蜃気楼だった君
朝起きると、夕絽さんから『おはよう』とメッセが来ている。俺は目をこすってそれを確かめて、おはようございます、と打ちかけて『ございます』を消す。「そろそろ敬語じゃなくていいよ」と夕絽さんはこのあいだ苦笑した。『おはよう、夕絽さん。』と送信すると、俺はベッドを起き上がって背伸びする。
十月になって、数日が過ぎた。カーテンの向こうで陽射しがあふれている。晩夏がやわらいで初秋が忍び寄る、一番いい気候の時期だ。
まだちょっと眠っていたいけれど、学校に行ったら夕絽さんに会える。俺はベッドを降りて、部屋着を脱ぐと、このあいだクリーニングからおろした冬服のブレザーに腕を通す。
高校生になって、二回目の秋だ。まだ、自分に恋人がいるなんて信じられない。香河夕絽さん。ひとつ年上の高校の先輩。俺と同じ、男の人──
三年前、中学生のときには想像もしていなかった。あの頃は、俺の心は瑞世でいっぱいだった。今、俺がゲイだと知っても、瑞世は親友として仲良くしてくれている。しかし、それは当時の気持ちを知らないからなんだろうなあなんて思う。
中学二年生のとき、校外学習で水族館に行った。海の近くの水族館だった。イルカやアシカのショウを見て、アクアリウムの青い空間を歩いて、ペンギンを見た。「ふふ、かわいい」と隣で瑞世がペンギンを見つめて、俺はその横顔を盗み見た。
くせのある柔らかい髪、白い肌に華奢な軆、瑞世は中性的で美人な感じだ。当然、女子にはモテる。
「ペンギンってオス同士でくっついたりするらしいぜー」とスマホで何やら調べながら同じ班の男が言って、「深実と森村じゃん」とほかの奴が笑った。俺はどきっとしつつも、平静を装って「お前ら、うるさいし」と口をはさむ。
「俺と瑞世はそんなんじゃないんだよ」
「えー、怪しいよなー」
「怪しくないって。ふざけんな」
言いながら、どきどきしている。感づかれないように、声を抑えている。
「つきあえばいいのにー」とか女子まで言い出して、俺は息をついて「ごめんな」と瑞世を見る。「いーえ」と瑞世は平気そうに笑っていて、何で嫌がらないんだよ、なんて思ってしまう。期待したくなる。
瑞世はいつも、俺との仲を揶揄われても、俺ほどきっぱり否定しない。分かっているけれど。ありえなさすぎて、否定するまでもないと思っているのだ。それでも、そんなに迷惑じゃないのかな、なんてふわふわしてしまう。もし、「じゃあ、ほんとにつきあってみるか」なんて言ったら、あんがい、うなずいてもらえたりする?
ぺたぺたと歩くペンギンを見つめた。まさかな、となんて小さく笑った。そもそも、男とつきあえることがきっと一生ない。そんなの、あきらめている。
中学三年生に進級し、俺と瑞世は受験生になった。俺たちは志望校を同じところにしていて、また何やかやと揶揄された。「だって、信哉がいないと不安だもんなー」と瑞世は言う。俺はその言葉にあやふやに咲う。
女子連中には、よく瑞世の志望校を訊かれた。この女も同じとこに来たいってことなのかなあ、と陰気に思いながらも、一応正直に答える。そして、俺も瑞世と同じ高校を目指しているのを聞くと、訝るような目をする女子もいた。
「あっ、深実くん!」
蝉も鳴きはじめて、日射しも皮膚を炙るようになっていく夏休みに入る前のことだった。
休み時間、トイレのあと教室に戻ると、入口のところでうろうろしている見憶えのない女子に声をかけられた。立ち止まって首をかしげると、彼女は行き来する生徒を縫って俺に駆け寄ってきて、水気をぬぐったばかりの俺の手に強引に紙切れを握らせた。
「これ、森村くんに渡してほしいの」
「えっ」
「深実くんは森村くんと仲いいから、いいでしょ?」
「い……や、えと」
「じゃあ、お願いっ」
彼女は一方的にまくしたてると、ざわめく廊下に混ざっていってしまった。
何だよ、と俺は眉を寄せてしまう。瑞世に渡してほしい。手の中のメモを見て、唇を噛みしめながら、勝手にそれを開いてみた。連絡先と、『森村くんと仲良くなりたいです。』というメッセージ。
一瞬にして、心に黒い靄がぶわっと広がる。その不快感に顔を顰めると、俺はその紙切れを手の中でぐしゃっとつぶした。そして、平静を装って教室に入ると、さりげなくゴミ箱に葬った。
……ああ、俺、醜いな。汚い。ずるい。
すぐに始まった夏休みは、勉強漬けだった。俺も瑞世も塾には行かず、お互いの部屋で得意教科を教え合いながら一緒に勉強した。その日は瑞世の部屋で、クーラーと氷を浮かべた麦茶で涼みながら、数学や理科といった理数系をやっていた。
瑞世は分け隔てなく頭がいいけれど、強いて言えば文系だ。だから、ずっと数式を解いていると、途中で「あーっ、疲れたっ」と声を上げて、ベッドに身を投げてしまった。倒れた拍子にスプリングがきしみ、唸った瑞世はシーツの上で伸びをする。
「おい、瑞世」
俺が顔を上げてあきれた声で呼ぶと、「少し休むー」と瑞世はだるそうな声で答える。
「少しって……ほんとに少しだぞ」
「んー」
俺は息をついて、我ながら甘いと思いつつも、そのまま瑞世は休ませてひとりで勉強を続けた。
どのくらい、そうしていただろう。俺はどちらかといえば理数系が得意だから、どんどん問題を解いて集中していた。
だが、不意に瑞世はまだごろごろしているのかとベッドを見て、どきんとする。仰向けになった瑞世は、わずかに首をかたむけて眠ってしまっていた。俺は息をついて、シャーペンをローテーブルに置くと、ベッドサイドにいざって近づく。
「瑞世、いい加減起きろ」
俺がそう声をかけても、瑞世に起きる気配はない。肩を揺すぶろうとしたものの、意識過剰で触れることに躊躇ってしまう。
「瑞世」ともう一度呼んだ。返事はない。俺は急に鼓動がこわばるような緊張を覚えながら、その寝顔をじっと見つめた。
くそ、と内心舌打ちする。無防備なんだよ。俺の気持ちを知らないからって。俺がここにいるのに、どうして平然と眠れるんだ。
瑞世の寝顔を黙って眺めた。長い睫毛、白い肌、色づく唇。綺麗だなあ、とため息をつきそうになる。
瑞世は俺に「彼女作らないの?」とか訊くことがあるけれど、こっちの台詞だ。瑞世なら、作る気になればすぐに彼女ができるだろう。中学生のあいだはまだかもしれなくても、高校生になればきっと女の子とつきあったりするようになる。そして、俺のことなんか二の次になって……
瑞世の眠りは深いみたいで、俺の視線を感じ取る様子もない。俺は唇を噛んで息遣いを殺し、瑞世の髪にそっと触れてみた。柔らかなくせ毛が、指先で蕩ける。
それでも瑞世は起きない。寝息は規則正しく、その口元を見つめていて、ここでキスしたらどうなるんだろ、なんて思った。ほんの一瞬。かすめとるみたいに。息を止めないよう、本当に、刹那──
心臓がどくどくと腫れあがってくる。瑞世。苦しい。こんなに好きなのに。絶対に伝わらない。
何で? 何で打ち明けられないんだ? 本当に、本当に、誰よりもお前のことが好きなのに。
身を乗り出しそうになった。でも、唇が近づいて触れかける直前、突然自分が恐ろしいことをしている気がした。
我に返るように、ふっと意識が冷める。何してんだ、と俺は急いでベッドを離れた。ローテーブルに突っ伏し、軆が羞恥心で燃える。
ダメだ。こんなの、ダメだ。バカか、俺は。そんなことしたら、瑞世に合わせる顔がなくなる。それに、万が一、瑞世が伝えた感触で目を覚ましたら最悪だ。
俺は瑞世の親友なんだ。いくら周りにお前らは恋人同士かよと揶揄われても、一線を越えることはない。
近い。でも、すごく遠く、離れている。
夏休みが終わると、先生たちの受験モードで、教室は静電気がはびこったみたいにぴりぴりしてきた。瑞世と同じ高校に行けなかったら、落ちこむどころじゃない。俺は必死に勉強する。瑞世はそこまで必死になっていなくても、それはもともと成績がいいからだ。
残暑がまだまだ厳しい、九月の半ばのことだった。その日は瑞世が日直で、俺は蒸し暑い廊下で瑞世の仕事が終わるのを待っていた。一日の汗で軆がべたついて、シャワー浴びたい、とか脈絡なく考えていた。
そうしていると、「深実くん」と不意に名前を呼ばれた。ん、と振り返ると、何やら女子が不機嫌な表情で近づいてくる。クラスメイトではない。誰、と本気で思っていると、彼女はいきなり「ねえ、ちゃんと渡してくれた?」と言ってきたので、俺はぽかんとしてしまった。
「えっ……と、」
「もうっ。夏休みの前に、森村くんに私の連絡先渡してってお願いしたじゃん! 夏休みのあいだ、連絡待ってたのにさ。森村くんから何にも来ないし」
あ、と不意に思い出す。そうだ。何か、そんな女子いた。その連絡先を、俺は──。
まずい、と目をそらすと、彼女は首をかしげる。
「ねえ、渡してくれたよね?」
「あー、……うん」
「ほんとに?」
「ほんとに」
「捨てたりしてないよね?」
ぎくっと喉の奥が引き攣る。
「な、何で捨てる……」
「えー……嫉妬とか?」
背筋が蒼ざめる。いや、違う。いつもの揶揄だ。俺と瑞世がつきあっているとか、みんな言うから。この女は、俺の気持ちを知っているわけじゃない──
「もらったよ、連絡先」
俺がまごついていると、突然背後からそんな声がかかった。はっと振り返る。そこでは、瑞世が教室の鍵を手の中で遊びながら、あきれた顔をしていた。
「勝手に信哉を責めるのは、やめてくれる?」
瑞世がそう続けると、俺に対するのとは打って変わって、その女子は狼狽をあらわにする。
「あ……、ご、ごめん。じゃあ、連絡──」
「いや、俺は君のこと、ぜんぜん知らないし。知らない人を登録するのも、俺の連絡先知られるのも、嫌だったんだ」
ずけずけと言ってしまう瑞世に、女子は一気に顔を紅潮させて泣きそうに震える。俺は何かなぐさめたほうがいいのかと思ったものの、どこかですがすがしい自分がいて、気まずい。
瑞世は飄々と教室に鍵をかけ、「信哉、帰ろ」と俺に声をかけた。俺がぎこちなくうなずこうとしたとき、その女子は耐えられないように階段に向かって駆け出して去ってしまった。俺がまばたきをして突っ立ってしまうと、「ごめんな、信哉」となぜか瑞世は俺に謝る。
「え……何で」
「いや、巻きこんだじゃん」
「あ、ああ……別に」
「ったく。そういうのは、俺に直接渡せっつうの」
ドアに鍵がかかったのを確認した瑞世は歩き出し、俺は慌ててその隣に並ぶ。
「直接渡されたら、連絡先、交換してた?」
もやもやする鼓動を抑えながら訊いてみると、「んー」と瑞世は首を捻る。
「どうだろうな。あんま、タイプでもなかったし」
「そっ、か」
「つか、今の俺は、信哉と同じ高校に行くことが一番大事だから。女子とかいいや」
瑞世は俺に見てにっこりして、俺はそれを見つめ返して、何とか咲った。
ああ、もう。ほんとに、期待させるなよ。俺は、いつまでお前をひとり占めできてるのかな。友達のままでいい、触れられなくてもいい、お前の一番でいたいよ。許されないって分かっていても、泣きたいくらいお前のことが好きだよ。
俺と瑞世は、無事同じ高校に進学することができた。さすがにクラスは別々で、「ちゃんとやれよ」「そっちこそ」と言い交わしてそれぞれの教室に向かった。慣れない教室で頬杖をついて、中学時代より垢抜けて見える女子たちをちらりとした。
瑞世のクラスにも、かわいい子がいるんだろうな。受験も終わったし、あいつも彼女を作って高校時代を楽しむのかな。瑞世に彼女なんて紹介されたら、きっと死ぬほどこたえる。
だけど、俺は瑞世の親友だから。
すごく遠い。対象として、あまりにも遠い。瑞世に手を伸ばして、届くなんてことはない。俺たちはとても近いぶん、信じられないくらい離れてるんだ。
──さわやかな秋晴れの下、高校の最寄り駅の改札を出ると、制服だらけのあたりを見まわした。夕絽さんは見当たらなかったので、壁際にもたれてスマホを取り出す。夕絽さんのトークルームに、『到着』のスタンプを送ると、すぐに既読がついた。ついで、今この最寄りのひとつ手前の駅にいるという返事が来る。ここまで五分もかからないだろう。
俺のスマホには、ペンギンのストラップがつながっている。イニシアルは“Y”。俺の名前である“S”のペンギンは、夕絽さんのスマホにつながっている。
瑞世が好きで、どうしようもなく好きで、きっとこの気持ちはずっと引きずってしまうんだと思っていた。けれど、俺は高校で夕絽さんに出逢った。
あっけらかんとした瑞世とはタイプも違うし、夕絽さんは美人というか、かわいいという感じだ。初めはただ夕絽さんがゲイだといううわさを聞き、いろいろ話してみたくなっただけだった。いきなり話しかけてしまったそのときは、夕絽さんにだって好きな人がいた。なのに、放課後に時間を重ねて、いろんな話を交わしているうちにこの人を守りたいと思った。当時、夕絽さんはいろんな問題で傷ついて、たやすく壊れてしまいそうだった。
この人が壊れてしまったら、俺はまたひとりになってしまう。そんな不安と恐怖に焦りはじめ、それが瑞世への恋心すら侵蝕していった。夕絽さんの隣にいたい。優しく触れてあげたい。もう傷ついてほしくない。そして、初めてその軆を抱きしめてしまったとき、俺は夕絽さんを離したくないと思った。
「信哉くん。おはよう」
ふとそんな声がして、俺ははたと振り返る。そこには物柔らかに微笑む、制服すがたの夕絽さんがいた。「おはよう」と俺は応え、つい笑顔になってしまう。
「ごめんね、待たせちゃって。いつも僕のほうが遅いね」
そんな些細なことも気にして、少ししゅんとする夕絽さんがかわいい。
「平気。五分とかだし、ぜんぜん遅くないよ」
俺がそう言うと、夕絽さんは顔を上げてほっとしたように微笑し、「じゃあ、行こっか」と言った。俺はうなずき、夕絽さんと並んで高校までの道のりを歩きはじめる。
制服すがたの群れの中、手をつなげないのがもどかしい。人目がそこまでなければ、夕絽さんもあまり恥ずかしがらずに手を貸してくれるのだけど。
出逢った頃より、夕絽さんには明るい笑顔が増えた。俺は自分が何かしてあげられた気はしなくても、信哉くんのおかげだよ、と夕絽さんは言ってくれる。俺とこうして恋人としてつながることができたから、一度は生きる気力すら失ったけど、また前を向けるようになったと。
「夕絽さん」
「うん?」
「夕絽さんの受験が終わったら、たくさんデートしたいな」
「はは、そうだね。あ、でも、来年は信哉くんが受験生になっちゃうよ?」
「んー、でも、春休みならまだ平気かもしれないし」
「そっか。そうだね。どこか行こう」
優しく咲ってくれる夕絽さんを見て、俺はちょっと身をかがめるとその耳元でささやく。
「ふたりで泊まったりもしたいな」
「えっ?」と夕絽さんはぎょっと俺を向いた。「嫌?」と俺が甘えた目を返すと、夕絽さんはどぎまぎしている様子でも、「ううん」と答えてくれる。
「じゃあ、そのときはずっと夕絽さんに触ってたい」
「も……もう、恥ずかしいよ。そういうのは──」
「だって、夕絽さんには俺の手が届くから」
夕絽さんは、しばたいて俺を見上げる。
こんな恋ができるなんて、思っていなかった。好きな人がこんなに近くにいる。至近距離で瞳が結ばれる。いくら好きになっても、相手ははるか遠く、俺は苦しい想いばかりするのだろうとつらかった。けれど、夕絽さんとなら──
夕絽さんは、軽く俺の指に指を触れさせた。「いいの?」と確認すると、夕絽さんは頬を染めながらうなずく。俺は嬉しくなりながら夕絽さんの指を絡め取り、手をつなぐ。
何だか、こうしたかったのだけど。俺の頬も、ほてってきてしまう。
でも、幸せだ。
俺は好きな人の一番そばにいる。
この人をずっと大切にしたい。
好きになってもなっても、遠く離れている蜃気楼の恋は終わったのだ。
俺は今こうして、夕絽さんの体温と感触を感じ取り、この人をとても愛おしく感じている。
FIN
