三十になったら、男娼はやめる。いつからかそんなふうに思って、何気なく口にもするようになっていた。十二月になって、いよいよ俺は今月三十になる。
クソみたいな親元から家出して、十三のときから男娼をやってきた。「辞めたら何するの?」なんて客にも淫売仲間にも言われて、「さあ」なんて答えていた。また弓弦の世話になるのは甘ったれてるよなあと思っていたら、俺を惜しむ客が春から小さなエロ本屋を始めるので、オーナー兼スタッフのひとりでの営業になるが、そこを任されてみないかと問うてきた。淫売の裏方稼業でもやるかと思っていたが、モーテルのピンクのベッドで余韻に抱かれながら、「それも悪くないかな」と俺は咲った。
一緒にシャワーを浴びて、その客とはモーテルの前で別れた。ひらひらとネオンが色づくビルの隙間の空は、飲まれそうに真っ暗だ。ちょっと休憩することにして、いつもの喫茶店である〈POOL〉に向かう道を歩きはじめる。
この街の夜は相変わらずごった返して騒がしい。香水の匂い、テイクアウトの匂い、煙草の匂い。空気がぎゅっと引き締まって冷たくて、湿り気が残る髪のせいで頭が少し痛む。
エロ本屋なあ、と思いながらコートのポケットから取り出した煙草をふかしていると、突然背後を小突かれた。振り返ると、普段のオーバーでなくめずらしくジャケットを着た、黒でまとめてやや堅い服装の弓弦がいた。
「何かの帰り?」
下から上に服装を眺めて訊くと、弓弦は肩をすくめてうなずいた。
「葬式。ガキの頃、面倒見てよく仕事くれてた人」
「何か抗争?」
「病気だよ。愛人に看取られて大往生」
「嫁ではないんだな」
「奥さんは先に亡くなっててな。最期まで大事にしてたよ」
「ふうん」
「何か、人脈が人脈だからさ。あの人死にましたとか増えてきたな」
そばの路地裏から風が抜けて、弓弦の艶やかな黒髪が揺れる。
「つらい?」
「別に。もういなくなったんだなあって思うと、寂しいときもあるけど」
弓弦が歩き出したので、俺は並ぶ。「ミキさんとこだよな」と言われてうなずく。ミキさんというのは〈POOL〉のオーナーだ。午前二時過ぎ、ミキさんはいない時間帯だが。
「今年も終わるな」
弓弦も煙草を取り出しながら、たまにすれ違う飾られたツリーを一瞥する。
「結音ちゃんは、クリスマス二度目か」
「ああ。去年は芽留の家で豪華に祝ってやったけど、今年は三人で普通にやる」
「一応、祝うんだ」
「楽しみにはしてるからな。紗月もしてやりたいって言うし」
「ケーキはお前が作るのか」
「さすがに作れねえよ。菓子は紗月のほうが作れるから、紗月作ってくれるかなあ」
「作るなら、お前じゃなくて結音ちゃんに作ってやるんだろ」
弓弦はおもしろくなさそうに俺を見たあと、煙草を吸う。ずっと昔から、俺たちは同じ銘柄だ。
「お前はクリスマスどうすんの。仕事か? あ、違う、お前もうすぐ三十で、男娼辞めるんだよな」
「ああ。三十前になって、いきなり体力落ちたの感じる」
「分からんでもない」
「だから、クリスマスは──別に何もないな」
「翼と同じことを。杏里はもう人妻だしなあ」
「人妻じゃなくても、何もねえよ。そういや、男娼辞めたあとの仕事だけどさ。さっきの客に、エロ本屋の店長やってみないかって言われた」
弓弦は噴き出した。「まさかの本屋さん」と煙をふかし、「まあな」と俺も苦笑してしまう。
「確かあの人、出版社に勤めてたからいかがわしい誘いではないと思う。お前からの客で、つきあいも長いしな」
「エロ本屋はいかがわしいだろ」
「店任せるっつって、借金とかまで押しつけてこないってことだろうが」
「利益なくてもいいとか言われたんなら、逆に怪しいぜ」
「それはないだろうけど。まあ、俺を縛っておきたいとかでもなさそうだしな」
「そっか。ま、お前がやれそうならいいんじゃないか。できる協力もする」
「うん。ずっと、淫売の裏方かなーと思ってたから、想像してなくて何かおもしろそう」
弓弦は俺を見てから、「やってみろよ」と少し優しく微笑んだ。弓弦がそういう笑みをするとき、いつも俺は間違っていない。彼女を街に連れてきたとき。あの子を育てると話したとき。弓弦はそうやって咲ってくれた。
「あれから、十五年か」
しばらく無言で、弓弦とのなじんだ歩調で歩く。〈POOL〉のある通りに出た頃、俺は喧騒に紛れてそう言った。一緒に煙たい息を吐いて、携帯の灰皿に煙草をつぶす。昔は道端に平気で捨てられたけど、この街も多少はそういうことにもうるさくなった。
「水香と紗夜?」
弓弦は自然と返すけど、自然になるよう今でも努めているのだろうとぼんやり思う。
「ああ。来週は紗夜の命日だ」
「空けてるよ」
「うん」
弓弦は俺から灰皿を奪って、そこに同じ匂いの煙草をつぶす。「はい」と吸い殻の入ったそれを返され、俺は肩をすくめてポケットにしまう。弓弦のため息で、吐く息が紫煙がなくてもかすかに白くなるのに気づいた。
「お前に言っていいのか迷ってたんだけど」
「ん」
「あのアパート、年内に取り壊すって」
弓弦を向いた。きんとした風が空を滑り、俺の柔らかなくせ毛も揺らす。俺はスニーカーを見下ろし、「そうか」とだけ答えた。
「また建つのはアパートらしいけど。今の造りじゃ入居者もいないんだと」
「……あんなことがあったせいじゃなくて?」
「さあ。どのみち耐震構造とかで改良しなきゃいけなかったみたいだな」
「………、また、なくなるんだな」
「……ああ」
「何にも残んねえな。もう俺の妄想だった気がしてくる。あんな病院にいたのも、妄想がひどいから入れられたのかって」
「俺は、水香と紗夜を知ってるよ」
思わず泣きそうな情けない目で弓弦を見た。弓弦は整った横顔で前方を向いている。〈POOL〉の店内に面するショウウィンドウが白く浮かんで見えてきている。そっと息をついて、心もとなくうなずいて、暗い足元を見つめた。
年内に取り壊される。いつなのかはっきりしないだけに、行くなら早めに見納めたほうがいいのだろう。明日の夜は零時以降に予約は入ってなかったな、と内心で確認する。到着した〈POOL〉に入る前に、「教えてくれてありがとな」と弓弦に言うと、弓弦は前髪で表情は見せなかったけど、俺の肩を暖かい店内へととんと押した。
翌日、「ほんとに辞めるのか」と泣いた客をなだめて仕事を終えると、十五年前、毎日仕事が終わったらたどっていた道を歩いた。増えたコンビニ。知らない看板。造りの違うアパート。それでも、やっぱりこの道の空気を肌が憶えていて、迷子にならない自分に胸が締めつけられた。明け方でなく夜道で視界は良くないけど、見憶えのあるものがあると過呼吸みたいなものまで押し寄せて、ときおり立ち止まって深呼吸する。
月のない曇った冷えこむ夜で、明かりが少ない住宅地に入ると、指先が次第に痺れていった。コートの中に首をすくめ、壊れそうな引き攣った息遣いを白く浮かべる。やがて人の気配が薄れてきて、空き家やボロアパートが続く真っ暗でしんとした廃墟の通りに出る。少し空気が澱んで、腐った臭いがした。足音が響き、つっかえそうな鼓動で吐きそうになっている。何年振りだろうか。一度だけ来たけど、そのあとはやっぱり来なかった。
一度だけのときは、当時俺に言い寄っていた杏里という女と一緒に来た。彼女とは、今は普通に友人だ。結婚式にも呼ばれた。杏里の母親はデザイナーなのだが、そこの専属モデルの男にさんざん口説かれ、杏里が陥落したらしい。
「『必ず幸せにします』って百回くらい言われたわ」
そう苦笑いしていたけど、実際幸せそうだったからよかった。俺への恋愛感情で、巻きこまれて彼女までいつまでも独り身だったら、そんな負の連鎖はすごく申し訳なかった。
俺の女は、やはり生涯で水香ひとりだ。彼女と結ばれて生まれた紗夜もいた。もう水香はいないけれど。紗夜もいないけれど。それでも、俺の家族は水香と紗夜の三人だけだ。
生きているから俺には変化があり、幸せになってもいいのだとはいろんな人に言われた。でも水香じゃない女と寝て、紗夜じゃない子供を持っても、きっと薄くて虚しくて幸せじゃない。それくらい、水香と紗夜の家庭が心の底から満たされて幸せだった。
本当に、すごく幸せだったのに。何で崩れていくのだろう。水香の声。抱きしめた柔らかさ。キスの味。紗夜の体温。抱きあげた重み。髪の匂い。どんどん、つかめなくなっていく。笑顔とか、仕草とか、言葉とかは鮮明に残っているのに。水香と紗夜の実体の感触が溶けて、死という風化にひどい恐怖を覚える。
死とは忘れられていくことなのだ。こんな世界に生まれて、やっとで生きても、その息切れは何ひとつ残らない。水香と紗夜のあんなむごい最期も。俺のそばで優しかった時間も。人生は何も残らない。死ねば消えていく。何の痕跡も残さず消えていく。
だったら、せめて俺も早く死にたい。でも、首をくくったら負けだ。水香を追いこんだ絶した感情。紗夜を打ちのめした激しい痛み。俺だけ、ちょっと息が苦しい程度で、さくっと死ぬのか。そんなの、水香と紗夜に顔向けができない。自殺したらきっと水香に引っぱたかれる。紗夜の親権も奪われる。俺は「生きる」という苦しみを引き受ける。そして、痛ましい涙も狂いそうな傷も、家族三人で分け合うのだ。それくらいしか、俺には水香と紗夜の死への供養が思いつかない。
到着した水香と紗夜と暮らしたアパートは、数年前よりさらに老朽化で崩れ落ちそうになっていた。住んでいた当時はマシなアパートだったのだが、あの事件から人が寄りつかない忌まわしい場所になったのだろう。何の手入れもされていない。大家も放り出したんだろうな、と階段が抜けないか心配しながら二階に上がった。
ひときわ冷たい風が吹いてコートを着こみ、廊下をゆっくり歩いた。一番奥が暮らした部屋だ。通る廊下には蜘蛛の巣やカビの黒ずみだけでなく、捨てるのに困ったらしいゴミなんかも放置されている。
ふうっと白い吐息を零して、一瞬躊躇ってから、鍵なんか壊れたドアを思い切って開けた。
「うわ出たっ」
そしたら、突然そんな声が大きく響いてびくっとした。
出た、って──え、と中を見ると、そこには髪をひとつに束ね、ざっくりとパーカーとジーンズを着た見知らぬ女がいた。手に何か持っているが、ここからではよく見えない。女は妙にでかい胸を抑えながら、「あ、脚ある」と俺を認めて勝手にほっとした。
「何、してんの」
「えっ、いや──すみません、管理の人とかだったらマジですみません」
「……違うけど」
「あっ、もしかしてお仲間ですか?」
「は?」
「あ、いや、私、廃墟を巡って写真に撮るのが好きなんですけど。はは、しがない廃墟ヲタです」
「………、ふざけてる?」
「いえ、ぜんぜんっ。このアパート取り壊されるんですよね。その前に絶対撮っておかなきゃと思って」
眉を寄せたまま、こんな輩もいるから取り壊すことになったのかもなと思った。だが、とりあえずドアを閉めて風を絶ち、土足で畳に上がった。女は律儀に、窓際のところにスニーカーを脱いでいる。手に持っているのは、言葉通りカメラだった。
「おにいさんも廃墟好きなんですか?」
「……別に」
女は二十歳ぐらいで、けっこう若く見える。化粧っ気はなくても、髪は茶色に染められていた。女は部屋をきょろきょろ見まわし、「マジ何か出そう」とか言いながら頬を高揚させている。
「出るよ」
少し嫌味もこめて言ってやると、女はがばっと振り返ってカメラを握りしめた。
「やはり曰くつきですか、ここ」
「知らねえのかよ」
「はい」
「……知らないほうがいいよ」
「えっ、何ですかそれ。気になる」
「ほんとに憑いてくるぞ」
「おにいさん憑いてこられましたか。あ、だから戻しにきてみたとかですか」
何かうるさい、と思って相手にするのをやめて、奥に踏みこんで洗面所に入った。かすかに膝が震えたが、きいっと不吉な音を立てるドアを開けた。
そのバスルームは、気色悪いほどカビが生えて真っ黒になっていた。浴槽をちらりとして、それだけで脳裏が赤い血の残像にきしんだ。深呼吸したくても、臭いがひどい。後退って部屋に戻ってから、俺は浅くなった呼吸を整えて、少し開いた押し入れに向かってカメラを構える女を見た。
「この部屋では、赤ん坊が殺されたんだ」
ふと俺が声を出すと、女ははたとこちらを振り返った。
「その子の母親は、ショックで自殺した。父親も精神病院だ」
「……そうなんですか」
「調べないで、面白半分に入るのはやめとけ」
「面白半分ではないですけど。……調べなかったのは、すみません」
「俺に言われてもな」
「じゃあ、おにいさんは何しに来たんですか」
「入院してる父親の昔の知り合いだよ。俺も、取り壊されるって聞いて来てみたんだ」
「そのおとうさんは、生きてらっしゃるんですか」
「閉鎖病棟で頭おかしくなってるけどな」
「そっか。でも、頭おかしく見えても、頑張って生きてるんだと思いますよ」
「そうかな」
「頑張って人生まっとうした人には、ご褒美がありますからね」
ちょっと苦笑して首をかしげた俺を見つめて、女はまっすぐに続けた。
「絶対、その人にとって最高のご褒美が待ってます」
「とっとと死ねるのが一番幸せそうだけど」
「それがその人の幸せなら、幸せでもいいと思いますけど。天国に赤ちゃんとおかあさんがいて、もう帰ってこないおとうさんの帰りをずっと待つことになるのは、一番可哀想じゃないですか」
「天国にいるのかな、……ほんとにひどい死に方だったんだ」
「おとうさん次第じゃないですかね。おとうさんが頑張って生きたなら、神様もまた会うのを許してくれますよ」
「なかなかファンタジーだな、あんた」
「よく言われます。だから廃墟を撮るのも好きなんです。終わったものなのに、残ってて。撮ってあげれば、写真でずっと大切にしてあげられる。何か魔法みたい」
女はカメラを持ち上げ、また部屋の光景を切り取りはじめた。シャッター音が電子的ではないなと思っていたら、いまどきポラロイドカメラで、一枚撮るたび懐中電灯で確認している。「デジカメじゃないんだな」と言うと、「私は写真が趣味になってからはこのカメラなんです」と女は照れ笑いした。
「逆に高かったんじゃないのか」
「そうですね。でも、やっぱデジカメは嫌なんです。綺麗すぎて嘘っぽいから。あとから加工できるのも、何かダメで」
「一眼レフとかは? 名前しか知らないけど、あれはデジカメじゃないよな」
「使い方むずかしいです。ほんとは、一番好きなのはインスタントカメラなんです。子供の頃はそうでした。お小遣いもらうたび買って」
「いまだに売ってんのか、あれ」
「あんまり見かけなくなりました。だから、まあこの子を買ったわけですけども」
俺は玄関のほうにひいて、かしゃ、かしゃ、と女はフラッシュをたいて部屋を写真に変えていった。撮ってあげれば、大切にしてあげられる。俺もスマホで写真くらい撮っておこうかな、とも思いはじめたとき、一段落ついたらしい女が手の中で溜まった写真を広げて、「よし」と一枚選んだ。
「おにいさん」
「ん」
女は俺の前に来て、その一枚選んだらしい写真をさしだしてきた。
「これ、あげます」
「……え、」
「会えると、いいですね」
「え」
「見守ってます」
ぽかんとする俺の手に写真を持たせると、女はカメラを首に下げてスニーカーを履いて、荷物らしいリュックも背負った。そして一度こちらににっこりすると、すたすたと部屋を出ていった。
俺は、ゆっくり首を垂らして写真を見た。暗くてよく見えない。スマホを取り出して、ライト機能で照らし出した。俺ははっと目をみはった。
ここの写真なのに、ここの写真じゃなかった。こんな廃墟は写っていない。暖かそうな部屋で、髪の長い女が赤ん坊を抱いている──
女が出ていったドアを見た。何だ。何だこれ。まさか心霊写真? でも、それにしては不思議な温もりがある。
わけが分からなくてじっと突っ立っていると、足元が霜つくように冷えはじめてきた。何か視界の端に映ると思ったら、ガラスの向こうにちらちらと光が灯っている。
窓辺に行って、窓を開けた。外ではいつのまにか、雪が降りはじめていた。
寒空を見上げた。そのとき、ひときわ大きな風が巻き起こって、その流れに合わせて白い雪も踊った。天に吸いこまれていくように風は舞う。柔らかい雪が、羽ばたいた天使がこぼした羽毛のように、ふわりと頬に吹きつけた。
軆が寒さに固まっていくのも忘れて、窓際で冬の風に打たれていた。雪はすぐやんでしまい、やがて代わりに空が晴れて、月と星が現れた。その澄んだ光で、もう一度写真を見つめた。
何も、残らなかった。水香も。紗夜も。すべて終わって、壊れてしまったと思った。
でも、確かに残っている。残って、俺が大切に愛している。俺の中に水香も紗夜もいる。この写真の中のように、水香は紗夜を抱いて、俺が仕事を終えて戻るのを待ってくれている。俺に「おかえり」と言うために。きっと、水香と紗夜はあの月を彩る星の中にいる。
そう、だから俺は、生きるという仕事を終えたら、水香と紗夜に言えるのかもしれない。「ただいま」と。今回の仕事はほんと疲れたよ、でもお前たちと暮らすためだもんな──
いや、きっと言える。また会える。ずいぶん待たせることになるが、あの頃のまま、ふたりが俺の帰りを待ってくれているのは信じられる。
水香。紗夜。俺は必ず帰る。必ず生きてから死ぬ。だから、ふたりで待っていてほしい。生きていくよ。俺たちの未来にある想い出のために、お前たちの笑顔を見る褒美のために。生きていくから、お願いだ、もう少し待っていてくれ。
写真を見下ろす。月明かりは優しい光景を浮かべている。ふとこもりうたが聴こえた気がした。その懐かしい音色は、俺がいつだって帰る、この場所の記憶だった。
FIN
