俺の目の中には、雨が降っている。
同性に惹かれる自分を知ってから降っている後ろめたい雨。たまに目から無性にこぼれおちる雨。人の気を憂鬱にさせる雨。
今日だけは晴れてほしかったけど、やっぱり雨はしとしと降っていて、彼を滅入らせていないかとそちらにばかり気を取られていた。
SNSで知り合った、二十歳の男の子と会うことになった。八歳年下の彼もゲイで、彼も彼で事情があり、友達に付き添ってもらって、俺の住む街まで出てきてくれた。
俺は自分以外の同性愛者をリアルで見たことはなかったが、彼には知り合いにゲイカップルがひと組いる。今日彼に付き添ってきたのもそのカップルで、三人相手にちゃんと話せるだろうかと俺は不安だったが、カップル君は気を利かせて俺と彼をふたりきりにしてくれた。
彼は俺を見つめ直して、俺は目の中の雨をごまかすために咲った。すると彼もひかえめに咲い返し、「どこか入りましょうか」と言った。
八月が始まったばかりの猛暑日だった。俺の部屋近いけど、とは思っても、もちろん初対面では言い出せない。目についたファーストフードに入って、冷たい飲み物を確保して、夏休みで混んでいる二階の禁煙席を取った。
そしていざ向かい合うと、メールでさんざん話してきた内容も含め、お互い改めていろいろと話をしていた。
葉くんという彼は、家族にカミングアウトを拒絶されて以来、長年引きこもっていた。家族はほどなく自分たちの間違いに気づいて謝罪したけど、葉くんの心は開かなかった。部屋を出るようになったのは二年前、さっきのカップルの片方が妹のクラスメイトになり、家に連れてきたのが切っかけだった。
もちろんすぐにドアを開けたわけではないけれど、少しずつ心はほぐれていって、部屋を出て、家族とも和解することもできた。今は通信制の高校にも通っている。「彼が好きではないの?」とメールでははっきり訊きづらかったことを、やっと直接確かめることができた。すると葉くんは咲って、「さっきの彼氏に惹かれてるのは知ってましたから」とお茶をストローで飲んだ。
「高校二年生と中学三年生だっけ」
「高校生の子が、日記にも出てるSくんですよ。柊くんっていうんです。彼氏は夏樹くん」
「そうなんだ」
俺は、男と実際につきあえたことなんてない。
葉くんのことをよく見たかったけど、怖かった。あんまり見つめたら、このじとじとした目に気づかれてしまう。
目を見て話さないから、余計相手を不快にさせるのは知っている。それでも、俺の目なんか見ても不快なのは同じだ。葉くんには嫌われたくないから目は合わせられなかったし、俺がそんなふうに挙動不審なのを葉くんは承知はしてくれている。
でも何かやっぱ申し訳ないなと焦りも感じつつ、俺は踏みこむ勇気が出ないまま、葉くんと夕方くらいまで話だけで過ごした。
カップル君との待ち合わせ場所の改札まで、並んで歩く。身長は俺のほうが少し高い。
まだ空は明るくて、ざわつく人混みも暑くて、焼ける肌から汗が絞り取られていく。
また会いたいと言いたいのに、言っていいのか分からない。葉くんからもその言葉はない。
待ち合わせの改札には、すでにカップル君がいて、葉くんのことを「芽さん」と呼ぶ。本名だろうなと思っていると、「話せました?」と柊くんらしきほうが言って、葉くんはうなずく。
夏樹くんはふたりの会話を見つめてから、俺のほうを見た。俺はびくっとなりかけたけど、中学生だぞ、と平静をつかんで何とか笑みを作る。夏樹くんはちょっとはにかんだように微笑んでから、「また会うんですか?」と首をかしげてきた。
「えっ。あ──えっと。どう、なのかな」
少し困って、つい葉くんに投げてしまうと、彼はこちらを見て「僕はよかったらまた」と言った。マジか、とそう言ってもらえる自信のなかった俺は葉くんを見る。
でもそうして一瞬瞳が触れてしまい、どきっとうつむいた。
「あ、でも怜さんが迷惑だったら、」
「いや、ぜんぜん。俺で、よければ。どうせ毎日ヒマだし」
「いいんですか?」
「葉くんこそ、高校あるなら──」
「僕は大丈夫です。この駅まで来たらいいですか」
「うん。またメールで決めよう」
「はい」と葉くんは咲い、「訊けてよかったですね」と柊くんに言われるとうなずいている。
柊くんは俺と葉くんを見てから、「次は邪魔しないほうがいいですね」と言った。「えっ」と俺と葉くんはうわずった変な声を出してしまい、カップル君は噴き出す。
「いや、葉くんが電車とかまだ怖ければ」
まだ人にも電車にも慣れていない。そんな理由でふたりに付き添ってもらった葉くんだから、一応そう言うと、葉くんは首を横に振った。
「頑張ります。慣れなきゃいけないし。通学でも通る駅ですから、ほんと慣れないと」
「そっか。ここまでは迎えにくるから」
「ありがとうございます。今日もすごく楽しかったです。僕の話が多くてすみません」
「俺も質問ばっかでごめんね」
「今度は怜さんのことも聞かせてください」
「愚痴っぽくなるかもしれないけど」
「怜さんのことも聞きたいです」
やっぱり伏し目がちにだけど、咲ってうなずいた。優しい子だな、と思った。
あのSNSで、いつのまにか葉くんの日記を読むのが日課になっていた。コメントをいくつか残して、メッセージを交換して、ケータイのアドレスを教えてもらえたときは本当に嬉しかった。葉くんのほうがずっと年下なのに、俺はいつもこの男の子に救われている。
「じゃあ、今日はこれで」と葉くんが言ったのではたと顔を上げて、俺はうなずく。三人は切符を買って改札を抜け、一度俺を振り返って手を振ってくれた。俺も小さく手を振る。
三人はホームへと混雑の中に紛れていってしまう。分からなくなるまで見送ると、大きくため息をついた。
こんなに外にいたのは久しぶりだ。来るときはいたたまれなさのようなもので息苦しさがすごかったが、予想以上に葉くんが物柔らかで、今はだいぶ落ち着いている。このままの気分で帰ろう、と身を返してアパートへと急いだ。
葉くんの過去をたどる日記に惹かれたのは、俺も引きこもりだったからだ。働きもせず、親の仕送りで暮らし、鬱に入っていることも多い。動けないときは数日ベッドに沈んでいるし、動けるときもPCでネットをふらついている。
ホームにしているのは葉くんと知りあったセクマイのSNSで、基本的に書きこむよりROMだ。日記が気になる人はフレンドになってもらって、更新情報が上がるのをひたすら待つ。その中でも、葉くんは更新率が高く、コメントも早めに返してくれる人だった。
ほかにもいくつかSNSをかけもちしていても、いつのまにか葉くんがいるそのSNSを一番覗くようになっていた。葉くんの日記は、梅雨が終わる頃に高校に通うようになったところまで行き着いていて、『回想が終わったら更新率減るかもしれないです。』と言っていた。そしたら俺の日課はどうなってしまうのだろうと不安を感じていたところに、葉くんが俺にオフを持ちかけてきた。
会いませんかというメールをもらったときは何度も読み返して、目が疲れてくるほどだった。返事しなきゃ、と思ってもケータイを持つ手が震える。
会う。葉くんに。会ったら嫌われるのに会うのか。この根暗な目を見られたら絶対に嫌われる。
このままでいい。でも断って葉くんを傷つけたくない。会えるなら、俺だって会いたいけど。自信があるなら、会うけど──。
また目から水分があふれてきた。嫌になる。何でこんなに情けないのだろう。
悩んだ挙句、俺は正直に『会ったら嫌われそうで怖い。』と書いた。そうしたら、葉くんは『じゃあ、怜さんが会いたいと思ったら教えてください。』と返してきた。会いたい。会いたいとは思っている。でも、うまくこのコンプレックスを説明できない。
『実際会ったらすごく印象悪いと思うけど、葉くんがそれでもいいなら。』
そんなまわりくどいことしか書けなかった。葉くんは『僕もひとりで行けないとか勝手なこと言ってますから。』と書いて、『怜さんこそ、Sくんたちについてきてもらうのは嫌じゃないですか?』と訊いてきた。それは別に気にならなかったし、葉くんのこれまでを思えば納得できるので、『大丈夫だよ。』と返した。
『じゃあ、怜さんに会いたいです。』と葉くんは繰り返した。俺はゆっくり深呼吸して、『分かった。会ってみよう。』と答えた。
コンビニで手早く食料を買って、部屋に帰宅した。明かりをつけると、ほとんどの床面積をアイボリーのベッドに奪われた部屋が浮かぶ。あとはシルバーのノートPCが載るテーブル、その前に白いパイル生地の座椅子があって、もう床は残っていない。
漫画や音楽はほとんど売ってしまい、生活のたしにした。手前に台所と冷蔵庫と洗濯機があって、その奥がユニットバスだ。駅からは徒歩五分でこの条件だから、室内の狭さに文句はない。ベッドに乗ってしまえば、じゅうぶん背伸びはできる。
食料を冷蔵庫に片づけると、PCの電源を入れながらケータイを見た。
着信はない。葉くんにメールしたほうがいいのだろうか。いや、別れてまだ十分ぐらいだ。さすがにうざい。カップル君と一緒だから、話しているだろうし。俺のこと話してんのかな、と思うとまた心が陰って悪く考えそうになったが、PCが起動したので気を取り直して座椅子に腰をおろした。
SNSを見ても、葉くんの更新はまだない。こんなに気持ち悪いほどアクセスしているとは思えないほど、普段は何も書かないけど、今日という日は残しておきたかったから、葉くんに会ってきたことを下手くそな箇条書きみたいな文章で書いた。
ちらほら足跡がつくと、死にたいぐらい恥ずかしい。あんまり見なくていいからと思いながら、もっと文章の上手なほかの人の日記を巡回していると、ふとケータイが鳴った。
ベッドに放っていたそれを取り上げると、葉くんからのメールで、慌ててかちっと開く。
『今日はありがとうございました。
実際に会えてすごく嬉しかったです。
僕の話を聞いてもらってばっかりだったのが、ちょっと申し訳ないですけど。
怜さんの話も聞きたいので、よかったらまた会ってください。
今度はひとりで行くので、もっとゆっくり話しましょう。』
……やばい。何だこれ、すげえ嬉しい。
また会ってくれる。人に聞かれた手前でなく、葉くんがまた俺に会いたいと言ってくれている。「あー」とか無駄な声をもらして、座椅子の背もたれに沈みこむ。
明かりを見上げて、息を吐いて、ちゃんと顔も見てあげなかったのに、と思う。
綺麗な顔立ちをしているぐらいの認識はしたけど、やっぱりよく思い出せない。すごい失礼だったのに、と悔やんでも、メールを読み返せば葉くんの言葉がある。
話したい。今度は、俺の話を。あの子になら、俺のくだらない人生も毎日もさらすことができる。メールではすでに知られているのだ、思うより彼は俺を知ってくれている。
それでも俺に会いたいと言ってくれている。もっと信じなきゃ、と俺はひとまず葉くんへの返信を打ちはじめた。
葉くんは家族にカムしているけれど、俺はネット上以外で、誰にもカムしたことはない。家族も知らない。友達も知らない。以前の地元でも現在の近所でも、誰も知らない。
自覚したきっかけはよくある話で、友達を好きになっている自分がいた。ばれたらイジメに遭う予想しかできなかった。必死で隠した。中学、高校、大学。それから、実家から何駅か離れたこの街でひとり暮らしを始めた。
当時は一応、チェーンの居酒屋でバイトをしていた。駅前の居酒屋で、夜や週末は呼びこみをさせられたり、酔っ払いに絡まれたり、従業員の出入りが激しかったり──結局、オーナーが「こんなこと言いたくないんだけどね」と言い出した。
「もっと、ぱっと明るく笑えないもんかな。君の眼つきで気分を害するってお客様が多いんだよね」
鏡を見て、みんな気づくんだなと思った。俺の目の中に降っている雨に。こんなにじめじめしている。人が気分を害するのも、当然か。
笑顔の練習なんてしなかった。俺の後ろめたいところは絶対さらせない。さらしたらめちゃくちゃにリンチされる。だから、一年足らずでその仕事は辞めた。
それから、あんまり続かないバイトを転々とした。歳を取るごとに採用率は下がっていった。やはりよく眼つきについて注意されて、友達になった奴にも「ちょっと笑ってみるだけで違うから」と忠言された。
そんな中で、昔の友達が結婚した、子供ができた、と報告してくるようになった。それが、俺を完全に鬱に押しこめた気がする。
結婚式に呼ばれたら、嫁の友達を紹介されたりする。お膳立てされてデートまでは行くけれど、それ以上の進展はできないというか、考えられなかった。でも、そろそろカムフラージュしないと怪しい年齢だよなと思う。それでも、女はちょっと苦手で、好きになれない。
どうすればいいのだろうと考えた挙句、すべて面倒になってしまった日が来た。ケータイの番号とアドレスを変えて、ほとんど人に教えなかった。
恐ろしいかもしれないが、それでこまごまとうるさい友達と縁が切ることができた。この部屋に来るほど情に厚い奴もいない。実家に押しかけるほど心配する奴もいない。それから、俺は働くこともなく引きこもるようになった。
親とだけは、たまに連絡を取る。人一倍、彼女をそろそろと期待するのも親だ。親のことは嫌いじゃない。何だかんだで、こんな俺を仕送りでいまだに養ってくれている。ふたりに言う「できるだけ早く次の仕事見つける」も実行できるものならしたい。
でも、どうしても俺にはホモという引け目があって、その雲がこの目を陰湿にする。せめて実家に戻ったほうが金をかけないと分かっている。けれど、そうしたら距離が近すぎて、俺は両親のことも嫌いになりそうだった。
毎日をこの部屋で無意味に垂れ流している。外出は、食料や日用品を買いに、コンビニあるいはスーパーに行くくらいだ。それでもきつい。むしろゴミ出しさえつらい。正直、自分は心療内科とか精神科に行ったほうがいいのかもしれないとも考える。
雨が降るからと、自分の心に硬く閉じこもってしまっている。濡れたくない。凍えたくない。傷つきたくない。
パートナーがいれば、自信が変わるかもしれない。そう思って、いつのまにかSNSでネット上のつきあいは持つようになって、でも、突っ込んで親しくなる人もなかなかいなくて。そんな中で、葉くんは自然に俺の中に入ってきた。
葉くんの引きこもってきた過去がすごく自分に重なって、この人と話したいと思った。そしてやっぱり、葉くんは俺のつたない言葉に共感して、驚くほど理解してくれた。だから今日だって、思い切って久々に駅にまで出て、会いに行くことができた。
その日以来、葉くんがあの駅まで来て、俺はそれを迎えにいって、適当に店に入って話をするようになった。一瞬、葉くんの目を見る。葉くんの目にも、雨が降っていたような陰りがある気がした。でも、それは暖かく乾きつつもあった。
柊くん。夏樹くん。妹や両親。葉くんにはもういろんな人に、傘をもらったり暖をもらったりしている。俺に会ってくれても、「じゃあまた」とは言ってくれるけど、そこに帰っていってしまう。
それが寂しかった。SNSでも、日記をよく更新するせいか葉くんは人気がある感じで、コメントがすぐつく。その中の誰かともオフしてしまったらどうしよう。葉くんを持っていかれてしまったらどうしよう。
そう思うと、恐怖に近い焦りに悪寒さえ走る。夏休みが終わっても、高校に行ったついでとか、休みとかで、変わらずに葉くんは俺に会ってくれていた。
今捕まえておかないと、きっと、人生で一番後悔する。そう思った九月が終わりかけて涼しくなった日の昼下がり、いつもと同じように改札を抜けてきた葉くんに、俺は思い切って言ってみた。
「あ、あのさ。今日、俺の部屋に来てみない?」
葉くんはきょとんと俺を見た。俺は恥ずかしくて、いつもとは違う湿気を瞳に覚えた。いろいろ言い訳は考えてきたのに。今日はお茶をする金がないとか。いつも会うとお茶代がかかるのが悪いとか。でも、ひとつも口から出てこない。
葉くんは少し躊躇ったものの、「いいんですか?」と肯定にも取れる言葉を口にした。俺は急いでうなずき、「葉くんが嫌じゃなかったら」と慌ててつけくわえた。すると葉くんは咲って、「行ってみたいです」と答えた。その言葉にほっとして、思わず大きな息を吐いてしまい、ちょっと笑われてしまった。
そんなに歩かなくても、部屋にはすぐに着く。鍵をまわして、葉くんを部屋の中に招く。「お邪魔します」と葉くんは部屋に踏みこんで、「綺麗にしてるんですね」と見まわしてつぶやいた。「物がないか、使ってないだけだよ」と俺は苦笑して冷蔵庫からペットボトルの烏龍茶を二本取り出し、一本を葉くんに渡した。
ベッドサイドに並んで座ると、何となく沈黙になる。何か話そう、と思ってもどんな話題がいいのか分からない。
いや、いつもみたいでいいのに。昔のこと。SNSのこと。葉くんの高校のこと。何だっていい。
でも、何だか息がつまって声が出ない。葉くんも何も言わない。何だか、妙に心臓がどくどくとせりあげてくる。
葉くんを意識している。それを自覚すると、また恥ずかしくなってきて、ぎこちなく冷たい烏龍茶を飲んだ。それでも、変な鼓動は止まらない。部屋でふたりきりになっただけなのに。
ふたりきり。ふたりきりになって、普通、することって──
「よ、葉くんはさ」
考える前に、何か言わないと耐えられそうになかった。俺の声にはたと葉くんはこちらを見る。
「その、えと……今は、いないの」
「え?」
「いや、昔好きだった人とか、ほかの、ネットで仲良くしてる人とか、その中に」
「………、怜さんは、いるんですか?」
「俺は──いない、けど」
「そう、ですか」
「あっ……というか、いない──というか」
葉くんを見た。葉くんも俺を見ている。艶々の黒髪がかかった黒い瞳があった。
頬で血が蒸発しているような気がした。だからやっぱり目をそらしてしまったものの、「怜さん」と呼ばれて恐る恐る顔を上げる。すると、俺の瞳の中に溶かしこむように葉くんは微笑んで、「大丈夫ですよ」と言った。
「えっ……」
「僕は怜さんから離れませんから」
「……葉、くん」
「怜さんをひとりにしたくないって思うから」
葉くんを見つめて、思わず瞳から雫を落としてしまった。葉くんは俺の手に手を重ねて、ぎゅっと握ってくれた。葉くんの体温が手の甲になじんでいく。その安堵感に急に喉が絞めつけられて、俺は葉くんの手を握り返して引き寄せ、腕の中に抱きしめていた。
ふたりともペットボトルを取り落として、ふたはしていたそれは、座椅子の上に跳ねて転がる。
葉くんの軆は華奢だけど骨組みはしっかりしていた。まだ涙が止まらなくて、そのまま葉くんに塩味のキスをした。一瞬、葉くんは身を硬くしたけれど、拒絶はしない。俺は葉くんの頬に触れ、震えそうな声で言った。
「この先……とか、いいのかな」
すぐそばで葉くんが俺を見る。葉くんも頬を染めていて、「怜さんなら」と言ってくれた。俺はまた葉くんに口づけて、軆に触れながら葉くんをベッドに押し倒した。
男同士の仕方なんて、ネットでしか知らない。だから、いきなり無茶なすることをするのはやめようと思った。
服を脱いで、葉くんのものを口で愛撫する。それでもれる葉くんの声だけで、俺のほうは硬くなって先走るほどだった。歯は当たらないように、葉くんを頬張って血管を舌でなぞる。葉くんが切れ切れに小さく喘いで、俺は自分のものを握って、ぬめりですべりそうになりながらこする。
入れたいのが素直なところだけど、それはしなかった。たぶん、いきなりそうしたら葉くんが痛い思いをする。それは嫌だった。葉くんを大切にしたかった。だから、葉くんが達したのと一緒に俺も手の中に吐いたら、ティッシュで片づけてベッドに並んで仰向けになった。
「葉くん」
「はい」
「ずっと、怖かったんだ」
「え」
「俺は男を好きになるって知って、怖かった」
「………、」
「申し訳なくて、生きてていいのかとかまで考えた」
「……僕もです」
「そんなことばっかり考えててさ、何か、雨が降ってるんだ」
「雨」
「変な妄想に聞こえるから、誰にも話したことないけど。俺の目の中には雨は降ってる。暗くて、湿ってて、冷たい雨。だから、俺はいつもその眼つきがよくないって言われるんだ。その雨がひどくなると、理由もないのに涙が止まらなくなる。いつも雨なんだ。ゲイってことが後ろめたくて、怖くてしょうがなくて、雨が降ってる」
「……それでも、僕は怜さんのそばにいたいです」
「葉くん──」
「僕がいたら、その雨がやむとかは言えないですけど。でも、その雨は僕もよく知ってます」
「……うん」
「僕の中にもずっと降ってましたから」
「柊くんが止めたんだよね。ほんとに、いいの?」
「柊くんは友達ですよ。夏樹くんと幸せそうなのはうらやましいですけど」
「そっか」
「ただ、僕はあんなふうに怜さんのそばにいて、ひとりじゃないって知ってほしいです」
「うん」
「怜さんが、好きだから」
「……俺も。葉くんが好きだよ」
微笑が聞こえて、俺は葉くんのほうを向いた。葉くんも俺に顔を向け、温かく見つめてくれた。
葉くんの顔をちゃんと見ている自分に気づいた。黒い髪。白い肌。おっとりした口元。通った鼻梁。細い顎。目が雨で曇っていない。葉くんの顔がはっきり見て取れる。優しい瞳が俺の晴れていく瞳を映している。
俺は空の下に飛び出すように葉くんに腕を伸ばした。そして、その軆も心も離してしまわないように、大事に胸の中に抱きしめる。陽だまりのような柔らかな体温が愛おしい。
そう感じる幸せが心に溶けて沁みて、結局、俺はまた泣いてしまう。
FIN
