「男をあてにして生きていっちゃダメだからね」
昔からかあさんは、私を膝に座らせて、よくそう言い聞かせていた。私は表面ではこくんとしておきながらも、胸の内では、あんたは男に相手にされないだけじゃないと幼いながら思っていた。
化粧もほとんどせず、小太りな体型で、洋服のセンスもない。とうさんに逃げられるわけだわ、と小学校くらいのときにはとっくに思っていた。そして、こんな女にだけはならないと誓っていた。
私は毎日、伸ばした黒髪をつやつやに梳いた。細い腰つきと手足のためなら食事を抜くのも平気。白い肌は日焼けにさらさず、保湿液を毎日たっぷり使う。お小遣いは化粧品や洋服にはたき、女であることを存分に磨きながら、私は中学生になった。
同級生の男子はまだまだ子供でも、男の先輩からよく声をかけられてデートを楽しんだ。夜遅くに先輩と別れて帰宅すると、かあさんが怖い顔をして玄関で待ち受けている。そして、頬をはたいたり、何時間も正座させたり、伸ばした髪を引っ張ってはさみを入れようとさえした。
「中学卒業したらさ、家出たらいいじゃん」
中学二年生のときだろうか。そのときつきあっていた先輩に、そんな家庭を嘆くと、あっさりそう言われた。
先輩の部屋で愛しあったあとで、全裸の私は秋気のためにぬくぬくとふとんの中にいた。身を起こした先輩は、下半身にジーンズだけ身につけ、飲みかけだった缶ビールを手にしながら「お前なら、水商売も風俗もいけるだろ」と肩をすくめる。
「……そう、かな」
「美人だしな」
水商売。風俗。思いのほか、自分の中にそういう仕事への抵抗はなかった。かあさんみたいな野暮な女には、できない仕事であるせいかもしれない。
「ああいうのって十八歳からじゃないの?」
「歳偽れば? そんなの、みんなやってんだろ。何なら、俺が行ったことある店、紹介しようか?」
「ほんと?」
「おう。ひとり暮らし始めちゃえよ。そしたら、俺もお前の部屋でいろいろできるし」
私は「いろいろって何よ」と笑いつつ、そうか、と妙に納得した。
家を出たら、かあさんと暮らさなくていい。生活費の義理もなくなる。どんな深夜に帰宅しても、虐待みたいなこともされずに済む。そもそも、かあさんに学費を出してもらってまで高校に行きたいとも思わない。じゃあ私は、どんなことをしても、とっととあんな家を出ていきたい。
中学を卒業する頃には、その先輩とは別れていたけども、春先、私は高校受験をすべてすっぽかし、鮮やかなイルミネーションが舞う夜の街を彷徨って、雇ってくれる店を探した。面接で十八歳だと言って、通用したラウンジでホステスの仕事を得た。保証人のいらないアパートをママに紹介してもらい、最低限の荷物だけ持つと、二度と家に帰ることはなかった。
ホステスとして働いた数年間、いろんな男とつきあった。客だったり、ボーイだったり、ホストだったり。私の髪をうっとり撫で、シーツでほてった肌を重ね、優しく奥まで突いてくれる男の存在が心地よかった。
男って、こんなにも良いものなのに。それを否定していたかあさんは、やっぱりみじめな女だったのだ。やがて十八歳になった私は、客として知り合った会社の社長に気に入られ、お飾りで入社して、実際は愛人として侍るだけで仕事はろくにしない昼の生活を始めた。
昼間は社長に軆を開き、夜はホステスを辞めたので自由になった。社長は奥さんも娘さんも大事にしていたから、夜と休日は私はむしろ干渉してはいけなかった。初めは楽な生活だと思ったものの、次第に何だか満たされなくて居心地悪くなってきた。
ホステス時代のお姐さんがたまに連絡をくれて、スタンドバーに飲みにいくときあった。私が燻っているのを知ると、お姐さんは「すかっとするから、これでも聴きな」と名前を聞いたこともないインディーズバンドのCDを貸してくれた。帰宅してそれを聴き、三曲目の失恋の歌ですっかり胸を打たれた私は、思い切ってそのバンドのライヴに行ってみることにした。
そこで出逢ったのが、聖樹だった。私が見に行ったバンドとは別のバンドの付き人のようなことをしていた。優しくて、ひかえめで、繊細で、これまで出逢ったことのないタイプの男だった。
私はひと息で惹かれて、聖樹が世話をしているバンドが出演するライヴにはなるべくおもむき、彼のすがたを探した。年下に恋をするのは初めてだったけど、それも新鮮だった。
聖樹は私が会いたいと言えば会ってくれた。モーテルに誘い出せば抱いてくれた。あんまり上手ではなかったけれど、それもかわいい気がして好きだった。
私は二十歳になっていた。社長の興味は、私よりも新しく侍らせた若い女の子に向かいつつある。まだ高校生の聖樹も、きっとやろうと思えば、簡単に同級生の女の子に乗り換えられる。
そんな焦りがあって、私は聖樹によくそのまま中に出してもらった。聖樹も断らなかった。もちろん、年下とはいえ、その可能性は承知して断らなかったのだろう。だから、妊娠が分かったときは、これでほかの女に盗られることなく、聖樹をずっとつなぎとめられると思った。
聖樹はセックスのあと、ずいぶん疲れた顔をしたり、「ごめん」とトイレに行くときがあった。そっとトイレを覗いたときには、聖樹は便器の中に嘔吐していた。面倒そうなのは察したので、あえて何も訊かなかった。私だって、今の会社では愛人でなく普通にOLをしていることにしているし。踏みこまれたくないところはあっていいだろう。
聖樹は、高校卒業と同時に私と結婚した。生まれた子供は男の子で、悠紗と名づけた。私が抱くとむずがるときがあって、ベビーベッドに寝かせておいたほうが落ち着いているので、必然的にそうしておくのが多かった。
聖樹の腕では眠りに落ちるくらい穏やかなのに、何で母親の私にはあまり懐かないのか、何だか腑に落ちなかった。かわいくない子、と思って悠紗の柔らかい頬をつねってみたことがある。途端、悠紗はわっと泣き出して、仮眠していた聖樹がびっくりして駆けつけた。私は急いで笑顔を作り、「お腹空いただけみたいだから」と言った。それでも聖樹は悠紗を腕に抱いてあやして、私のことは抱いてくれないのに、と静電気が神経に絡みついた。
悠紗を妊娠してから、聖樹は私とセックスしてくれなくなった。「君の軆が心配だから」とか「悠紗が起きるかもしれないから」とか言われるけれど、言い訳なのはさすがに分かる。私ばかり性欲が強いみたいで、聖樹に拒絶されるたび不快で、心がかけはなれるのを感じた。
そんな頃、例のお姐さんといつものバーで飲んでいて、「あれ、実百合じゃね?」と声をかけられた。振り返ると、中学二年生のときつきあっていたあの先輩が、仕事上がりらしいスーツすがたで立っていた。
「先輩?」と首をかしげて一応確認すると、「おうよ」と先輩はにっと笑って隣のスツールに腰かける。お姐さんは気を利かせて先に帰ってくれて、私と先輩はお互いのことをいろいろ話した。
私は結婚して母親になったこと。
先輩は営業に明け暮れて彼女とは倦怠期。
先輩がふと私に顔を近づけ、「相変わらずここ弱い?」と小さく耳たぶを食んだ。だいぶ男に触れられていなかった私が、びくんと反応すると、「やばい」と先輩は私の手をつかんで──そのまま、私と先輩はモーテルへともつれこんだ。
私は先輩と会う回数を増やした。家で不眠とか多忙とかでふらふらになっている聖樹を見ると、わけもなくいらいらして、口論を始めてしまう。虚ろな目つき、過呼吸のような発作、たぶんしょっちゅう意識も飛んでいる。
まったく、男のくせに何なの。悪い夢を見たとかで泣いているときさえあるのだ。どれだけ情けないの? この男、かなり貧乏くじだったんじゃない? そんな後悔もふくれあがってきた。
そんな聖樹を見切ったのは、彼が浴室で手首を切って、自殺未遂まがいのことをやっていたときだった。赤く染まった浴室で、混濁した瞳のまま、聖樹はタイルでぐったりしていた。
何? もう、何なの? こいつはこれほどまでにバカな男なの!? 頭に血がのぼって、どんな言葉を聖樹に投げたか憶えていない。私は揉みあったときに聖樹の鮮血がべっとりついた服を着替え、ベビーベッドの悠紗を抱きあげた。
あんな病気男のところには置いておけない。そう思ったのだけど、悠紗は「おとうしゃん」と片言に言って、この期に及んで私に抱かれることを嫌がった。ほんとにかわいくない。
そう思いながらも悠紗を連れて家を出て、行き着いたビジネスホテルに先輩を呼び出した。先輩は聖樹の話を聞いて、「クズ男だな」と煙草をふかした。本当にクズ男だ。自殺しようとするなんて、頭がおかしいとしか思えない。
先輩は私をいたわるように抱いたあと、「俺も、もう仕事も彼女も逃げたいなあ……」とつぶやいた。私はたくましい腕から顔を上げ、先輩の軆にしがみついた。
「じゃあ、ふたりでどっかに行こうよ」
先輩は私を見つめたのち、ソファでぐずっている悠紗を一瞥した。「あれはいらないんだけど」と先輩は言う。「いいよ、私も置いていきたいし」と私がたやすく応じると、先輩は噴き出し、「お前、やっぱいい女だわ」と私をシーツに倒して、おおいかぶさった。
翌日、朝一番に役所で離婚届を取ってきて、記入すると聖樹の実家に向かった。顔を出したのは義母で、私はとにかく聖樹なんかとはとっとと別れたいことを訴えた。
義母の顔はどんどん引き攣っていった。義母が何か言おうとしたところに、「とにかく、息子さんにはつきあいきれませんので」と私は離婚届も悠紗もその腕に押しつけ、くるりと身を返した。そして、細かい離婚手続きを進めていた後日、私は先輩の子供を身ごもっていることも分かった。
無事に離婚が成立すると、私は先輩と一緒に新しい町で暮らしはじめた。先輩の次の仕事がなかなか決まらないので、私は久しぶりに水商売に返り咲いた。お腹が目立ってきても、妊婦専用のパブに勤めた。
生まれたのは女の子で、凛々子と名づけた。夜泣きがひどい子で、私がつねに抱いてあやしていないと、すぐに甲高く泣き出しはじめる。悠紗は放っておいたほうが落ち着いていたのに、ぜんぜん違う。
先輩はあまり凛々子に関心がなく、どうか、むしろ夜泣きでいらついていることが多かった。お酒で何とか気を紛らわしていたのも束の間、「お前が抱いてりゃ静かなんだから、肌身離さずにいろよ!」と怒鳴ってくるようになった。
仕事に出るときも、部屋には先輩がいるので、凛々子は連れていって託児所に預けて働いた。それで生活が何とかなっているから、先輩はもはや働く気がないようだった。凛々子が泣き出したときはもちろん、料理がお惣菜になったとき、部屋にホコリが溜まってきたとき、先輩は「手を抜くんじゃねえ」「しっかりやらないなら捨てるぞ」と私を殴り、次第に私の中にまたあの不愉快が蓄積してきた。
何で私が。どうして私ばっかり。こんなはずじゃなかったのに。
発散する矛先は、凛々子しかいなかった。私は凛々子が泣き出すと口にタオルをつめたり、食事をこぼすと床を舐めさせたり、もはや何の意味もなくフローリングに投げ捨てたりした。
先輩は私へ。私は凛々子へ。暴力の連鎖は何年か続き、それで家庭のバランスが保たれていた。それが不意に途切れたのは、幼稚園から帰ってきた凛々子が、こちらはこれから出勤というのに、何やらぐずぐず泣いていてわずらわしかったときだった。
どうしたのとも訊かず、私は凛々子を浴室を引きずりこむと、その顔面を湯船に何分間も押しこめた。抵抗しなくなってやっと髪をつかんでいた手を離し、時間が迫っていたので放って出勤した。
先輩はここ数日帰宅していない。どこに行ったのだろう。ほかの女のところだろうか。私の心配はそればかりで、凛々子のことなんて考えなかった。
明け方、くたくたになって帰宅すると、湯船に顔面を浸したまま凛々子は死んでいた。
ぐったりした凛々子の手足を眺め、焦るよりも疲れた気がした。だって、別に私が悪いわけではない。それでも、私がこのガキを殺したことになるの?
あんなに鬱陶しかった凛々子が悪いのに。私は出勤前でいそがしいというのに、いつもいつも幼稚園から帰ってくると泣いていて。凛々子が悪い。私の都合を考えない凛々子が悪い。でもそんな家庭内のことなど理解しようともせず、部外者は私が悪いと言うに決まっている。
逃げなきゃいけない、と思った。どこかかくまってくれる場所。どんな私でも、受け入れてくれる場所。私に逆らうことのない──
リビングに戻って、ふとカレンダーを見た。今日は十三日の金曜日だった。ということは、きっとこの週末は彼はライヴハウスにいる。
聖樹なら、私のお願いを何でも聞くはずだ。バカみたいに、その危険性も理解せずにかくまってくれる。そういう男だった。
私はホステスの服を着替えて化粧を直すと、凛々子の遺体もそのままにして、薄汚れたアパートの一室を出た。朝陽の気配で景色は蒼い。
悠紗もいい加減に聞き分けがつくようになっているだろうし、やはり私の居場所は聖樹の元なんだ。今なら、セックスができない聖樹のことも、話を聞いてあげれば受け入れられる気もする。
今戻るから、とアパートが建ち並ぶ道を、駅まで早足に歩く。
私は絶対、幸せになる。かあさんの言葉なんか信じない。愛してくれる男が私の支えで、何が悪いって言うの? 聖樹も悠紗も、突然消えた私を恋しく想い、寂しがって待っているはずだ。
朝陽がのぼってくる。光が射してくる。私は顔をあげて、ヒールの音も高らかに歩いていく。
そう、私はこんなふうに光の中を歩んでいく、満たされた人生を送れる人間のはずなのだから。
FIN
