決まった理由なんてない。ただ、頭の中でちりっと静電気が起きるときがある。
そのとき、私はどうしようもなく死にたくなって、その「死にたい」という膿を出すために手首を切る。
誰に教わったわけでもない。誰かの真似をしたわけでもない。小学校に上がる前から、自然と手首を引っかいたり、はさみを押しつけたりしていた。届いた荷物を開くおかあさんがカッターを使っているのを見てからは、私はカッターを血管にあてるようになった。
ぽつぽつと赤い粒が生まれては、つうっと腕を流れていく。それを見ていると、神経をぴりぴりさせる静電気が楽になる。腫れあがった「死にたい」が、ようやく軆から抜けていく。
けれど、私のそんな『処置』を見つけたおかあさんは、真っ青になってカッターを取り上げた。
「こんなことやめて」
おかあさんの声は震えていた。
「こんなことしたら、痛いでしょう?」
私はとまどいながら、小さな声で答えた。
「痛い……より、すっきりするから……」
おかあさんは何か言おうとして、それをこらえるように深呼吸した。私の赤い手首に、白いティッシュを何枚も重ねてくる。
「おかあさんは、哀しいの。唯美がこんなことすると、おかあさんが哀しい」
「………、」
「だから、こんなことはしないで。ね?」
私は首を垂らした。やっと、頭の中がちりちりするのを止められるようになったのに。
でも、おかあさんのことは大好きだ。だから言うことは聞くしかない。私の家にはおとうさんがいないし、余計におかあさんを哀しませることはしたくない。
脳内に静電気を覚えても、私は我慢するようになった。そうすることでふくれあがっていく「死にたい」という膿は、胸の中に溜まりこんでいった。
やがて化膿した私は、日常の言動が傷んできた。教室でしゃべれなくなった。クラスメイトに話しかけられても、授業で先生に当てられても。なぜだか、声が出ない。変な奴だと言われた。厄介そうな目を向けられた。小学三年生になる前には、私は学校に行けなくなった。
ちりちり。頭の中の雑音がひどくなる。火花みたいになっていく。それは癇癪になって、やみくもに壁を殴りつけたい気分にさせた。暴れたいのをこらえると、今度は過呼吸になる。いっそ何も感じないために、ふとんを出ることも嫌になった。
十歳の夏、私はすっかり部屋にこもって、ずっと耳をふさいでいるようになった。
食事は深夜にキッチンであさった。トイレのときだけ、こそこそと部屋を出る。不安そうなおかあさんも、同居するようになっていたおばあちゃんも、私が動きまわっていることには気づいていたと思うけど。
おばあちゃんは、おかあさんを心配して同居するようになったみたいだ。引きこもる前から、私とはあんまり話さなかった。おかあさんの不安定の元凶である私のことは、好きではないような態度だった。
私もおばあちゃんなんてどうでもいい。おかあさんが優しいから。寝る前には、キッチンに私のごはんを用意しておいて、手紙も添えておいてくれる。
手紙に使われるメモ用紙は、いつもひまわりが描かれた同じものだった。そういえば、うちの中には黄色のものが多い。時計、カーテン、バスタオル、いろんなものが黄色だ。足を踏み入れなくなったリビングには、ひまわりのポストカードも飾られていたと思う。おかあさんはひまわりが好きなのかもしれない。
その夜も、キッチンにはごはんが用意されていた。焼き魚と煮物、お米と味噌汁。電子レンジで温めて食べよう。『ちゃんと食べてくださいね。ゆいちゃんが心配です。』というおかあさんの手書きの手紙も添えられていた。
焼き魚はさんまだったから、ちょっとだけ醤油をかけようと思った。手に取った醤油さしをかたむけると、思ったより量が出て、私はつい慌ててしまった。醤油さしをそのまま取り落とし、床に敷いてあった黄色のマットには醤油がびちゃっと広がった。
うわ。どうしよう。これはまずい。ほっといて部屋に帰ったらまずい。
駆け足で洗面所からタオルを持ってきて、シンクで濡らすと私は黒い染みを拭きはじめた。でもぜんぜん落ちないし、むしろタオルまで醤油が染みこんでしまう。大量の醤油の匂いもきつくて、焦って泣きそうになるほど、頭の中にはまたいつもの静電気が起きはじめる。
……ああ、ちりちりする。
頭の中がちりちり焼ける。
さすがに物音を聞きつけたのか、「ゆいちゃん?」と声がした。おばあちゃんだったら嫌だと思ったけど、ゆいちゃん、と呼ぶということはおかあさんだ。「おかあさん」と思わずすがるように呼んでしまうと、おかあさんがキッチンを覗いてきて、短い悲鳴を上げた。
「何、それ……っ」
すぐに駆け寄ってきたおかあさんは、広がった染みや転がった醤油さしに目を走らせた。ついで、引き出しからキッチンペーパーを取り出すと、躍起になったように拭きはじめた。
私は茫然とそれを見た。おかあさんは黒い染みにキッチンペーパーを何枚も重ねていく。ちょっと多すぎなんじゃないと思うほどキッチンペーパーを当てるから、私は何だか困惑してきた。
「あ、……あの、ごめん、」
しどろもどろに声を出すと、おかあさんは切りつけるような声で叫んだ。
「謝るくらいなら最初からこんなことしないで!」
軆がびくんとこわばる。確かに私の不注意は悪いけど、何だか、おかあさんの目には怒りを通り越して嫌悪すら垣間見えた。
「何で、こんな……ああ、もう染みになって落ちない……」
おかあさんはキッチンペーパーをむしっては染みに当てる。昔、私の手首にティッシュを当てていたのが、ふと思い返った。
「ああっ、どうしてこんなにうまくいかないの!」
そうわめいた瞬間、喉がはちきれたみたいにおかあさんは泣き出した。おばあちゃんも目を覚まして、キッチンに現れると目を丸くした。
やばい。おばあちゃんだったら、私、たたかれるかも。
とっさにそう思って、後退った。だけど、おばあちゃんは「可哀想に」とひざまずき、悲痛そうに眉を寄せながらおかあさんを抱きしめた。私には目もくれない。
「無理しなくていいんだよ」
おばあちゃんの皺だらけの手が、おかあさんの頭をさする。
「今からでも手放してもいいんだ」
おかあさんが涙目でおばあちゃんを見る。
「何もかも、こんな子を生まされたせいなんだからね」
……え?
何。
何、それ──
「でも、あの人が赤ちゃん欲しいって……」
「あんな男、結局親元に逃げたじゃないか」
「この子がいれば、あの人は戻ってくるかもしれない」
「そんなことあるか。ねえ、楽になっていいんだよ」
どういう、こと?
私、愛されてるんじゃないの? おかあさん、いつも優しかったよね? 手首切ったら、哀しいって言ってくれたよね?
私を見てくれたよね?
だから私、自分が化膿しても、おかしくなっても、おかあさんの言う通り、もう二度と切らなかったのに……
おかあさんとおばあちゃんを見つめる。私なんか見えていないふたり。息遣いが震える。荒くなる。膝ががくがくしはじめて、力尽きて座り込んでしまう前に、私はその場から自分の部屋に逃げ出した。
頭の中がびりびりする。
頭の中がびりびりする。
頭の中が痛いくらいにびりびりする。
「死にたい」がふくれあがってくる。ダメだ、切らなきゃ。カッターでもナイフでもカミソリでも何でもいいから、手首を掻っ切らなきゃ。
いや、ダメだ。切っちゃダメ。
おかあさんが、哀しむ──
耐えられない衝動が、くらくらと手足を動かす。くねってるような感じがする足取りで、一歩ずつ、一歩ずつ、ドアに近づく。
カッター。リビングにある。
ナイフ。キッチンは無理か。
カミソリ。お風呂場に……
「どこに行くの?」
ドアを開けた瞬間、おかあさんの声が間髪入れずに聞こえた。びくりと隙間から顔を上げると、明かりのない廊下に立つおかあさんが私を見下ろしていた。
「あっ……ち、違うの」
「違うって?」
「切ってないよ。切ろうとしたわけじゃなくて、」
「切れば?」
「えっ」
「切れば普通になるなら切れば?」
「で、でも」
「可哀想だもんね。つらいんだもんね。切れば楽になるなら、手首でも喉元でもさっさと切りなさいよ」
暗がりに浮かぶ、おかあさんの凄絶なくらい虚ろな表情を見つめた。息がわなないて、私の瞳からは涙が流れはじめる。
「何、でっ……おかあさんが切らないでって言うから、私、頑張ってきたのに! 死にたくても、切らずに生きてきてっ……生きて、これて! そんなこと言われたら、私、死ぬしかないじゃん!」
おかあさんは何も言わない。洞穴のような黒く深い目で私を見ている。
私は口元に染みこむ塩味を噛みしめ、ばたんとドアを閉めた。同時にめいっぱい声を上げて泣き出した。喉がずきずきして、まぶたは腫れて、顔も髪も服も涙と鼻水でべたべたになるほど、泣いた。
ああ、手首切ったらいいのかな。
でも、切っても誰も哀しまない。
私のことは見てくれない。
だったら切りたいなんて思わない。
私の声は届かない。
私の膿んだ声は腐るだけなんだ。
私はひとりで、もう助からなくて──
おかあさんとおばあちゃんは、私を放置して生活するようになった。私は家の中にいるのに、ホームレスみたいになった。年齢なんて数えていないけど、たぶんそのまま成人した。
おかあさんとおばあちゃんが留守のときだけ、家の中を徘徊できる。冷蔵庫をあさって生ものをむさぼり、石鹸も使わずシャワーだけ浴びた。
家の中からは、黄色のものがなくなっていた。
けれど、なぜかリビングに飾られたひまわりのポストカードだけそのままだった。たいして気にしていなかったけど、何となくその写真立てを手に取った日があった。
ポストカードってことは、もしかして、裏に何か書いてあるのかな。書いてたらおもしろいな。そんなことを思って、ちょっと見てみることにした。古くなったせいか、ちゃちい作りだったのか、写真立てはすぐ外れた。
まあ、どうせ何も書いてないよね。バカバカしい自分の好奇心を嗤笑しながらポストカードを裏返して、私ははっと目を開いた。
『いつでもここにおいで。』
その一言。どこかの住所。『唯美へ』という宛名。
そう、おかあさんじゃない。私宛てだ。
差出人は、『お父さんより』……それだけ。
何? 何これ。どういうこと?
おかあさんの字では……ない。見憶えさえない筆跡だ。
いつ届いたものだろう。最近? いや、このポストカードは私が物心ついたときには飾られていた。しかし、私が生まれる前ではないだろう。私の名前が書いてあるから、私が生まれたあとだと思う。
あ……待って、私の名前を考えた人なら? それなら、私が生まれる前から名前を知っていたことになる。
待って。分からない。分からないじゃない。バカじゃないの。私、何を期待しているの。おとうさんがどんな人かなんて、何ひとつ分からない。
おかあさんを捨てたんでしょ?
私の面倒も見なかったんだよ?
黄色のものがすっかりなくなった家の中を見まわした。あの日以来、消えていった黄色。それまではあふれかえっていた、おかあさんが選んだひまわり畑みたいな黄色。
いつも食事に添えられたメモにあったひまわりも、何だか、このポストカードに私が気づくようにしていたような──
心臓がどくどくと脈打ちはじめる。震える息遣いを、唇を噛んで食い縛る。
おかあさんに、もう私の声は届かない。
そう、きっと、おばあちゃんがさえぎってしまう。
私はポストカードを手にしたまま、食器棚の引き出しを見に行った。ここにある家計簿に封筒が挟まれていて、現金がしまってあったはずだ。さいわい一万札が何枚か入っていて、私は躊躇なくそれをつかみだした。
荷造りする私物さえ、ない。こんな家、いちゃダメだったんだ。私の声が届くなら、このメッセージを受け取って、立ち上がらなくてはならない。
玄関に走った。家を飛び出した。鍵なんて知らない。
とてもまばゆい青空には、私を急き立てるように蝉の声が反響していた。
FIN
