高校生になった初夏、幼なじみが死んだ。
もうひとりの幼なじみである玲史が、朝から俺のケータイを鳴らした。まだ部屋の中が蒼いほどの早朝だった。鳥の声が鋭くさざめいている。ふとんの中から充電器にあったケータイを手にして、寝ぼけながら通話ボタンを押すと、玲史のかすれた声が聞こえた。
『……水香が、自殺した』
え。
その瞬間、すべてが氷漬けになって静止したように感じた。ひやり、と不気味な悪寒だけが背中を這った。
玲史の息遣いが震えている。俺の心臓も、次第に喉から吐きそうなほど脈打ってくる。
『今、ロードワークから帰ってきたら』
玲史は陸上部で、毎朝欠かさず町内を走っている。
『ちょうどおばさんに逢ってさ』
喉がからからになって、生唾が刺すように痛い。
『さっき、飛び降りたって……』
「な、んだよそれ。え、精神病棟だし、せいぜい二階とかだろ」
『何か、うまく言ってひとりで外の売店まで行ったらしくて。それで、非常階段のぼって、一番上から』
ひりつく喉を飲みこんだ。
水香が、死んだ。自殺。頭がくらくらしてくる中で、とっさに浮かんだのは──
「い、遺書とか」
『……聞いてない』
「俺たちのこと──」
『あ、あれは、罰ゲームだろっ。悪いのはあの野郎だ。水香にガキまで生ませやがって』
俺は口をつぐんだ。
そうだ、と思った。玲史の言う通りだ。俺たちは悪くない。悪いのは全部、あの天使みたいな面をした悪魔だ。
中学一年生の夏だった。男子数名が結集し、男勝りで気が強かった水香を、ちょっとお淑やかにしてやろうとした。俺と玲史がじゃんけんに負けた。だから──
「水香っ! ああ、水香あ……っ」
通夜では、喪服の水香のおばさんが柩にしがみついて、激しく泣きじゃくっていた。そんなおばさんのかたわらで、おじさんも涙を流していた。俺と玲史は制服で参列していた。
「どうして私の娘がこんなことになるの。わけの分からない男に奪われて、ぼろぼろにされて、やっと戻ってきたと思ったらこんなことになるなんて。あんな男はもういないって言ってあげたのに。そばに近づかないって言ってあげたのに。私たちが守るって……どうして聞いてくれなかったの、ねえ、水香っ。あの男に怯える必要はなかったのに、どうしてこんなことしたの。全部あの男のせいだわ……水香を怯えさせて、結局解放しなかった。あの男が死ねばいいのよ! 水香には私たちがいるけど、あの男には身寄りも何にもいないって話じゃない。あの男が死ねばよかった! こんなの、水香じゃなくてよかった。水香を殺したのはあの男よ、縛りつけて、ひどい生活を送らせて、害虫みたいな男だわ。水香……どうしてよ、あんな男からは解放されてたのよ。大丈夫だったのよ。なのにこんなことするまでまだ怯えさせて……あの男は、私の娘に何の怨みがあったのよ!」
おばさんは滔々とあの野郎を罵っていて、おじさんは苦い顔でそれを止めることはしない。
線香のにおいの中、俺は玲史と目を交わした。俺が何か言おうとすると、「大丈夫だ、郁磨」と玲史は周りに聞こえない抑えた声で言った。
「遺書もなかったんだ。俺たちのせいじゃない」
俺は視線を下げた。喪服の群集は、すすり泣きで空気を沈没させている。
「あんなことに巻きこんだ、あの野郎が悪いんだ」
そうだろうか。五月の澄んだ夜風が抜けて、昨日会ったばかりの水香が前髪越しにちらつく。そうかもしれない、とぼんやり思った。
だって水香は俺たちを責めなかった。
だって水香は俺たちを見なかった。
だって水香は俺たちを──
「何であんたたちが来るんだよっ」
水香の両親や担当医の計らいで、俺と玲史と水香は、病室で三人だけにされた。水香はそう叫んで、俺と玲史にまくらやカップを手あたり次第投げつけてきた。
「あたしが会いたいのはあいつだって言ってんじゃん! 会いたいよ……ねえ、会わせてよ! どうして会わせてくれないの!? あたしあいつに謝ってないよ! 謝って許してくれるわけないけど、それでもあたしに謝らせてよ。守れなかったの。あいつとの大事な子供を、あたしは守れなかった! あんな可哀想な悲鳴上げさせて、それでも動けなかった。もう死にたい。自分が弱くて死にたい。あたしが止めなきゃいけなかったのに! あの子にはあのときあたししかいなかった。あたしがしっかりしなきゃいけなかったのに。あいつが怒ってるのは知ってる、許せないのも分かってる、でもやっぱりそばにいてほしいの。あいつしかもう残ってないの。ねえお願い、あたしを助けて。許して。会いにきてよ。ねえ、もうあたしのこと愛してないの……?」
「水香」と俺が震えるその肩に手を伸ばそうとすると、水香は花瓶を振り上げて、俺の足元にたたきつけた。俺は思わず飛び退き、がちゃんっと激しく花瓶が割れる。
すぐさま担当医の先生が入ってきた。花と水が散乱する中、ベッドで水香は狂ったように頭を抱えてわめきちらしていた。
会いたい。
助けて。
許して。
怖いよ。
死にたいよ。
「玲史くんと郁磨くんなら、水香も落ち着いて話せるかと思ったんだけど……何だか、ごめんなさいね」
帰り際、水香がいなくなって、そして帰ってきたらあんな状態で、だいぶやつれたおばさんに言われた。俺たちは首を横に振り、並んで、無言で家に帰った。
だいぶ日が長くなった。初夏の赤い夕焼けが、影をぐんと伸ばしていた。
俺たちじゃない。水香を苦しめているのは俺たちではない。暗記するみたいに繰り返し思った。
水香はあの野郎との生活で憔悴しただけだ。あの野郎の子供を生まされて、まだ十五なのに責任を負わされて。挙句、あの野郎の父親に、その子供を殺されて。
水香の心を引き裂いたのは、俺たちじゃない。あの野郎、その父親、生まれてきた子供だ。
──水香が自殺したのは、その翌日の早朝のことだった。
それから、十年以上の月日が流れた。玲史は大学生のとき学生結婚をした。俺も何とか三十になる前に彼女に結婚を申しこんで籍を入れた。彼女のお腹に命も宿り、生まれてきてくれた女の子には涙が出そうになった。首のすわらない娘を、嫁さんと一緒に風呂に入れたりする。三人で入るとバスタブは窮屈すぎたけど、そのぶん近い肌と肌が幸せだった。
そんな毎日を送っていた日、リビングのソファでうつらうつらしていた。赤ん坊をあやす女の子の声がして、初めは嫁さんが娘をあやしているのだと思った。でもそのとき、足元に何か気配がしてはっと見ると、娘がはいはいをして俺の足元で咲っていた。
俺は声のするほうを見た。半透明の背中と、聞き憶えのある懐かしい女の子の声──
「どうしたの?」
嫁さんが不思議そうにキッチンからやってきて、俺はその背中をしめそうとした。が、そのときには、もうすがたも声も消えていた。
しばらく息をかすかに震わせ、こわばって止まっていた。だが、ふと娘を抱き上げ、きょとんとする瞳を見つめる。なぜか急に泣けてきた。嫁さんがびっくりして俺を覗きこむ。
──暑い夏の日だった。水香をおとなしくさせるために、俺と玲史は、ふたりで水香ひとりを犯した。水香は泣いていた。やめてと叫んでいた。いい気味だと思う自分がいた。
そうだ、もっと泣けよ。これに懲りて、二度と俺たちにえらそうな口きくなよ?
その直後、水香はあの野郎とつきあいはじめた。一度だけ、ふたりとすれちがったことがある。水香はその野郎の手を握ってうつむいていた。そんな水香を腕の中にかばいながら、そいつは俺を見た。天使のような面をした野郎だった。天使は軽蔑を浮かべ、悪魔より冷酷な目で俺を見下した。
俺はその場から駆け出した。そのまま、いつまでも俺は走っている。水香が自殺しても。自分が結婚しても。子供が生まれても。あの水香を泣かせたと玲史と満足して笑った、むごい夏の日から目を背けて走っている。
俺は悪くない。俺は関係ない。俺は──
でも、もしあのうだる日がなかったら、何も狂うことはなかったんじゃないか?
誰にも言えない。死んでも誰にも言わない。もはや、玲史と話題に出すこともない。
そう、水香が死んだのはあの野郎のせいだ。連れ去り、孕ませ、守らなかった天使の面の悪魔のあいつが悪い。あいつが水香の人生をめちゃくちゃにした。
そして彼女は死んだのだ。すべてはあの野郎のせいで、俺の大事な幼なじみは、たった十五歳で死に至った。
FIN
