Pinky Promise

 黒服からロンTとジーンズの軽装になった俺は、午前五時、閑散とした早朝の歓楽街を背伸びをしながら歩く。
 四月、この時間帯だと、まだ空気はひんやりしている。今日もよく働きました、と自分を褒めながらあくびをして、駅に向かって電車に乗り、地元に帰る。
 早くも出勤しているリーマンやOLとは逆方向だから、電車は空いていて、かたんことんという揺れに眠たくなる。たまに降車を寝過ごすこともあるが、今日はいつもの町でちゃんと降りた。
 腕時計を見ると、午前六時をまわっていて、瑞砂の野郎を起こす時間が近いなと早足になる。
 去年の十月から、俺は土方のバイトを辞めて、〈ナーシャ〉というオカマバーの裏方として働いている。土方のバイトも悪くなかったけれど、めずらしく幼なじみの瑞砂が頼みがあるなんて言って、自分は昼の仕事を始めるからオカマバーの後釜になってほしいと言ってきた。
 瑞砂がオカマバーで働いているのは俺も知っていたが、「お前がそういうとこで働くの意外だよなー」とあまり気にはしなかった。むしろ、瑞砂がどんなふうに働いてるのか興味があるくらいだったので、揶揄いにいきたいなんて思っていたのに。
「ママもキャストも悪い人じゃないから」と瑞砂は言って、とりあえず、俺は面接に行った。面接を受け持ったのは男だったので、裏方の人かなと思いつつ、俺は瑞砂の紹介で来たことなんかを話した。その場で採用され、初出勤日、面接をした男が実はオカマのママで、びしっと着物を着ていたのでビビった。
 それから、キャストに男の娘がひとりいた。咲羽さんという人で、最初、俺にはママとの違いがよく分からなかったが、咲羽さんは女装はするが性自認は男であるらしい。
 咲羽さんのことも瑞砂には訊いていた。男の娘のキャストがかなり美人だと。確かに咲羽さんは美人で、華奢な軆にドレスをまとい、男とは思えない艶っぽい美貌を持っていた。
 水商売の裏方は細かい仕事が多くて、大雑把な俺にできるだろうかと初めは心配だったものの、三ヵ月もすれば飲みこめた。
 三月に新しいキャストも入ってきて、その子はママのような性転換を目標にした、トランスセクシュアルだった。美瑠ちゃんという源氏名で働いている。
 俺はさりげなく美瑠ちゃんのサポートをしつつ、グラスや灰皿を洗ったり、フルーツを盛ったり、アイスを砕いたり。零時過ぎから閉店三時までのめまぐるしさにはテンパりそうになるけど、いそがしいぐらいが熱中できるので、俺としては楽しい職場だった。
 住宅街を歩いて、俺は家に帰るより、お隣さんの瑞砂の家に直行する。朝っぱらからドアフォンを鳴らすのもうるさいので、玄関のドアをノックすると、瑞砂のおばさんが気づいて鍵を開けてくれる。
「はよっす。瑞砂は」
 そう訊くと、「声はかけたけど、何の音もしないわ」とおばさんは肩をすくめた。俺は笑いを噛んで、「起こしてきますね」とスニーカーを脱いで家に上がった。
「美海くん、うちで朝ごはん食べてく?」
「お願いしていいっすか」
「了解。いつもごめんなさいね」
「いえいえ」と俺はにっこりとしてから、二階に上がって遠慮なく瑞砂の部屋のドアを開ける。瑞砂はふとんを頭までかぶって、すやすやとしているようだった。
「おい瑞砂、本日も朝になりましたよ」
 反応はない。寝息しか聞こえない。ほんとにこいつ、いつも眠そうだし、気がつけば寝てる。
 しょうがねえなあ、と俺はカーテンを開けて室内を朝陽で照らし、ふとんに手をかけて容赦なく剥いだ。瑞砂はうめいて視界をかばい、ベッドにうつぶせる。
「何、まぶし……」
「朝ですよ! 仕事遅刻するぞ」
「美海かよ……」
「お前、ほんとねんねが仕事みたいに寝るよな。赤ちゃんか」
「っるさい……あと五分」
「ダメ。はいはい、おばさんがおいしい朝ごはんも用意してるぜ」
「俺のぶんも食べとけ……」
「それで君の腹に溜まるのかね。ほらっ、起きろ!」
 そう言って俺は瑞砂の腕を引っ張る。瑞砂は唸りながらも身を起こし、でもまだ目は開ききっていなくてくしゃくしゃだ。イケメンがもったいない。
「美海、仕事は」
「あがってきた。俺は今から帰って寝る」
「代わって……」
「むちゃくちゃ言うなよ」
「眠い」
「知らん。俺も眠いんだから、ほら」
 瑞砂はため息をついて顔を伏せ、目をこする。「煙草……」とかつぶやくので、「朝一で煙草とかやめとけ」と俺は瑞砂をベッドから引っ張り出した。
 瑞砂はベッドを降りてもゆらゆらしていて、寝ぐせもそのままにぼおっとしている。そんな瑞砂の肩をばしっとはたき、俺は低血圧の幼なじみを一階の食卓に連れていった。
「美海くん。毎朝すまないね」
 ダイニングのテーブルでは、瑞砂のおじさんも朝食をとっているところだった。「もうガキの頃からなんで」と俺はにこっとして、瑞砂と並んで食卓につく。
 黄色のたまごに赤いケチャップ、シンプルなオムライスがバターの香りをまとって用意されていた。「いただきまーす」とスプーンですくって食べると、中身もほかほかのチキンライスだ。
「またオムライス……」
 瑞砂はそんなことを言っているが、「おばさんのオムライス、うまいじゃん」と俺はもぐもぐと食していく。
「サラダだけでもいいから、何か食べなさい」
 おばさんは寝ぼけている瑞砂にあきれながら言って、瑞砂はフォークでレタスとトマトにドレッシングがかかったサラダを食べはじめる。
 おばさんはてきぱきと瑞砂と俺にコーヒーも淹れてくれて、自分もパートがあるので朝食をとりはじめた。
 そうこうしているうちに、瑞砂もようやく目を覚ましてきて、「今日も外回りだったな……」とかつぶやく。瑞砂は今、工場で働いているが、内勤のライン作業で楽するはずが営業課に配属され、商品を店舗に売りこむ仕事をさせられているらしい。
 八時半までにはタイムカードを切らなくてはならない瑞砂を、何とか八時前に送り出すと、俺はようやくお隣の実家に帰る。両親はとっくに出勤して、姉貴の和海かずみは彼氏と同棲していて、もうこの家にいない。
 静まり返った家で、俺はシャワーを浴びて染みついた煙草のにおいを落とし、部屋のカーテンを閉めてなるべく光を遮断すると、ベッドにもぐりこんだ。
 ──夢の中に、またあの人が出てきた。
 伏せられた長い睫毛。褐色のなめらかな肌。折れそうに華奢な腰。俺の性器を持っていきそうに吸ってしゃぶって、こんなにうまいフェラ、風俗でもなかなか味わえなくて。
 思わずいってしまった俺をあの人はごくんと飲みこんで、「ふふ、じゃあ僕の勝ちだよね?」と妖艶に微笑んで俺をベッドに押し倒した。俺は腰がまだ溶けそうで、「待って、ちょっと」と言ったけど、「待たなーい」とあの人はにっこりして俺に深くキスをして、またその舌遣いがエロくて。
 理性が崩壊してきて、気づけば俺もそのキスに応えていた。腰に当たっているのは分かっている。硬くなっている。おかしい。俺はストレートで。男には興味ないんだけど。この人の色気には勝てない。
 調子が狂うほどの婀娜っぽさ。俺はあの人を、硬いままの性器でつらぬいて、みだらに喘ぐそのすがたにさらに興奮して──
 はっと起きたときには、夢精こそしていなくても、下着が先走ったもので濡れてしまっていた。
 俺はため息をついて、前髪をかきあげた。
 あー、もう。ここまで引きずるかよ。あの人と寝たのは今年の初めで、それから別に会ってもいない。なのに、あの一度きりの情交のひとつひとつが忘れられなくて、しょっちゅうこうなってしまう。
 泪音さん、というその人は、俺のひとつ年下のれっきとした男だ。前述の咲羽さんの友人で、正月の〈ナーシャ〉に遊びにきた。
 そこで、俺は泪音さんに口説かれた。初めは苦笑していた俺だったけど、見つめてくる濡れた瞳や、唇を舐める舌や、指先の色っぽい仕草に、何だかどきどきしてきた。
 そんな俺に泪音さんはにっこりすると、連絡先を渡してきて、「美海くんのも教えて?」と甘えた声で言われた。俺は甘い酒でも飲んだみたいな状態になっていて、素直に連絡先のメモを渡した。それからしばらく、そわそわしていたら、泪音さんから「会いたいなー」と連絡が来て、まあ何というかそういうことになってしまった。
 今まで、女の子としかセックスしたことはなかった。彼女たちとのセックスが悪かったわけではない。でも、泪音さんとのセックスは段違いで気持ちよかった。男だから男のいいところも分かっていて、翻弄されてしまった。溺れるようなセックスなんて、そうできるものではないと思うが、泪音さんとは溺れてしまった。
 それから、俺は完全に泪音さんを意識しているが、泪音さんから再び連絡が来ることはなく、俺から連絡してよいものかも分からず、ぜんぜん会えないまま俺の片想いみたいな感じになっている。
 泪音さんと会えないまま一ヵ月以上が過ぎた頃、適当にクラブで女の子をつかまえて、ちょっとだけつきあった。やはり、女の子とのセックスが悪いわけではない。高く喘ぐ声も、柔らかな軆も、ねっとり俺を包む膣も、何も悪いわけではないのだ。
 でも何か違った。何というか、女の子は基本的に受け身で、攻めるように俺を感じさせたりしない。まぐろと言うほどではなくても、フェラだっておいしそうというより仕方ない感じで。俺って別にMじゃないけどなあ、とは思うのだが、泪音さんの俺を攻めてくるセックスはくらくらするほどよかった。
 結局その子とは一ヵ月もせずに別れて、やばいなあ、男のほうになっちまったかなあ、と若干焦っている。
 俺はマスターベーションで抜いてしまうと、後始末をしてからベッドに転がり、スマホに登録している泪音さんの連絡先を見つめた。
 もしまた会ったら、俺は泪音さんに告白してしまいそうな気がする。俺はわりと、自分から告るタイプだし。
 でも、泪音さんには俺なんて行きずりのひとりなのだと思う。告ったところで、つきあってもらえるわけがない。やることだけはやってくれるかもしれなくても、それだと何だかかえってつらくなりそうだ。
 ため息をついて、視線を天井に移し、「好きだわー……」とつぶやいて寝返りを打つ。
 水商売の裏方は、準備やら支度やらがあるので十八時前にはすでに出勤している。〈ナーシャ〉のオープンは二十一時だが、現在黒服は俺ひとりなので、あれこれやっていたらすぐにキャストが出勤してくる二十時くらいになる。
「おはよう、美海くん」と声がして、しゃがんでアイスを砕いていた俺は顔をあげる。長い髪をアップにして、化粧で顔立ちを映えさせたスーツの美瑠ちゃんがいた。「おはようっす」と俺が応じると、「ママと咲羽さんはまだ?」と美瑠ちゃんは細い首をかしげる。
「ママは同伴って連絡ありました」
「同伴かあ。私もそろそろできるようにならなきゃだよね」
「タダ飯っすよ」
「そう考えられるならいいけど。何か、食事おごらせて店でまた飲ませて、罪悪感が……」
 困ったように整った眉を寄せる美瑠ちゃんに、「優しいっすね」と俺は笑いを噛む。
「それに、前の職場ではむしろ店外なんて禁止だったし」
「風俗でしたっけ」
「そう。ニューハーフヘルス」
「いろんな仕事があるなあ」
「嫌だったけどね、ぶらさがってる軆を晒して働くのは。だから、〈ナーシャ〉に来れたのは嬉しい」
「美瑠ちゃん、手術はまだっすよね」
「うん。今、お金貯めてる」
「ヒモはまだ働いてないんすか?」
「あの子はヒモじゃないってば。私が保護者なの」
 俺は肩をすくめ、美瑠ちゃんはカウンター内に入ってきて、衣装部屋でドレスすがたになってからタイムカードを切った。
「美海くんはどう?」と訊かれて「何すか」と問い返すと、「好きな人」と言われ、俺はやや気恥ずかしく咲う。
「何にもないっすよ」
「会いもしてないの?」
「会ったら、もう……『好きです』って言っちまいそうで」
「言っていいんじゃない?」
「振られますって。咲羽さんに聞いた感じ、恋愛はせずに軆で終わる人らしいですし」
「厄介な人に惚れたねえ」
「てか、男っていうのが自分でもびっくりっすよね」
「今まで、女の子ばっかり?」
「そうっすね。初めはセックスがすごくて、それに引きずられた気持ちかなあと思ってたんすけど……忘れられなくて」
「恋だね」
「ですね」
 そんなことを美瑠ちゃんと話していると、「おはよー」と声がして咲羽さんも出勤してきた。ピンクのミニワンピに白いロングカーデ、「咲羽さんかわいい」と美瑠ちゃんに言われて、「ありがと」と咲羽さんはにっこりする。
 美瑠ちゃんは地毛を伸ばしているけれど、咲羽さんのカールの長い髪はウィッグで、たまに男の格好で出勤してくることもある。女装のときすごく美人だけど、男のときもイケメンだから、素材だなあと思う。
 衣装部屋に行った咲羽さんが、白いドレスに青がグラデーションになったストールを合わせたすがたになって戻ってくると、ふたりともカウンターの椅子に腰かけてスマホをいじる。ヒマつぶしでなく、営業メッセを送りまくっているのだ。
 俺はふたりに冷たい烏龍茶を出しておき、照明を絞ったりジャズのBGMを流しはじめたり、そろそろ客も来る時間帯なので準備する。
「美瑠、誰か客来そう?」
「手応えある返事は来てないですね」
「僕もなかなか。水曜日は枯れるなあ」
「ママは同伴ですよね」
「うん。だから、ママが荒れることはないだろうけど」
「私、同伴ってまだむずかしくて」
「僕もあんまり好きじゃないかなー。やれと言われたらするけど」
「できないとお給料に影響します?」
「それはするよね。やるに越したことはない」
「そっかあ。頑張らなきゃなあ」
「美瑠はお金貯めなきゃだもんね。女ホルは?」
「それはやってます。おっぱいも少しありますよ」
「美瑠が全部女の子になったら、僕もママも嬉しいよ。美海くんも」
 美瑠ちゃんがこちらを見て、「もちろん」と俺はにっとする。美瑠ちゃんははにかむように笑むと、「頑張ります」とうなずいた。
「そういえば、咲羽さんは美海くんの好きな人と友達ですよね」
「泪音? まあね」
「最近、その人どうですか?」
「昨日は観客にナンパされて、なし崩しにしたらしいけど」
 泪音さんの仕事は、ゲイストリップの踊り子という、また変わった職業だ。俺はそのステージを観たことはないけれど、すごく綺麗なのかなあと勝手にどきどきする。「綺麗というよりエロいんだけどね」と咲羽さんに言われたことはある。
「泪音さん、相変わらずそういう生活なんっすね……」
 俺がしょぼんとそうつぶやくと、咲羽さんは長い睫毛を動かしてこちらを向く。
「美海くん、まだ泪音に患ってる感じ?」
「患うって……まあ、そっすね」
「けっこう本気だねえ。泪音から美海くんの名前聞くことは、もうないけど」
「そういう傷つく情報はいらないっす」
「でも、泪音の中で美海くん悪い印象じゃなかったからなー。連絡したら、喜ぶと思うよ」
「会ってもやるだけじゃないすか」
「まあそうだろうね」
「俺はそうじゃなくて、何というか……いややりたいんですけど、セックスで終わったら割り切れないものもあるというか」
「恋ですねえ」
「さっき美瑠ちゃんにも言われました」
 咲羽さんと美瑠ちゃんは顔を合わせると、「いじらしいよねえ」と笑い合った。
 そんな雑談をしていると、ふと入口のほうから「もう開いてるかなー?」という声がした。咲羽さんも美瑠ちゃんもきりっと仕事の顔になる。
「いらっしゃいませ!」と美瑠ちゃんが出迎え、咲羽さんは客の名前をさっと俺に伝える。俺はおしぼりを渡して、その客のボトルを出しておいた。客はふたり連れで、咲羽さんも美瑠ちゃんもその席に着いた。
 俺はカウンターからテーブルを見守り、そろそろママも同伴の客連れてくるかな、と腕時計をちらりとする。
 俺から連絡したら、泪音さんは喜んでくれる──か。そうなのかな。ずっと会っていなくて、正直顔も見たいし、声だって聴きたい。
 泪音さんのほうは、そんなふうに俺に執着などしていないと分かっている。それでも、俺は泪音さんを忘れられない。あの瞳に覗きこまれて、なめらかな肌に触れて、甘美な香りを抱きしめたい。
『泪音さん、久しぶりです。
 美海です、俺のこと憶えてますか?
 また会えたら嬉しいんですけど、いそがしいかな。
 時間あるときあれば教えてください。』
 迷いに迷って、春雨前線がやってきた日、仕事前の午後に泪音さんにそんなメッセを送ってしまった。
 五分間、画面を凝視したが、既読はつかない。寝てるのか。気づいていないのか。あるいは無視か、とうにブロックされているとは思いたくないが──。
 俺はシャワーを浴びて支度をし、やっぱり既読がつかないことに息をつきながら、生温かい匂いがただよう雨音の中を出勤した。
 雨のせいか今夜は客足が悪く、店は三時になる前に閉店した。ママもキャストのふたりも先に帰り、俺は黙々とひとりで片づけや掃除に精を出す。明日の下準備まで整うと、俺はセキュリティを発動させて店を閉じて、やっと帰宅だ。
 エレベーターを待つあいだ、無造作にスマホを見ると着信がついていた。ん、とチェックしてみて、どきんと心臓が高鳴る。泪音さんの名前に通知がついている。
 慌ててトークルームを開くと、メッセと画像があった。
『よしみん久しぶりー!
 文章堅くて笑ったw
 僕はいつでも会えますよ?
 今夜もバーで飲んでるから、仕事終わったらおいで。』
 そして、そのバーへの地図が添付画像だった。
 今夜。え、今夜。マジか。俺はごくっと生唾を飲んでから、今から行っても間に合うかを早打ちして送信した。
 昼間と違ってすぐ既読がつき、『いい男いないから、まだ飲んでるよ』と返ってきた。これは、いい男が現れ次第、そいつとそういうことをしにいくということか。
『急いで行くんで待っててください!』
 そう送ったとき、エレベーターが来て俺は乗りこむ。『りょーかい』と泪音さんの返信が来て、急速に俺の心臓が脈打ちはじめる。
 会える。泪音さんに会える。四ヵ月ぶりくらいだろうか。四ヵ月、じりじり悩んで、俺は泪音さんが好きだと思った。じゃあ泪音さんは、俺のこと……
 まだぬるい雨が降っていた。折り畳みの傘をさし、スマホのマップで検索しながら泪音さんのいるバーに向かう。途中から、周りにやたら同性同士の連れ合いが増えてきて、そういう場所なんだなと思いつつ、さいわい〈ピーチィミルク〉というバーが五階に入ったビルを発見した。
 俺は傘を閉じ、ちょっと濡れた肩をはらって、エレベーターで五階に上昇する。雑居する店の中から〈ピーチィミルク〉の扉を見つけ、そろそろと押し開けてみた。
「あら、いらっしゃい。一見さんね」
 カウンターにいた黒服のマスターっぽいおじさんが、完全なるオネエ言葉でそう言ってにっこりする。「どうも」と俺はぎこちなく咲い返し、ガチな場所だなと思いつつ店内に踏みこむ。
「おひとり?」
「あ、いえ──泪音さんって来てますか?」
「あら、泪ちゃんのファン?」
「ファンというか──」
「お知り合い?」
「みたいなもんっす」
「ふふ、泪ちゃんなら奥で飲んだくれてるわよ」
 俺は右手のボックス席を見やり、すぐにそのすがたを見つけた。何だかジャージみたいな格好で、スマホをいじりながら何か飲んでいる。
 俺はほかの客には目もくれず、その人に近づいて「泪音さん」と声をかけた。「んー」とその人は振り返り、大きな瞳に俺をつかまえると、「ほんとに来た」と噴き出してころころと笑った。
「……来ちゃダメでしたか」
「いえいえ。嬉しいですよ」
「泪音さん、その……今日はオフか何かですか」
「そうだけど、何で?」
「いや、ジャージって」
「だって楽だもーん。ほらほら、よしみん隣座って」
 ひとまず、泪音さんの右隣に座った。すると泪音さんはすぐ俺の肩にもたれてきて、「濡れてるね」と水気を指先でたどる。
「まだ雨降ってて」
 言いながら、その指にすでにどきまぎしていると、泪音さんは俺の腕や胸の筋肉に触って、「よしみんの軆、やっぱエロ……」とかつぶやく。その口調に軆が熱っぽくなるのを感じていると、「咲羽にちょっと聞いてる」と泪音さんは俺の腕に腕を絡めた。
「僕にマジになっちゃったんだって?」
「はっ? え、咲羽さん──」
「違うの?」
「え……と、いや、まあ」
「ふふ、そっかあ。光栄だなあ」
「……迷惑、ですよね」
「ん? 何で? 嬉しいよ」
 泪音さんを見た。泪音さんはレモンが飾られた透明なカクテルを飲んでいる。こくん、と動いた喉仏に、男なんだけどなあと思っても目が離せない。
「どうする?」
「えっ」
「ホテル行く?」
「はっ?」
「僕としたいわけでしょ」
「え……えっ、いや、」
「違うの?」
「したい、っすけど」
「うん。じゃあ──」
「じゃなくて、その、もちろんしたいっすけど、その前に俺は──」
 泪音さんがくるくるした瞳で俺を見つめてくる。その瞳は、酒の効果か何なのか潤んでいてエロい。
「俺は、ですね」
「はい」
「泪音さんとは、その──恋がしたい、のです」
 泪音さんはぱたぱたとまばたきをして、それから「ふむ」とカクテルをすすり、それを飲みこむとなぜか小さく噴き出した。
「僕さ」
「はい」
「けっこう、めんどいかもよ?」
「………、人の面倒見るのは慣れてます」
「おにいちゃんなの?」
「いや、幼なじみが」
「あー、元黒服かあ」
「あいつの世話、ガキの頃からやってます」
「性的にも?」
「……いや、それは」
 泪音さんはおかしそうに咲って、カクテルをテーブルに置いた。そして俺に寄りかかると、耳元に口を寄せてくる。吐息が熱くて心臓が跳ねる。
「よしみんはさ」
「は、はい」
「エロいこと、好き?」
「………、そりゃあ、人並みに」
「それを全部、僕に向けてくれる?」
 俺は泪音さんと瞳を重ね、「当たり前じゃないっすか」と答える。
「むずかしいよ? 一生浮気できないよ?」
「浮気とか……そんなん、できないっす。だって俺、泪音さんしかもう興味ないもん」
 泪音さんは柔らかそうな唇を笑ませて、「BLの台詞みたい」と言った。
「……嘘くさいっすか?」
「んーん、憧れの台詞」
 泪音さんはふと右手を持ち上げ、「ん」と小指を立てて見せた。俺がきょとんとすると、「約束」と泪音さんは俺を見つめる。
「僕を振り向かせるまで、あきらめないで」
「……まだ、振り向いてくれないっすか」
「そんなにちょろくないよ、僕は」
 そりゃそうか、と思った俺は、せめて先約を入れたくて泪音さんの小指に小指を絡めた。すると、泪音さんはそのまま俺を引き寄せて、唇を重ねてくる。
 蕩ける深いキス。やばい。これだけで勃起しそう。口づけをちぎった泪音さんと至近距離で見つめあい、「泪音さん、好き……」と俺は浮かされたようにささやく。
「うん。知ってる」
「……俺ばっかり、泪音さんが好きっすね」
「ふふ、どうだろうねえ」
 小指を絡めた手をつかんで、泪音さんを引っ張って俺はその軆を抱きしめた。やっぱり、折れそうに細い軆だ。柔らかさはなくて、肩幅とかやっぱり男なのだけど、愛おしい。
「振り向かせます」
「うん」
「振り向くまで、俺とのエッチはなしですよ?」
「えー、そこはいいんじゃない?」
「ダメっす」
「えー、じゃあ、早いとこ落としてね?」
 そう言って、泪音さんは俺の首に腕をまわしてしがみついてくる。俺はその艶やかな髪を撫でて、そんな簡単に落ちないよな、なんて思う。
 でも、それでも俺は泪音さんが好きだ。約束もした。必ずこの人を落とす。
 泪音さんの体温が、俺の軆に染みこんでくる。ああ、本当は早くこんなジャージは剥ぎ取って肌を重ねたい。でも、それだけでは俺はどうしても満たされない。この体温のように、泪音さんからの愛情も肌に感じながら愛し合いたい。
「もう俺、泪音さんしか無理だ……」
 そんなことをつぶやくと、泪音さんは笑って俺の耳を軽くかじって、「もっと言って」なんて甘えてくる。俺は泪音さんの耳元で思いつく限りの蜜語を蕩かす。
 ずっとそばにいたい。ずっとずっとかわいがりたい。俺と同じくらい、俺しか見えないようにしてやる。
 俺の甘い言葉を泪音さんは目を閉じて聴いていて、俺はいつまでも泪音さんを口説いていた。心地よさそうに俺の声に耳を澄ます泪音さんに、この人を幸せにするのは俺だ、と改めて思った。
 小指を絡めて、そう誓ったから──絶対にあなたを落として、心も交わすセックスを教えてあげる。
 覚悟してろよ、と内心つぶやくと、俺は泪音さんのほてる軆を失くさないようにぎゅっと抱きしめた。

 FIN

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