Knocking Heart

 朋奈さんは、よく平気で俺に「私の部屋に遊びに来る?」とか言う。
 それが俺を男として見てない、ガキだって安心してるせいなのは分かっているから、本当は朋奈さんとふたりきりになりたいくせに、「行かないですよ」と俺はいつもそっぽを向く。「そっかあ」と朋奈さんは朋奈さんで、特にがっかりしてみせることもなく咲って、話を変える。
 今までそうだった。
 朋奈さんに想いを伝えたのは、俺が十一歳のときだ。朋奈さんの中学の卒業式だった。
 それから、ずうっと曖昧な関係で、そんな中で高校を卒業してひとり暮らしを始めた朋奈さんは、いつも友達感覚で部屋に遊びに来るかと俺を誘った。
 断ってきた。でも、今日は違った。あの告白から八年経って、俺は十九歳になった。二十歳には一歩足りないけど、小学生だったあの頃に較べれば、しっかりとした大人の男になった。
玲人れいとくん、こないだ話してた漫画、よかったら貸してくれない?
 人気なんだねー、みんな春からのアニメ化見るって話してて、私も勉強しなきゃ。』
 大学はとっくに春休みになっている今日、自宅のリビングでスマホをチェックしていると、朋奈さんのそんなメッセが届いた。
 二十三歳になった朋奈さんは、現在、店舗と通販を兼業する漫画専門ショップの本社で働いている。俺も知っている、いや利用だってする、商業から同人まで扱う有名なショップだ。そこの内定をもらったという報告を聞いたとき、「朋奈さんヲタだっけ?」と俺が首をかしげると、「TL漫画はかなり読むかな」とちょっと恥ずかしそうに返ってきた。
 TL漫画。女性向けエロ漫画というイメージは合っているのか。よく分からないけど、とにかくそんな縁で受かった朋奈さんの今の会社は、当然周りに猛者のヲタが多いらしい。話題に追いつこうとしたら、好きな漫画だけ偏食するわけにもいかず、朋奈さんは入社して以降この一年、流行からコア、漫画やアニメ、即売会にもイベントにも公私で参加する多忙ぶりだった。
 俺が何かメッセを送れば、一日以内には返してくれる。俺のほうが、これに即レスしたらうざくねえかなとか悩んで、妙に数日置いたりしてしまう。
 やっと送ればまた何か返ってくるわけでも、朋奈さんから俺の返信を待たずに何かくれることは少ない。だから、今日のこの自発メッセはめずらしかったし、内容的にこれは会えるんじゃねと思って、ひとりでほくそ笑んでしまった。
 ソファにもたれかかり、漫画を貸すくらいOKだという返事を入力していると、「にやにやして気持ち悪いー」とふたごの姉の千代子ちよこが俺の頭をはたいた。
 千代子と玲人。どれだけお花畑の命名をしたんだと思う両親は、バレンタインを切っかけに結ばれたそうで、四十代になってもべたべた仲がいい。こいつらはアホなのかと思うときもあるものの、正直、朋奈さんに恋した日からは仲睦まじい両親は憧れにもなった。
 そして、貸出OKのメッセ送信から数時間後、朋奈さんは例によって俺に持ちかけてきた。
『本、取りに行くならいつがいい?
 それとも、持ってくるついでに私の部屋に遊びに来る?』
 これまでの俺なら、もちろん『自分で取りに来いよ!』と生意気に返すところだった。が、本は本で、既刊で十八巻の少年漫画だ。重いよな、と思ったし、そろそろ俺が大人になったと認識してもらってもいい気がした。
 悩んだ。三十分はゆうに悩んだ。既読をつけてしまっているから、早く返さないといけないのにじっくり悩んだ。その結果、『春休みでヒマだから持ってく』の一文を、命をかけるような覚悟で送信した。
 ふっと既読がすぐに浮かぶ。間があった。それから、『ほんとに来るの?』という返事が来た。俺はその文章を眉を寄せて見つめ、これは調子乗ってしまったかと後悔しそうになった。しかしすぐに追撃が来る。
『ごめん、びっくりして何かえらそうになった。
 来てくれるならおいで!
 ただ、ちょっと掃除したいなー。
 週末でいい?』
 ちょっと笑ってしまった。朋奈さんが焦っているのが思い浮かんだからだ。これはもっと困らせてやりたい、と思った俺は『今夜持っていくとかダメなの?』と送ってみた。
 再びしばらく、間があった。ペットボトルのコーラを飲む千代子が、スマホの画面を見たままにやつく俺に、顰めっ面を向けながら二階に戻っていく。着信音が鳴った。
『掃除とか、冷蔵庫の中とか、ダメダメなんだけど……
 それでもよければ……』
 やばい、かわいいなこれ。いわゆる干物の宣言をされているのに、なぜかそう思って俺は声を出して笑ってしまった。女の部屋は夢みたいにかわいいもんじゃないし、自分のための料理にもあんまり興味がないのは、千代子のおかげでよく知っている。
 でも、それをそのまま返すと千代子と同レベルにして失礼なので、『俺はぜんぜん気にしないよ!』とだけさくっと答えた。
『じゃあ、二十二時以降なら帰ってると思うから。
 住所は前に教えたよね。
 気をつけて来てね?』
 俺は通知でその内容を確認すると、既読はつけずにソファを立ち上がった。
 よし、ついに朋奈さんの部屋に行く。いきなり親密なことにはならないだろうが、俺がガキじゃないことは分かってもらう。
 そう決意して、シャワーを浴びて服も着替えて、俺の朋奈さんへの想いに較べれば軽い十八巻以下続刊を紙ぶくろに詰めて、実家とさほど離れていないところに借りている──つまり地元は現在も俺と同じである朋奈さんの部屋に、深呼吸を何度もしながらおもむいた。
 ──そして二十二時現在、俺は朋奈さんの部屋でひとり、帰宅直後だからとシャワーを浴びにいった彼女を待っている。
 あれ? いや、俺が来てからシャワーって。あの人はもしや誘っているのか。どうなんだこれ。やばい、下半身が反応しそう。
 落ち着け俺、とスマホを見ると、『好きな人の部屋に遊びに行く!』と有言実行でつぶやいたSNSの通知が来ていて、勝手にフォロワーが『童貞卒かあ』『ゴム持った?』『爆発して死ね』などと盛り上がっていた。
 メッセアプリにも、SNSを見たらしい友達から揶揄が飛んできている。皆さん、盛り上がってくれてますけど。俺は今、本当にわけが分からない感じですよ。
 ああもう、朋奈さん。やっぱり、俺が獣になるなんて思っていないから、平然とシャワーなのか? それとも──
 朋奈さんに出逢ったのは、俺が小学三年生になったばかりの春だった。クラス替えしたばかりで、学校に友達がいないので、俺は千代子のあとばかりついてまわっていた。
 千代子は低学年で同じグループのひとりだった浦部うらべ春海はるみちゃんと同じクラスになれて、放課後も一緒に行動していたから、ついてくる俺が鬱陶しいようだった。それでも俺を突き飛ばさなかったのは、例のお花畑両親が弟を邪慳にするなと口うるさかったせいだろう。
 家にひとりはつまらないからと、俺は千代子と共に春海ちゃんの家にもお邪魔する始末だった。春海ちゃんには、雅美さんという中学に入学したばかりのおねえさんがいた。その雅美さんと中学校で友達になり、同じくちょくちょく浦部家にやってくるのが朋奈さんだった。
 千代子はもちろん、春海ちゃんだって、俺が家についてくるのは仕方なくあきらめても、遊びにまでは加えさせてくれない。人形遊びなど、俺も興味はなかったが。
 おとなしくしていろという意味で与えられたおやつを食べながら、俺はたいていリビングでアニメを観ていた。俺の家とは違い、衛星に加入している春海ちゃんの家のテレビはチャンネルが無数にある。アニメだけひたすら流すチャンネルだけでも、三本はあった。その日もケーキドーナツをもぐもぐとしながらテレビに見入っていると、「あれ」と声がして、俺は振り返った。
 リビングにセーラー服の女の人が入ってきて、俺に目を止めていた。セミロングの髪をおさげにした、かわいらしい感じの人だ。俺がまばたきをしていると、その人は「わあ」と声をあげてこちらに駆け寄ってきた。
「千代子ちゃんにそっくり。もしかして、ふたごさん?」
 俺はその人を見上げ、気圧されながらぎこちなくうなずいた。「そうなんだ」とその人は柔らかに微笑む。
「千代子ちゃんたちと一緒に遊ばないの?」
「……女の遊び分かんないし」
「はは、そっか。お名前は?」
川口かわぐち玲人れいと
「玲人くんか。私は結浜朋奈」
「朋奈……さん」
「うん。あ、私は春海ちゃんの姉の雅美と友達なの。だから、今日も遊びにきてて。玲人くんは、友達とは遊ばないの?」
「………、俺、まだクラスに友達いない」
「クラスに──って、そっか、三年生だからクラス替えか」
 俺がつけっぱなしだった名札を見て、朋奈さんは納得したようにうなずく。
「私も中学に上がって誰かと仲良くなれるか怖かったけど。雅美もできたし、玲人くんも大丈夫だよ」
「そう……かな」
「うん。ちゃんと友達できるよ」
 朋奈さんはにっこりしたあと、テレビに映ったアニメを見て「あ、懐かしい」と言った。俺が首をかしげると、「これ、私が幼稚園くらいのときよく観てたの」とくすりとする。ギャグ調のファンタジーアニメだった。
「みんな、これ観て勇者になりたいとか魔法使いになりたいとか。再放送かな」
「たぶん。この家、チャンネルがいっぱいあって」
「いいなー。衛星加入してるんだ。私の家、チャンネル十個もない」
「俺の家も」
「チャンネル少ないとつまんないよね」
 俺がこくんとしていると、「朋奈ー?」と春海ちゃんのおねえさんの雅美さんが顔を覗かせた。「あ」と朋奈さんは俺のかたわらを立ち上がる。
「もう、朋奈。トイレって言ったのに──」
「というか、見てよ雅美。千代子ちゃんのふたごの片割れ」
「知ってる。名前が千代子と玲人だもん」
「千代子、玲人……あっ、チョコレート!」
「いいから、早く宿題やろうよ」
「はいはい。じゃあね、玲人くん。少し画面から離れないと、目が悪くなるぞ」
 そう言って俺の頭をぽんとした朋奈さんは、「トイレとか普通に言わないでよー」とか言いながら雅美さんに駆け寄っていった。俺はその背中を見送り、ふたりがドアを閉めて去ってしまうと、何となくテレビから少し離れて、またアニメを観はじめた。
 何か、優しい人だったな。かわいかったし。友達ができる。大丈夫。だといいな、と思って、俺は甘いけどちょっと油でべたっとしたケーキドーナツを頬張る。
 テレビに映るアニメを見つめ、あの人もこれを観てたのかと反芻する。それなら、また会えたときにはもっとちゃんと話せるようにと、おもしろかった台詞や場面を憶えることに集中した。
 その後、確かに俺にもクラスに友達はできた。しかし、相変わらず千代子と春海ちゃんの家にお邪魔していたのは、ときおりそこで朋奈さんに逢えるからだった。
 朋奈さんは俺のことを憶えてくれて、友達ができたことを喜んでくれたり、テストの点数がよかったことを褒めてくれたりした。そんな朋奈さんに対し、俺は懐くというより、手の届かない憧れのようなものを抱くようになっていった。
「玲人、もう立中たてなかくんとかと仲いいじゃん。何でついてくるの?」
 小学四年生になっても、俺は相変わらず千代子と共に春海ちゃんの家に行くことがあった。朋奈さんに遭遇するのが目当てだったけど、「テレビのチャンネルおもしろいから」と俺は言い張る。
 千代子は俺と同じ顔をむくれさせて、「友達と遊ぶよりテレビがいいって暗い」と言い捨てた。俺はそっぽを向き、今日も友達の誘いを断ったので「お前シスコンなー」とか言われたことを思い出す。そう言われるのは不本意だったが、やっぱり朋奈さんに会いたかった。
 朋奈さんは中学二年生になっていた。小四の俺には、中学生なんてずいぶんと大人だ。ひとつ心配なことがあった。朋奈さんが、彼氏とか作ってしまったらどうしようということだ。
 中学生の感覚が分からない。もう彼氏とか作る歳なのか。まだつきあうとかは早いのか。朋奈さんはかわいいし、狙う男くらいいるだろう。というか、朋奈さんに好きな人がいたら。
 自分の年齢がここまで歯がゆくなることはなかった。同じ中学生だったら、すぐにでも告白しているのに。小学生なんて相手にされるはずがない。多少成長すれば、四歳差なんて大したことないのかもしれないが、今の俺には途方もなく朋奈さんは遠かった。
 朋奈さんも俺を弟みたいにしか見てないしなあ──そんなことを思いつつ、二学期の残暑の放課後、その日もポテチとオレンジジュースをもらいながら、浦部家でアニメを見ていた。
 外ではいまだに少し蝉の声が残っている。暑いなあと感じても、人の家のクーラーの温度を勝手に下げるわけにもいかない。せめてうちわでもないのかと思ってると、「ただいまー」という雅美さんの声に「お邪魔します」と朋奈さんの声が続いて、俺はぱっと色めいた。
 ひとりでそわそわして、玄関を覗いてみようかと躊躇っているうちに、足音は二階に向かってしまった。がっくり首を垂らし、せっかく挨拶できたかもしれないのにと悔やむ。でも、かわいらしく「こんにちはー」とか言えるわけでもないし……どうやったら、せめて朋奈さんと自然に話せるようになれるのだろう。
 その日、朋奈さんと雅美さんは長いこと部屋にこもっていて、「玲人、帰るよー」と千代子が声をかけてきたほうが早かった。まだ朋奈さんの顔も見てない。だが、そんなこと言えない。「……うん」と俺はもごもごうなずくと、「ごちそうさま」と春海ちゃんにオレンジジュースが入っていたコップを渡して、千代子と浦部家をあとした。
 朋奈さん。もっと会いたいよ。もっと話したいよ。もっと近づきたい。しかし、俺はどうしようもなく、朋奈さんと親しくなる対象ではないのだった。
 乾燥した風が頬を切って、冬の匂いが立ちこめはじめてきた頃、朋奈さんは何やら浦部家のキッチンで料理の練習をしていることがあった。俺がそろそろと顔を見せると、朋奈さんは俺に気づいて、たまご焼きとかポテトサラダとか味見させてくれる。
「おいしいかな」と不安そうに問われて、「うまいよ」と答えると、朋奈さんはほっとした様子を見せても、「こんなの、ずうずうしいかなあ」とうつむく。俺がじっと見ると、朋奈さんは恥ずかしそうに咲って、「今、片想いしてる男の子が、ときどき一緒にお弁当食べてくれるの」と言った。
 心臓にボウガンが突き抜け、醜く穴が開いた気がした。片想いしてる男。……そう、だよな。いるよな。一緒に弁当。完全に向こうも朋奈さんを意識してるじゃん。「つきあってるの?」と震えそうな声を抑えて訊くと、「たぶんつきあえないかな」と朋奈さんは哀しそうに微笑んだ。
「弁当一緒に食べるんでしょ」
「私がわがまま言ってるだけだよ」
「そのわがまま聞いて、一緒に食べてくれてるんじゃん。きっと、両想いだよ」
 自分で言いながら、火傷をめくるように心がひりひりと爛れた。朋奈さんは料理に使った器具の片づけを始めながら、どこか陰った声で「ありがとう」と言うと、シンクのほうへと背を向けてしまった。俺はその背中を見つめ、味見したおかずの味が残る唇を噛みしめた。
 どんな、男だろう。かっこいいのかな。朋奈さんの同級生かな。くそ、同い年ってやっぱりいいなあ。俺は朋奈さんの誕生日から四年もあとに生まれて──好きな男への料理の味見係にされるくらい、意識されていない。
 それから何ヵ月か過ぎ、朋奈さんと雅美さんが修学旅行に行ったあと、その一件は起きた。俺はぼんやり浦部家でテレビを観ながら、こないだの修学旅行を切っかけに、朋奈さんが例の男とつきあいはじめたらどうしようとか、そんなことばかり考えていた。
 暖房がぼんやり効いて、見ているアニメの内容も頭に入らずにいると、突然リビングのドアが開いた。はっと振り向くと、千代子と春海ちゃんが何やらぶつぶつしながら入ってくる。そして、特に俺に断りも入れず「あたしこっちが観たいー」と春海ちゃんはチャンネルを変えてしまった。
「何?」と俺が怪訝に眉間を寄せて千代子を見ると、「隣の部屋で、雅美ちゃんと朋奈ちゃんが喧嘩してて怖い」と千代子は俺の手にあったポッキーを奪った。
「喧嘩って」
「よく分かんないけど、朋奈ちゃんがかなり怒ってたから、そうとうじゃない?」
「……そうなのか」
「何かねえ、『勝手なことしないで』って朋奈ちゃん言ってたから、おねえちゃんが何かやらかしたっぽいよー」
 春海ちゃんも言い、千代子からポッキーを分けてもらって口にくわえる。俺は空目遣いで天井を見て、一考したのち、「ちょっとトイレ貸して」と立ち上がった。
 ふたりは俺の言葉に耳も貸さず、ヒロインもののアニメに見入っている。俺はリビングを出て、玄関と向かい合っている階段に首を伸ばし、恐る恐る、初めてこの家の二階に上がってみた。
「それ以上、塩沢くんを悪く言わないでよっ」
 そんな朋奈さんの大きな声がして、俺ははっと冷えこむ廊下で足を止めた。
「何で!? あいつ、ひどいじゃない! 朋奈は普通に塩沢を好きになったのに、」
「普通とか、そういう言い方やめて。塩沢くんには、普通っていうのは──」
「普通でしょ、女子が男子を好きになるのは。あいつあそこまで朋奈と仲良くしてて、それを」
「塩沢くんは悪くないの! 私のずうずうしさにつきあってくれて、優しかったくらいだよ」
「おかしいよ、朋奈……あいつが好きだからって、そんなふうにまで思うことないのに」
 その口論を、俺は何とも言えない不安を覚えて聞いていた。普通、とか、どういう意味だろう。
 朋奈さん、まさか例の男とうまくいかなかったのか? そんなのあるはずないと思っていた。つきあってしまうのだろうと高をくくってあきらめていた。
 違ったのか? 何か、そいつとはうまくいかなかった理由が──
 口喧嘩が止まらないまま、ひとつの部屋のドアが開いたのは唐突だった。廊下に突っ立っていた俺はびくんとすくむ。そこから出てきたのは朋奈さんで、すぐ俺に気づいた。朋奈さんはぱっと顔を伏せたけど、泣いているのは見えてしまった。
「朋奈さん」と思わず名前を呼んで駆け寄ると、「何でもないから」と朋奈さんは顔をそむけたまま、俺とはすれちがおうとする。けれど、「朋奈っ」と部屋から雅美さんが追いかけてきて、朋奈さんは苦しげな表情でかえりみる。
「あたし、そんなにおかしいことした? 朋奈が傷ついたのが許せなくて、それで──」
「……私の気持ち考えてくれたのはありがとう。だけど、塩沢くんは雅美が言うようなおかしい男の子ではないの」
「でも」
「私は塩沢くんを好きになってよかったよ。振られたけど、そう思えるまで塩沢くんはそばにいてくれたの」
 俺は目を開き、朋奈さんを見上げた。振られ、た? 朋奈さんが振られた──?
「……分かんないよ」
 雅美さんが絞り出すように言う。
「女じゃなくて男がいいなんて、そんな男、分かんない……」
 え?
 思わず耳を疑った俺が肩をこわばらせると、「玲人くん、行こう」と急に朋奈さんが俺の手をつかんで階段を降りはじめた。俺は慌ててそれについていき、そのまま、朋奈さんと一緒に浦部家を出た。
 凍てつく風が吹きつける、灰色の寒空が広がっていた。暮れはじめる空から察するに、十七時ぐらいだろうか。
 朋奈さんは鼻をすすりながら歩いて、俺は懸命にその速足についていく。朋奈さんとつないだ手だけ温かくて、ぎゅっと握り返したとき、朋奈さんは濡れた瞳で俺を見た。
「ごめんね」
「えっ」
「連れてきちゃって」
「あっ……ううん」
「戻ったほうがいいかな」
「平気。千代子、俺のこととか心配しないし」
「……そっか」
 朋奈さんは湿った睫毛を伏せ、「雅美は心配してくれただけなのにねえ」と苦笑する。
「それでも、好きな人を悪く言われるのは親友でも許せないなあ」
「……朋奈さんの、好きな人って」
「うん?」
「何か、さっき、雅美さんが……男がいいとか」
 朋奈さんはうつむいて、おさげで表情を隠した。俺は混乱するままその横顔を見つめる。しばらく沈黙があって、風音が鋭く耳たぶに刺さった。「その人のことを」とふと朋奈さんは俺の手を強く握った。
「勝手に話すのはよくないけど──ただね、玲人くんにも知っててほしい。恋愛は、男と女だけでするものじゃないの」
「え……」
「男の子同士も、女の子同士も、いろんなかたちがあるの」
「………、」
「私は、男の子と恋をする女だけど。その男の子は違ったんだよね」
「お……男同士の人なの?」
 強い追い風が、何も言わない朋奈さんの髪とスカートをばさっと揺らす。俺の心臓が、不穏な毒を持って脈打ってくる。
 何。何だよ。男同士? 何だっけ、そう、ホモって奴?
 朋奈さんが好きになった男は、ホモだったのか? 朋奈さんはそいつに、「女」だから振られたっていうのか?
 何だよ……それ。
 ありえないだろ。
 俺でも、そう思うのだ。雅美さんに同感だった。朋奈さんが、そいつを理解している余裕が分からない。
 だって、男を好きになって、女だからという理由で振られるなんて、思い設けないだろう。なのに──
「すごく、優しい男の子だったの」
 俺は当惑しながら朋奈さんを見上げる。
「私の気持ちなんて迷惑なのに、心の整理がつくまで友達でいてくれた。話してくれたし、咲ってくれた。修学旅行では、ふたりきりにもなってくれた。そのときに、きっぱり振られたんだけどね」
 くすりとする朋奈さんの気持ちが、俺にはぜんぜんつかめない。
「私じゃその人を幸せにできないんだなあって、そう思ったら、やっとそばにいちゃいけないって思えたの。その人にね、幸せになってほしいんだ。私のエゴで一緒にいて、我慢はしてほしくない。私は塩沢くんが好きだから、塩沢くんが幸せになるところを見たいと思うの」
 俺はゆっくりまばたきをして、首を垂らした。
 何だろう。みぞおちを、ぐっさりと酸欠がえぐってくる。朋奈さんがその男とつきあいはじめたと嬉しそうに報告してきたら、それはそれでとんでもなくショックだったけど、覚悟はしていた。
 こんなのは違う。想定外だ。朋奈さんが深く深く、見返りを求めないほど、そいつをする愛するなんて想定外だ──
 塩沢。どんな野郎か知らないけど。俺はお前を許さない。朋奈さんを泣かせたから。絶対に、許すものか。
 やわらいだ風に桜が綻ぶ春になり、俺は小学五年生、朋奈さんは受験生である中学三年生に進級した。高学年になり、さすがに千代子にくっついて春海ちゃんの家を訪ねるのが恥ずかしくなってきた。というか、千代子と春海ちゃんのクラスが別れたので、そもそもふたりがそこまでつるむことがなくなった。
 朋奈さんに会えない、と落ちこんでいた頃のこと、突然、もう話すことはないと思っていた春海ちゃんに廊下で声をかけられて、紙切れを渡された。
「朋奈ちゃんが、玲人くんに渡しといてだって」
 キャラクターのイラストが入ったメモ用紙で、『ケータイ持ったから、連絡先伝えておくね。』とあって俺はまばたきをしてしまった。電番とメアドが書かれていて、ほんとにいいのか、と思わず狼狽えたものの、朋奈さんから俺にコンタクトを取ってくれたことが素直に感動で嬉しかった。
 その夜、俺はまだケータイなんて持っていないので、高鳴る心臓にじっくり深呼吸してから、廊下の家電で朋奈さんに電話をかけてみた。
『ごめんね、私の連絡先なんて興味なかったと思うけど』
 朋奈さんの穏やかな声が耳元を直接くすぐり、ああ好きだなあ、なんて改めて感じる。
「う、ううん。ありがとう」
『話せるのが、玲人くんになっちゃったから。よかったら、話とかできたらなって』
「……好きな人のこと? あ、クラス大丈夫? 離れた?」
『離れたよ。雅美とも違うクラスになっちゃった』
「あ、雅美さん──」
『仲直りはしたから大丈夫。心配かけてごめんね』
「ううん……」
『玲人くんは、私と話なんてしてくれるかな。迷惑だったら──』
「話すよっ。俺、ケータイ、まだ持ってなくてごめん。朋奈さんは買ってもらったんだね」
『塾に行きはじめたから、帰りが遅くなるの。だから、親が心配して持たせてくれた』
「夜歩くの? ひとり?」
『帰りは親が車で迎えにきてくれる』
「そっか。よかった」
『塾がない日、また会って話せたらいいよね。玲人くんがよければ』
「うん。話したい。話そうよ」
『ありがと。またいつでも電話かけてきて。私から玲人くんの家電にかけるのは、遠慮しちゃうから』
「かけてきていいよ」
『えー、千代子ちゃんとか、ご両親が出たら、何て言ったらいいのか分からないよ』
『そ、そっか。分かった。俺からかける』
 朋奈さんは『うん』と言って、俺はその声を鼓膜に刻み、息を吐きながら電話を切った。
 つながれた。朋奈さんと、やっと春海ちゃんの家に行かなくてもいいつながりができた。
 つい笑みを浮かべてしみじみしていると、「玲人が何か気持ち悪い……」と通りかかった千代子が眉をひそめていった。
 朋奈さんとときどき会って話すようになった。どこかの店に入り、何かをおいしく飲みながらとか、そんな金のゆとりはなかったので、質素に公園で会った。
 朋奈さんは塩沢についていろんな話をした。塩沢が偏見でずっとイジメを受けてきたこと。教師や同級生のひどい裏切りもあったこと。それでも負けずに登校を続けて、三年生になった今、ようやく理解してくれる友人を持ちはじめていること。
 もし自分がゲイだったら? そんな想像をしてみたら、とてもじゃないけど俺なら塩沢みたいに立ち向かうことはできない気がした。そして、だから朋奈さんは強いそいつに惹かれたんだなと悔しいけど納得した。現在の塩沢を取り囲む友人たちに対して、「いいなあ」と朋奈さんはつぶやく。
「塩沢くんと仲良くなって、そばにいられてるんだもん」
「……塩沢って奴のこと、まだ好き?」
「うーん、どうなのかな。塩沢くんのそばにいられるのはうらやましい。私は頼りになる存在になってあげられなかったから」
 すでに真夏日を記録する初夏、夕焼けが景色をしっとりと茜色に染めている。朋奈さんが無理をして咲っているのが分かった。
 朋奈さんの塩沢を尊重した想いは本物だろう。でもやっぱり、そいつが好きな気持ちまで切り捨てるのはむずかしいのだ。できることなら、器用に友人になってそばにいたいぐらいには、まだ想っている。
 夏休みが明けたくらいの時期、塩沢に特別親しくしている後輩が現れた。男の後輩だ。いつもの公園でそれを俺に話した朋奈さんは、相変わらず泣きそうな笑顔で、「ちゃんと男の子と恋をしてくれてよかった」と言った。
 言ってから、一瞬、傷を隠すように睫毛を伏せた。俺は朋奈さんをじっと見つめて、何か言いたいのに、どんな言葉なら朋奈さんのあの優しい笑顔を取り戻せる力があるのか分からなかった。
 秋が深まる頃から、朋奈さんは受験でいそがしくなり、俺との時間をあまり取れなくなった。受験がどれだけ大変なのか、小学生の俺にはピンと来なくても、邪魔したくない気持ちで何となくこちらも連絡をひかえた。そのまま季節は巡って冬が降り立ち、吐く息は白い色を持ってこぼれるくらいになった。
 三学期になると、俺は五年生だったので、六年生を見送る卒業式の練習に明け暮れることになった。歌を歌ったり、体育館を造花で飾ったり、前日には無数の椅子を並べたり。
 朋奈さんも中学を卒業する。そして高校生になるのだ。対する俺は、まだ一年間も小学校生活が残っている。
 マジで遠すぎだろ、と夜にふとんにうつぶせて落ちこんでいると、「玲人、電話きてる」と高学年になって部屋が別になった千代子がドアを蹴って声をかけてきた。俺は眉を寄せて起き上がると、電話、とのろのろ反芻し、もしかしてとはっとしたので、慌てて部屋を出て一階に駆けおりた。
『あ、玲人くん。何か久しぶり』
 朋奈さんだった。「久しぶり」と返しつつ、どう続けるかに迷ってしまうと、『いそがしかった?』と朋奈さんのこちらを窺う声が鼓膜に伝わる。その感じにやっぱりどきどきする。
「い、いや。ぜんぜん。朋奈さんは、いそがしいよね」
『高校は今月の初めに受かったし、明日も卒業式だから、そんなことないよ』
「あ、俺の学校も明日卒業式」
『あれ、玲人くんも卒業だっけ?』
「いや、五年だから見送り」
『なるほど。じゃあ、明日は式のあと片づけとかさせられるのかな』
「させられるけど、そんなに大変ではないよ」
『そう。明日ね、私、卒業式のあとに雅美とか友達とごはん食べるの。春海ちゃんと千代子ちゃんも来るみたいだから、玲人くんもどうかなって思って』
「………、女ばっかりなの?」
『彼氏連れてくる友達もいると思うよ』
「そ、そうなんだ。……じゃあ、うん──行こうかな」
『うん。ごめんね、受験でばたばたしてて、ずっと会えてなくて』
「朋奈さんが元気にしてたならいい」
『あはは、そっか。元気元気。高校では彼氏作るぞってくらい元気』
 思わずどきりとして、それはちょっとやだ、と思っても口にするのはこらえる。
 けれど、朋奈さんの口ぶりは確かに明るくて、受験に追われるうちにだいぶ塩沢のことを吹っ切れたのが察せた。それには一応ほっとする。彼氏を作るぞということは、少なくとも今は、朋奈さんはフリーということでもある。
 そんなわけで翌日、長ったらしい式で卒業生を見送って体育館を片づけたあと、親にもらっておいたお小遣いを握りしめ、俺は千代子たちと駅前のファミレスに向かった。近場の小学校や中学校の卒業生、その保護者までも押し寄せ、かなり騒々しく混みあっていた。その中から「春海ーっ」と声がして、「おねえちゃん」と春海ちゃんが雅美さんを見つける。
 隣り合った四人がけの席を、パーテーションをはずして八人がけにして、十人くらいで溜まっていた。男も女も、もちろん朋奈さんもいて、隣がいいなと思っても言えずにもじもじしていると、「朋奈ちゃん」と千代子が朋奈さんに声をかけ、「こいつよろしく」と俺の腰を蹴る。
「何すんだよっ」と俺が千代子を振り返ると、「あれー、朋奈ちゃんの隣がいいってテレパシーが聞こえたなあ」とか言いやがるから、席にいた卒業生はみんなどっと笑った。朋奈さんも笑っていたけど、「どうぞ、玲人くん」と俺が座るスペースを隣に空けてくれる。俺はおずおずとそこに腰をおろし、「卒業おめでとう」と朋奈さんに述べると、「ありがとう」と朋奈さんはにっこり微笑んでくれた。
 みんなあれこれ料理を注文して、卒業生は想い出話から進学後の話まで、にぎやかに盛り上がっていた。千代子と春海ちゃんはそれに溶けこんで、中学はどんな感じだとか受験はどれだけ大変なのかとか訊いているけど、俺はすぐ隣の朋奈さんに緊張して黙々とパスタを食べていた。
「玲人くん」とふと朋奈さんが耳打ちしてきたときには、心臓と一緒に軆まで飛び上がりそうになった。
「え、な、何?」
「ここに呼んだの、迷惑だったかな」
「はっ? いやっ、ぜんぜん」
「じゃあ、おしゃべりに混ざっていいんだよ」
「あ、まあ……聞いてるだけでも、おもしろいし」
「そう?」
「うん。それに──」
 俺は朋奈さんを見上げた。
「朋奈さんに、会いたかったから」
「えっ」
「高校になったら、……また、会えなくなるよね」
「そんなことないよ。またお話してくれるなら会おう。玲人くんのほうが、嫌じゃない?」
「俺は──」
「もう好きな子とかいる頃でしょ。勘違いされるよ?」
 俺は眉を寄せて朋奈さんを見つめた。俺の瞳を映し返す朋奈さんの瞳は澄んでいる。塩沢をいまだに想っている傷痕も、ない。
「……朋奈さん」
「うん」
「俺は……また、朋奈さんとふたりで話したい」
「ほんと? じゃあ──」
「それで、俺がもうちょっと大人になったら、一緒に出かけたりもしたい」
「えっ」
「朋奈さんには、俺はガキで、弟みたいなもので、対象じゃないと思うけど……」
 どくん、どくん、と鼓動が大きく脈打っている。周りの狂乱じみた騒ぎも忘れ、俺は朋奈さんだけを静かに見据える。
「俺は、朋奈さんのこと、真剣に好きです」
 朋奈さんは目を開き、何度かしばたく。俺は息をつめて朋奈さんの瞳を捕らえている。やがて朋奈さんは、さほどとまどった様子もなく、小さく咲ってみせた。
「玲人くんは、もうしっかり、男の子だね」
 その落ち着きに、もしかして気持ちばれてたのかなと俺もまじろいで、頬を染めてついうつむいてしまった。膝の上で手を握ると、その手に朋奈さんは手を重ねる。
 テーブルの陰でこっそり手をつないでくれる。体温が伝わる。俺は朋奈さんをちろりを上目で見た。朋奈さんは何も言わなかったけど、出逢ったときのままの柔らかな笑顔を返してくれた。
 俺はまだ背も低い。声変わりもしていない。小学校生活が一年も残っている。本当にガキだ。この人からしたら、どうしようもない弟分だろう。
 でも、俺は思うのだ。朋奈さんがあいつに思ったように、俺もこう思うのだ。
 朋奈さんに幸せになってほしい。
 いや、俺が朋奈さんを幸せにしたい。
 だからかっこいい大人の男になって、必ず朋奈さんを振り向かせるのだ。
 年の差なんか知ったことか、俺はどんな男より朋奈さんが大好きなんだから。
 ──あの日誓った想いをよみがえらせ、俺はふうっと深呼吸してみた。
 朋奈さんの匂いがする、ベッドが占拠するそんなに広くない部屋。本棚に収まりきらない漫画が散らかって、消されたテレビの前にはDVDの山。ローテーブルにはノートPCのほかに、空っぽのマグカップやらお菓子やら。さすがにフローリングに服が散乱していることはなく、すごく綺麗な部屋ではなくても、生活感があるという程度だった。
 俺は丁重に息を吐き、朋奈さんそろそろシャワーから戻るよなと頭を抱える。どんな反応をすればいいのだろう。というか、どんな反応をすると思われているだろう。男として見てほしくて、ついにここに来たとはいえ、まさかいきなりこのベッドに押し倒すとかは──そのときふわっといい香りがただよってきて、俺ははっと顔をあげた。
「玲人くん、ごめんね。髪にも服にも、煙草とかいろいろ臭いついちゃってて」
 そう言いながら現れた朋奈さんは、淡いピンクとオフホワイトのルームウェアすがたで、タオル一枚で現れるんじゃないだろうなという俺の謎の予想は裏切ってくれた。
「いや、ええと──女の人はそういうの気にするだろうし」
「うん、ありがと。あ、持ってきてくれたのこれ?」
 朋奈さんは俺のかたわらの紙ぶくろに歩み寄り、中を覗きこむ。
「完結してないから、十八巻までだけど」
「え、そこまで持ってきてくれたの。重かったね」
「平気だよ」
「最初の五巻くらいでいいって言えばよかった。持ってきてくれたなら読むね。買うお金も場所ないから感謝」
「始まるアニメも観るの?」
「もちろん。でも、すでに話題として必要だから」
「俺も観ようかな、アニメ」
「うんっ。声優さんは豪華だからおすすめだよっ」
 目をきらきらさせた朋奈さんに、俺はちょっと毒気を抜かれ、「朋奈さん、ほんと発言がヲタになったというか……」とつぶやく。
「うっ。だって、仕事でどうしても」
「好きなジャンルは読んでるの? TLだっけ」
「こないだ碧斗あおとみどりさんの新作配信されたから読んだ!」
「読んでるんだ。その作者知らないけど」
「碧斗さんは絵がすごく綺麗だよ。ストーリーはさくっとまとめちゃうとこあるから、一度、キャラを掘り下げた長編を書いてほしいの」
「ふうん。碧斗翠。読んでみようかな。その新作のタイトルは?」
「はっ? あ、いや、男の子……が、読むかな?」
「どうせエロい奴だって知ってるから」
「エロ……かも、しれないけど。それに至るストーリーは碧斗さんはちゃんとあるから。さくっとしてるんだけど」
「じゃあいいじゃん。タイトル」
 俺がスマホを取り出して検索画面を呼ぶと、朋奈さんは何だか子供みたいにふくれっ面をしたあと、ぼそぼそと言った。
「……『義理の弟は子羊じゃありませんでした』、です」
「は?」
「………」
「……あ、えと、『義理の弟──」
「年下の男の子とどうこうの話ですよっ、ああ、もう、恥ずかしいなあ」
「い、いや──TLってそういうの多そうだよね」
「多い。そう、多いの」
「うん……まあ、家帰ってから読むわ」
「……うん」
 朋奈さんは息をついて、十八冊が入った紙ぶくろをあいだに置いて、俺の隣に座った。
 風呂上がりのいい匂いがふわふわとただよってくる。今はミディアムになった髪はしっとりしていて、覗ける素肌も桃色のほてりを名残らせながらつやつやしている。
「今日──」
 ふと朋奈さんが切り出し、「ん?」と俺はスマホを座卓に置きながら首をかしげる。
「今日、どうするの?」
「え」
「遊びにおいでって言ったけど、よく考えたら、この部屋って漫画とアニメしかない」
 俺は朋奈さんの横顔を見つめる。すっぴんだなあ、と気づいて、それでも綺麗だなと思う。
 今夜、どうするか。俺は改まって息を吐くと、とりあえず邪魔な紙ぶくろを俺たちのあいだから取りはらった。朋奈さんが俺に顔を向ける。
「朋奈さん」
「う、うん」
「朋奈さんには、俺はまだ『子羊』の『弟』?」
「え……えっ?」
「俺の気持ちは、ずっと変わってないよ」
「玲人く──」
「朋奈さんが中学卒業したときから、あのとき伝えた気持ちは変わってない」
 朋奈さんの俺を見つめる瞳が揺らぐ。そして、それを悟られないようにするためか、うつむいてしまう。
「朋奈さんといると、いくつになってもすげえどきどきする」
 けれど、俺のそんな言葉に、朋奈さんははたとしたように顔をあげる。俺とじっと見つめあい、何だか泣きそうにゆらりと瞳がうつろう。
「私……ね」
「うん」
「この仕事やってて、いろいろ漫画読んだりしてて」
「うん」
「でも、相変わらずBLは……苦しいときがあって」
「……うん」
「そういうとき、TL読んで、どきどきして、癒されてるの。……言われたの、あの頃。私にはどきどきしないから無理だって」
「………」
「玲人くんは、私にどきどきするの?」
「す、するよっ。今も、心臓吐きそうだよ」
「聴いてもいい?」
「えっ」
「玲人くんの心臓の音を聴きたい」
 俺の心臓の音。何秒かどう動けばいいのかかたまってしまったものの、こういう意味だよな、とこわごわ朋奈さんの肩を引き寄せ、腕の中に包みこんでみた。
 とん、と朋奈さんは俺の胸に耳を当てる。脈がいっそう早くなり、もう痛いぐらいになる。朋奈さんはそんな俺の脈拍に耳を澄まし、目を閉じて、それから俺の手を取って自分の胸にあてさせた。
 伝わったふくらみにどきっとした以上に、そこには朋奈さんの鼓動がどくどくと宿っていて、俺は息を震わせる。
「朋奈さん……」
「いつからかな。私も、玲人くんといるとどきどきする」
「……あ、」
「今回は、私の一方通行じゃないよね」
「も、もちろんだよっ。てか、俺のほうが朋奈さんといてどきどきしてきたの長いんだし」
「ふふ、そっか。じゃあ、もっと聴かせて。ひと晩じゅう、私に玲人くんの心臓の音をちょうだい」
 朋奈さんを覗きこむ。そしてひたいをこつんと合わせてから、柔らかく口づけをした。自然とそのまま床に押し倒す。ふたりの心音が絡まり、駆け足で溶け合う。
 ああ、やっと朋奈さんと結ばれるんだ。
 ずっとずっと憧れてきた人と、想いを重ねるんだ。
 俺はもう子供じゃない。この人をしっかり包みこんで、受け止めて、いっぱい愛することができる。息がかかるほど近くで見つめあって、鼓動をひとつに蕩かして。背伸びに思えてどうしても言えなかった言葉が、唇からこぼれおちる。
「……朋奈さんを愛してるよ」
 朋奈さんは柔らかく微笑んでくれる。俺の手をきゅっと握ったまま。「私も」という甘い声が耳元をくすぐり、俺は朋奈さんの服に手をかける。
 この人のことは俺が幸せにする。
 だから、今頃どうしてるか分かんねえけど、朋奈さんを振ったぶんだけお前も幸せになれよ。
 そんなことを思って、俺は温かくて柔らかくて、まろやかに白い軆をきつく抱きしめる。十年ぶんの高鳴る心臓の音を、この夜、すべてこの人に伝えるんだ。好きで、好きで、どうしようもなくあなたが好きなこの心の音。
 聴いてくれるよな。
 だって、あなたの抑えきれない心の音も、こうしてはっきりと、俺の胸を確かめるようにたたいているんだから。

 FIN

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