ルクスの温もりは、私にとって光だった。
ペットショップのケージの中で、疲れたように横たわっていたなめらかなグレーの子猫。私がケージに近づくと、エメラルドグリーンの瞳がちらりと私を見た。その瞳と瞳が重なった瞬間、私はその場を動けなくなった。
いつも恋がうまくいかなかったのは、私の赤い糸がこの子につながっていたからだったんだとさえ思った。
子猫の頃は、ルクスはもちろん家の中で過ごしていた。でも、いつの頃からかルクスはガラス戸から外を見ているようになった。隣にしゃがんで「お散歩行きたいの?」と私が訊くと、ルクスは「にゃあ」と答えた。
ルクスはひとりで気ままなお散歩に行くようになった。その日のうちにはちゃんと帰ってくるから、そういう自由な時間もルクスには必要なのかなと──
なぜ、そんなのんきなこと思っていたのだろう。
ルクスはその秋の日も帰ってきた。その軆はとっくに温もりを失い、冷たくなっていた。
車にはねられたらしいルクスの遺体を、首輪に記した住所を頼りに連れてきてくれたのは、見ず知らずだけど近所に暮らしているという親子だった。
どうして、家猫として守ってあげなかったのだろう。出逢ったとき、ケージの中で疲れていたこの子は、家に閉じこめずに外も出歩くほうがのびのびできる時間を持てるかな、なんて。そんなこと、町の中の危険を思えば思いとどまったはずだ。
目を閉じて動かないルクスを膝に乗せたまま、首をくくったようにきつく喉が締まった。息苦しすぎて、しばらく涙さえ出なかった。グレーの毛並みに触れても、何の反応もない。あの柔らかく伝わる温もりもない。急に闇の中にひとりぼっちだと感じて、私は一気に泣き崩れた。
家族と暮らす家だけど、ここにはいつも誰もいない。両親はとっくに離婚して、おかあさんはまだ赤ん坊だった弟と出ていった。そのとき私は小学生で、自分の身の周りのことはある程度できたから、仕事漬けのおとうさんに引き取られた。
中学生になっても、高校生になっても、私はひとりだった。仲良くなりたいと思っても思うだけ。恋のようなものをしても絶対に片想い。大学には行かずに働いて家を出たかったけど、おとうさんに学費を押しつけられたから仕方なく進学した。大学を卒業したら、あんまり続かないバイトだけ転々として、就職はしなかった。おとうさんは無関心に生活費だけ渡してきた。
おかあさん、どうしてるんだろうな。弟はどんなふうに成長したのだろう。ときおり心をかすめても、音沙汰なんてずっとないから何も分からない。
ルクスの存在が、初めて私が感じる温もりだった。
ルクスの火葬は、ちゃんと自分の貯金から行なった。柔らかい体温は、ひんやりした骨壺になった。
淡々とした日常に戻ったけれど、はっきりと心は陰って重たくなった。バイトの面接も受からないのが続いた。脳内が乾燥したような感覚がする。家の中が荒れないようにかろうじて家事はこなして、あとは無気力にぼんやり引きこもった。
もうルクスは帰ってこない。ふらっとどこかに出かけているわけではない。遠い天国に行ってしまったのだ。生きている私には、手の届かない向こう側に。
ルクスが昔そうしていたように、私はガラス戸から外を眺めた。床に座り込んで、うつろいやすい秋の空や雑草だけの庭を見つめた。何のやる気もない。全部ぼうっとしている。だから、突然鳴った家のチャイムにもしばらく気づかなかった。
やっとその音に気づいた私は、のろのろと首を捻じった。誰だろう。宅配とかの予定はなかったと思うけど。無視したほうがいいかな。昔と違って、今は変なのも多いし。
しかし、もう一度チャイムが鳴った。私はため息をついて立ち上がった。
「どちら様ですか」
インターホンに出ると、人の気配はした。『あ、あの……』という声が予想外に幼かったので少し驚く。
『えと、すみません。僕、その……猫のことで……』
眉を寄せていると、「すみません」と女の人の声が続いた。こちらは口調からして大人だ。
『先日、あの猫ちゃんを連れてきた者なんですが』
私はにぶい頭で考えて、そういえば親子だったなと思い出した。そういえば、挨拶とか行ってなかった。そういうのって挨拶に行くものなのかと思っていると、『大丈夫ですかっ』と急に子供の声が割り込んでくる。
『猫、その……僕たちが連れてきちゃったせいで。あの猫も飼い主さんのとこに戻りたいだろうなと思ったんですけど、でも……』
「あ……ああ、いえ、連れてきてもらってありがとうございます」
『僕、たまにあの猫に煮干しあげてたんです。首輪してても、捨てられた子かもってちょっと思ってて』
「……今、外猫なんて少ないですもんね」
『僕もショックで……僕が煮干しなんかあげるから、あの日もうちの前にいたのかもしれないし』
別に、わざわざそういう言い訳に来なくていいと思うんだけど……。薄暗い気持ちで思ってると、「この子がどうしても話して謝りたいと聞かなくて」とおかあさんらしき女の人の声にはっとする。
「あ、いえ……お気になさらず」
『それで、僕、考えたんですけど』
『侑人、もう分かってくださってると思うから』
『ほかの猫とか、そういうのは無理だと思うけど、猫カフェ行ってみるといいかもって。猫カフェは猫のプロだから、次に飼うとかは考えずに触れるし、少し楽になるかもって』
私は何度目かのため息を飲みこむ。この子なりに、罪悪感から必死に考えてくれているのは分かった。でも、やっぱり的外れは否めないというか──
「私には、ルクスが一番だから」
『ルクス……って名前だったんですか』
「そう。光っていう意味。とても大切な家族だった」
『………、』
「あの子の温もりを、ほかの猫で埋めたり紛らしたりするのは、私には違うの……ごめんね」
『け、けど』
『侑人』
『あったかさを忘れないように、あったかいものには触っていたほうがいいと思うから、』
うつむいた。女の人が必死に謝っている。きっと、その子がどうしても私に伝えたいと駄々をこねて、おかあさんも仕方なく連れてきたのだとは思う。
『すみません。無神経は承知だったんですが──』
「……いいんですよ、ありがとうございます。ご心配おかけしました」
『とんでもありません。失礼しました。さあ帰ろう、侑斗』
『あ……えと、えっと、おねえさん、ルクスは僕の友達でした。ごめんなさい……』
私は受話器を戻しながら、ひとりであやふやに咲った。
まあ、子供だもんな。あっさり、次とか代わりとか、考えられるのかもしれない。
その後しばらくして、やっとバイトの面接予約が取れた。でも、あまりしゃきっとした受け答えはできなくて、このざまで三十歳にもなるのを露骨に鼻で嗤われた。たぶん落ちたなあと思いながら、とぼとぼと帰り道を歩く。
十月なのに、まだ暑い日がある。けれど、真夏に較べたら涼しくなった。少なくとも、ルクスが亡くなった日よりは、軆も汗ばんできたりしない。
哀しみでぼんやりしていた頭が、少しずつ思考できるようになっている。夕食を作る元気は出ないけど、夕食をカップラーメンにしようと考えるくらいならできる、みたいな。棚にみそラーメンあったな、と思っていたとき、ふと前方でランドセルの男の子たちが集まってひとりの子を囲んでいるのが目に入った。
「ほら、早く小遣い出せよ」
「昨日親からもらってこいって言っただろ」
うわ、と思わず目をそらす。普通に恐喝。今の子のやることって、ほんとにイジメなんて呼べるレベルじゃない。
「餌代もいらなくなっただろ」
「お前の友達も可哀想だよなー」
「絶対、死んだの侑斗と関わったせいだもんな」
思わず足を止めた。
「こいつ死神でよくね?」
「神じゃねえよ。殺人鬼だろ」
「死んだの、人じゃなくて猫じゃん」
「侑斗は存在が毒ガスなんだよ」
ユウト……って。いや、今の会話は確実だ。
あの子は、最後にルクスのこと友達だって言ってくれてた。
恐る恐る、スマホを取り出した。こんなの子供相手におとなげない。分かっている。でも、今の子供はこのくらいしないと理解しないと思う。
録画をオンにした。ひとりが侑斗くんの手からお金をもぎとる。警戒するように周りをさっと見まわしたひとりが、撮影している私に気づいた。
「な、何やってんだよ、おばさんっ」
面接のときみたいにうつむいてぼそぼそ話すなんて、絶対ナメられる。私はその子の目をまっすぐ見て、噛まないようにゆっくり答えた。
「恐喝の証拠動画は、撮れたよ」
「きょ……こんなん、俺らは友達だし、」
「音声も入ってるから、誰がどう見ても犯罪だって分かる」
「消せよっ。子供を撮影してるおばさんのが犯罪だろっ」
「じゃあ、私は侑斗くんと警察行くね」
塀に背中を預けて囲まれて涙目になる子に、私は手を差し出す。男の子たちは一気に蒼ざめた。
「え、侑斗の名前……」
「何で知ってんだよ。親?」
「マジかよ、先生かも」
「やべえじゃん、くそっ」
動揺をあらわにして、男の子たちはその場をばたばたと駆け出していった。侑斗くんらしきだけ男の子が残り、彼は私を見上げて目を開く。
「ルクス……の、おねえさん……?」
「……動画、撮れたかな」
私はすぐぼそっとした口調に戻る。
「手ブレしてるかも……」
スマホで一応動画を確認した。さいわい、音声も角度も確認できるくらいには撮れている。
私は侑斗くんに向き直った。
「大丈夫?」
「何で……」
「出かけてた帰りだよ。私の家、すぐそこだし」
「あ、そっか……」
侑斗くんは壁に深くもたれて、そのままずるずると地面に座り込んだ。私はスマホをバッグにしまうと、侑斗くんと同じ目線にしゃがんだ。
「この動画、君のおかあさんに渡したほうがいいなら、ちゃんと渡すけど」
「………、分かんない、です」
「消したほうがいい?」
侑斗くんはうつむいたけど、首肯はしなかった。「じゃあ」と私は言葉を続ける。
「この証拠をどうしてほしいか、君自身が分かるまで私が預かっておくよ」
侑斗くんは私を見た。その体格は華奢で、さっきの子たちも含め、まだ高学年ではないと思う。
「怖かったね」
「いつもの、ことですし」
「お小遣いから、ルクスに煮干し飼ってくれてたの?」
「えっ? あ、はい……」
「そうなんだね。ありがとう」
「いえっ、僕も……あのあと、おかあさんに怒られちゃって」
私はあやふやに笑った。「どうして怒ったの?」なんて白々しいことは言えなかった。その反応で、侑斗くんも私の気持ちを察したみたいだ。
「ごめんなさい」
「……いいよ、気にしないで」
「おかあさんが、話をしてくれて」
「話?」
「もしおかあさんが死んじゃっても、侑斗は代わりのおかあさんがいれば平気なの? って」
「はは……きつい譬えだね」
「すみません。僕、いつもバカだから……一生懸命考えたことも、相手には迷惑で。でも、思いついたら伝えないと落ち着かない。イジメも余計なこと言ったのがきっかけだったし」
侑斗くんはぽろぽろと涙をこぼした。何となく、ルクスはその涙をエメラルドグリーンの瞳で見つめて、侑斗くんに身を寄せていたような気がした。
「ねえ」
「は、はい」
「今度、一緒に猫カフェに行こうか」
「えっ」
「君のおかあさんがいいよって言ってくれたらだけど」
「で、でも」
今日は澄んでいる秋の空をちらりとしたあと、「最近、考えてることが分かるの」と私はつぶやいた。
「ルクスがいなくなって、ずっと哀しいまま頭の中が曇ってた。なのに、ちょっと意識がはっきりしてきてる。もう大丈夫になったわけでもないのに、私の何かが回復しようとしてて……ルクスがいないことに慣れていくなんて、私も怖くて」
「………」
「温もりに触れたら、私、まだ心の中にいるルクスを思い出せるかもしれない」
侑斗くんは私を見上げて、何度もうなずいた。それを言いたかったんだと伝える瞳で。
その週末、侑斗くんのおかあさんに許可をいただいて、私たちは猫カフェに行ってみた。良さそうな猫カフェは侑斗くんがすでに調べていた。もしかしたら家に来たあの日、私にお勧めの穴場まで伝えようと用意してくれていたのもしれない。
猫カフェでは、いろんな猫たちが気ままに過ごしていた。侑斗くんが無邪気な笑顔で猫たちと触れ合っているのを眺める。そんな私の膝に、ひょいと毛足の長い白猫が乗ってきて、その子はそこでのんびりと丸くなった。
ルクスとは違う。色の艶も。毛並みの手触りも。優しい重みも。ぜんぜん違う猫だけど、その軆は温かい。
ああ、ルクスもこんなふうに温かったな。
あの子の代わりはいない。どこにもいない。それでも、生きている温もりを感じることは、悪くないのかもしれない。
優しくその白猫の軆を撫でた。その子は心地よさそうにごろごろ言って、アイスブルーの瞳を細めて小さく「にゃあ」と鳴く。
ルクスは私を照らしてくれた。だから私は、心に残るルクスが生きたほとぼりを、一生忘れない。
人懐っこいらしいその白猫は、くつろいだ様子でまどろむ。その軆から伝わる体温に、私は久しぶりにほのかな笑みをこぼした。
FIN
