのじゃん」とメイちゃんの腕をつかんだ。メイちゃんは表情をこわばらせ、何か言おうとした。その前に俺は、メイちゃんにも向けたことがない完璧な笑顔を作って、女の子に言った。
「俺とつきあってほしいです」
「は……はっ? 私?」
「はい。前から気になってました」
「えっ……と、でも、君って芽衣奈のこと──」
 俺はメイちゃんに視線を一ミリも動かさないまま、「関係ないです」と言い放った。女の子はまばたきをして、メイちゃんを見る。メイちゃんは小さく舌打ちして、「確かに関係ないね」と吐き捨てて、俺の隣を通り過ぎていった。
 ここで、女の子はメイちゃんを焦って追いかけるはずだ。それを引き留めて、「誘惑」で落としてしまえばふたりには亀裂が入る。
 そう思っていた。なのに、女の子はメイちゃんを追いかけなかった。何してんだよ、といらっと思うと、女の子はもじもじして「私も君のことかわいいなって思ってて」とか言い出した。
 何言ってんだ、この女。どうせ止めるとはいえ、メイちゃんを放置するな。追いかけろよ。友達なんだろ。俺から奪ったぐらいの親友なんだろ。メイちゃんが傷ついてること心配しろよ。なのに、何を頬を染めてもごもご言っているのだ。
「──だから、私でよければつきあおうか?」
 はたとして女の子を見た。表情を取り落としかけたものの、何とか笑顔を取り留め、上の空でうなずいた。嬉しい、とか言って女の子は俺の手をつかんだ。
 冷たくて細い手。メイちゃんの白くて柔らかい手じゃない。こんなの、俺がつかみたかった手じゃない。なのに、何で俺はこんな手と手をつないで歩き出しているのだろう。
 俺の思惑通り、メイちゃんと女の子には亀裂が入って、かけはなれていった。だが、女の子が予想以上に俺の隣にぴったりくっついてくるので、メイちゃんが俺に寄りつかないのは変わらなかった。いや、むしろさらに距離を置かれている。
 俺は間違えてしまった。そう気づいたときに、急いでメイちゃんに謝ろうとした。でも、孤児院で俺に声をかけられたメイちゃんは、「今は彼女と楽しそうでよかった」とそっけなく言って去ってしまった。
 楽しそう、なんて。あんなの、全部模造した笑顔なのに。
 メイちゃんは、中学を卒業するのと同時に孤児院を飛び出すように出ていった。俺はあの子とのデートから帰宅して初めて知った。飛び出すその背中を見たなら、絶対に追いかけて、一緒にこんなところ逃げ出していたのに。俺は毎晩泣いて、無気力に園長先生に犯され、「もう興味がなくなった」と女の子を一方的に振って、頬を引っぱたかれた。
 そして、ひとりぼっちになった。学校も孤児院も居場所がなかった。やがて、夜になっても涙が出なくなった。
 それが、思いのほかつらかった。喉までひりひりの感情がせりあげているのに、まるで話そうとしても声にならないみたいだ。
 だから俺は、カッターで腕を切って血を流した。赤い血がとくとくと流れていくと、ほっとした。心の傷を可視化して、痛みを証明している感じが心地よかった。
 園長先生は俺の傷を見つけると、不愉快そうに俺のお腹を殴った。大事にしてきたおもちゃが壊れて、不機嫌になった子供のようだった。それでも俺は自分を切ったし、犯されるより殴られるほうがマシだと思った。
 メイちゃんがいなくなって、一年が過ぎた。中学の卒業式、誰にも見送られることなく、さっさと帰ろうとしていた。校門のところでは『卒業式』の看板の前でみんな記念撮影をしていた。そのにぎやかな集まりをよけて、とぼとぼと孤児院に向かって歩いた。
 肌寒いけど、よく晴れていた。桜が咲きはじめていて、道草から春の匂いがする。光が満ちあふれる景色を見ているほど、学ランの下の腕の傷を抑えて、切りたいな、と虚ろに思った。
 また殴られるけど、切りたい。赤いのをいっぱい見たい。血をたくさん流したい。涙が出なくなったのが悪いのだ。仕方ないじゃないか。涙が出なくても、こんなにも苦痛は心に降り積もるんだから──
「絃音」
 はたと足を止めた。それが、聞き間違えるはずのない声だったから。
 いや、でも、まさか。
 顔を上げると、そこにはぶかぶかのトレーナーとジーンズを着て、セミロングだった髪が透けるような金髪のショートカットになったメイちゃんがいた。
「ひとりなの?」
 メイちゃんが俺に歩み寄ってくる。嗅いだことはないけど、不思議と落ち着く香りがした。
「絃音」
 もう一度名前を呼ばれた瞬間、俺は泣き出していた。もう涙腺が故障して出ないと思っていた涙が、あふれて止まらなくなった。しゃがみこんでしゃくりあげると、メイちゃんはひざまずいて俺を抱きしめてくれた。
 メイちゃんの匂い。体温。柔らかさ。俺はそれにしがみついて、今度こそこの軆を離したくないと思った。
 メイちゃんはぐずる俺にスマホの番号を握らせると、「つらいならあたしのとこに逃げておいで」と優しく髪を梳いてくれた。何度もうなずき、いつしか豊かになったメイちゃんの胸に顔を埋めた。「ごめんね」とメイちゃんは言ったけれど、謝らなければならないのは俺のほうだ。だから俺もひくつく声で謝って、「もういいよ」とメイちゃんが許してくれても、なお謝った。
 その夜、荷物を最低限まとめると、十九時を過ぎて門は閉まっていたので、運動場の倉庫から脚立を持ってきて壁をよじ登った。ブロック塀は登れたけど、飛び降りる向こう側は二メートル以上ありそうだった。
 すくみかけたけれど、この期に及んで部屋に戻る気もない。骨折くらい怖いもんか。死ぬわけじゃない。ここを越えたら、メイちゃんのところに行けるんだ。ビビりそうな心をなだめて、俺は思い切って壁を乗り越えた。
 ずんと体重を受け止めた足の痺れが落ち着くと、駅前まで走って、公衆電話でメイちゃんに電話をかけた。メイちゃんはその駅まで俺を迎えにきて、複雑に電車を乗り継いで、借りているワンルームに案内してくれた。
 あのときのメイちゃんの落ち着くいい匂いがした。「仕事が見つかるまではここにいればいいよ」とメイちゃんは言って、「メイちゃんは何の仕事してるの?」と訊くと、「風俗嬢」と返ってきた。
「ふー……ぞく?」
 俺が首をかしげると、メイちゃんは少しだけ咲った。メイちゃんの笑顔が久しぶりで、俺は嬉しくなってしまう。メイちゃんはふとんを敷いて、「一緒でいい?」と訊いてきた。俺はどきどきしながらもこくんとした。
 明かりを消して、同じふとんの中で手だけつないだ。メイちゃんの手はやっぱり柔らかくて温かい。
「メイちゃん」
「んー?」
「……何でもない」
 メイちゃんはまた咲って、俺の肩に頭を乗せて眠ってしまった。何だろう。前みたいに、好きだよって言おうと思ったのに。何だか言えなかった。いまさら、俺にそんなことを言う資格があるのか分からなかった。
 メイちゃんとの暮らしが始まった。すごく幸せだったけれど、この状態が良くないのは分かっていた。自分のことぐらい、自分で稼がないといけない。
 せめてと思って家事をやっていても、メイちゃんの仕事内容をきちんと知ってからは、自分のことだけでなくメイちゃんも養えるぐらいの男にならなければならないと思った。好きな人に軆を売らせて、ヒモみたいになっている場合ではない。だから、買い物に出たとき「仕事紹介させてもらっていい?」と話しかけられたとき、俺はふらふらとついていってしまった。
「タウン誌なんだけどね、モデルを募集してるんだ。君はすごく美少年だから、女性読者が喜んでくれると思うんだよ」
「はあ」とか答えつつ、そのタウン誌は実際スーパーなどで置いてあるのを見たことがあるものだと確認した。手に取ったことはないけれど。
「一回気軽にやってみないかな? 評判よかったら、そのあともたまに仕事お願いしたいな」
 いくらもらえるんだろう、と思ったものの、さすがに訊きづらい。何とか聞き出せないものかと思って、ひとり暮らしを考えていると言ってみた。すると、その人は笑って、「君ならそんな資金あっという間にできちゃうよ」と答えた。
 あっという間。そんなものなのか。写真に撮られるって、あまり得意ではないけれど──仕事だと割り切れば、できなくもないかも。
 とりあえず、一度写真写りも兼ねて、後日事務所を訪ねる約束をした。何となくメイちゃんには黙っていた。まだ、ちゃんと続く仕事になるか分からないし。辞めることになったらかっこ悪いし。
 初めは本当に、街中のお店を紹介する写真のモデルだったり、スタジオでいろんな服を着る撮影だったりした。だけど、たまに上半身を脱いでほしいという注文をされるようになった。下も脱いでと言われたときは、困って突っ立ってしまい、そしたら「早く!」と怒鳴られたので、びくびくとジーンズを脱いだ。
 そのときはそこまでで済んだけれど、案の定、下着も脱いでしまおうと言われるときが来た。写真でなく映像として撮影されるようになり、「オナニーしてみせて」と言われたり、振動するおもちゃで軆をなぞられたり、そうして射精してしまうところを撮影された。
 恥ずかしかった。泣きたかった。心臓が黒雲のような不穏な鼓動を刻む。でも、いまさらモデルは辞めたいですと言い出すのも怖かった。撮られてしまったものを、どうあつかわれるか知れないのは分かっていた。
「絃音くん、今日も撮影疲れたでしょ。これ飲んで休んでいきなよ」
 今日もまた、自分で吐き出すところを撮られてしまい、隅っこでシャツ一枚で泣きそうになっていると、スタジオのスタッフの人に声をかけられた。俺はかぼそくお礼を言って、確かに撮影の熱射で喉がからからだったので、何も考えずにそれを飲んだ。
 あまり冷たくなくて──ちょっと変な味がするジュースだな、とは思った。次第に、軆の中が熱くむずがゆくなって、勝手に性器が勃起を始めたのでおかしいと思った。あろうことか、お尻の中に物欲しい感覚まで芽生えている。
 孤児院で園長先生に繰り返されたことがよぎり、早く逃げなきゃ、と踏み出そうとしたら、がくんと腰が砕けて座りこんでしまった。
「よーし、撮影再開だ!」
 そんな声が背後で響き、俺が逃げ出そうとしたドアから、下着だけの男が何人か入ってきた。
 視覚が潤んで、息がほてっているのが自分で分かる。男たちは俺を抱え上げると、いつのまにか敷かれたマットに寝かせて、敏感になった軆に手を這わせ、舌を這わせた。
 甘えるような喘ぎ声が止まらなくて、張りつめたものにぬるぬるの液体をかけられてしごかれると、たまらなくて腰が動いてしまう。カメラがそんな俺を容赦なく記録していく。
 やだ。いやだ。見ないで。撮らないで。こんなの俺じゃない。光を当てないで。にやにや見下ろしてこないで。こんな俺をこの世に遺さないで。
 そのまま、俺はその男たちにしゃぶられたり、俺のほうが舐めてくわえたり、最後はじんじんする後ろを激しく攻めあげられたりした。そんなあられもなく感じているすがたを、すべて撮られてしまった。「こんなに感度がいいと、ノンケ食いって謳えないなあ」なんてみんな笑っていて、俺はようやく冷めてきた軆を自分で抱きしめて、事の重大さに怯えきった。
「ねえ、もうこれは、君もゲイってことで撮影した話でいいよね?」
 そちらを見て、その言葉の意味するところに絶望した。俺のあんな映像を、流通させるということだ。
 頭の中が真っ黒に堕ちていく。どうしよう。どうしよう。俺はゲイじゃない。男なんて好きじゃない。そもそも、俺が好きなのはこの世でたったひとり──
 どうしたらいいのか分からなくて、やっとメイちゃんにモデルのバイトの顛末を話した。「どうして早く話さなかったの」と言われ、「できそうな仕事なら頑張らなきゃと思って」と俺は震える声で答えた。
「メイちゃんの重荷になりたくない。自分も働かなきゃって」
 メイちゃんも困りきった様子で、「重荷なんかじゃないのに」とつぶやいた。
 でも、知っている。最近たまに大家さんがこの部屋を訪ねてくる。ワンルームであるこの部屋は、住人はひとりまでと決まっていて、俺が滞在しすぎると違反になってしまうのだ。それで俺だけでなくメイちゃんまで路頭に迷ったら、申し訳ないどころではない。
 メイちゃんを見つめた。メイちゃんはPCを引き寄せ、「訴えるとかどうしたらいいのかな」と本気で検索をしている。
 しかし、孤児院育ちで、中卒で、風俗嬢とモデルでなければ無職の俺を、助けようとしてくれる人たちなんているだろうか。いるはずがない。そう思うと、俺はもうこの道を歩き出してしまっている自分をあきらめるように認めた。
「メイちゃん」
「ん? 待って、こういう場合って警察? 弁護士なの? 役所はちょっとなあ……」
「俺、仕事やってみる」
「えっ」
「すぐ自分の部屋借りて、メイちゃんにも迷惑かけないから」
「絃音」
「だから、たまに……俺と会ったりしてくれる?」
 メイちゃんは俺をじっと見て、「つらいでしょ」と言った。「つらいけど」と俺は視線を落とす。
「俺、どうせ、軆売る以外何ができるか分からない」
「何もしなくていいよ。絃音はあたしが──」
「俺がメイちゃんを食べさせてあげられるくらいになるんだ。それで、メイちゃんに風俗は辞めてもらう」
「………、」
「そのために頑張る」
「……でも」
「頑張るよ。メイちゃんのためになれるなら」
 俺は視線をメイちゃんに戻した。メイちゃんは長い睫毛をしばたかせ、泣きそうな顔をしている。「あたしのことなんか」とメイちゃんは俺の手をつかむ。
「そんなに、大事にしなくていいのに。あのときだって。あたしのためにあいつに犯されるなんて、何考えてるの。あたしだって、絃音を守りたくて必死なのに。絃音はいつも、……あたしのせいで」
 メイちゃんの手を握り返して、その軆を抱き寄せた。感触は柔らかでも、腰つきとかは昔より華奢でもろくなった気がする。
「メイちゃんはいつも俺を救ってくれる。メイちゃんがそばにいるだけで、俺は救われるんだ。だから、メイちゃんはただ俺を離れていかないで。俺をひとりぼっちにしないで」
「絃音……」
「メイちゃんがいれば大丈夫だから」
 メイちゃんは俺の胸に顔を伏せて、うなずいた。何度もうなずいてくれて、俺はこのときは頑張ろうと思った。
 でも、初めて自分のAVを見せられたときはトイレで吐いて、自傷もまた始まった。精液で汚された顔も、直腸に中出しされた穴も、しごいて白濁を飛ばしてしまう瞬間も、みだらな行為は片っ端からカメラにさらした。恥ずかしいのも気持ちいいのも混ざって、感覚が発狂してしまい、頭がおかしくなりそうだった。
 こんな俺のあらわなすがたを見つめて、どこかの誰かが抜いていると考えるのも気持ち悪かった。次第にわけが分からなくなってきて、ただ、たまにメイちゃんと会っているときだけが幸せで、救いで、生きているときで──
 誰も、俺のこともメイちゃんのことも、助けてくれないと思ってきた。でも、撮られはじめて一年くらい過ぎた夏、朦朧と続いた悪夢が不意に終わった。初めて、俺とメイちゃんを想って行動してくれた人のおかげで、俺は事務所とやっと手を切ることができた。引っ越してメイちゃんと同居するのも勧めてもらった。だから今、俺はメイちゃんと同じ部屋で生活して、まだ仕事はできなくても穏やかに暮らしている。
 朝食のバターと蜂蜜が染みこんだハニートーストと、塩胡椒のシンプルな味つけのベーコンエッグができあがって、サラダになりそうな野菜を冷蔵庫からあさりだしていると、「ただいまー」とメイちゃんの声がした。
 俺は手にしていたトマトをキッチンに置いて、「おかえり」と玄関までメイちゃんを出迎える。
「いい匂いがする」
「朝ごはん作ってた」
「あー、お腹空いた。食べたい」
「リビングで待ってて」
「ん。分かった」
 メイちゃんはあくびを噛んで、金髪のショートカットをかきあげながらキッチンのフライパンをちろっと覗き、奥のリビングに行った。俺はまだ温かい料理を皿に盛りつけて、水洗いしたトマトを切り分けてフレンチドレッシングをかける。
 そして、朝食をお盆に乗せてリビングに持っていくと、メイちゃんは座卓に頬杖をついて雑誌を見ていた。料理を並べながら「何読んでるの」と訊いてみると、「求人誌」と返ってくる。
「求人……って、」
「そろそろあたし、風俗辞めてもいいかなと思って」
「えっ」
「お金だいぶ溜まったし、この部屋でかかる生活費も分かってきたし。昼の仕事でも、フルで入るか掛け持ちすれば何とかなるでしょ」
「ほんとに、風俗辞めてくれるの?」
「うん。絃音も嫌でしょ」
「嫌……かな、うん」
「じゃあ辞めなきゃなって思ってきたし。でもさ、あたし、昼の仕事って何ができるかなあ」
 メイちゃんは苦笑して、俺は料理を座卓に移し終えたお盆をかたわらに置いた。そして、腕を伸ばしてメイちゃんの手を握る。メイちゃんは俺を見て、「何?」と首をかしげる。
「メイちゃんの仕事はね」
「ん、何かある?」
「昔から決まってるでしょ」
「え」
「俺のお嫁さん……でしょ」
 メイちゃんは目を開いてまじろぐ。俺はわずかに頬に熱を溶かしこみつつ見つめ返し、「メイちゃんと結婚したい」と真剣に伝えた。
「ずっと、メイちゃんだけが好きだよ」
「絃音……」
「だから、俺と結婚してください」
 メイちゃんは俺を見つめた。けれど、ふとほどけるように微笑むと「そうだね」と俺に優しく抱きついてくる。俺の腕はまだ細身で頼りなくても、メイちゃんを受け止めることはできる。
「あたしさ、思うんだけど」
「うん」
「いつかはこの騒がしい街も出てって、静かに絃音と暮らしたい」
「うん」
「あのふたりと離れるのはちょっと寂しいけどね」
「俺が、いるよ」
「うん」
「俺がメイちゃんのそばにいる」
 顔を覗きこんで俺が微笑むと、メイちゃんも微笑んでくれる。
 メイちゃんが俺といて咲ってくれる。それが俺の救いだ。本当に、その救いがあるから俺は生きてこられた。軆を引き裂かれても。めちゃめちゃに辱められても。怖い夢を見ても。メイちゃんがいるから、この命を絶たなかった。
 これからもメイちゃんと生きていく。だから大丈夫だ。神様なんて信じていないけれど、メイちゃんのことは信じられる。
 いつだってメイちゃんが俺の心を救ってくれた。だから、俺もメイちゃんの救いになれるように──もう、この手を離したりはしない。
 つながったふたりの手に、きらきらと冬の緩やかな朝陽が射しこんで、俺はそれをすごく綺麗だと思った。

 FIN

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