Lost My Mind

 特に好きでもない仕事、自分を偽るための恋人、いつも俺の心はぼんやりして動かない。
 自分を見失うほど、夢中になるってどんな感じなのだろう。いつもやる気がないし、何事もかったるい俺にも、そんな対象が見つかることがあるのだろうか。
 日曜日は、たいてい彼女の仁奈になとデートする。きっちりデートプランを組んで会わないと、彼女は機嫌が悪くなる。だからこの日も、ドライブ、水族館、海辺の散歩、潮が香るレストランで締める予定だった。「明日仕事だしなあ」とか言って泊まらないのは、なるべくセックスしたくないからだ。
 青い照明の水族館ではしゃぐ仁奈の隣で、つまんねえ、と相変わらず俺はぼおっと思っていて、相槌のときだけ、どうにか笑顔を作る。
 この女と結婚とかになったら、どうすればいいのだろう。自分を偽装しつづけるなら、結婚も考えなくてはならない。せめてもっと楽な女はいないかなあ、と思っても、仁奈は騙されてくれているだけマシな女なのかもしれない。
「次はどこ行くの?」
 水族館を出たのは十六時過ぎで、さいわいなことに雨模様の気配はなかった。「海行って、夕陽でも観るか」と俺は水族館に面した海をしめす。「もう夕陽の時間かな」と仁奈は首をかしげ、「散歩でもしてたら日も暮れてくるよ」と俺は歩き出す。
「あ、待ってよっ」と仁奈はするりと俺の腕に腕を絡める。このあいだ十月に入って、だいぶ涼しくなったけど、それでも自分の腕に女がぶら下がっているのはいい気がしない。
 海辺に出ようとしたら、何やら小さな人だかりができていた。「何だろ」と仁奈は俺を引っ張り、俺はあんまり興味はなかったものの、一応ついていく。「きれー」とか「かわいー」という声がざわめいていて、「あ、里珠くんだ」と背伸びして砂浜を覗いた仁奈も声を上げた。
「りず……?」
「モデルの里珠くんだよ。撮影してるみたい」
 俺は砂浜を見やって、確かにシャッターを切る音をさざなみの合間に聞き取る。そして、そのシャッター音に合わせてポーズを取る、すらりとした男も認めた。
 整った顔立ちにはどこか愛らしさもあって、肢体も綺麗に伸びて背も高い。すげーイケメンだ、と俺は思わず目をみはってしまう。
 羽織ったマキシのシャツが風になびき、無造作に髪に触れ、笑顔になったり真顔になったり、シャッターのたびにさまざまな表情や仕草を見せる。
 あんまり俺が「里珠くん」に見入っているので、「美早みはや」と仁奈が俺の腕を引っ張った。はたとして仁奈を見た俺は、化粧が濃い彼女の顔に一気に萎える。
「夕陽はなしだね。撮影の邪魔はできないし」
「あ、……そっか。撮影、見ていかなくていい?」
「んー、別に。次行こうよ」
 次の予定はレストランだったが、早すぎると仁奈はお気に召さないだろう。軽くドライブをはさんで、何なら夕食は帰り道に切り替えるか。素早く計画を立て直した俺は、「車に戻ろうか」と歩き出した。
 仁奈が何か言っているのに適当にうなずきつつ、俺はちらりと砂浜を振り返った。人だかりで里珠くんのすがたは見えなかったけれど、かわいかったな、と思った。
 二十一時になる前に、実家住まいの仁奈を送り届ける。「上がっていかない?」と言われたものの、「車置くところないから」とか言って俺はひとり暮らしの部屋に帰る。
 アパートの月極駐車場に車を停め、郵便受けに投げこまれたチラシをゴミ箱にやって階段をのぼる。205号室、暗い部屋に明かりをつけ、「疲れた」と声に出しながら荷物をフローリングに投げる。テレビ、PC、デスク、クローゼット、それから、一部の本やDVDをイミテーションするための本棚。無地のカーキのカーテンを閉めると、運転で硬くなった軆に背伸びする。
 明日からまた金曜日まで仕事だ。そして、金曜の夜は取引先の接待だか何だかで飲み会。土曜日は二日酔いの頭痛で死亡。日曜日は仁奈とデート。
 休みがねえわ、とうんざりした息をついて、とりあえずオナニーしよ、と本棚の前に立つ。
 スマホやPCから動画を観るのが主でも、優良作品はDVDも抑える。昔は違法の無料動画も観ていたが、しつこいフィッシングページがうざったくなった。どうせ成人している二十三歳なのだから、もうAVはきちんと金をはらって観ている。詐欺まがいのモザイクがある作品もあるけれど、処理が丁寧な作品はDVDも買ってしまう。
 映画やドラマのDVDからしれっと並べる、ジャケットを裏返すケースがコレクションだ。
 今日見かけたモデルの里珠くんを思い出し、かわいかったなー、と何となくかわいい感じの男優で抜きたくなる。確かあったよな、とケースを開いて中身を確認していいものを見つけると、ヘッドホンとティッシュを用意して、テレビにつながったDVDプレイヤーの電源を入れる。
 そんなわけで、俺はクローズのゲイだった。セクシュアリティを自覚したのは、中学生のときだ。
 その頃仲がよかった友達が、親父のAVを見つけたから観てみようぜと誘ってきて、俺はそいつとふたりでそれを観た。俺は女優の乳房とか喘ぎ声とかより、男優のうめき声や勃起に注意がいった。隣を見ると、友達の股間がテントになっていて、「すげー勃ってんじゃん」とか冗談めかしてそこに触ってみた。
 やめろとか言われるかと思ったら、友達は妙に艶っぽい声をもらした。さらにその声に恥じ入って頬を染めたりして、かわいいなと思ってしまった。Sっぽい気持ちになった俺は、そいつの硬くて熱い性器をスラックス越しにしごいた。
 あのときの友達の潤んだ瞳が忘れられない。女優の脚のあいだが大写しになる画面より、友達の生々しい男根に俺は興奮していた。やがて友達は射精して、びくんと痙攣した感触に俺もいってしまった。
 当然ながら、翌日からそいつには無視されるようになって、俺も悪いことしたなあと思う気持ちで、何となくカムする気が起きなくて現在に至る。
 そのとき以来、男の軆に触れる機会はなかった。女とは何回か寝た。でも、乳房をこねても肉だなあとしか思わなかったし、どうぞと脚を開かれてもそっと閉じたくなる。というか、女の性器のグロさは何なのだ。ストレートの男はあれに興奮するのか? まったく分からない。どう考えても、まっすぐ勃起したもののほうがエロい。
 本当は男とつきあいたい。どきどきするようなセックスもしてみたい。
 なのに、恋人はいるのかとか訊かれるたび、いないと答えたあとが面倒なので、合コンで知り合った女子大生の仁奈とつきあっている。仁奈とそういう雰囲気になると、「学生のうちはお前を大事にしたい」なんてそれっぽいことを言っているが、俺は単に女性器を見たくないだけなのだ。
 溜まった精子を抜くと、ぼんやりしていた頭が少しだけすっきりした。シャワーを浴び、スマホやPCに来ていた仕事関連のメールをチェックする。仁奈からもメッセが来ているが、あとまわしでいいか。
 やがてまた次第に脳内が霞みがかってきて、時刻を確かめると零時をまわっていた。あくびをした俺は、PCを閉じてやっと仁奈のメッセに目を通す。
『今日はありがと!
 楽しかったよー。
 もっとたくさん美早といられたらいいのに。
 早く来週にならないかな。
 デートが週に一回とか寂しいよ。』
 俺は静かにその文章を読み、悪い子じゃないんだろうな、と思った。確かに俺に何でも任せておきつつ、気に入らないプランだとふくれっ面になるけれど、女ってそういうものなのだろうし。
 深入りされる前に別れなきゃなあと思いつつ、俺は『またどこ行くか考えとくな。』と適当に返して、おやすみのスタンプも押すとスマホを充電につないだ。
 平日の朝は早い。通勤に一時間以上かかる。遅刻しそうなときは車を使うが、駐車場とは契約していないので基本的に電車通勤だ。朝の身支度を整えながら、軆は例のぼんやりした重さでかったるい。スーツになって、見た目だけでもしゃきっとすると、俺はばたばたと部屋を出て、早足の十五分で駅に着き、満員電車に乗りこむ。
 そばのOLの化粧品の臭いに噎せそうになりつつ、三十分揺られる。一度乗り換えて、また三十分。最寄り駅から会社までは二十分くらいで、腕時計で時刻を確認しながら急ぐ。
 俺が勤めるのはアパレルメーカーの本社の営業課だ。入社一年目なのに営業に配属されたときはめまいがした。まだどんな仕事にも先輩がついてくれているけど、できれば早めに地味な部署に飛ばされたい。今日も出勤早々、俺の教育係の水沢みずさわさんに「外回り行くぞ」と引っ張り出された。
 気候がだいぶ涼しくなったのが、切実にありがたい。真夏の外回りは地獄だった。猛暑に汗だくなって喉が渇き、意識も朦朧として、命をかけた労働に思えた。俺が息切れしているのに、水沢さんは慣れた顔で大股で歩いていくから、余計につらかった。「暑くないんですか」と訊くと、水沢さんは「暑いな」と答えるのだけど、その顔は絶対暑いとかあんまり思っていない。
 水沢さんは女子社員に人気のイケメンだが、涼しげな目元や無口な薄い唇のクールタイプなので、俺の好みではない。せめてかわいい先輩だったら頑張れるのに、とか思っていたが、まあそんな逆怨みしたくなる季節は終わったのだ。
 ねっとりしていた風も軽くなった秋晴れの下、取引先や近隣店舗をまわり、あっという間に午前から昼になる。昼飯は、たまに本社に帰還して社食にすることもあるが、だいたいは近くに見つけた飯屋で済ます。
 その日もそうなるかと思ったら、何やらスマホをチェックした水沢さんが眉を顰めて息をついた。どこからかクレームが来たのかと思ったら、「悪いんだけど」と水沢さんは俺より若干高い目線から見下ろしてくる。
「友達が一緒に昼飯食いたいとか言ってて」
「友達、ですか」
「そこの駅まで来るらしいから、昼飯そのあたりの店でいいか」
「はあ……。あ、邪魔だったら俺だけ別の店でも」
「お前も来い」
 せっかく友達と会うのに、なぜ巻きこまれるのを命令されるのか分からなかったが、どのみち俺は水沢さんに逆らえない。「分かりました」と応じると、「ったく、あいつ」とか水沢さんは舌打ちしながら駅の方向へと歩き出した。
 これが仕事相手にはにこやかに微笑んだりするのだから、水沢さんのスイッチはすごい。
 スマホでやりとりして、水沢さんの友達と落ち合うのは駅ナカのファミレスになったようだ。ランチの時間帯なので混んでいて、十五分くらい並んで待たされた。
 あとでもうひとり来るということで四人がけの席を獲得し、俺はメニューをめくって若鳥のチキンステーキに決める。スマホを置いた水沢さんは悩むことなく今日の日替わりランチに決めて、ふたりともライスとドリンクバーをつけた。
 ドリンクバーを取ってきたあと、「友達ってどんな人ですか」と訊いてみると、「中学のときの部活の後輩」と返ってくる。
「部活やってたんですか」
「どっか入部するのが強制だったんで」
「何部でした?」
「バスケ」
「あー……」
「何だよ、『あー』って」
「いや、モテただろうなあって」
「あいつほどじゃねえよ」
「あいつ」
「今から来る友達」
「友達さんもイケメンなんですか」
「まあ、あいつ仕事が──」
 水沢さんがそこまで言いかけたときだった。「あ、拓いたーっ」という声がして、水沢さんが振り返る。
 タク。そういや、水沢さんの下の名前は『拓寿』だったっけ。
 そんなことを思い出していると、キャップを目深にかぶってサングラスをかけた男が、にぎやかなテーブルを縫ってこの席に近づいてくる。
「仕事中にごめんねー」
「ほんとだよ。お前、仕事は?」
「このあとスタジオ。ん、何かもうひとりいる」
「ああ、今、俺が面倒見てる部下」
「ふうん」
 その人は水沢さんの隣に腰を下ろすと、俺のことをサングラス越しにも分かる感じでじろじろしてきた。それから、「まあ、拓の好みじゃないね」とつぶやいてから、キャップとサングラスを外す。その素顔に俺は思わず「はっ?」と変な声が出た。
「えっ……え、モデルの里珠……くん?」
 俺の動揺した声に、「俺のこと知ってるみたい」と里珠くんは水沢さんを見た。「お前、うちのモデルだしな」と水沢さんは淡々とドリンクバーのアイスコーヒーを飲む。
「え、水沢さん、友達なんですか? いや、本物? えっ、後輩ってことは──」
「質問を整理しろ」
「………、友達って」
「ふふふ、俺は恋人でもいいんだけどねーっ」
 里珠くんがそう言って水沢さんの腕に飛びついたので、俺はますます混乱する。恋人? 水沢さんと里珠くんが恋人──
「いい加減あきらめろ。あと、くっつくな」
「愛じゃん」
「あのなあ……」
「はーい、はいはい。分かってますよー。ちぇっ」
 里珠くんは水沢さんの腕に絡めた腕をほどいて、「こいつ、頭固いでしょ」と俺に向かってくすくす咲う。俺は返す笑顔が引き攣ってしまう。
 やばい。俺、昨日この人──のイメージで抜いたばっかりなのだが。気まずい。
「あ、一応挨拶だよね。初めまして、奏出かなで里珠りずです。モデルやってます」
「……成田なりた美早みはやです。水沢さんに教育係やってもらってます」
「ミハヤくんねー。拓が教育係とか災難だねえ」
「えと、いや……まあ」
「否定されなかった」と里珠くんはけらけら笑って、水沢さんはむすっと俺を睨む。俺は炭酸オレンジを飲んで、水沢さんから目をそらす。
「というか、ええと……おふたりは恋人なんですか」
 そこがやはり気になるので確かめると、「ふざけんな」と水沢さんが素早く否定し、「拓はストレートだからね」と里珠くんも肩をすくめる。
「俺はゲイなんだ。あ、念のためオフレコね」
 まばたきをして里珠くんを見る。ゲイ。このイケメンがゲイ。俺の視線に里珠くんは首をかたむける。
「あ、ヒイちゃった? ごめんね」
「い、いえっ……そんなことは」
「無理しなくていいよ?」
「してないですっ。俺──も、なので」
「うん?」
「俺も、けっこう……そっち、というか」
 里珠くんは俺を見つめて、「わお」とつぶやくと、「拓はホモを引き寄せるね?」と水沢さんを見た。水沢さんは里珠くんを小突き、「お前、ゲイなのか」と俺に言ってくる。
「ま、まあ。実は」
「……マジかよ」
「俺、ゲイの友達欲しい。ねっ、美早くん、俺と友達になろうよ」
「え、と──俺は、ぜんぜんOKですけど」
「よし! 連絡先交換しよっ」
 里珠くんはスマホを取り出し、俺一般人だけどいいのかな、と思いつつ、俺もスマホをスラックスのポケットから取り出す。検索モードにしてスマホを振ると、「お、出た」と里珠くんは画面をタップして、俺のスマホに通知が来る。承認すると、「りず」という友達が新しく登録された。
 うわ、やばい。こんなイケメン、しかもゲイと連絡先交換したぞ。何だか感覚がふわふわして、つい笑みがもれてしまう。
「んんー、深夏からメッセ来てる」
 画面にすいすいと指を滑らせながら里珠くんが言うと、「お前とみなが仲良くなったのは意外だな」と水沢さんがつぶやく。
「言いたいこと言い合ったからねえ。拓にも連絡来る?」
「たまにな」
「会ったりは?」
「してない」
「もう友達なんでしょ? さくっと会いなよ。それとも、まだ引きずってんのー?」
 里珠くんが仏頂面の水沢さんの頬をぐりぐりとしていると、俺と水沢さんの料理が運ばれてきた。そのウェイトレスに、里珠くんはチキンサラダだけ注文する。
 俺はナイフとフォークを手に取り、鉄板で香ばしい音を立てる鶏肉を切り分けた。水沢さんの日替わりはデミグラスハンバーグとからあげで、「からあげひとつー」と里珠さんにねだられて、水沢さんはフォークに刺したからあげを食べさせている。何だかんだで、後輩はかわいいようだ。
 かくして三人で昼食を取り、「午後の営業まわるぞ」とふと腕時計を見た水沢さんが言った。「はい」と俺は空になった鉄板をテーブルの縁に移し、炭酸オレンジを飲み干す。
「もう行くの?」と里珠くんはゆっくりサラダを食べている。「訪ねる時間は約束してあるからな」と水沢さんはテーブルに千円札を置いて、俺も慌てて財布から千円を出した。「つまんないのー」と言いつつ里珠くんは千円札を回収し、「お前もスタジオ遅刻すんなよ」と水沢さんは里珠くんの頭をぽんとする。
「はいはい」と里珠くんはいったん席を立って水沢さんを通路へと通し、「美早くんもまたね」と俺にもにこっとしてくれた。俺は小さくぺこりとして、歩き出した水沢さんについていく。
 ちらっと振り返ると、里珠くんはちょっとだけ寂しそうにしていた。
「よかったんですか」
 人が往来する駅ナカを歩きながら、俺が思わずそう問うと、「何が」と水沢さんはじろりとしてくる。
「いや、里珠くん置いてきちゃって」
「仕事には連れていけないだろ」
「そうですけど」
「どうせ、すぐにあいつも撮影だろ。だから、サラダしか食ってなかったんだろうし」
「関係あるんですか」
「肉食ったぶん撮影前に腹が出たら仕事にならねえだろ」
 なるほど、とうなずいていると、「悪かったな」と水沢さんが思い設けない言葉をさしだしてくる。
「え、何がですか」
「連絡先とか、あいつと無理やり交換させちまって」
「いや、俺はいいんですけど、里珠くんはいいんですかね」
「あいつは、わりと誰とでも連絡先交換するから気にすんな」
「そう、ですか」
「懐いてきても、面倒だったらスルーしていいから。大してそれでこたえる奴じゃねえよ」
 俺はさっきの取り残されて寂しそうな里珠くんを思い出し、そうかなあ、と思ったけれど何も言わなかった。
 にしても、すごい偶然だ。昨日、海辺の撮影を見ていなかったら、けっこう俺の中で里珠くんはあやふやだった。かわいいな、と遠巻きに思った次の日に、連絡先を交換できることになるとは。
 もちろん、連絡先を交換しただけで、特にやりとりがないのも覚悟はしていた。俺から話しかけるのは、里珠くんの都合じゃなくて鬱陶しいかもしれないし。
 ところが、里珠くんは比較的気軽に俺にメッセを送ってくれた。おかげで俺はスマホ依存レベルに着信をチェックして、里珠くんから何か来ているとふわふわとした幸福感に包まれた。
 仁奈と会っているときも上の空で、早くスマホチェックしたいなあと考えてしまう。仁奈は浮わつく俺に不審そうな目をして、「ねえっ」という怒気で何度も俺を現実に引き戻した。俺ははたとしてちぐはぐな相槌を打ち、余計に仁奈のご機嫌を損ねたけれど、「ちょっとトイレ行ってくる」と仁奈が席を立つと、いそいそとスマホを見る始末だった。
『何かしょっちゅうメッセ送っちゃってごめんねー。
 ゲイの友達ってあんまりいないから。』
 仁奈を家に送ってから帰宅して、靴を脱ぎながらスマホを見ると、里珠くんからそんなメッセが来ていた。俺は部屋に上がって明かりをつけると、ベッドサイドに腰をおろして返信を打つ。
『俺もゲイの知り合いって里珠くんだけなんで分かります。
 カミングアウトもしてないし。』
 既読がつくまで、自分のメッセを何度も読み返して、不自然ではないか気にしてしまう。ふっと既読が表示されると、届いたことに安心しつつ、今度は返事までそわそわすることになる。カーテンを閉めたりテレビをつけたり、うろうろと挙動していると着信音が鳴る。
『カムしてないの?
 初めて会ったとき、さらっと打ち明けてくれたよね。
 そう言う俺も、セクマイの知り合いにしかカムしてないけどw』
 そうだよなあ、とそれは我ながら不思議だったりする。あのとき、なぜ俺は自分もそっちだなんて言えたのだろう。やっぱり、どこかで自分と同じである里珠くんに会えて、テンションが上がっていたのだろうか。
『セクマイの友達はいるんですね。
 俺、そういう人どこで知り合えるのか分からないです。』
『別にクラブとか行くわけじゃないよ?
 行ってたらたくさん知り合いいるだろうしね。
 パンセクの女子とバイセクの女装子とまあ仲はいい。』
『女の子の友達とか俺いない……。
 フェイクでつきあってる子ならいるんですけど。』
『わあ、悪い男だー。
 傷つけることはしちゃダメだよ?』
 ベッドに倒れこみ、そうだなあ、と思った。仁奈は何も悪くない、悪いのは俺なのだ。彼女は何も知らない。何も知らずに、俺を異性愛者として偽ってくれている。本来はもっと、女って面倒だなあとか思わず、感謝しなくてはいけないのだろう。
『ねえ、美早くん。』
『何ですか?』
『美早くんがよかったらなんだけど、今度また会ってゆっくり話してみない?』
 どきっとしたあまり、画面を見つめて咳きこんでしまった。
 また会う。ゆっくり話す。里珠くんと。えーと、それは──
『水沢さんも入れてですか?』
『いや、ふたりでだよね。
 って、やっぱ、拓もいたほうががいいよね……』
『そんなことないです。
 ふたりで大丈夫です。』
 食い気味で送信した俺に、『ほんと?』と里珠くんは返してくる。
『俺も里珠くんがいいならいろいろ話してみたいです。』
「やった!」のスタンプが挟まれたあと、里珠くんの返信が続く。
『じゃあ、いつごろ会える?
 美早くん、平日は仕事だよね。
 土日?』
『平日も夜は大丈夫です。
 むしろ土日はいろいろと疲れてるかも。』
『そんなもんなんだ。
 じゃあ、来週の水曜日の夜とか大丈夫?』
『空けときます。
 どこで会いますか?』
『待ち合わせは本社の最寄り駅でいいよ。
 そしたら、美早くんも仕事帰りで済むでしょ。
 ごはん食べながらがいいよね、どっか探しとく。』
 そのあともしばらくやりとりを続けて、来週の水曜日の十八時に落ち合うことになった。
 里珠くんとふたりで、飯を食いながらいろいろ話す。やばい、めちゃくちゃ嬉しい。あのかわいい人が、俺と過ごすために時間を割いてくれるなんて。
 ベッドをごろんごろんして、水曜日に残業入ったりしませんようにと祈る。もし残業と言われても、水沢さんに任せて帰りそうだけど。
 その日から十日ばかり、俺は浮かれて過ごし、水沢さんには怪訝そうな目をされて、日曜日のデートでは仁奈にまたもや不審そうな目をされた。
 いきなり「美早のスマホ見たいんだけど」とか言われて、「嫌だよ」と俺は素で返してしまい、仁奈はますます機嫌が悪くなった。夕食の前に「もう帰る」と仁奈はむすっと言い出し、俺はさすがに上の空状態を反省したものの、しょうがないじゃん、と思ってしまう。
 里珠くんとの食事は、仁奈とのデートとはわけが違うのだ。仁奈と会うのはすごく気が重くなるけど、里珠くんにまた会えるのは、俺の心を軽やかに舞い上げる。
 そうして、念願の水曜日がやってきた。朝から水沢さんに、「今日は残業あっても無理です」とか宣言していた。ここしばらくの俺の様子を見ていた水沢さんは、この日のために俺がうきうきしていたのを察したのか、「勝手にしろ」と言ってくれた。
 夜が楽しみすぎて、仕事では勝手に愛想がよくなっていたので、水沢さんに怒られることはなかった。「いつもそのくらいにこにこしてみせろ」とは言われたが。定時で帰社して十七時半前には会社を出ると、ちょうど十五分前くらいに待ち合わせ場所に到着した。
 夕暮れが早くなった。ほんのひととき、秋晴れが赤く焼けて、ビルのあいだに太陽が落ちていく。薄暗くなる景色にネオンが灯りはじめ、急速に夜が始まっていく。駅前の人の行き来も激しくなって、俺はスマホも見ながらあたりを見まわす。
 そろそろ夜になると寒いなあ、とも思っていると、「おっ、美早くーん!」と声がした気がして俺はきょろきょろした。すると、「こっちだよ」と左腕を引かれてはっとそっちを見る。そこには俺と身長の変わらない里珠くんがいて、にっこりと咲ってくれていた。
 やっぱかわいいなあ、と里珠くんがいつつくらい年上なのはすでに聞いていても、見蕩れそうになる。「ごめんね、ちょっと遅れて」と言われて十八時を五分ぐらい過ぎてたのに初めて気づいたが、「大丈夫です」と本当に気にならなかったのでそう答えた。
「へへ、優しい」と里珠くんは微笑んでから、「じゃあ、たまに行く店、十八時半に予約してるから行こっ」と俺の腕を引っ張った。服越しの里珠くんの筋肉に心が蕩けて、もうどこにでも連れていってくれという気分だった。
 里珠くんが連れていってくれたのは、和食のダイニングバーだった。レジ前を通るとき、クレカが使えることはそっと確認しておく。テーブルソファ席に案内されて、お冷やを置いてメニューを広げたスタッフの女の人は、頭を下げていったん下がる。
 あちこちに下がる、いろんな色の提燈の照明が綺麗だった。落ち着いた和楽器のBGMもかかっていて、客は騒がしくはないけどにぎわっている。スーツだけ脱いでおく俺に、「美早くん、お酒飲むほう?」と里珠くんはメニューをめくる。
「飲みすぎると、二日酔いがひどいタイプです」
「はは、そうなんだ。俺はあんまり飲めないんだよねえ。烏龍茶でも感じ悪くない?」
「ぜんぜん。飲みたいのでいいと思います」
「美早くんは何飲む?」
「まあ、ちょっとくらいなら大丈夫なんで。チューハイとか」
「んー、あるのはレモンとグレープフルーツと梅かな? あ、秋限定で林檎があるっぽい」
「林檎で」
「よしっ。じゃ、それでとりあえずそれで乾杯しよっ」
 ファミレスみたいなベルはないようで、しかし、里珠くんが慣れた様子でカウンターのスタッフに声をかけて、ドリンクを注文する。
 俺はメニューをめくり、ステーキやらフライやら天ぷらやらに目移りする。「ここね、牛タンステーキがすげーうまいよ」と里珠くんが言って、「牛タン」と俺は素直にそのページを探す。ファミレスの牛タンランチとは違い、厚切りでボリュームのある牛タンの写真があって、確かに「当店イチ押し」の文字もある。というか、どの料理もうまそうなので、「里珠くんがお勧めの奴で決めてくれますか」と頼むと、「分かったっ」と里珠くんは楽しそうにメニューを吟味しはじめた。
 やがてドリンクが運ばれてきて、里珠くんはあれこれと料理を注文する。注文をさらさらと書きつけたスタッフが、「かしこまりました」と一礼して去ると、「じゃあ乾杯っ」と里珠くんは烏龍茶のグラスを掲げて、俺もチューハイのグラスでそれに応える。
 グラスが涼しげな音でぶつかる。
「ふふ、こんなふうにゆっくり誰かとごはん食べるって、あんまりないから嬉しいなー」
「モデルの仲間とかいないんですか」
「口説かれる流れになるから疲れる」
「……里珠くん、モテますよね」
「女の子に口説かれてもなあ」
「男には口説かれないんですか」
「たまにあるねー。でも俺、ずっと好きな人がいたから、かわしてたんだよ」
「好きな人」
「そいつに失恋してから、まあ、寝た人もいるけど。んー、何か……違う感じ」
「里珠くんでも失恋するんですね。あ、いや、けっこう好かれやすいタイプかなって」
「あー、あいつストレートだったからね」
「……ああ」
 里珠くんは頬杖をついて、「ん?」と俺を見直す。
「つか、美早くんは、俺の好きな人知ってるじゃん」
「え、知らないですよ」
「拓だよ?」
「た……くって、えっ、水沢さん?」
「そお。中学のときから、十年以上片想いしてたんだよ」
「十年──え、水沢さんは知ってるんですか」
「うん。今年、夏に入る前に振られた」
「告白したんですか」
「まあ。拓、そのとき男とつきあってたし」
「え」
「見た目、完全に女の子だったけどね。男の娘っていうの? そりゃショックでさー。お前、男のケツでもいいなら俺でもいいじゃんみたいな」
 炭酸が弾ける林檎のチューハイを飲む。水沢さんにそんな過去があったとは。
「その男の娘、女の子ともつきあってたんだよね。一度そっちとは別れて、拓ひとりとつきあったんだけどさ。何だかんだで、女の子とより戻ったんだ」
「そこで里珠さんとつきあおうって感じには」
「ならなかったー。『男は無理』って完膚なきまでに振られたよ。てめえ、男とつきあってたじゃねえかよ」
「そうなりますよね」
「なるでしょ? ま、今ではその男の娘とも友達だけどね。当時はくっそムカついてたな」
「あ、女装子の友達って」
「そうそう、そいつ。で、彼女の女の子がパンセク女子だよ」
「いろいろあったんですね」
「そうだね。拓に振られたのは、ある意味進歩かなあ。新しい恋しなきゃなって思えるようになったし。あれがなかったら、俺はまだ拓にひっそりと片想いしてたよ」
 そういえば初めて会ったとき、里珠くんにくっつかれて、水沢さんは『あきらめろ』とか何とか言っていた気がする。それでも里珠くんが水沢さんにじゃれつくのは、もう友情なのだろうか。それとも、まだ心には永年の想いが名残っているのだろうか。
 そのうち、料理が運ばれてきた。鶏の釜飯、揚げ出し豆腐、生春巻き、カキフライ、例の牛タンステーキもあった。
「食べるぞー!」と里珠くんはまず釜飯をお椀に取り分け、それに牛タンをひと切れ乗せて口にふくむ。「やばい、うまいー」と幸せそうにもぐもぐする里珠くんに咲ってしまいつつ、俺はカキフライにタルタルソースをつけて食べてみた。さくさくの衣とカキのじゅわっと蕩ける食感が混ざって、めちゃくちゃおいしい。
 食べ物がうまいと飲み物も進むので、俺のチューハイはすぐになくなってしまった。今度は自分でドリンクのページを見てみると、ワインや焼酎も充実していて、カクテルもかなり揃っていた。「追加する?」と里珠くんが問うてきて、俺は「和食に合う酒って何ですかね」とつぶやき、「訊いてあげる」と里珠くんはスタッフを呼び寄せた。
 焼酎のグレープフルーツ割りやらカンパリのビール割りやら言われたけど、正直味が分からなかったので、飲んだことがあるジントニックにしておいた。するとまもなく、ライムやレモンでなく、柚子が添えられたジントニックがやってくる。
「美早くんはさ」
「はい」
「好きな人いないの?」
「……できたことないですね」
「マジで? それでよくセク自覚したね」
「何か……切っかけはありましたよ」
「どんなの? あ、女の子と無理だったとか?」
「いや、その……変態みたいな話ですよ?」
「ほう」
 俺はごくんとジントニックを飲んで喉を焼いてから、思い切って友達とAVを見たときのあの話をした。里珠くんはおもしろそうに聞いてくれて、「意外と美早くんSなんだー」とからから笑った。
「その友達はノンケだったのかな」
「だと思いますよ。俺のこと無視するようになったし」
「どうなんだろうなあ。そのまましごかせたんでしょ?」
「まあ、はい」
「もしかして、美早くんを意識しちゃったから、無視するようになったのかもね」
 あのときの友達の潤んだ瞳を思い出した。あの瞳は、確かにエロかったけど。結局どうだったのかは、もう分からない。
「それからは? 男と」
「何にもないです。たまに女とはつきあって──それは、セクを曲げたいとかじゃなくてフェイクです。彼女作らないと、周りがやっぱうるさくて」
「そっか。でも、それはできるだけやめなよね? つきあった女の子を幸せにするまでの覚悟があるならいいけどさ、責任は取らないんでしょ?」
「……う、はい」
「女の子にも気持ちあるんだからね。そこは大事にしてあげないと」
「そう、ですね。別れないとダメですよね」
「いきなり『別れよう』っつってもびっくりさせると思うけど」
「いや、里珠くんが意見が正しいと思うので。近いうちに、ちゃんと別れて──」
 別れて。それから、俺はもう二度と女とつきあわないことができるだろうか。いくら周りに勘繰られても、フェイクを立てずにいられるだろうか。
 まさか、カミングアウトするとは思えない。カムしたって俺にはパートナーがいるわけでもなく、寂しいだけだ。
「……寂しい、かあ」
「うん?」
「いや、俺はたぶん寂しいんだろうなあと思って」
「寂しい」
「せめて、パートナーがいれば、ちょっとくらいゲイってことに自信があったかもしれないのに」
 里珠くんは半透明の生春巻きを口に運び、それを咀嚼して飲みこんでから、「それは分かる」と言った。
「俺も、拓に振られたことで、『やっぱゲイって普通じゃないんだなあ』ってちょっと自信なくなった」
「水沢さんとつきあいたかったですか?」
「ずっと夢だったしね」
「………、俺……じゃ、」
「ん?」
「俺……とか、ダメですか」
「え」
「ぶっちゃけ、里珠くんってすげえ俺のタイプなんですよね」
「はっ?」と里珠くんが驚いて裏返った声を出す。
「えっ……あ、酔った?」
「酔ってないですよ」
「そ、そう。えー、と……」
「里珠くんのことなら、幸せにしたいって思える気がする」
「いやいや、待って。その、本気にしちゃうから」
「本気にしてください」
「ええー……っと、そりゃ、俺も美早くん話しやすくて好きだけど。いや、好きっていうか。好き……好きなのか? 何だろ、あはは」
 困ってごまかすように笑う里珠くんをじっと見つめる。その俺の真剣な瞳に、里珠くんも次第に引き攣った笑みを引っこませて、うつむいてしまう。
 里珠くんの飲みかけの烏龍茶の氷が、からんと溶ける。
 俺は息をついてジントニックを飲み干すと、「すみません」とやや冷静になってつぶやいた。
「変なこと言いました」
「美早くん──」
「友達ですもんね。こんなの言われても困りますよね」
「………、」
「でも、俺は……里珠くんとこうやって過ごしたり、メッセもらえたりするの、幸せですよ」
 里珠くんは俺を見た。その瞳が濡れているのは、やっぱり困っているからだろう。そう思うと俺まで瞳が濡れて、泣きそうになってしまう。
「……すみません。えと、今日はそろそろ──」
「ショック……だし」
「えっ」
「美早くん……に嫌われたら、ショックだもん」
 俺は里珠くんを見つめた。里珠くんは膝の上でぎゅっとこぶしを握っている。
「だから、ちゃんと、吹っ切れてからじゃないと……」
「………、水沢さん、ですか」
「ん……うん。まだ、俺、拓のこと好きだもん。失恋したの分かってるけど、どうしても好きだもん。ずっと好きだったんだもん」
「里珠くん……」
「拓のこと好きだって気持ちが、消えない……。まだ、顔見るとどきどきして、頑張って平気なふりしてふざけてるけど、ほんとは拓のことで頭の中いっぱいで、あふれそうなんだよ」
 里珠くんはぽたぽたと涙をこぼしはじめた。俺はそれを見つめ、どうしたらいいのか分からなくなってしまう。
 里珠くんは唇を噛みしめ、何とか涙を止めようと目をこする。でも水分はあふれて、きっと水沢さんを想っているぶんだけ、止まらなくて──
「俺、は……里珠くんを嫌いになったりしないんで」
 睫毛をびっしょり濡らしながら、里珠くんは俺に目を向ける。
「どんだけ待たされても、嫌いにはならないですよ」
「美早くん……」
「気が済むまで、水沢さんのこと好きでいていいです。いつかその気持ちが恋愛じゃなくなるまで、俺、里珠くんのこと好きなまま待ってますから」
「う……好きでいても、いいの?」
「いいですよ。そんなに好きなら、簡単に忘れられないですよ。里珠くんが水沢さんを好きになったのは、悪いことじゃない」
 里珠くんは大きく目を開き、それから嗚咽をもらして泣き出した。「ずっと」と里珠くんは声をひくつかせながら言う。
「俺は、ストレートの拓を好きになって、気持ち悪い奴なんだろうなって……」
「そんなことないです。水沢さんも、そんなふうには思ってないですよ」
「でも」
「大丈夫ですよ。俺は里珠くんの味方です。水沢さんをそこまで想ってる里珠くんも含めて、味方です」
「いつか、美早くんのこと……好きになって、そのとき、いまさらだったりしない? 俺、ほんとにいつまで拓を忘れられないか分からないよ?」
「いまさらなんてないです。ずっと里珠くんのそばにいたいから。どんなに遅くなっても俺は里珠くんのそばにいます。だから、いつか心が水沢さんのものじゃなくなったら、一番に俺に教えてください」
「う……ん、うん、分かった」
「約束しましたよ? 里珠くんの次の好きな人は、俺にしてくださいね」
 里珠くんは何度もうなずき、俺は里珠くんの手に手を重ねた。すると、里珠くんはぎゅっと俺の手を握る。
 つたわった手の熱が何だか嬉しくて、いつだってぼんやり停滞していたはずの俺の心は、跳ねて舞い上がる。そのままどこかに飛んでいって、見失ってしまいそうに。
 次の日曜日、仁奈に別れを告げるつもりだった。が、会ってすぐ助手席に乗りこんだ仁奈のほうが、「あんた、絶対浮気してるでしょ!」と強く詰め寄ってきた。
 俺がぽかんとすると、「最近、私に会っててもスマホばっか気にしてるし……違うなら、いますぐメッセの履歴全部見せて」とまで言ってくる。確かに里珠くんのことで浮わついていたが──いや、浮気と思わせておけば、何だか別れそうな勢いだ。
 俺は仁奈から目をそらし、嘘ではないので、「好きな人ができた」と消え入りそうに言った。すると仁奈はバッグで俺のことを思いっきり殴って、「最っ低!」と叫ぶと車を降りて、家の中に引き返してしまった。
 俺は茫然としたものの、一応、『別れてもらえますか?』となぜか敬語で仁奈にメッセを送った。既読のあと、『当たり前でしょ、死ね!』と送信されてきた。俺は里珠くんの言葉を思い出して、結局仁奈を傷つけてしまったんだなと思った。
 その後、『ごめん。今までありがとう。』には、けして既読がつかなかったから、きっとブロックされたのだろう。
 水沢さんには、里珠くんとの「約束」を話しておいた。「あとになって、やっぱり里珠くんが気になってきたとかやめてくださいよ」と俺がふくれっ面で釘を刺すと、「それはねえな」と水沢さんは飄々と煙草をふかした。ちなみに、ファミレスの喫煙席だ。
「しかし、あいつけっこうめんどくさいぞ」
「そうですか?」
「悪い奴じゃないけどな。だから親友だし」
「……親友」
「お前にあいつの面倒見れんのかよ」
 俺は水沢さんを見て、「大丈夫です」と胸を張って言い切る。
「俺、里珠くんにイカれちゃったんで」
 水沢さんは眇目で俺を眺めたあと、「それなら安心だな」と少しだけ咲った。仕事以外で水沢さんが咲うのは初めて見た。「やっぱり、水沢さんも里珠くん好きなんですね」と俺が言うと、「別に嫌いじゃねえよ」と水沢さんは肩をすくめる。
「ま、お前なら任せてもいいかもな。それは教育係やってて、よく知ってる」
 俺は水沢さんをちらりと見てから、思わず笑みになりながらうなずく。
 今日の昼食は牛タンランチだ。あの店のステーキと違い、相変わらず薄っぺらい。でも、とりあえず食べて仕事を頑張ろう。そして水沢さんにもっと認めてもらって、里珠くんをしっかりと引き受ける。
 里珠くんは俺の心を捕まえて、その胸のどこかに隠してしまった。俺は自分の心を里珠くんの中で見失った。それでいいんだ。いつか、代わりに俺は里珠くんの心を手に入れるのだから。
 昼食を手早く食べると、「午後の営業まわるぞ」と煙草をつぶした水沢さんが急かしてくる。「はいっ」と俺はランチをかっこむと、晩秋の匂いが立ちこめる外に出る。
『寒くなってきましたね。』と昨夜里珠くんにメッセを送ると、『今度は美早くんと鍋とか食いたい。』と返ってきたっけ。
 冬が楽しみすぎる、と俺はひとり笑みを噛むと、涼しい風とすれちがいながら、いつか追い越したい背中を追いかけた。

 FIN

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