アカネ

 助けてたすけてタスケテ助けてタスケテ──
 黒い霧に包まれた頭の中を、今日もあの声が支配する。爆音を吐くヘッドフォンをかぶる僕は、めまいで無駄にまばたきしながら、いつもの教室のドアを開ける。
 いつもの──でも、普通の教室じゃない。その教室に、クラスメイトはいない。いるのはふたりの先輩と、同じ一年でもクラスの違う人、合わせて三人だけだ。
 このあいだ、僕は教室からここに連れてこられた。教師が、教室にいるときはヘッドホンを外せというのだ。そんなことをしたら、僕は内界に突き破られて破裂してしまう。何度も注意され、そのたび拒否していたら、ここでおとなしくしていろと初期の不良品のように捨てられた。
 ここにいるのは、三年生の先輩、二年生の先輩、そして同級生の人の三人だ。先輩のふたりは、いつも女のはだかばかりの気持ち悪い雑誌をめくり、くだらないことで笑っている。同級生の人は、ギターなのかベースなのか分からないけど、そういう楽器をケースごと抱えて、教室の隅にある席でじっとしている。
 みんな、この中学から“隔離”された生徒だ。教室を落ちこぼれて、教師に見捨てられて、校舎の隅にあたるこの教室で、出席日数だけ稼いでいる。
 僕は、発熱しているようにちょっと息を切らしながら、適当な席の椅子を引っ張って腰かけた。つくえに伏せると、かすかに木の匂いがした。
 今日は何だか具合が悪い。僕にはくねった波があるのだ。
 たすけて助けてたすけてタスケテたすけて──
 喉に鉤爪が食いこんで、声帯をねじる錯覚に、思わず咳きこんだ。
 苦しい。何で消えないんだろう。僕の鼓膜に寄生しているみたいだ。
 もう許してほしい。憎まれているのは分かっている。それでも、そろそろ許してもらわないと、僕は病気になってしまう。
 たすけてタスケテタスケテ助けてたすけて──
「それって、ギターなのか?」
 切っかけを作ったのは、三年生の人だった。いつもは二年生の人とバカみたいに過ごしているくせに、その日はわりとまじめな顔で、同級生の人に訊いていた。爆音に集中していたいのに、その話し声が障って、僕は神経を逆撫でられる。
 同級生の人は何も言わず、少し面倒そうにうなずいた。
「ふうん。じゃあ、やっぱ弾けるのか」
 僕は非難をこめて眉を寄せ、それを見た。すると、三年生の人もこちらを見て、おもしろそうににやりとした。
「四人か。数もちょうどいいな」
「何ー? 女? そろそろやっておきたいお年頃ですが」
 教壇にもたれる二年生の人は、ポルノ雑誌をうちわにして自分をあおいでいる。九月はもう終わるけど、まだまだ残暑が汗を絞り取っている。三年生の人は教壇に歩み寄ると、「それも捨てがたいけど」と笑う。
「いい加減、ヒマじゃね?」
「まあ、そうね」
「何かやることないかなって思っててさ。あいつギター弾けるらしいし、あれもずっと音楽聴いてるし」
 二年生の人は、きょとんと三年生の人を見た。三年生の人は得意げな笑みを見せた。「マジで?」と二年生の人も言ったけど、その翌日から、落ちこぼれた僕たちはなぜかバンドをやることになっていた。
 同級生の人がギター、三年生の人がベース、二年生の人がドラムスになった。僕はヴォーカルを任された。「あんたは思ってること多そうだからな」とベースの人はにやにやしながら言った。
 正直、嫌だった。僕は人と関わりたくない。関わったって、傷つけて憎まれるだけだからだ。敵を増やすのは怖い。ひとりでいい。攻撃してくる敵がいるより、孤独のほうがいい。
 なのに、ギターの人が作った音を聴くと、降ってきた雪の結晶が手のひらに落ちて溶けるように、どんどん言葉を拾ってはそれを詩に昇華させてしまった。
 音楽を紡ぎながら、僕はみんなのことを知っていった。僕のことも、みんなに知られていった。加害者は僕だけじゃなかった。それでも、僕に生きていく資格がないのは変わらないけれど。
 たすけてタスケテ助けてたすけてタスケテ──
 なぜなら、その声は休むことなく、やっぱり僕の頭をこうしてぎりぎりと締めつけている。
 でも、みんなは僕に染みつく赤い声を分かってくれた。必要以外は話しかけてこない。みんなといると、白い霧が発生したように、ぼんやりと包まれている感じがした。
 ベースの人が卒業して、残りの僕たちも進級した。卒業後もベースの人は物置教室に来て、ドラムスの人と煙草を吸い、本の中の女のはだかばかり見ていた。ギターの人は、曲を書いているときもあった。僕はやっぱり、あの声から息切れしながら逃げまどっていた。
 ちょうどバンドを組んで一年くらい過ぎた日、僕は彼に出逢った。その日も僕は闇に犯されて震えていて、せりあげる嫌悪感に急に席を立ち、口を抑えて教室を出た。
 助けてたすけてタスケテ助けてたすけて──
 恐怖にも似た感覚であの声に追われ、僕はヘッドホンがずりおちない程度に走って、渡り廊下にたどりついた。トイレまで持ちそうになかった。上履きのまま中庭に出ると、喉から土へ、口の中をえぐるように粘着いた朝食を嘔吐した。
 塩味がして、初めて泣いているのに気づいた。僕は手の甲で目と口をこすり、こみあげる拒絶反応に叫び出したいのを歯を噛んで耐える。
 仰いだ空は、発狂しそうなほど美しい秋晴れだった。
 タスケテ助けてたすけてタスケテ助けて──
 虫が這っているみたいに、ざわざわと脳がかゆい。いらいらして思いっ切り首を振ると、そのはずみでヘッドホンが落ちた。途切れた爆音に、急いで首に落ちたヘッドホンを装着しようとした。
 けれど、笑い声が聞こえてびくっとこわばった。僕を嗤っている。そう思ったのだけど、違うのは続いた声で分かった。
「そのままじっとしてろよ」
 あたりを見まわし、裏庭に続く校舎の陰から、何やら物音がしていることに気づいた。
 ぐさり、と太い針を刺されたような、強い痛みが頭に走った。その痛みから視界がぱたぱたと白黒にまたたき、白光と砂嵐が交互に視覚を奪った。そして、ぽたり、と赤い雫がしたたって、僕はふらふらとその声のほうへと歩き出していた。
 赤い雫はどんどん激しくなる。やがて土砂降りになって目の前が真っ赤になったとき、一瞬、神聖なまでの静謐が来た。やがて、チャンネルが定まったテレビのように、それが僕の瞳に映る。
 学ランの男子生徒が、校舎の壁に顔を押しつけられ、スラックスをおろされていた。同じく学ランの男子生徒が、その背後にぴったりくっついて──たぶん、肛門と陰茎がつながっている。
 犯されている男子生徒は、唇を噛んでいるけど、目からは痛々しい涙をあふれさせ、その涙はざっくり切った皮膚からの血のようだった。挿入している男子生徒が、露骨に腰を使いはじめ、犯される彼は、鞭で打たれる奴隷のようにうめくことさえ我慢している。
 僕は呼吸を引き攣らせ、強烈な逆回転に巻きこまれた。立っていることすらくらつきそうになった。五感が麻痺していく。青い空も、陽の光も、土の匂いも、授業中の静けさも、口の中の粘着も、狂ったピエロの笑い声のようにぐにゃりと不気味にゆがむ。催眠術の中を彷徨っているうちに失ってしまう。その中で、皮肉にもあの声だけは消えずに、がんがんと頭蓋骨を穿った。
 タスケテ助けてタスケテたすけて助けて──
 はっと我に返ったときには、ふたりいた男子生徒はひとりになっていた。犯されたほうの人が、服を乱したまま座りこんで泣いていた。
 僕には気づいていない。犯していた人は、たぶん裏庭にまわっていったのだろう。すれちがっていたら、さすがに僕に何か言っていくと思う。たとえば、そう、「誰にも言うなよ」とか……
 ぎゅっと唇を噛んだ。
 ダメだ。ダメだダメだダメだ。僕は人間のクズだ。変わっていない。あの日に痛感したのに、まただ。
 僕は、身を返してあの物置教室に逃げこみたくなっている。でも、そしたら僕は本当に殺されてしまう。極刑で喉をかっきられる。そう、あの三人が作る音を解放する声を掠奪され、本当にただの蛆虫になる。それは──
 ゆっくり、足を踏み出した。静かに、静かに、ひとりぼっちの底にうずくまる彼に近づいていく。
 助けてたすけて助けてたすけてタスケテ──
 茜色の記憶の豪雨が、足元をふらつかせそうに降りしきる。それでも僕は、何とか放心状態の彼のかたわらに立った。
 彼は僕をびくんと見上げた。幼い子供のように怯えたその瞳を、僕は震えるのを耐えてじっと見つめる。
 彼の瞳は、はっきりこう言っていた。
 タ・ス・ケ・テ──
 僕はしゃがみこむと、彼の服に手を伸ばした。彼は後退ろうとしたけど、力が入らないのか、ただおののく。僕は乱れた彼の服を、がくがくしそうな手を何とか動かして、きちんと着せていった。
 彼の発する感情が、恐怖から困惑にうつろっていく。彼がちゃんと服を着た格好になると、そのすらりと白い手をつかんで、一緒に立ち上がらせた。
「あ、あの……」
 僕は何も言わずに、彼を引っ張りはじめた。向かうのは物置教室だ。僕のことを知るみんななら、きっと彼のことも分かってくれる。
 この人をひとりぼっちにしちゃいけない。ひとりぼっちにしたくない。
 僕はあの子を毒々しい沼に突き落とした。繰り返したくない。彼はとまどいながらもついてきて、僕は心の中で誓いを立てる。
 彼のそばにいよう。僕にできることはそれしかない。物置教室が近づいてくると、彼はちょっとだけ僕の手を握ってきた。僕はそれをぎゅっと握り返す。
 助けて。
 その彼の悲鳴をみんなで受け止めよう。しっかり彼の声を聞くのだ。そう、せめてもの懺悔として──
 絶え間ない血みどろの声に誓うと、僕は、ギター、ベース、ドラムスの待つ、隔離された教室のドアを開けた。

 FIN

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