STUDY of STEADY

 正直、女ってぜんぜんかわいくないよなと思っていた。
 別に俺はゲイじゃないけれど、ただ、かわいいなと驚く女の子なんてしょせん画面越しの女優とか、雑誌の中のアイドルだ。生身として俺のそばには存在しない。
 特に、一番身近な女である姉貴が狂暴なので、幻想すら持てない。
碧人あおと! 早く起きないと遅刻するよっ」
 今朝もふとんで眠っていた俺を乱暴に起こすのは、姉貴の翠子すいこだ。
 肩を揺すったりせず、いきなり後頭部を引っぱたいてくるのだから、本当に優しくない。俺はうめいて、まくらに顔を押しつけた。すると、「起きろ!!」と今度は腰に蹴りが入って、さすがに「うおっ」と声が出てしまう。
「ほら、さっさと起きな。期末考査終わったからって、気い抜くんじゃないよ」
 外では滝のように蝉の声が降りしきっている。七月。致死量の熱帯夜にクーラーをつけたまま眠るので、部屋の中は涼しい。
 が、翠子がずうずうしく開けたドアから、廊下の熱気がどろりと忍びこんできている。
「あと夏休み待つだけじゃん……どうせ」
 俺はくせ毛の黒髪をかきながら、のろのろと身を起こす。翠子はカーテンを容赦なく開いた。殺人的な日光が視界に入って、俺は顔をそむけて目をこする。
「おい、まぶしいだろっ。まだまぶしい」
「いいから、早く朝ごはん食べて学校行けっての。夏休みになったって塾があるんだから、寝坊癖はつけんな」
「あー、塾ないわー。高一夏ぐらい遊びたい」
「それであんたが、浪人生とかニートにならない保証があるならいいけどね」
 翠子が腰に手を当てて貧乳の胸を張って、えらそうに言う。くそ、それぐらい保証できる、とは正直言えない。俺はため息をついて、「だりーなあ」とか言いながら立ち上がった。
「ふとんはちゃんと上げてから来な。汗でカビるから」と吐き捨てた翠子は、やっと俺の部屋を出ていった。俺はむすっとした顔であくびをして、それでもおとなしくふとんを上げると、ぺたぺたと裸足でフローリングの廊下を抜けてキッチンに向かった。
「おはよう、碧人。もう七時過ぎちゃったよ。早くしなさい」
 俺の前に、バターの匂いがするスクランブルエッグと香ばしいベーコン、スライストマトが盛られた皿を置いたかあさんが、早口で言う。とうさんはリビングのテレビの隣で、今日のネクタイを選んでいる。翠子はテレビの前で、俺と同じ天パの髪を何とかヘアアイロンで伸ばしていた。
「翠子の起こし方が怖いんだけど」
 トマトにサウザンドドレッシングをかけて、銀のフォークで頬張る。俺の言葉にかあさんは眉をひそめた。
「翠子じゃなくて、おねえちゃんでしょ」
「いや、おねえちゃんって柄じゃないじゃん」
「それでも、おねえちゃんを呼び捨てにするのは行儀が悪いじゃない」
「行儀が悪いのどっちかなあ」
「碧人、聞こえてる! あんたが小学生のときから、遅刻しないのはあたしのおかげってことが分かってないね」
「とうさん! 女共が俺をイジメてくる」
「そうだなあ、碧人が遅刻しても碧人しか困らないのになあ」
 俺は仏頂面でスクランブルエッグをかきこんだ。
 かあさんは追加でロールパンとスープも俺の前に置くと、自分もパートの出勤の支度を始めた。とうさんはサラリーマン、翠子は大学生、日中は我が真宮家は空っぽになる。
 俺は朝食を胃に片づけると、洗面所で顔を洗ってひげも剃った。トイレのあと部屋に戻って、ブレザーの制服に着替えると、クーラーを消して時間割を確認したスクールバッグをつかむ。
「いってきます!」
 七時半、そう叫んでマンションの一室の自宅を飛び出す。三階から地上に、階段を軽やかに降りて、駅まで小走りで向かう。
 朝なのに、外はとっくに空気がゆだって暑い。青空には雲もなく、狂ったような快晴だった。蝉の声が反響して、車道に面した歩道で中学生や小学生とすれちがう。アスファルトを割って生えた雑草の匂いが、ぬるい風によって運ばれてくる。
 俺の家は駅前のマンションの群衆だから、最寄り駅は近い。ICの定期で改札をパスして、いつもの電車の朝のラッシュですし詰めになって、春から通っている高校へと向かう。
 イヤホンの音漏れ。ぶあつい化粧のにおい。密着する他人の皮膚。神経をぴりぴりさせながら満員電車を耐えて、乗り換えなしで高校最寄りに到着すると、ホームに吐き出される。
 ふう、と息をついてしまいつつ、エスカレーターや出口が複雑な駅構内を攻略して、改札を出る。同じ高校の制服の生徒たちが、「おはよー」とか「ねむいー」とか言い交わしながら、高校の方角へと流れている。
 こっちも暑いなあと滲んだ汗をぬぐい、歩き出してしばらく、前方に茜色のブレザーの女子制服のふたりが、並んで歩いているのを見つけた。いつものふたりだ。そう思って、「おはようっ」と俺は威勢よくその背中に声をかける。
「真宮くん。おはよ」
 俺の声に振り返って、ミディアムの黒髪をなびかせた綺麗めの顔立ちの女の子が聖園茉莉。
「おはよう。暑いね」
 同じくこちらをかえりみて、さらさらのボブの髪を揺らしたかわいい女の子が日向紗琴。
 中学時代に知り合った、親友同士のふたり組だ。
 かわいい女の子が身近に現れるなんてありえない。そう思っていた俺が、初めて「かわいい」と思ったのが日向だった。あの日、日向は体育館の舞台に立っていた。おそらく堅物な先公どもの晒しだったのに、それでも気丈に自分のことを話していた。
 心は女の子なのに、軆は男として生まれてしまったばかりに、心身を引き裂かれるような想いで過ごしてきた、自分のこと。
 そのときはぼろぼろの泣き顔だったけど、その後、たまに廊下ですれ違うとき、聖園の隣でやっとみんなに受け入れられて咲っている日向は、めちゃくちゃかわいかった。
 ああ、確かにあいつは女だなあ。何か守ってやりたくなるし。すっげえかわいいよなあ。
 体育館での告白以降、そんなふうに感じる野郎は俺だけではなく、「日向やばくね?」「あれは抜ける気が」とかささやく奴らはけっこういた。しかし、遠巻きに眺めるだけで、日向に言い寄る男はいなかった。三年生に進級するまでは。
 俺は何と日向と同じクラスになれて、こっそり浮かれていたのだが、同じクラスだからそのやりとりは全部見ていた。日向が白皙の頬を真っ赤にしながら、何やら懸命に言葉を紡ぐ相手──
「暮村は?」
 俺が聖園の隣に並んで訊いてみると、「もう学校着いてるみたい」と日向が答えた。俺は肩をすくめて、「登校時間合わせればいいのに」と言う。
「あいつ、部活とかやってるわけじゃないだろ」
「でも、朝の勉強は教室でやったほうが集中できるんだって」
「朝の教室で宿題やるのかよ、暮村って」
「宿題じゃなくてその日の予習でしょ。真宮くんじゃあるまいし」
 すかして言った聖園に、俺は蹴りを入れようとした。が、さっとかわされる。
「俺は宿題写すほかないとき以外は、家でしますからー」
「写すほかないときっていうのがちょっと分かんない」
「あるだろうが、そういうとき」
「ないでしょ。どんなときも自分でやるでしょ」
「限界のときってあるだろ。あるよなあ、なあ日向」
「……え、と」
 日向はあやふやに咲って首をかたむける。
 いや、宿題にも解けない問題って絶対あるし。そういう難題はもう、朝、クラスメイトのノートを写すしかないだろ。俺だけじゃないはずだ。俺だけじゃない……よな?
 日向は暮村くれむら紫優しゆうという男と中三の夏からつきあっている。日向を見つめる暮村の目は優しくて、つきあう前から、明らかに両想いだった。それを見ていて、泣いた野郎もいる。俺も確信を求めて、聖園にふたりのことを訊いたりした。ふたりがつきあいはじめたのを教えてくれたのも聖園だった。
 彼氏ができて、日向がある意味アイドルより遠くなったことで、俺の淡い初恋も終わった。嫉妬で粘着したり、邪魔してやろうとかは思えなかった。暮村と日向は、どうしようもなくお似合いだったから。
 中学の卒業式に、日向はセーラー服を着てロングヘアのウィッグをして、正真正銘の女子生徒として最後の日を飾った。学ランを着ていてもじゅうぶんかわいかったのに、セーラー服の破壊力はすごかった。長い睫毛、柔らかそうな唇、華奢な腰つき、すらりとした手足、そんな容姿にえんじのスカーフの胸元と紺のプリーツスカートだ。「美少女」の体現だった。
 みんなも日向に「かわいい」を連発していたっけ。日向ははにかんで微笑み、隣にいる暮村を見上げた。暮村はやっぱり優しく日向を見つめ返し、その頭を撫でてやっていた。
「日向取られますねえ」
 卒業証書の筒をもてあそびながら、俺がにやにやと聖園に話しかけると、髪を切ったばかりだった彼女はこちらを見て、「あたしも彼氏作らなきゃね」と言った。
 そのにやりとした瞳に俺はどきっとして、もし同じ高校に受かったら聖園をデートに誘いたいと思っているのを見透かされた気がした。見透かすも何も、前に宣言のようなものはしたことがあったけど、聖園が本気にしているかは分からなかった。
 もしかして、こいつ、すげえいい女なんじゃね? いつも隣で日向を支える聖園に、次第にそんな気持ちがふくらんでいったのだ。移り気もいいところかもしれないけど、聖園だって美人だし、まあ性格は若干雄々しいが情に厚いし。日向より聖園だと言い張る連中もいる。自分がその一定数に混ざるのは想像していなかったけれど、いつのまにか、聖園とつきあえたら楽しいだろうなと感じるようになった。
 卒業式の数日後、俺も聖園も、暮村も日向も、同じ第一志望に受かったことが分かった。聖園と日向は特にはしゃいで喜んでいた。そんなふたりを暮村と並んで見守り、「俺らもよろしくな」と一応言うと、「よろしく」と暮村は物柔らかに微笑んだ。それから、「真宮」と暮村が妙に改まって俺を呼んでくる。
「ん?」
「聖園さんは、競争率上がると思うよ」
 俺は暮村に横目をして、「……分かってますわ」とむくれた。暮村はくすりとする。
「頑張って」
「おう」
 そして、この春からみんな同じ高校に通っている。
 高校に入学する前、日向は病院で診断が下りたそうで、戸籍上でも女として認められた。手術とか詳しいことまでは俺はあれこれ訊いていないけど、たぶんいろいろ施されていくのだと思う。
 実際、軆つきにはゆっくり丸みが出てきたし、翠子くらいには胸のふくらみがあるのも夏服で分かる。この高校では、そもそも元男だったことを知らない奴もいるくらい、日向は女の子として過ごしている。
 心ないうわさがまったくないわけではない。でも、そういう嫌がらせからは聖園や暮村が守り、日向がうつむきそうになったら励ましていた。
 聖園と日向と雑談しながら通学路を歩いていると、高校に到着した。ふたりは同じクラスだ。何の因果か、俺は暮村とクラスメイトだったりする。
 朝陽があふれるにぎやかな廊下で、ふたりとは別れ、「はよー」と言いながら俺は自分の教室に踏みこんだ。適当に誰かが「おはよー」と言ってくれる中、俺は自分の席にスクールバッグを置く。
 中学とは違い、高校にはエアコンがあるのがありがたい。汗ばんだシャツの胸元をつまんでひらひらさせながら、俺はときおりそうしているように暮村の席に近づいてみた。
「何読んでんの?」
 降ってきた俺の声に、ブックカバーのかかった本を読んでいた暮村は、静かに視線をこちらに向けた。
「おはよう、真宮」
「はよ。何? 漫画?」
「小説だよ」
「ラノベ?」
「こないだ文学賞取った──」
「あ、分かんねえわ。てか、暮村いつも本読んでるよなー。中学のときもだったけど」
「本読むの好きだから」
 俺は暮村を見つめた。
 髪の色素が薄めだけど、まさか染めているわけではないだろうし、そういう地毛なのだろう。俺のくせ毛と違って、ストレートの髪はさらりとしている。穏やかな瞳、無駄のない鼻梁や頬から顎の線、軆つきも俺に較べるとスマートだ。
 もちろん騒ぐ女子もいるけれど、こいつは見かけから想像もつかないほど日向にべた惚れだから、そういうのには気づいていない。
「暮村」
「うん」
「もう一学期終わるぞ」
「そうだね」
 淡々と返されて、俺はわざとらしくため息をつくと身を乗り出した。
「お前さ、友達作らねえの?」
「え」
「高校入学して、仲良くなった奴いる?」
「いない、けど」
「何、日向がいればいいって感じなのか」
「そういうわけじゃないよ」
「何かさー、いつもひとりじゃん。ひとりで読書じゃん。あんま良くないぞ」
 暮村は苦笑いを見せて、「心配は嬉しいけど」と言ったきり、もう言葉をつなげなかった。俺はむうっとふくれっ面になって、友達作りたくない訳でもあんのかな、と考える。友達作れとか、俺が押しつけることじゃないのは分かっていても、何だかんだ中三のときから暮村がぽつんと本を読むばかりなのを見ているので、やはりちょっぴり心配だった。
 高校の授業は、意味不明で迷子とまではいかなくても、中学時代とはレベルが違って、ついていくのが大変なときはあった。進学校ではないので、これでも緩いほうだとは思うけれど。
 俺は中三の担任に、学力レベルでこの高校を勧められた。聖園と日向はお互いが確実に合格できるレベルで選んだらしい。そして、暮村はもともと進学校志望だったのを、日向に合わせてレベルを下げたそうだ。
 すげえべた惚れじゃん……とその話を聞いたときはしみじみしてしまったものだ。
 そんなわけで、暮村が解説役になって四人で勉強することもちょくちょくある。昼飯も四人で食うことが多いが、果たしてそこに俺がいていいのかはよく分からない。俺は聖園と過ごせるから嬉しいし、俺がいないと今度は聖園がカップルの邪魔なんじゃねと思うから、まあ、いいのだろうが。
 四時間目が終わると、日向が暮村を昼飯に誘いにきて、ついでに俺も連れていく。聖園はいつも先に屋上庭園に出て、場所を取っている。運がいいと日陰のベンチだけど、争奪戦のスポットなので、この時期はひまわりが咲く花壇に座るときもある。用意のいい奴は芝生にシートを広げるが、そこまでやらなくてはならないときは教室で食べる。
 七月は日射しが容赦ないから、今日は花壇が空いていて、俺と暮村が並んだ聖園と日向をはさんで座った。
「暮村くん、これ」
 自分の弁当を取り出す前に、日向が何やらラッピングを取り出して隣の暮村に差し出した。「くれるの?」としばたいた暮村に、日向はこくんとして、「茉莉と昨日作ったから」と答える。
「オレンジのマフィン。勉強の合間に、よかったら」
 暮村を見つめて言った日向に、暮村は柔らかに微笑むと、「ありがとう」と受け取って、「大切に食べる」と日向を見つめ返した。
 とっくに弁当箱を開いて、鮭フレークのつまったおにぎりをもぐもぐとしていた俺は、何となく聖園を見た。その視線に気づいた聖園は、「何?」とケチャップのかかったナゲットを頬張る。
「いや、これは聖園が俺にくれる流れだろ」
「は?」
「俺のぶんは聖園が作ったんだろ」
「何で」
「今、日向が『茉莉と作った』って」
「作ったけど、あたしのは紗琴と食べるぶんだもん」
「それは俺に……」
「自分で作れば?」
「うわっ、泣くわ」
「ま、茉莉、別に私と食べなくても、真宮くんに──」
「彼氏でもないのに」
 聖園はしれっと吐き捨て、俺はがっくり上体を折ってショックを表してみたけど、同情は引けなかったようだ。「オレンジピール、ちょっと探しちゃったよね」とか聖園はとっとと日向に話しかけている。やっぱり聖園には俺は対象外なのかなあとへこみ、のっそり身を起こして、昨夜の夕食の残りらしき味噌炒めのナスを食べる。
 同じ高校に受かったらデートに誘う。俺はそう言っておいたはずなのだけど、聖園は忘れてしまったのだろうか。聖園が俺のことなどどうでもよければ、そりゃ忘れるか。だとしたら、デートに誘い直すべきなのだろうか。もう一度、改めて「デートに行こう」とか──……恥ずいな!!
 ひとり唸る俺を、聖園だけでなく、日向も暮村も眺めていた。「そんなにマフィン好きだったの?」と聖園が言って、「君は男心を分かってない」と俺は神妙な面持ちでバター焼きのはんぺんを口に突っこむ。「暮村くん、この真宮くん分かる?」と聖園に訊かれると、暮村は「聖園さんの作ったお菓子食べたかっ──」と言おうとして、俺は蝉が鳴く中で無駄に叫んでその言葉を濁すと、「もういいですよ」とがつがつとかあさんが作った弁当をかっ食らった。
 五、六時間目、聖園との仲は、ほぐれてきていても縮まらないよなあと考えていたら、放課後になった。放課後も四人で勉強したり、地元が同じなので一緒に帰宅したりする。
 けれど、今日の暮村は、校門まで来たらなぜか先にひとりで帰ってしまった。下校生徒がざわめく中、その背中を見送って「日向はついていかなくていいのか」と訊くと、「友達に会うって言ってたから」と日向はそれでもちょっと寂しそうに咲う。
「え、暮村って友達いんの? 他校?」
「うん。通信制に通ってる人」
「……そうなのか」
 いるのかよ、友達。中学時代から、そんな影は見かけなかったけど。「ほんとに友達?」と俺が言うと日向はやや困った顔になって、「どういう意味、それ」と聖園が俺を睨む。
「そのままですが」
「暮村くんが会ってるのが友達ではないと」
「んー、あいつ友達いないじゃん」
「いるよ、普通に」
「日向しか寄せつけない感じあるけどなー。昔から本ばっか読んでてひとりだし」
 聖園と日向は顔を合わせ、「暮村くんのこと見てるんだね」と日向と言われて俺は慌ててつけたす。
「見てるというか、やっぱそういうの寂しいじゃん。友達作らねえのって訊いても、暮村答えないし。まあ、友達いるのか。それならいいんだけどな。それを俺にも言えよな」
 俺がふくれながらまくしたてると、聖園と日向はくすりとして「真宮くんは、暮村くんと仲良くなりたいのにねえ」と聖園が揶揄ってくる。「何か変なふうに聞こえる」と俺が眉を寄せると、「心配してくれてありがとう」と日向はふわりと笑む。
「暮村くんには、ちゃんとほんとに友達がいるよ」
「……そっか」
「でも、暮村くんと真宮くんが友達になったら、もっといいよね」
「なれるかな」
「なれるよ。ね」
「タイプ違うから、逆にいいかもね」
 日向に振られた聖園もうなずき、俺が暮村の友達になる、と反芻してみた。友達作れよと案じていたわりに、そいつは思いつかなかった。暮村は俺のこと友達と思ってくれるかなあ、とか思っていると、同じ制服の群れの先に駅が見えてくる。
「茉莉」
「なあに」
「私、ちょっと行きたいところあるから、真宮くんと先に帰ってていいよ」
「え、ひとりで行くの? 大丈夫?」
「大丈夫。ごめんね」
「ううん、気にしないで。帰り、痴漢とかには注意するんだよ」
 日向はこくんとして、それから「真宮くん」と俺に大きな瞳を向けてくる。
「ん?」
「頑張って」
「はい?」
 日向は何やら小さくガッツポーズをしてみせてから、「じゃあね」と先に駅のほうへと駆け出していった。身をひるがえした拍子にスカートが舞う。
 俺はその華奢な背中を眺め、日向は俺と聖園のこと応援してくれてるっぽいんだよなあ、とばつが悪くなる。俺としてはありがたくても、聖園には迷惑なんじゃないだろうか──そう思って聖園をちろりと見ると、聖園は勝気な黒い瞳で俺を見上げてきていた。
「えー、と」
「うん」
「帰りますか」
「そだね」
「ふたりだけど」
「いいよ、別に」
 そうか。いいのか。まあ、あえてばらばらに帰ろうと提案されたらされたで、心が折れるけども。そんなわけで、俺と聖園はふたりで並んで歩きはじめる。
 さて、気になる女の子とふたり。ダメだ。何を話せばいいのか、いきなり分からない。聖園も沈黙だし。何だよ。中学時代は、もっと気軽に話せてたのに。聖園の横顔を見ることさえできないけど、影を連れる足元を確かめて、歩調は合わせておく。
「真宮くん」
 周りの笑い声や話し声をラジオみたいに流して、何も言わずにいたら、ふと聖園が俺を呼んだ。「んっ?」とちょっと変な声で答えると、聖園はスカートのポケットから何か取り出して、「これ」と俺の腕に押しつけてきた。
 見ると、透明のふくろに黄色のリボンでラッピングされたクッキーだった。「え」と俺がとまどうと、「あげる」と聖園は俺のほうを見ないまま言う。
「え……あ、調理実習?」
「昨日オレンジピールあまったから作った奴」
「……日向と食う予定だったやつですか?」
「それは食べた。これはマフィンのあとでひとりで作ったの」
 俺は怪訝を浮かべて、聖園の顔をやっと見た。何か、怒っているような顔だけど──妙にかわいい。
「作ってくれたのか」
「……悪い?」
 俺はいよいよ噴き出してしまう。そして、「サンキュ!」とクッキーを受け取ると、「オレンジピールとは」とか言いながら、すぐになめらかな手触りのリボンをほどく。
「もう食べるの?」
「おやつの時間じゃん」
「……オレンジピールとは、オレンジを乾燥させたものです。ドライフルーツだよ」
「ふうん」とあまり理解せずにうなずいて、俺は四角いクッキーを口に放った。クッキーの甘さの中で、確かにオレンジのさわやかな味が香る。「うまいじゃん」と俺がにっとして言うと、聖園もようやくこちらを向いてから、少しだけ照れたようにまばたきする。
「手作りとかさ」
「ん?」
「重いでしょ」
「え」
「紗琴と暮村くんはつきあってるからいいけど、あたしは真宮くんの何でもないのに」
「んー、じゃあ俺たちもつきあえばいいんじゃね」
「はっ?」
 驚いて目を丸くした聖園に、「っていうか!」と俺はクッキーを一枚食べて、飲みこむと続ける。
「デート! 映画! あれ……お前、忘れてるだろ」
「……忘れてはないけど」
「じゃあ、ちゃんと有効なのか?」
 俺がじいっとその目を覗きこむと、聖園はわずかに目線を狼狽えさせて、「そんなの、」とつぶやく。
「あたしから、あの約束はどうなったのなんて、訊けないでしょ」
「訊いていいよ」
「訊けないってば」
「何で?」
 聖園はふくれっ面で俺を見る。俺はその顔を見つめながら、クッキーをさくさく食べて、「ふむ」とひとり静かにうなずく。
「じゃあ……どうする? つきあってからデートする? デートしてからつきあう?」
「何、そのにわとりとたまごどっちが先みたいな」
「どっちみちつきあうの一択だろー」
 聖園はやっぱり憮然とした顔をしている。俺はクッキーの後味を飲みこみ、このクッキーは聖園も俺が気になるってことだよな、と思う。じゃあ、つきあうということでいいと思うのだけど──。
「聖園」
「何」
「俺、聖園のこと好きだよ」
 瞳が触れあう。聖園ははあっと大きくため息をつくと、急に俺の腕をつかんで、上目遣いで睨みつけてきた。
「それを一番最初に言え!」
 聖園を見返す。思わず笑ってしまった。そっか。女の子ってそういうのこだわるもんか。
「聖園は?」
「え」
「俺のこと好きなの?」
「んー、デートして決める」
「何だよそれ」
「デートするんだよ」
「………、デート、したら──つきあうんだぞ?」
「うん」
「いいのか」
「うん」
「……そういうことじゃん」
 聖園は俺を見ると、やっとにっこりとして見せた。その笑顔がすごくかわいくて、ああやっぱり俺はこいつが好きだな、と思った。マジで早くつかまえてしまわないとやばい。ほかの男にこの女を取られたくない。
「デートさ、映画って言ってたじゃん」
「言ってたね」
「何観る?」
「ヒアリングのために字幕の洋画じゃないの?」
「それ勉強じゃん!」
 思わず突っこんでしまったものの、くすくす咲う聖園を見ていると、まあ勉強かもしれない、なんて思った。俺は何にも知らない。これから知っていくのだ。聖園のこと、恋愛のこと、好きな人とつきあうということも。
 だって、やっぱり暮村と日向みたいに、絆が安定した関係がいい。だからしょうがない、この恋を育てるために、恋人同士の勉強を始めると致しますか。
 オレンジクッキーの最後の一枚を食べると、空っぽのふくろはポケットに突っこんで、聖園の手を取って握ってみた。柔らかくて温かい手は、俺の手を握り返してくれる。
 口の中のすがすがしいオレンジの後味を噛みしめ、「これからはいくらでも手作りできるな」と俺が言うと、「胃袋ゲット」と聖園は得意げににやりとしてみせた。

 FIN

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