戯れ事

 彼を愛してはいけないことは分かっていた。
 だって、結婚している人。彼が奥さんも赤ちゃんも大切に想っているのは、私もよく知っている。
 でも、私のこともけして遊びではないと思う。彼は私をいつも哀しそうに愛してくれるから。
 いっそ、おもちゃみたいにされたら。すべて遊びだと割り切れたら。そう思いながらも、私はいつも彼にしがみついて、その耳元で切ない吐息を震わせる。
莉彩りさ。僕たち、もう会うのをやめよう」
 急に秋色が深まった晩秋、しんと冷え込む金曜日の夜だった。私の部屋のベッドで、私の髪を撫でる彼がそう切り出した。
 私は汗ばんだ彼の胸から顔を上げた。彼はいつも通りの哀しい瞳をしていた。その瞳をじっと見つめ返し、私は小さく息をつく。
 ああ。
 やっと断ち切ってくれるんだ。
 正直、すごくほっとした。奥さんや赤ちゃんに対する罪悪感も下ろせる。男の人をひとり暮らしの部屋に連れこむ後ろめたさも終わる。私自身、もう迷わなくていい。
 どうして、なんてわがままのひとつも言わなかった。私は黙ってこくんとうなずいた。彼は一瞬、表情を押し殺した気がしたけど、何も言わずに私の額にキスしてぎゅっと抱きしめた。
 ベッドの中は、熱を交わした名残で温かい。ほんのり湿り気もこもったそこで、彼は終電が近づく時間まで私を抱きしめていた。この温もりと匂いも最後。私はこの感触を肌に刻むように、彼にぎゅっと抱きついていた。
 彼は零時になる前に、合鍵を置いて私の部屋を出ていった。もう周りの生活音も静まり返っている。冷めていく部屋にひとりになっても、私は明かりも消さずにはだかでふとんにくるまっていた。
 寂しくない。寂しくなんかない。
 私にも、私の本当の幸せを見つけるときが来ただけだ。
 週末は淡々と過ごした。食事は何だか味気がない。眠りも浅くて、思考力がぼんやりしている。あふれだすような未練はない。こみあげる後悔もない。ただ、何もない。ベッドから起きようともしなかった。
 それでも、月曜日には普通に出勤した。部署は違うけど、彼もいる会社だ。心がのっぺりしていて、顔を合わせることさえもう気まずくない気がしていた。
 すれちがうとき、私が淡々とした挨拶で済ましたら、あの人、どう思うかな。
 しかし、社内で彼のすがたを見かけることはなかった。避けられてるのかな。そう思うと、もうどうでもよかったはずの胸にちくりと針先が食いこむ。
 一週間ほどしてもぜんぜん見かけないから、通りかかるふりで彼の部署を覗いた。そうしたら、彼がいたはずのデスクが空席になっていた。
 困惑がじわっと黒く喉に広がる。けれど、何か用かと人に訊かれる前にその場を離れた。足取りを落としながら、無意識に眉根を寄せ、私は考え込んだ。
 どうしたのだろう。ずっと休んでる? まさか転勤した? それとも何かの事情で辞めた? だとしたら、その事情って……
 胸がざわめいても、確かめる術はなかった。表向きでは、私と彼に接点なんてなかったのだ。とりあえず、いなくなった彼の良くないうわさがいまさら流れることはなかった。
 深まった秋は冬にうつろい、十二月になった。今年の年末は、実家にも帰ろうかな。去年は鋭いおかあさんや厳しいおとうさんに不倫なんてしていることを感づかれるのが怖くて帰れなかった。彼のことしか考えられないのに、お見合いなどをほのめかされるのも嫌だった。
 今は逆にお見合いとかあってもいいかもしれないと思う。特に出逢いもないし、婚活アプリとかはやろうと思えない。
 その日も終業時間まで働いて、制服を私服に着替えると職場をあとにした。エレベーターで一階に降り、出口までの通路を歩く。その通路で、不意に「すみません」と男の人の声がかかった。
 少しびくっとして振り返る。振り返ってから、こういうのは無視して立ち去ったほうがよかったかと後悔した。しかし、声の主の男の人は私に近づいてくる。
 何だろう。知らない人だけれど──ずいぶん険しい面持ちをしている。
山辺やまべ莉彩りささんで合ってますか?」
「えっ……」
 視界が泳ぐ。どうして、私の名前。その人の刺すような視線の瞳に狼狽えていると、その人は続けた。
盛岡もりおか信一しんいちのことで話があります」
 どきんと肩が揺れた。今度の名前は、依然いっこうに出社していない彼の名前だ。
 私は露骨に目をそらしたものの、言葉は出てこない。
「俺は水沢みずさわ祐賢ゆうけん。ここで盛岡のことは話しづらいでしょうし、出ましょう」
 歩き出したその人、水沢さんについていっていいものかと迷う。そうしたら、水沢さんはやっぱり穏やかではない口調で「早くしてください」と私を急かした。
 私はざわざわと粟立つ胸を抱え、仕方なく水沢さんについていった。
 水沢さんは近くのパーキングに停まっている車に近づき、そのまま乗りこもうとした。けれど、ロックだけ開けてなぜか私に車のキーを渡す。
「俺の車です。乗ってください。あなたがキーを持っておけば、俺が急にエンジンを入れて連れ出すこともできないでしょう」
 私は言葉に詰まるまま、でもキーってひとつじゃないだろうし、と思った。けれど、怒っているような水沢さんに逆らうのも怖くて、おとなしく助手席に乗る。
 車の中で、息苦しい沈黙がしばらく続いた。水沢さんは何か切り出そうとしているけど、なかなか口火が見つからない様子だ。
「えっと……盛岡さんの、お知り合いですか?」
 私がおそるおそる沈黙を破ると、水沢さんは私を一瞥してから、「そうですね」とため息混じりに肯定した。
「盛岡とは高校時代からのつきあいです」
「そ、そうなんですか」
「あいつの嫁とうちの嫁も親友です」
 つい心臓がすくんでも、「そうなんですね」と私は何とか冷静に答える。膝の上で車のキーを握りしめる。
「亡くなりましたよ」
「えっ?」
「盛岡は亡くなりました」
 私は目を開いて、水沢さんを見た。私の表情に、水沢さんの眼つきがひと息に冷え込み、眉間に苦みが滲む。
「いつも、信一はあんたの心配をしていた」
「え……っ」
「そんなあいつに俺は心からうんざりしてたんだ」
「………」
「信一は長く闘病していた。あんたはそれすら知らないんだろう。信一はあんたを遺して逝きたくないとばかり俺に話していた」
 唇からこぼれる息遣いが震える。視界が愕然と暗くなる。
「だから、せめて死んだことだけは知られないように死にたいって、ずっと……」
「じゃ、じゃあ……何で、」
「何で? よくそんなこと言えるなっ」
 急な怒鳴り声と憎しみに近い瞳に、私はびくんと肩を揺らす。
「ふざけんなよ、ほんとにっ……あんただけ、何も感じることなく生きていくつもりか? 一番つらいのは、ずっと看病してきた信一の嫁さんだし、父親を喪った幼い息子なんだ」
 何も言えずにいると、深呼吸してから水沢さんは車を降りた。つかつかと助手席にまわると、ドアを開ける。
「降りてくれ」
「え、あ……」
「同じ空間にいるだけで吐きそうだ。俺は信一の親友だから、絶対にあんたを許さない。せいぜいひとりで苦しめばいい」
 おろおろしていると、「降りろ!」とまた怒鳴られて私は慌てて車を降りた。「すみません」と無意識に口走っていたけど、それは逆に水沢さんの癇に障ったようだ。水沢さんはパーキングの支払いを手早く済まし、その場をあっという間に去っていった。
 あたりはすっかり暗くなっていた。浅い呼吸のまま、口の中が渇いていく。塩味がじわりと口角に染みこんだのが分かった。
 そんな資格、ない。分かっている。涙を流すなんて、私には許されない。それでも──
 靄がかかったような頭でぼんやりとしたまま、日々を過ごした。あっという間に仕事納めになった。私は予定通り実家に帰り、でも晴れない顔のままだった。おかあさんがやっぱりすぐに察して「何かあったの?」と心配そうに訊いてくる。
 でも言えない。頭の中をぐるぐる彷徨うまま出口がない。
「あれっ、もしかして莉彩?」
 おかあさんと年末の買い出しに出たとき、スーパーの駐車場で懐かしい声がした。振り返ると、この地元で中学時代を仲良く過ごした友達の早奈美さなみだった。
「わあ、久しぶり! こっち帰ってきてたの? 連絡してよー」
 笑顔で駆け寄ってきた早奈美に、私は曖昧に微笑む。
「ごめん……ちょっと疲れとか溜まってて」
「そうなの? 大丈夫?」
「うん。今は実家でゆっくりしてる」
 早奈美の前だと私の表情がほぐれたのを見取ったのか、おかあさんが早奈美とお茶していくように勧めてきた。「え、でも……」と私は躊躇い、早奈美を見る。
「早奈美は、いい? 買い物に来たんだろうし……」
「平気平気! あたし車で来てるし、買ったものは旦那に頼めばいいから」
「あ、湯上ゆがみくんと結婚したんだっけ」
「そう! まさか中学からの腐れ縁で結婚するなんてねえ」
 早奈美はからからと笑うけど、とても幸せそうに見える。「じゃあ、フードコートに寄っていこうか」と私が提案すると、「旦那に先帰るように伝えてくる!」と早奈美は自家用らしい車に駆け寄っていった。
 そんなわけで、私は早奈美とスーパーに併設しているフードコートに向かった。買い物の合間らしい客でにぎやかだし、わりあい広い。子供からお年寄りまで、それぞれの席で談笑している。
 ドリンクは私はシンプルなカフェラテにしたけど、早奈美はチョコソースがけのフロートココアを頼んでいた。昔から甘いものが好きで、ふっくらしているのを揶揄われていた子だけど、食が細い私からするとそのほうがよっぽどかわいい。
「こっち離れてから、どう?」
 フロートをスプーンですくう早奈美の質問に、私はまた曖昧に咲った。中学も高校も私と一緒に過ごした早奈美は、すぐに気づくものがあったようだ。
「もしかして、あんまりうまくいってない?」
「……仕事は、何とかこなしてる」
「そっか。ふふ、泣いてあたしが一緒の大学行こうよって言ったの、蹴ってでも出ていったんだもんね」
「ごめん……」
「いいの。莉彩がいなくなったことで、貴明たかあきも動きやすくなったんだろうしね。高校は違ったのに、あいつ、よくあたしをあきらめなかったよねえ」
「湯上くん、いつも早奈美のこと見てたよ」
「そうなの? ぜんぜん分かんなかったなー」
 私は少しだけ微笑んで、憎まれ口をたたきあっていた当時の早奈美と湯上くんを想いながらカフェラテをすする。仲良く喧嘩するってあんな感じだとひそかに思っていたっけ。
「じゃあ、向こうでは順調?」
「え、あ──どう、かな……」
「言いたくないならいいけど。さっき、一瞬さ、……細川ほそかわさんに話しかけられたときみたいな顔したから」
「……ああ。あの人、どうしてるのかな」
「こっちで就職したって話だよ」
「そっか……」
「うちらも三十路だし、お局様になってそうだよねー」
 細川さんは、率直にものを言うところがきつかった同級生だ。とろい私に、いつもあれこれ指摘をした。当時の私は細川さんに話しかけられると怖くて、そういう態度は困るとも伝えられなくて、いつもあやふやに咲っていた。
「もし、しんどいことがあるなら、いつでも聞くからね」
 私はカフェラテの水面から顔を上げた。早奈美は昔のままにっこり咲ってくれる。
 ほんの少し、弱い気持ちが揺らぐ。
 大丈夫……かな。話しても、受け止めてもらえるかな。早奈美なら。受け止めないまでも、軽蔑はしないかな。
「あ、あの……ね」
「うん?」
「実、は」
「……うん」
「好きな人が、亡くなってたの」
「えっ?」
 早奈美が思いがけない様子で目を開く。それから、私は彼とのこと、お別れのこと、水沢さんのこと、すべて早奈美に話していた。
 話しながら涙がこぼれて、何度も頬を拭った。周りの子供が「おばさんなのに泣いてる」とか言うのも聞こえた。そういう子の手を引っ張り、親は気まずそうに私たちのテーブルを離れる。
 やっと話し終えると、こわごわと早奈美の顔を窺った。早奈美は眉を寄せ、困惑や狼狽とはいえない苦みを瞳に浮かべていた。嫌悪ほどではなくても、受けつけていないのは分かる。
「……ええと」
 深呼吸して、早奈美は感情を抑えた声で口を開いた。
「ごめん、あたしは自分が結婚してるから、奥さんの立場を想像しちゃって」
「あ……、」
「奥さんは死に際まで見たのに、その人が莉彩には綺麗なまま何も見せなかったっていうのは……きついと思う。死に際見せるほうが信頼関係かもしれないけど、なんか、その人が莉彩のこと絶対傷つけたくなかったのも感じるから」
「………、」
「あたしは、水沢さんって人のしたことは、分かる気がする。ごめんね」
「……ううん。そうだよね」
 うなずくふりで、うつむく。視界がじわりとゆがむ。
 そうだよね。早奈美の言う通りだ。私だけのうのうと何も知らずに生きていくなんてずるい。
 でも、私は、きっと彼を看取って最期までそばにいられた奥さんがうらやましいのだ。そう、やっぱり奥さんがうらやましくてたまらない。
 彼には、私の隣で息を引き取ってほしかった。最期に私の瞳を見て、それから眠ってほしかった。
 これ以上本音を語って、早奈美にまで軽蔑されたくないから、言わないけど。
「あの人がいなくなって寂しいね」って周りに言ってもらえる奥さんが、結局何十倍も何百倍も彼が愛した存在の中心なのだ。そして私は、「もう会うのをやめよう」と言われた日に、彼の人生から除外された。
 私のつらさを理解してくれる人は、おそらくどこにもいない。私の苦しみは誰にも届かない。何の痕跡もない愛だから、私の哀しみは誰ひとり分かってくれない。
 それで当然だと分かっている。たとえ泣き叫んでも、もはや彼にすら届かない。
 私を抱いたときの彼の哀しい瞳を思い出す。遊ばれていたほうが、どれだけ吹っ切ることが楽だったか。
 彼が私を愛していたなんて、世界中のだれが聞いても私の世迷い言だ。彼を忘れられないなんて言う資格もないって、きっとみんな私を蔑む。
 すべて戯れ事だったらよかったな。でも、愛してたよ。愛されてたんだよ。
 ねえ、私、あなたと幸せになりたかったのに。
 膝の上で握った手に、ぽたぽたと大粒の涙が落ちる。早奈美は私の手に手を重ね、もう何も言わなかったけど、そのままでいてくれた。
 窓越しの射しこみはじめた夕暮れは、ただ静かに闇におおわれていく。

 FIN

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