壊れないと生きられない

 俺の両親が、なぜこの街に住んでいたのかは分からない。あらかた、ろくでもない理由で「外」にはいられなくなったのだろうけど。売春も薬物も暴力もまかり通り、法律も平和も教育もない不夜城──それが俺の生まれた天鈴町だった。
 こんな街でも、街だから学校はある。でも、まともに通う子供どころか、通わせる親もいない。だから、天鈴町にある学校にはホームレスや宿無しが集い、シェアするように暮らしているらしい。
 俺ももちろん小学校など通わず、部屋に閉じこもって暮らしていた。
 父親は幼い頃にいなくなった。働きもせず、食って寝るだけのヒモみたいな野郎だったし、消えてせいせいした。
 母親は夜に働き、昼はくるくる変わる男の部屋にしけこんでばかりだった。ほとんど帰ってこないから、俺は物心ついたときには、常に空腹を抱えていた。
 生きるためには、盗むしかなかった。スーパーやコンビニでポケットに入るものを万引きし、すぐ部屋に戻ると証拠隠滅で水道水と胃に流しこむ。
 それで何とか十歳くらいまで生き延びると、引ったくりや置き引きも働くようになった。こっそりと、人の目を盗んでできているつもりだった。しかし、十二歳になる夏の日、スリで手に入れた財布の中身を確かめながら帰宅すると、ドアの前でこまねいている奴がいた。
 それが大人の男だったら、俺もその後、警戒していたかもしれない。しかし、それは俺と歳は変わらないぐらいの野郎だった。艶やかな黒髪、鋭利な瞳、輪郭も完璧で、ぞっとしそうなほどの美少年だ。
 風もない茹だる暑さの中、そいつは俺に目を向けると、「お前、目えつけられてるぜ」と声変わりはした声で言った。
「は?」
 蝉の声が日射しの中に反響する中、俺のぽかんとした声はほとんどかきけされていた。そいつは俺に歩み寄ってくる。
「誰がとは言わねえけど、あんまり好き勝手やってると仕置きがあるかも」
「……何、言ってんだよ」
「それも盗んだもんだろ」
 ぎくっとして、表情で読み取られないようにうつむく。
「お前には、関係ないじゃないか」
「忠告してこいって、お遣い頼まれたから」
 俺は長財布を握りしめ、虫がたかるような胸騒ぎを覚えた。
 俺の悪さを、誰かが見咎めている?
「これは、……別に、ぼさっと間抜けにしてた奴が悪いんだよ」
「その言い分も分からねえでもないけど、お前はこのへんの治安に関わってきてんだよ」
「治安? この街にそんなもん──」
「ないけどな。ただし、不文律は分かっとけ」
 フブンリツ。って、何だよ。と訊くのも癪で、俺は舌打ちして「ほっとけ!」と吐き捨てると、そいつを押しのけて部屋に入ろうとした。すると、「恵麻」と何年も呼ばれていなかった名前を呼ばれて、どきんと俺はそいつを見る。
「無理すんな。もしかしたら、お前はこの街から出たほうが──」
「はあ!?」と俺はいらいらしながらそいつをにらみつけた。
「この街を出る? 出てどうすんだよ? ふざけんなっ。だいたい、お前何者だよ」
「何者でもないけど、お前をこのままにしておけないとは思ってる」
 まっすぐな黒い瞳を見つめ、眉を寄せて顔を背けると、俺は無言で部屋に入った。部屋の中は蒸されるように熱気がこもっている。
 ぼろぼろの靴も脱がず、玄関に突っ立って、唇を噛んだ。このままにしておけない? どういう意味だよ。この空っぽの地獄から助けてくれるのか。そんなこと、できもしないくせに──
 そいつは、その後もときどき現れて、俺の窃盗行為をたしなめた。俺は無視して盗みを続けた。
 そのまま何年か過ぎた冬の夜、いつものように女のバッグを置き引きすると、その中にあった財布のぶあつさにビビった。名刺も入っていたから確認すると、どうやら娼婦か風俗嬢のバッグのようだった。
 しばらくこの金で生きれそうだ。あったかい服も買えるかも、と帰路についた矢先、例の野郎が相変わらず俺の部屋に前にいて、前置きなく「それ返せ」と言った。
「あ?」
 俺もだいぶ声を張ってこいつと話せるようになってきていた。
「それ、俺の知り合いのもんだから」
「知り合いって……」
「見つからなかったら、旦那に伝えてお前をぶん殴らせるそうだ」
「お前、淫売なんかと知り合いなのかよ」
「そうだよ。俺、周旋屋だからな」
「……知るかよ。この金はもう俺が──」
 そいつはわざとらしく息をつくと、腰に手をあてた。
「お前、自分が盗み下手なの自覚してるか?」
「へ、下手ってことはないだろっ」
「実際、顔も見られて足もついてんじゃん」
 何だか恥ずかしくなって、顔を伏せた。正直、こんなことが下手とか上手いとか、考えたこともなかった。
「とにかく」とそいつはこちらに近づき、ひょいと俺からバッグを取り上げた。
「これを持ち主に届けるのは、俺の仕事だから。悔しかったら、お前も仕事をしろ。で、こんなことはとっととやめるんだな」
 俺はそいつを睨めつけた。それが気に障った様子もなく、そいつはさっさとその場を去った。
 仕事? どんな? 俺はまだ十三歳だぞ。女のヒモになるのか? オカマでも掘らせるとか? どっちもごめんだ。盗みをやめたら、俺は生きていけなくなるだけだ。
 盗みをやめて、どうやって生きるんだよ? それともあいつは、俺なんか死ねばいいって言いたかったのか?
 ──死ねば、いいのか? そうなのかもしれない。俺は何のために生きているのか。父親は蒸発して、母親もどれだけ顔を見せていない? 俺が生きていくことなど、誰も望んじゃいない。
 凍える冷気の中に、白い息がこぼれる。引き攣った、乾燥した笑みだった。そうだ。こんな俺など、別にここまでして生きなくたっていい。
 それから、俺はたたみの上で寝ているだけの日が増えていった。不器用に盗みを働き、それを咎められてまで、生きる意味が分からない。浮いた関節やあばら骨、ふらつく脚、深い鎖骨、もともと痩せ細っていた軆が、枯れた小枝みたいになっていく。意識は朦朧として、何とか口にするのは水道水だった。
 一日が長い。だが、季節が巡るのはあっという間だ。明日こそ死ぬのかな。そんなことを思いながら、俺は身じろぎすら億劫になった。
 十四歳の秋のことだった。誰かが部屋に踏みこんでくる足音がして、「倒れてるぞ」「大丈夫か?」と声が霞みがかって聞こえた。視界が白んでよく見えなかったが、数人の大人みたいだ。俺は抱きかかえられ、無抵抗のまま、部屋から連れ出された。
 何だろ。殺されんのかな。そいつらの会話もよく聞き取れなくて、そんなことを思いながら俺は目を閉じ、すうっと意識を手放した。
「弓弦くんの手配がなかったら、危なかったぞ」
 目が覚めたとき、壁もカーテンも白い部屋の中にいた。初めて来るが、たぶん病院という場所なのは分かった。
 俺が目覚めたことに気づいた白衣の男が、そう声をかけて俺の肩に手を置く。弓弦。弓弦って……あの美少年が脳裏をよぎり、あいつが助けてくれたのか、と目をぱっくりさせて思った。
 白い部屋でしばらく療養した俺は、街の外にある児童養護施設に引き取られた。街に澱んでいたものとは違う、慣れない空気に気圧され、俺はほとんど口をきけなかった。花丘さんという女の人が、俺を気にかけてかすかな表情も読み取って、いろいろ助けてくれたけど、俺はお礼も言えずにうつむいていた。
 施設にはいろんな子供もいた。寂しいと泣く子。いらついて暴れる子。屈託なく咲う子。俺は何も言わず、笑みのかけらもなく、どんな人にも心を閉ざしていた。
 だが、俺をあきらめて見切る人はいなかった。花丘さんを始めとした職員の人も、俺同様つらい環境から保護されてきた子たちも。倦むことなく、話しかけてくれたり、笑いかけてくれたり。父親も母親も、俺のことをほったらかしにしたのに。
 眠れずに食堂でぼんやりミネラルウォーターを飲んでいた深夜、夜勤の花丘さんが俺を見つけて、「眠れないの?」と声をかけてきた。俺はそちらを見たけど、うなずきもせずに顔を伏せる。それでも、花丘さんは俺のかたわらにやってきた。
「お菓子食べちゃいましょうか。甘いお菓子としょっぱいお菓子、どっちがいい?」
 俺は目だけ動かし、「甘いの」とぼそっと答えた。「そうね、やっぱりお菓子は甘くないと」と花丘さんは微笑み、チョコチップクッキーを持ってきた。俺はもそもそとそれを食べていたけど、何となく周りに誰もいないのが落ち着いて、花丘さんに声をかけていた。
「弓弦……って奴のこと、おばさんは知ってる?」
 紅茶も淹れてくれた花丘さんは、俺の前に香気を立ちのぼらせるティーカップを置く。
「恵麻くんのことを私たちにお願いした人?」
「そう」
「彼のことは詳しく知らないけど、恵麻くんを心配してたのは聞いてるわ」
「心配……」
「放っておいたら何も変わらない、恵麻くんは壊れたままだって」
 俺はあいつの綺麗な黒い瞳を思い出し、唇を噛んで膝で拳を握った。
「……壊れないと、生きられないんだ。ここに来て、もっとそう思う。咲うとか、話すとか、そういう人間みたいなことはダメだ。人として壊れてないと、俺は生きてられない」
 その言葉に花丘さんは少し瞳を傷ませて、それから、俺の頭に手を置いてそっと撫でた。
「そんなことないわ。恵麻くんも人間として生きていいのよ。今は心はばらばらに壊れているわね。でも、ゆっくり、壊れた心を組み立てましょう? おばさん、そのために何でも手伝うから」
 花丘さんを見た。花丘さんは穏やかな、でも力強い微笑を俺に向けてくれていた。「できるかな」と俺がかぼそい声で言うと、「もちろん」と花丘さんはきっぱりうなずく。
 何でだろう。誰のどんな言葉も信じられなかった。弓弦って奴のことも結局信じられず、礼さえ言えなかった。でも、この人なら──
 そう思った瞬間、俺は急に喉が詰まるのを感じて、嗚咽をもらしていた。花丘さんは、ずっと俺の背中をさすっていてくれた。
 それ以降、俺はちょっとずつ施設の人と関わるようになっていった。子供たちの中になじみ、自分もそうだったように心を閉ざす子には、なるべく声をかける。
 やがて十七歳になった冬、一時期報道にもなっていた、修学旅行中に行方不明になっていた男の子が俺たちの施設に現れたときはびっくりした。その子には付き添っている男の人がいて、対応した花丘さんたちは彼らの事情に驚きながらも受け入れ、力になると約束していた。
 萌梨くんという彼本人と話す機会はなかったから、俺に詳しいことは分からない。だが、行方不明になっていたのは萌梨くん自身の意思で、耐えがたい家や学校から逃げ出したのが理由のようだった。それをかくまっていたのが、つきそっていた男の人──鈴城さんで、ふたりは家族として養子縁組を結ぶことを望んでいた。冬から春にかけて、ふたりにとってずいぶん厳しい闘いだったようだ。
 けれど、桜が咲く頃に萌梨くんが『鈴城萌梨』になったという一報が施設にも伝わって、「すごいね」と子供たちはみんな表情を明るくさせた。
「つらいおうちには、帰らなくていいんだね」
「親がひどい奴だったら逃げていいんだ!」
「私たち、親と暮らしてないけど、悪いことじゃないんだよね」
 みんなそう言って、萌梨くんの行動に感動して勇気をもらっていた。親を捨てた。家に帰ってない。薄情だ。そんな後ろ指をさされることもある俺たちだ。だからこそ、つらい体験を証言することで鈴城さんと晴れて暮らしはじめた萌梨くんは、俺たちにはちょっとした伝説のヒーローみたいになった。
 俺もそんなふうに、人を笑顔にさせられる仕事をしたいと思いはじめた。十八歳で施設を出ると、大学で福祉系を専攻しながら、『居場所づくり』について考えはじめた。
 きっかけは、ネットで知りあった被虐待児だった人たちとのオフ会だ。みんな、仕事もままならない鬱を抱えていたり、やっと就けた職場でも人間関係でうまくいっていなかったり、後遺症に苦しんでいた。もっと気楽に、負担にならない、多少は収入も出るような場所を作れないだろうか。そこから、俺は大学の勉強にも励みつつ、まずは自助グループとして『つみき』を発足させた。
 積み木。それは、花丘さん──もう花おばちゃんなんて呼んでいるけど、あの夜の言葉から思いついた団体名だ。壊れた心を組み立てましょう。そう、みんな心がばらばらで。まともに生きられなくて。でも、もう一度組み立てられること、それが可能であることを願って、その名前に想いをこめた。
 大学を卒業すると、次は資格の勉強をしつつ、『つみき』を利用したいと言ってくれる人を募った。俺はその頃にも相変わらず施設に顔を出して、花おばちゃんに現状を報告していた。
 二十三歳の夏、その日も施設に顔を出していたら、何と偶然にも萌梨くんと鈴城さんがやってきた。初めて話をする萌梨くんはもう二十歳で、とても柔らかい印象の青年になっていた。
 花おばちゃんが嬉しそうに俺の計画について話し、それを聞いていた萌梨くんが「僕でも役に立てますか?」と言ってきたときにはびっくりした。
「僕は、自分がそんな、人の勇気になれるとか、すごいこと思わないですけど。むしろ、自分は情けないなあって思ってて。夢とかなくて、みんなやりたいことやってるのに、僕はそれがなくて。高校卒業したら、次とか思いつかない。また空っぽの真っ暗になったらどうしようって、そればっかり怖くて」
 少し声を震わせた萌梨くんに、「萌梨くん……」と鈴城さんが声をかける。萌梨くんは鈴城さんのほうをいったん見て、それからじっと俺のほうを見た。
「でも、もし僕ができることがあるって恵麻さんが思ってくれるなら、その団体をお手伝いさせてくれませんか」
 俺はまばたきさえ忘れそうになったものの、すぐにはっとして「ええと」と頭をかいた。
「俺の手伝い、なんかでいいの? まだ、団体の名前くらいしか決まってなくて、スタッフもほかにいないよ? 軌道に乗るかも分かんないよ? あと、給料があるわけでもないよ?」
「……足手まといですか?」
 矢継ぎ早がそういうふうに聞こえたかと、「いやっ、ぜんぜん!」と俺は慌ててかぶりを振る。
「萌梨くんが手伝ってくれるなんて、すっごい心強いよ。この施設とも所縁があるから信頼できるし」
「じゃあ」
「うんっ。じゃあ、お言葉に甘えてこれからよろしく!」
 俺の快諾に、萌梨くんは安堵を織り混ぜて笑顔になった。
 ……ああ、そんなふうに咲えるようになったんだな。十四歳だった萌梨くんも、ちらっとだけ見たことがある。真っ青で、不安げで、壊れそうにつらそうだった。だけど、今は──
 よし。頑張ってみよう。俺のために。萌梨くんのために。これから出逢っていく人のために。建て直すんだ。
 壊れた心を組み立てる。積み木はいくら途中で崩れても、また建てられるから。そんなふうに、ゆっくり、みんなで、ひとりひとり自分なりの心を作っていく。
 俺自身だって、壊れたままではいられない。人間として生きていくんだ。助けてくれたあの人にも、「ありがとう」といつか伝えられるように──俺は自分を積み上げて、この足で立ち上がろう。

 FIN

error: